カテゴリー「沼津の観光」の8件の記事

2022年11月25日 (金)

「K夫妻と紅葉と寺院巡り~」

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11月24日㈭ワールドカップ日本逆転勝ちの余韻が残る翌日、

K夫妻と紅葉見物に出掛けて来ました!

いささか眠気が残りますがそれ以上にすっきり晴れた富士山で

目もパッチリして来ました~

 

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長沢海岸からもう30年も通っている紅葉スポット「雄飛の滝」

今迄に数回しか真赤な紅葉に出会っていませんが~

今年は太陽がそそぎまあまあかな~

 

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もみじの下に細く長く水を落とす雄飛の滝があります。

ここから近い「益山寺」に銀杏と紅葉を見に移動です~

 

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益山寺に向かう道は狭く車ぎりぎりの道を5分ほど登ります。

道端の石仏は多く、霊場感いっぱい~

 

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残念!銀杏も、もみじも今年は少し早すぎたようです~

平地の銀杏が真っ黄色になっているのでここの大木銀杏も

見頃と踏んだのは間違いだったようです。

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2022年10月21日 (金)

朝散歩「早朝の沼津港」

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沼津港外港に漁船が2艇接岸し魚を荷揚げしている~早朝来たかいがある~久しぶりに見る光景

 

入船情報を見ると巻き網船2隻極小サバ他80㌧となっている。

これから水産加工工場でサバ節等になるんだろうね~

 

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内港には小型漁船がいっぱい係留されている。

 

魚市場食堂街も6:00だとまだ営業しているお店は少ない。ざっと廻って見ても数軒!

 

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ビューオに朝陽が差してきた。内港を今から出ていく漁船もいる~

 

松林越しに朝焼けの富士が美しい! 場所 沼津港

 

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2021年6月19日 (土)

沼津の観光資産「武田対北条 香貫古戦場」

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過去にこのブログに載せた記事から「武田対北条 香貫古戦場

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「東駿河の戦国要図」天分14年(1545)~永禄3年(1560)今川支配図

武田氏対北条氏の「香貫古戦場」は”千本沖合戦”は多くの人が知っているが、同じ時期に沼津香貫で両軍の合戦があったことは余り知られていない。三枚橋城(武田氏)と戸倉城(北条氏)は狩野川を挟んで僅か10kmの距離のところにあったから小競り合いは常に絶えなかった。

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国道414号の香貫一帯は武田と北条の「古戦場」があった地区と伝えられています。天正8年9月香貫周辺で行われた「武田勝頼」対「北条氏政」の「合戦の布陣図」(東間門田中家文書)。「武田方の三枚橋城」と「北条の戸倉城」を出た兵は、今の八重坂を越えたあたり、この下香貫の地で戦った。

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(下香貫、此の辺古戦場と記載されている)昔この地区で建物を建てようと掘削すると人骨が良く見つかった。皆おおっぴらにするのをいやがって内々で処理したと今は亡き老人からよく聞いた。天正8年といえば御館の乱と武田・北条の手切れ直後のことで、すごく生々しいものを感じます。(甲州方が勝利)Dsc_0454

「北条五代記巻の七、駿河海にて船軍の事」の記述のようにこの地区の激戦を述べている。見しは昔。北条氏直と武田勝頼戦ひの時節、駿州の内高国寺と三枚橋は勝頼の城也。泉頭、長久保、戸倉、志師浜、此四ヶ城はするかの国中たりといえ共、先年今川義元時代、氏綱切て取しより以来、氏直領国となる。義元、信玄時代、此するか領を取返さんと遺恨やんことなしといへ共、ついに叶わず。201409220001
沼津の浦つつき、香貫、志下、真籠、志師浜、江浦、田飛、口野、此等浦里もするか領、氏直持也。・・・・・然に天正八年の春、勝頼駿河に出陣す。氏直も伊豆の国へ出馬し、三島にはたを立たたかひ有。

 

重須の兵船、駿河海へ働をなすへき由、氏直下知に付て、毎日駿河海へ乗出す。勝頼旗本は浮島が原、諸勢は沼津千本の松原より吉原迄寸地のすきまなく真砂の上、海きはまて陣取。然に十艘の舟かけをきたる大鉄砲をはなしかくる。敵こらへす皆ことことく退散し、へいへいたる砂地白砂に見えたり。

