後北条(北条五代 早雲・氏綱・氏康・氏政・氏直)
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後北条(北条五代 早雲・氏綱・氏康・氏政・氏直)
初代早雲から始まり、以来五代百年 代々名君に恵まれ広く善政を敷き、東国一の繁栄と安定を保っていた。早雲が歴史の表舞台に出てきたのは、妹の嫁ぎ先である今川家の家督争いを早雲が解決し、その手柄として沼津市にある興国寺城を与えられた事から始まる。
その後伊豆・小田原と次々に手に入れ、着実に戦国大名としての道を歩み始めました。
1495年伊豆の北条早雲が小田原を平定し五代約100年間、民百姓を大事にし、教育文化の高揚と海運を活用して商工業の振興を図る1590年豊臣秀吉により攻め落とされ開城し北条五代は幕を閉じた。
後北条の祖、早雲とは伊勢
新九郎宗瑞であり、京都建
仁寺にて修学、禅道号宗瑞
を賜り早雲庵宗瑞と号してい
た。今川家の家督争いを見
事終結、それにより沼津興国
寺城を手に入れる。その後
伊豆・小田原と次々に手中にし戦国大名としての道を歩み始
める。北条早雲と呼ばれ1495年小田原平定し四公六民の
善政をしき民百姓を大事にした、1519年88歳で没。
沼津興国寺城で誕生したとい
われる。今川義元とは決別し
武蔵・下総国に進出。1523年
北条に改姓。知略に秀でた武将
で1540年には鎌倉の鶴岡八幡
宮を営繕完成させる弟と共に
文化にも力をいれた1541年55
歳小田原城で没。氏綱の弟、幻庵は早雲の三男で北条五代を生きぬき1589年97歳で没。
氏綱の子で関東全域を治め
北条文化全盛期を築く、
武田信玄・上杉謙信と共に
関東の三名将と称され帝王
学を身に付け教養豊な
平和を愛する名将と言われた、
1571年57歳で没。
四代 氏政(うじまさ)
隣国との争いがあり、
戦国時代の情勢が
変化し秀吉の大群に
攻め落とされ自害
1590年53歳で没
1580年に氏政から家督をゆずられ1582年には徳川家康と和睦、家康の娘督姫と結婚。1590年秀吉に小田原城を攻め落とされた後高野山へ移されるがその後、氏直は許され1万石を与えられ家は維持されたいう。やがて氏直は1591年30歳で亡くなるが、氏直の叔父の氏規が、河内国狭山に所領を与えられ、幕末まで河内狭山藩1万石として引き継がれる。そして、小田原北条氏の領民を大切にする想いも、受け継がれていたという。
小田原の発展の礎を作った、北条五代百年の善政を慕っての北条五代祭りが、毎年5月の連休中にある。
「北条五代墓所早雲寺」北条氏綱が伊勢新九朗(早雲)の遺言により、1521年に建立した臨済宗の寺である。豊臣秀吉による小田原攻めでは、秀吉の在所となった。墓地奥の石段を登ったところに北条五代の墓所が五基並んでいる。これは寛文十二年(1672)に後北条氏の末裔である河内国狭山藩主北条氏治により建立されたものといわれる。
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