「もう一つの黒船ゆかりの戸田」沼津
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今年も5月20日から3日間下田市で恒例の黒船祭が行われます。今年で第77回になるそうです。もう一つの黒船とも言われるロシアのデイアナ号はペリー提督の黒船来航に比べあまり表面に出ませんが戸田で行われた帆船建造は歴史に残る偉業でもあるんです。
小学校の時母親の実家の沼津に横須賀市から転校してきた私。小学校途中までは横須賀軍港に近い「清泉」の小学校に通っていた。私より1歳上の従弟は横須賀に住み大学を出て「石川島播磨重工」に勤務していた。彼の会社の発祥の地ともいえる沼津戸田の事はしばしば話に聞いていたが昔はそんな話題は聞き流していたのだが~年齢を重ねた今は興味も多く久しぶりに会った時に戸田の話をした。彼は会社の同僚と戸田には数回来ていると言っていた。ペリーの「黒船来航の浦賀と下田」、「三浦按針の伊東と三浦」、「戸田号の横須賀と沼津」など三浦半島と伊豆半島の不思議な縁を感じたものだ。最近戸田号再建プロジェクトの話を聞いた。関係者の頑張りを期待しております。もう一つの「黒船ディアナ号と戸田号」の事を調べてみました。
1854年11月4日、ペリーの浦賀来航から遅れること数ヶ月「日露和親条約」締結に向け、10月15日より、下田湊(下田港)に停泊していたロシアのプチャーチン率いるディアナ号を大地震が襲う。九州から東北の太平洋側全域におよぶ全国的なもので、引き起こされた大津波により、ロシア船・ディアナ号は座礁した。その船とロシアの船員を救おうと、当時湾岸には、1,000人近い日本人男女があつまり、綱に体を結び付け、潮の引く勢いでディアナ号が沖へ奪われぬように、みなで協力し、しっかり支えたという。
下田周辺でのディアナ号修復作業はクリミア戦争でロシアと敵対関係にあった英仏などの艦船の目につきやすく、幕府外交上も不都合だので、幕閣川路聖謨と韮山代官江川太郎左衛門はディアナ号関係者と急遽合議し、外国艦船に見つかりにくく艦の修理にも適した戸田湾への回航を図ったのだった。その甲斐空しく、下田から修理地の戸田に向かう途中、折からの冬の嵐に翻弄され、戸田の北西方向8kmの駿河湾奥でディアナ号は完全に沈没してしまう(船長約60メートル、船幅約14メートル、二千トン)。
当時としては、最大級の木造船、大破したディアナ号の代替船を作る技術は、当時の日本にはなかった。悲嘆にくれるロシア人たち。ただロシア船員の中には、飛行機の設計でも知られるモジャイスキーという優秀な技術将校が含まれていたので、その指導のもと立ち上がったのが下田警備を任されていた、韮山名代官「江川太郎左衛門英龍」だった。
修理地の、君沢郡戸田町(現;静岡県沼津市戸田)に造船世話役として集められたのは、「上田 寅吉」、緒明 嘉吉、鈴木七助、石原藤蔵、堤 藤吉、佐山 太郎兵衛、渡邊 金右衛門ら7名の西伊豆の船大工たち。人夫を合わせると日本人だけで約300名、それにロシア人500名を加えた実に800名もの人間がこの一大事業に参画することになった。
苦心の末、安政2年(1855年)、粋を集結した、スクナー船竣工。この戸田から誕生した日本近代様式造船の第一号は、造船地から「ヘダ号」と名づけられ、プチャーチンと47名のロシア水兵たちを故郷へと送っていったのだった。わずか3ヶ月間の戸田号建造の経験を通してスクーナー型帆船の製作技術を習得した船匠らは、ロシア人が帰国したあとも6隻の同型帆船を次々に完成させ幕府に納入した。また、それら船匠やその弟子たちは、江戸、横須賀、浦賀、長崎、大阪、神戸など国内各地の造船所に散り、今日に至る日本の造船業界発展の礎を築いていった。
翌安政3年(1856年)、ロシア軍艦・オリヴィッツ号、下田に入港。そこには、あの「ヘダ号」の姿があったーー。日本側の温かい対応に感謝を示したロシア政府が、五十二門の大砲を添えて「ヘダ号」を曳航・返還してきたのだった。
※このスクーナー型帆船は君沢形と呼ばれ、日本の内航海運へのスクーナー導入の契機となった。逆風帆走性能に優れ、少人数でも運航可能、小型船に適したスクーナーは、明治から大正にかけて日本の内航海運で洋式船の多くを占めた。さらに、和船の船体にスクーナー帆装を取り入れた和洋折衷の合いのこ船は、洋式船に課されていた検査を回避できる制度上の利点もあって真正のスクーナー以上に普及し、機帆船登場前の内航海運の主力を担うことになった。
「長崎海軍伝習所」幕末、幕臣や雄藩藩士などから人員を選抜、オランダ語や航海術などを学ばせるために作られたこの学校の第1期生・37名の中に勝 海舟、中島 三郎助などと並び、ある男の姿があった。西伊豆の7人の船大工の1人「上田 寅吉」である。若く有能だった彼は、その知識を幕府に買われ、幕臣たちとともに様々なことを学び、文久2年(1862年)同校の二期生だった榎本 武揚らとともにオランダへ留学。その後、オランダで3年学んだ彼は、ともに留学した榎本 武揚とともに、旧幕府艦隊として、戊辰戦争にも参加することになる。、「ヘダ号」造船の知識を活かし、造船所(石川島)で働き、それぞれが日本の造船工業の近代化に尽力した。
現在の豊洲・有明・東雲などの街が、埋め立てにより作られた。それらの街は、後に工業地となり、石川島播磨重工業(IHI)などが本社を構えることになる。この石川島播磨重工業こそ、あの西伊豆の船大工たちが、日本造船の近代化のために力を尽くし、水戸藩が整備した石川島造船所(1853年設立)の後継会社である。(Beautifulコアラの温故知新ブログ、IHI等より抜粋)歴史って興味津々ですね~
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