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いよいよ始まります大河「鎌倉殿の13人」
平家隆盛の世、北条義時は伊豆の弱小豪族の次男坊に過ぎなかった。ですが流罪人・源頼朝と姉・政子の結婚をきっかけに、運命の歯車は回り始めます。1180年、頼朝は関東武士団を結集し平家に反旗を翻しました。北条一門はこの無謀な大博打に乗ります。頼朝第一の側近となった義時は決死の政治工作を行い、遂には平家一門を打ち破る。
「鎌倉殿(かまくらどの)は鎌倉幕府の将軍のこと」鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝の死後。後継者になった2代将軍・源頼家は18歳でした。頼家はまだ若く政治の経験も浅いです。最初は源頼家と側近の大江広元たちが決めていました。でも頼家は勝手な判断で決めてしまうこともあり。頼家の側近に権力が集中するのを嫌う御家人たちの意見もあり。鎌倉の有力な武家(御家人)から有力な13人が選ばれ、彼らの話し合いで政治を行おう。という仕組みが作られました。
幕府を開き将軍となった頼朝。ですがその絶頂のとき、彼は謎の死を遂げました。偉大な父を超えようともがき苦しむ二代将軍・頼家。 “飾り” に徹して命をつなごうとする三代将軍・実朝。将軍の首は義時と御家人たちの間のパワーゲームの中で挿げ替えられていきます。
義時は、二人の将軍の叔父として懸命に幕府の舵を取る。源氏の正統が途絶えたとき、北条氏は幕府の頂点にいました。都では後鳥羽上皇が義時討伐の兵を挙げます。武家政権の命運を賭け、義時は最後の決戦に挑んだ──。
鎌倉殿を支えた13人のリスト
1大江広元(おおえ の ひろもと)=栗原英雄
もとの名前は 中原 広元(なかはら の ひろもと)兄に中原 親能 生没:1148~1225年
もとは下級貴族。早くから源頼朝に仕え、鎌倉幕府設立に貢献。
頼朝の家臣団の中ではトップの地位にいました。頼朝の政治にも影響を与え、朝廷との交渉役もこなします。頼朝死後は北条政子や北条義時とも協力。鎌倉幕府にはなくてはならない存在。
2三善 康信(みよし の やすのぶ)生没年:1140~1221年=小林隆
もともとは朝廷の太政官の書記官役を世襲する下級貴族。母が源頼朝の乳母の妹。その縁で頼朝が伊豆に流刑時代から連絡をとりあっていました。頼朝挙兵後は、鎌倉に呼ばれて政務を担当。初代問注所執事になって裁判を担当。
3中原 親能(なかはら の ちかよし)死没:1143~1209年=
大江(中原)広元の兄。中原家には養子として入ったともいわれます。
もともとは権中納言・源雅頼の家人。源頼朝とは幼い頃からの知り合い。頼朝の挙兵からまもなく、中原家を出て頼朝に合流。頼朝の側近になりました。人脈を生かして京都と鎌倉の交渉も担当。頼朝の死後は頼家を支えました。京都守護として京都での滞在が多いです。
4二階堂 行政(にかいどう ゆきまさ)生没年不明。
藤原氏の末裔。下級貴族。母方が熱田大宮司の家柄。源頼朝とは親戚。その縁で挙兵に参加したと思われます。朝廷で会計業務を担当していたので、鎌倉でもその知識を生かして役人として働き。政所執事になりました。二階堂家は代々鎌倉幕府の政所執事(財政担当)を世襲しました。多くの分家があって鎌倉幕府の実務を支える一族になります。
5梶原 景時(かじわら かげとき)生没:1140~1200年=中村獅童
坂東平氏のながれをくむ武士。頼朝が挙兵時には頼朝を討伐する側でした。一度は頼朝を破った後、見逃し。後に頼朝に合流。木曽義仲や平氏との戦い、奥州藤原氏との戦いでも活躍。源義経とは仲が悪かったのでドラマなどでは悪者扱いされます。でも頼朝には忠実で教養と実力のある武士でした。頼朝の側近として侍所別当として御家人を監視する役目を担当。頼朝の死後、恨みをもっていた御家人たちに訴えられて鎌倉を追放になり。京都に向かう途中で襲撃されて死亡します。