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・・・・・・この海戦のあと千本付近に激戦があり、多数の死傷者でて、その結果後世千本松原に首塚が出来た。(※永岡治著「伊豆水軍」参照)

静岡市は今川(徳川)、浜松市は徳川、政令両市とも大大名が城を築き祀りごとを行った歴史がある。沼津市は「今川氏」「武田氏」「北条氏」「秀吉・家康」領と目まぐるしく変遷をした領地の境界所、今でも東部市町が纏まらないのはこんな歴史背景も影響しているのかもしれない。

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2020年11月25日 (水)

「沼津西浦から雄飛の滝へ」沼津市~伊豆市

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Numazu Blue Suruga Bay and Mt. Fuji in the distance are also beautiful 沼津ブルーの駿河湾、遠くに臨む富士山、素晴らしい!

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小春日和で良く晴れた日、沼津市西浦から山を越え修善寺迄行ってみました。うっすらと富士山が顔を出しています。西浦の海からの景色は最高です!それにしても青く澄んだ海は素晴らしい!

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真っ青な海、長い海岸線の向こうの富士山、山越えの途中のみかん畑、まるで絵葉書の様です!すっかり色付いたみかんがいっぱいの畑では農家の方が収穫に忙しそうです。

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山越えの途中には毎年紅葉を見に来る「雄飛の滝」があります・今年も紅葉も色ずき美しく、眼下の滝も静けさの中に落下する水音だけが響いてきます。ここは静寂の中の美しさを独り占めできます。

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太陽が陰ってしまいました~日が当たると一段と紅葉の赤が美しさを増すんですが~私の隠れスポットもだいぶ名が知れて来ているようです。

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2017年9月15日 (金)

「沼津の観光資産  9-1  歴史上の人物 北条早雲」

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沼津に関係する歴史上の人物

9-1「北条早雲と興国寺城(沼津市根古屋428)」

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伊勢新九郎盛時(北条早雲)の「旗揚げの城として名高い沼津興国寺城」当時50歳を超えた早雲が興国寺城を足掛かりに戦国時代関東一円を支配した後北条氏五代の祖である。沼津は早雲の伊豆討ち入りから、秀吉の小田原攻めの100年の間、後北条の西の境目にあり、常に駿河の国を領有する「今川氏」「武田氏」「徳川氏」と対峙して争奪の渦中にあり、合戦と和睦が繰り返された所である。

120111201104523戦国時代の先駆け早雲は熟年の年齢から出世したシニア世代には頼もしい男である。その家紋は「三つ鱗」である。三つ鱗は鎌倉執権家北条氏の家紋であった。自ら北条氏の後裔を称し、北条氏にならって三つ鱗を用いたのだろうか。

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初代早雲(1519年88歳で没)から始まり、以来「五代百年」 代々名君に恵まれ広く善政を敷き、東国一の繁栄と安定を保っていた。早雲が歴史の表舞台に出てきたのは、妹の嫁ぎ先である今川家の家督争いを早雲が解決し、その手柄として沼津市にある「興国寺城」を与えられた事から始まる。その後伊豆韮山・小田原と次々に手に入れ、着実に戦国大名としての道を歩み始めました。1495年伊豆の「北条早雲」が小田原を平定し五代約100年間、民百姓を大事にし、教育文化の高揚と海運を活用して商工業の振興を図る。1590年豊臣秀吉により攻め落とされ開城し北条五代は幕を閉じた。

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北条氏に係る沼津の史跡 ①北条早雲旗揚げの城興国寺城 ②北条水軍長浜城址 ③深沢城(御殿場) ④葛山城(裾野) ⑤長久保城(長泉) ⑥泉頭城(清水町)  ⑦徳倉城(清水町) ⑧大平城(沼津市) ⑨獅子浜城(沼津市) ⑩鷲頭砦 ⑪韮山城 

※北条早雲が興国寺城から出陣し、堀越公方の茶々丸を滅ぼした1493年から、三枚橋城で秀吉が家康と作戦会議を行い小田原攻めを成し遂げた1590年までの戦国時代100年。沼津をめぐる北条・今川・武田の三国志は興味を持ちますね~

