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1951年(昭和26年)あたりからのモーターサイクルの爆発的需要は多くのオートバイメーカーが乱立した時代だ。その中でも沼津市に有った「昌和製作所」は嘗ての名車”昌和クルーザー”のオートバイを製造している名門の会社だった。私も昌和エコーやクルーザーには思いでがいっぱいある。その後はヤマハ発動機の関連会社として、売れに売れたヤマハ”トレールDT1”の製造拠点でもあった。
≪1950年代当時のオートバイメーカー≫
宮田製作所アサヒ号1933年 メグロ目黒製作所バイク製造1937-1964
富士産業(旧中島飛行機)ラビット1947-1968 陸王1934-1959
中日本重工業(三菱重工業)1946-1964 トーハツ1950-1964
ホンダドリーム号1949年 丸正自動車ライラック1948-1961 ブリジストン1952-1971
昌和製作所は、1918年(大正7年)に小島和三郎が中国(旧満州)の奉天で創業した貿易商社の昌和洋行が、中国で販売する軽オートバイの製造を目的として1939年(昭和14年)3月に設立した会社である。オートバイの製造に当たっては、設計に目黒製作所の村田延春や鈴木高治等の支援を受け、独ザックス社(Sachs Bikes ,SACHS Fahrzeug- und Motorentechnik GmbH)のエンジンを研究し100ccのオートバイを完成させるものの、まもなく第二次世界大戦が始まりそのオートバイが生産されることはなく、軍需工場として操業する。
第二次世界大戦の終戦に伴い、昌和製作所はいち早く操業を再開する。操業再開後、1946年(昭和21年)5月に最初に生産されたオートバイは2サイクル単気筒100ccエンジンを搭載した「昌和号」であった。昌和号は戦前に開発されたもので、資材不足の中で寄せ集めの部品で作られ、とても「生産」と云えるような状況ではなかったが、それでも1948年(昭和23年)には172台が生産された。
クルーザーSC55(1955年)
その後、オートバイ生産・販売の拡大に伴って、山輪研究所が開発したヤマリン・エンジンとオートバイ部品を山田輪盛館から購入し自社で組み立てて販売するようになる。最初に発売したのは、4サイクル単気筒OHC150ccエンジンを搭載する。昌和号SF型で1951年(昭和26年)8月に発売、翌年8月にはSH型と200ccエンジンを搭載するSS型を発売する。これらヤマリン・エンジンを搭載する昌和号は、1953年(昭和28年)3月に開催された名古屋TT(全日本選抜優良軽オートバイ旅行賞パレード)、同年7月に開催された第1回富士登山レースで活躍、富士登山レースでは1位から4位までを独占すると言う快挙を成し遂げる。(但し、レース後の車検でバッテリーを取り外していることが発覚し「実用標準車にあらず」として失格となった。他にもギア比、圧縮比、マフラー等を改造している出場者があったため昌和としては納得できない結果であった。
その一方で、昌和は優秀な技術者を集めて、ヤマリン・エンジンとは別に自社エンジンの開発を進めた。ヤマリンのOHCエンジンは高性能であるものの、製造技術の問題などからカムシャフトを駆動するチェーンが伸びたり、複雑なエンジンのメンテナンス性に問題があった当時、弁機構はサイドバルブからOHV、そしてOHCへと変革していく過渡期だったが、 昌和はOHCエンジンの問題を回避するために時代に逆行してサイド・バルブエンジンを新たに自社開発、そのエンジンは‘サイドバルブとしては’優れた性能で、「クルーザー」と名付けられた新型車に搭載された。1954年(昭和28年)5月に発売されたクルーザーSC型は、250ccサイドバルブ・エンジンを搭載し80φバックボーン・フレームやアールズ・フロントフォークの採用等の特徴を備えていた。昌和は1955年(昭和30年)11月に開催された第1回浅間高原レースに、このクルーザーSC55をライト級に出場させた他に、ウルトラ・ライト級(125cc)、ジュニア級(350cc)にも出場したが、どのクラスも好成績を残すことはできなかった。