<a href="http://local.blogmura.com/shizuoka/"><img src="http://local.blogmura.com/shizuoka/img/shizuoka80_15.gif" width="80" height="15" border="0" alt="にほんブログ村 地域生活ブログ 静岡情報へ" /></a>沼津【妙泉寺】法華の僧日運上人は愛鷹山麓阿野庄の地を題目布教していましたが文亀元年(1501)庵を結んで道仙庵と称しました。やがて信徒が群集して永正2年(1505)青野上岡の現在地に寺地を移し、泉の涌く勝地に堂塔を建立し青野山(おおのさん)妙泉寺と号しました。旧地は興国寺城の東脇、今日に道仙林として名残りをとどめています。永正14年(1517)書写された日運上人の御本尊は寺宝です。青埜山の文字は青野の地名の最古の記録です。永禄6年(1563)には今川氏より寺領安堵の判物を受け今日に伝えています。江戸時代初期、大本山光長寺十八世日達聖人は当山を訪れ、当山に竹木を植える事が大切だという書状を残され、代々樹木を守り今日の緑の森を残して参りました。第九世日蔵上人は西椎路の地に延宝年間に末寺を開き法蔵院を建立。この地は鎌倉時代日蓮大聖人の信徒で豪族の椎地四郎常照の持仏堂の旧跡で「椎地」の地名は源頼朝の巻狩の折の椎の実の故事にて知られます。十二世日清上人は宝永2年(1705)番神堂、宝永7年(1710)鐘楼を建立。元文3年(1738)当山仏像を仏師玉置五郎吉が造立。宝暦5年(1755)庫裡再建。寛政3年、(旧字、ゆう:麦の夂の字が久)上人は本堂再建。堂塔も整いましたが、文化9年(1812)の火災で全山烏有に帰してしまいました。その後二十四世日就上人は18年の歳月を費して文政11年(1828)諸堂を復興。安政3年には大久保長門守殿より松永陣屋の表門を拝領し当山の山門とした記録が残ります。幕末の天保年間には信徒増田平四郎翁は当山二十六世日布上人の協力を得て、浮島沼を田地に改良する新田事業計画を発願し、江戸表に再三の直訴を敢行いたしましたが援助を得られず、30年に及ぶ辛苦の末法華寺院の協力と平四郎の後援者の自力開発という形で大規模掘割工事がすすめられました。慶應2年(1866)完成を目前にするも強烈な台風の来襲により惜しくも崩壊。結局数年後に女鹿塚に田地が出現するという結果をもたらし、昭和第一放水路の基礎となったのです。戦中戦後を通し、梵鐘等仏具供出や農地開放の苦境、更には近年昭和49年七夕豪雨の被害と新幹線振動被害の為当山復興を計り昭和56年本堂・庫裡再建を成就。昭和63年には宝物資料館を建立し、同館に『緑と歴史を守ろう会』を置き、歴史資料の保存と展示、自然環境を守る活動を行っている。(寺HP)