9‐2へ続く

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2017年9月11日 (月)

「沼津の観光資産  8 歴史上の人物 名僧白隠禅師」

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「白隠禅師と松蔭寺(沼津市原128)」

知徳が優れた僧だけにしか贈られない、高く名誉な名前「国師(こくし)」を、明治天皇から与えられた白隠(はくいん)。そんな白隠が生まれた「沼津市原」には、白隠が住職を務めた「松蔭寺」や、「産湯井戸」など、ゆかりの場所が200年以上経った今でも残されています。

 

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名僧白隠は江戸中期、五代・綱吉の時代に”静岡県・原”に生まれました。生まれつき記憶力に優れ、4歳の時には300字もある村歌を一語も間違えることなく正確に覚え、歌って歩いて村人を驚かしたといいます。多くの伝説を残しつつ、一時期衰退していた禅宗を再び勢いあるものにし、84歳でその生涯を終えました。

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当時のこんな歌が残っています。「駿河には、過ぎたるものがふたつあり、富士のお山と原の白隠」その心は、「駿河の国には凄すぎるものがふたつある。それは、富士山の美しさと、もうひとつは、白隠禅師の素晴らしさだ。」という意味。あの富士山と並び称されるほどの偉大な人物であったこということです。彼は独学の天才でした。禅師が晩年を暮らした沼津市原「松蔭寺」,風格ある立派なお寺。周りを檀家さんのお墓がびっしりと囲みます。由緒あるけれど庶民的。禅師の人柄を感じさせるお寺

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15歳には、父の叔父大瑞宗育(だいずいそういく)禅師が復興した松蔭寺で、剃髪し「慧鶴(えかく)」となりました。各地で修行をした後、32歳で松蔭寺に戻りました。当時は廃寺寸前の状態だったようです。その後、修行僧が全国各地から集まり、弟子の育成に力を注ぎました。近在からも多くの居士が参禅しました。白隠禅師墓の周囲には、各地から参じた修行僧の墓石が多数残っており、当時の師弟関係が偲ばれます。禅師の著書『夜船閑話』(やせんかんな)では、長くこの寺で修行した僧について、「盡く是叢林の頭角、四方の精英なり」と記し、優秀な人材がここに集まっていたと述べています。白隠の産湯井戸から、徒歩で約2・3分の場所にある「松蔭寺」。白隠は15歳で出家し、その後全国を行脚。1717年、33歳の時から住職を務めたお寺が、ここ「松蔭寺」です。

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松陰寺の山門です。白隠が考えた山門と言われています。山門の工事が行われた時、この門の瓦を外して数えてみると、全部で108枚あったそうです。山門は、お寺に訪れると誰もが通る場所。お寺に訪れる人の煩悩を鎮めるよう、白隠は人々を思って、瓦を人間の煩悩と同じ数、108枚にしたそうです。そんな白隠の思いが込められていた山門をくぐると、ご利益があるかもしれませんよ。

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白隠慧鶴「関羽図」近世では白隠慧鶴らが禅画を描いて民衆への布教を行いました。

※戦国時代の武将たちは、禅僧に帰依して指導を受ける一方、時に参謀として戦略の相談や交渉役を任せることもあり、各地の禅宗寺院は大名の庇護を受けて繁栄しました。

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昭和に名だたる名禅僧の一人に、般若窟「白隠の再来」と称えられた「山本玄峰老師」は、白隠禅師没後百年近く経った慶応2(1866)年、和歌山県湯の峰温泉で生まれます。生後すぐに捨てられてしまい、通りかかった岡本善蔵に拾われたと伝えられています。十九歳の時、失明の不幸に見舞われ、これを契機に一念発起して、四国八十八箇所の霊場を巡拝します。その途中、土佐雪蹊寺で太玄和尚と出会い、この地で仏道に入ります。
 玄峰老師は各地の寺で修行を重ね、龍澤寺や松蔭寺を始めとする全国各地の寺を復興し、やがて「白隠の再来」と称されるほどの高僧となり、96歳で三島市竹倉の伯日荘にてこの世を去りました。大本山妙心寺の管長も勤められ、さらには太平洋戦争の終結時、あの「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び……」の文言を進言され、象徴天皇制の発案をされたり、当時の鈴木貫太郎首相の相談役でもあったという傑僧である。