6足立 遠元(あだち とおもと)生没年不明
武蔵野国の豪族。頼朝が挙兵すると、武蔵野国で真っ先に頼朝を出迎えに行きました。公文所(鎌倉武士のための文書管理や訴訟の担当)の一員になりました。頼家にも仕えましたが途中から名前が出てこなくなり、高齢のため引退したと思われます。武骨者が多い東国武士の中では書類管理など文官的素質を持った人物。
7安達 盛長(あだち もりなが)生没年:1135~1200年
源頼朝が伊豆に流されていたときから仕える御家人。挙兵時から頼朝の従者として仕え様々な命令を受けて動いていました。頼朝の死後は出家。頼家を補佐。三河の守護にもなりました。梶原景時を追求した一人。鎌倉時代に栄えた安達氏の始祖。
8八田 知家(はった ともいえ)生没年:1142~1218年
保元の乱では源義朝と共に戦い。頼朝の挙兵時から参加。平氏や奥州藤原氏との戦いにも参加。頼朝の死後は、北条氏に味方しました。常陸国の守護。
9比企 能員(ひき よしかず)生没年:不明~1203年=佐藤次郎
能員の叔母・比企尼は頼朝の乳母。頼朝の信頼も厚く、頼家の乳母も比企一族でした。
娘は頼家の側室になり、比企家は外戚として力を持ちます。頼朝の死後は梶原景時を追求にも参加。その後、北条氏と対立して滅亡します。
10三浦 義澄(みうら よしずみ)生没年:1127~1200年=さとうB昨
桓武平氏の流れをくむ三浦氏の一族。平治の乱では源義平に味方しましたが敗北して相模国に戻りました。頼朝挙兵後は、頼朝と合流して平氏と戦います。頼朝の死後、梶原景時の追放に参加。その後病死。
11和田 義盛(わだ よしもり)生没年:1147~1213年=横田栄史
三浦氏の一族。源頼朝の挙兵に参加。関東の平氏方との戦いに参戦した後。源範頼の軍に同行。九州や壇ノ浦の戦いに参戦。奥州藤原氏との戦いにも参戦。頼朝の死後。梶原景時の追放に参加。その後、北条義時と対立して滅ぼされます(和田合戦)。
<北条家>
12北条 時政(ほうじょう ときまさ)生没年:1138~1215年=坂東弥十郎
北条政子、北条義時の父。伊豆に流された源頼朝の監視役になり。娘の政子が頼朝の結婚。頼朝の挙兵に参加。その後はほぼ頼朝と行動をともにしています。平氏滅亡後は、京都守護になります。頼朝死後に、梶原氏が没落。力をつけた比企氏と険悪になり、頼朝が病に倒れると比企に謀反の疑いをかけて討伐します。その後、実朝を3代将軍にしますが、その実朝を廃そうとしたので政子・義時たちによって隠居に追い込まれます。弱小勢力だった北条氏を大勢力にした人物ですが、晩年に強引な部分がでて評判を落しました。
13北条義時(ほうじょう よしとき)生没年:1163~1224年=小栗旬
北条時政の次男、政子の弟。頼朝の挙兵に参加。頼朝の寝所を護衛する「家子」になり。頼朝の信頼を得ました。頼朝の死後。比企氏の討伐など、時政が権力を手にいる家庭で手足となって働きました。その後、時政と対立した義時・政子は義時を隠居させます。鎌倉幕府の執権になります。3代将軍・実朝の死後。後鳥羽上皇と対立。「義時を討て」と名指して攻撃されますが、鎌倉武士団をまとめて朝廷軍と戦って勝利。後鳥羽上皇を隠岐の島に流します。この勝利で鎌倉幕府の全国支配が強まり。鎌倉幕府内での北条家の地位も確定しました。
以上の十三人です。関東の豪族出身の者、貴族出身多彩な顔ぶれです。この中から北条時政・義時が力をつけて北条氏が鎌倉の中心勢力になっていく。
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