昌和は、その頃普及し始めた4輪車に対して、モーターサイクルが実用車からいずれスポーツ車として用いられるようになると考え、自社開発したサイドバルブ・エンジンを捨てて、新たに2サイクル・エンジンの開発に乗り出した。1956年(昭和31年)7月に発売した2サイクル、リードバルブ125ccエンジンを搭載したライトクルーザーSLは月産8,000台にもなるほどの人気を得て、2サイクル・エンジン技術に自信を得た昌和は、250ccの2サイクル・エンジンを開発し、浅間レースにも積極的に出場した。
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第2回浅間火山レース(ウルトラ・ライト級)に出場したライトクルーザーSL
ヤマハ、ホンダに続く好成績を収めるとともに、浅間レース専用車をベースとした250cc<の2サイクルエンジンを搭載するクルーザーSCT250ccの2サイクル・エンジンを同年12月に発売するが、性能面では平均的でヒットには繋がらなかった。それまで、昌和はどちらかと言うと小型~中型オートバイの開発・生産を得意とするメーカーであったが、後にヤマハの4サイクル・エンジンの技術の源となる大型4サイクル・エンジンの技術を「日本高速機関」を買収する事によって手に入れる。日本高速機関は、「HOSK」ブランドで知られる大型オートバイ生産メーカーで、輸入オートバイの大手販売代理店だった山田輪盛館が、輸入オートバイに肩を並べる大型オートバイを開発・製造するために起こしたメーカーである。日本高速機関は、ヤマリン・エンジンを搭載したオートバイとは全く異なり、英国アリエル車を模範とした大型車を生産する会社だったが、当時は趣向生の強い大型オートバイよりも実用性のある小型オートバイが売れており、経営面ではが思わしくない状況が続き、かつて取引のあった昌和製作所に買収される。
しかし、その昌和製作所も経営面では安泰とは云えなかった。開発に力を注いだ昌和は、軽4輪自動車(ミニカ)やセミ・スクーター(マリーン125)等を次々と発表したが、その一方で若い社員が多く開発に力を入れすぎたことによって資金繰りが悪化し、それに加えて日本高速機関を買収したことにより、いよいよ経営が行き詰まってしまったのである。
そこに目をつけたのがヤマハ発であった。ヤマハは、昌和製作所の負債を肩代わりする代償として、昌和製作所の経営陣であった小島一族を事業から撤退することを条件とした。その小島は、昌和製作所の他に日本電算機などの事業があったため、行き詰まったオートバイの開発・生産事業を切り離し売却することでヤマハと合意し、ヤマハは1960年(昭和35年)4月に昌和製作所を買収、昌和製作所はヤマハの傘下に加わった。ヤマハはこの買収によって、かつての昌和製作所と同様に、日本高速機関にルーツを持つ大型4サイクル・エンジンやパイプフレームの技術の一部を手に入れることになる。
ヤマハはその頃、2サイクル650ccエンジンの開発を進めていたが、これに代わって4サイクル650ccエンジンの開発に着手、英国トライアンフ風のバーチカル・ツインエンジンを搭載したヤマハ初の4サイクル・オートバイとなる1969年の第16回東京モーターショーで発表されたたが、この名車のルーツは昌和製作所、さらに遡れば日本高速機関の4サイクル・エンジン技術が基礎にあるともいえる。
昌和製作所は、1960年(昭和35年)にヤマハ傘下に加わった後、(株)昌和製作所としてヤマハブランドの発電機やゴルフカー等を生産していたが、同じくヤマハブランドオートバイの組み立てを行っていた(株)榛葉シボリ製作所と1988年(平成元年)に合併し「創輝(株)」として操業、2006年(平成18年)には「ヤマハモーターパワープロダクツ(株)」に社名を変更している。
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