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2016年5月17日 (火)

「もう一つの黒船ゆかりの戸田」沼津

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今年も5月20日から3日間下田市で恒例の黒船祭が行われます。今年で第77回になるそうです。もう一つの黒船とも言われるロシアのデイアナ号はペリー提督の黒船来航に比べあまり表面に出ませんが戸田で行われた帆船建造は歴史に残る偉業でもあるんです。

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小学校の時母親の実家の沼津に横須賀市から転校してきた私。小学校途中までは横須賀軍港に近い「清泉」の小学校に通っていた。私より1歳上の従弟は横須賀に住み大学を出て「石川島播磨重工」に勤務していた。彼の会社の発祥の地ともいえる沼津戸田の事はしばしば話に聞いていたが昔はそんな話題は聞き流していたのだが~年齢を重ねた今は興味も多く久しぶりに会った時に戸田の話をした。彼は会社の同僚と戸田には数回来ていると言っていた。ペリーの「黒船来航の浦賀と下田」、「三浦按針の伊東と三浦」、「戸田号の横須賀と沼津」など三浦半島と伊豆半島の不思議な縁を感じたものだ。最近戸田号再建プロジェクトの話を聞いた。関係者の頑張りを期待しております。もう一つの「黒船ディアナ号と戸田号」の事を調べてみました。Photo

1854年11月4日、ペリーの浦賀来航から遅れること数ヶ月「日露和親条約」締結に向け、10月15日より、下田湊(下田港)に停泊していたロシアのプチャーチン率いるディアナ号を大地震が襲う。九州から東北の太平洋側全域におよぶ全国的なもので、引き起こされた大津波により、ロシア船・ディアナ号は座礁した。その船とロシアの船員を救おうと、当時湾岸には、1,000人近い日本人男女があつまり、綱に体を結び付け、潮の引く勢いでディアナ号が沖へ奪われぬように、みなで協力し、しっかり支えたという。

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下田周辺でのディアナ号修復作業はクリミア戦争でロシアと敵対関係にあった英仏などの艦船の目につきやすく、幕府外交上も不都合だので、幕閣川路聖謨と韮山代官江川太郎左衛門はディアナ号関係者と急遽合議し、外国艦船に見つかりにくく艦の修理にも適した戸田湾への回航を図ったのだった。その甲斐空しく、下田から修理地の戸田に向かう途中、折からの冬の嵐に翻弄され、戸田の北西方向8kmの駿河湾奥でディアナ号は完全に沈没してしまう(船長約60メートル、船幅約14メートル、二千トン)。

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当時としては、最大級の木造船、大破したディアナ号の代替船を作る技術は、当時の日本にはなかった。悲嘆にくれるロシア人たち。ただロシア船員の中には、飛行機の設計でも知られるモジャイスキーという優秀な技術将校が含まれていたので、その指導のもと立ち上がったのが下田警備を任されていた、韮山名代官「江川太郎左衛門英龍」だった。

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修理地の、君沢郡戸田町(現;静岡県沼津市戸田)に造船世話役として集められたのは、「上田 寅吉」、緒明 嘉吉、鈴木七助、石原藤蔵、堤 藤吉、佐山 太郎兵衛、渡邊 金右衛門ら7名の西伊豆の船大工たち。人夫を合わせると日本人だけで約300名、それにロシア人500名を加えた実に800名もの人間がこの一大事業に参画することになった。

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苦心の末、安政2年(1855年)、粋を集結した、スクナー船竣工。この戸田から誕生した日本近代様式造船の第一号は、造船地から「ヘダ号」と名づけられ、プチャーチンと47名のロシア水兵たちを故郷へと送っていったのだった。わずか3ヶ月間の戸田号建造の経験を通してスクーナー型帆船の製作技術を習得した船匠らは、ロシア人が帰国したあとも6隻の同型帆船を次々に完成させ幕府に納入した。また、それら船匠やその弟子たちは、江戸、横須賀、浦賀、長崎、大阪、神戸など国内各地の造船所に散り、今日に至る日本の造船業界発展の礎を築いていった。Photo_6

翌安政3年(1856年)、ロシア軍艦・オリヴィッツ号、下田に入港。そこには、あの「ヘダ号」の姿があったーー。日本側の温かい対応に感謝を示したロシア政府が、五十二門の大砲を添えて「ヘダ号」を曳航・返還してきたのだった。 ※このスクーナー型帆船は君沢形と呼ばれ、日本の内航海運へのスクーナー導入の契機となった。逆風帆走性能に優れ、少人数でも運航可能、小型船に適したスクーナーは、明治から大正にかけて日本の内航海運で洋式船の多くを占めた。さらに、和船の船体にスクーナー帆装を取り入れた和洋折衷の合いのこ船は、洋式船に課されていた検査を回避できる制度上の利点もあって真正のスクーナー以上に普及し、機帆船登場前の内航海運の主力を担うことになった。

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「長崎海軍伝習所」幕末、幕臣や雄藩藩士などから人員を選抜、オランダ語や航海術などを学ばせるために作られたこの学校の第1期生・37名の中に勝 海舟、中島 三郎助などと並び、ある男の姿があった。西伊豆の7人の船大工の1人「上田 寅吉」である。若く有能だった彼は、その知識を幕府に買われ、幕臣たちとともに様々なことを学び、文久2年(1862年)同校の二期生だった榎本 武揚らとともにオランダへ留学。その後、オランダで3年学んだ彼は、ともに留学した榎本 武揚とともに、旧幕府艦隊として、戊辰戦争にも参加することになる。、「ヘダ号」造船の知識を活かし、造船所(石川島)で働き、それぞれが日本の造船工業の近代化に尽力した。Img_history_1853

現在の豊洲・有明・東雲などの街が、埋め立てにより作られた。それらの街は、後に工業地となり、石川島播磨重工業(IHI)などが本社を構えることになる。この石川島播磨重工業こそ、あの西伊豆の船大工たちが、日本造船の近代化のために力を尽くし、水戸藩が整備した石川島造船所(1853年設立)の後継会社である。(Beautifulコアラの温故知新ブログ、IHI等より抜粋)歴史って興味津々ですね~

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2013年7月27日 (土)

「沼津の観光1」

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今日明日「沼津夏祭り狩野川花火大会

 

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長年の仕事をリタイヤし沼津で少し落着いた頃にブログを書きはじめた。その時のふる里沼津は幼い頃から頭に描かれた富士山や香貫山、狩野川、千本浜や我入道、島郷の山や海がお帰りと言ってくれている様だった。こんな素晴らしい沼津をもっと知りたくなったし多くの方にも紹介したい気持ちになりブログを始めた。

 

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2008年の1月6日のブログにこんな事を書いてあった。沼津に帰って来て近くを散歩します。御用邸も整備され綺麗になりました。海岸を散歩する人も沢山います。文学館や記念碑を見たり、美味しい魚を食したりもっと多くの方に沼津の良さを知って貰いたいですね!

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歩いたり、自転車に乗ったり、車でも、方法や手段は人がそれぞれ決める、こんな沼津巡りコースを考えてみたらどうでしょう。山あり、海辺あり、さらに至る所から見える絶景の富士山や駿河湾は誰もが認める素晴らしさです。

 

 

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こんな印象をを持ったのは6年経った今も変わりません。沼津市いう素晴らしい素材はその持っているポテンシャルを発揮できないまま年を経ている様に感じます。人が集わない所は何か原因があるはずです。

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沼津の印象は”魚やお寿司が美味しい街”としか言えないのも寂しいものです。嘗て近隣から沼津の街に行こう!という吸引力が時代と共に分散し今沼津の街は寂しいくらいです。隣町三島の本町通りは歩道に綺麗な花籠が飾られちょっと行って見たくなります。街並みや季節の催事も特徴を出そうとしているのも良くわかります。若い大学生がいたり、三島駅や広小路近辺の食事処は美味しくてセンスの良いお店がたくさんあります。長泉や裾野、函南地区も道路整備が進み街の進化を感じます。若い人の心理として子育てや環境、津波等を考えると住みたくなるのもうなずけます。

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さて我が街沼津の数ある観光資源どうしたらいいんでしょう~次回から6年間近郊を動き廻って”コレいいな”と思ったおススメを書いてみます。

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