カテゴリー「「我が街沼津」」の23件の記事

2018年6月17日 (日)

「島郷の桃は健在」沼津

⇐PleaseClickクリックお願いします。
にほんブログ村

Sdsc_5878

嘗て桃の栽培がおこなわれ”桃郷”と言われたほど桃の栽培が盛んだった「沼津市島郷」今も僅かながら栽培は続いているんです。小学生の頃、この辺りは一面桃の花が咲き島郷の桃畑はとても綺麗でした。

Sdsc_5876
この少し小さくて身が赤い島郷の桃をよく食べたものです。1ケースを珈舎さんで譲っもらい冷蔵庫で冷やしています。

Scimg0130
4月には島郷の桃の花も綺麗に咲きます。今は桃の木を捜すのに苦労します。槙の木の垣根に囲まれた桃畑が2~3か所あるだけです。それだけ島郷の桃は懐かしくもあり貴重なものになりました。

Sdsc_5877
場所 沼津市下香貫島郷

⇐PleaseClickクリックお願いします。
にほんブログ村

2018年6月16日 (土)

リージョナル型ショッピングセンター「(仮称)三井ショッピングパークららぽーと沼津」一部店舗を先行発表

⇐PleaseClickクリックお願いします。
にほんブログ村

三井不動産株式会社は沼津市東椎路地区にて静岡県東部エリア初進出となるリージョナル型ショッピングセンター「(仮称)三井ショッピングパークららぽーと沼津」の開発を推進しており、2018年6月1日に建築着工し開業は2019年秋を予定、この度、一部店舗を先行発表しました。

Ihttps253a252f252fs_eximg_jp252fexn
計画地は、南側には国道1号、北側は拡幅整備された都市計画道路「金岡浮島線」にそれぞれ面しており、優れた交通網を有しております。また、至近には東名高速道路「愛鷹スマートIC」、新東名高速道路「駿河湾沼津スマートIC」があり、広域アクセスにも優れた立地となっています。

Ihttps253a252f252fs_eximg_jp252fe_2
当施設は、2017年3月31日の都市計画変更により市街化編入された土地(約30ha)の中核に立地し、施設計画に合わせて、周辺道路の拡幅整備や当敷地内に3ヵ所、合計約5,000m2の緑地広場と交通広場などの整備を行う。延床面積約165,000m2、店舗面積約64,000m2の4階建てで、店舗数は約220店、駐車場台数は約3,500台を予定。

Ihttps253a252f252fs_eximg_jp252fe_3
出店予定の店舗

<スーパーマーケット>株式会社三和

●品揃え豊富な、大規模スーパーマーケット
東京都西南部と神奈川県を中心に店舗を構えるスーパーマーケットの「sanwa」が静岡県に初出店。日々の生活を「より豊かに・より楽しく」する為に、鮮度・品揃えにこだわり、地域の皆様に喜ばれるお店を目指します。

<マルシェ>佐政水産株式会社

●新鮮な地元食材を扱う市場
沼津港で「港八十三番地」や「沼津港深海水族館」を運営する「佐政水産」がららぽーとに初出店。海外のマルシェのようなお洒落で活気のある空間で、新鮮な地元食材を提供します。買い物だけでなく食事もお楽しみいただけます。

<シネマ>シネマサンシャイン

●IMAX®など最新鋭設備を導入したシネマコンプレックス
全国に15館を運営している「シネマサンシャイン」がららぽーとに初出店します。世界で最も臨場感のある映画体験ができるIMAX®。その他最新鋭の映像・音響システムを導入する10スクリーン、約1,800席のシネマコンプレックスです。様々な映画の楽しみ方をご提案します。
IMAX® is a registered trademark of IMAX Corporation.

<アミューズ>株式会社コロナワールド

●ボウリング併設の最新アミューズメントパーク
ボウリングやアミューズメントなどをはじめとする、新たな“遊び”の情報発信基地となるエンターテインメント空間を提供する「コロナワールド」が静岡県に初出店。キッズ・シニアまで幅広い層の方が毎日笑顔で楽しいひとときを体感いただけるインドアパークです。

20180614_09
店舗棟 鉄骨造地上4階建(1~3階:店舗、4階:屋上駐車場)立体駐車場棟 鉄骨造地上5階建 3棟、店舗数約220店舗 敷地約119,816m2(約36,244坪)延べ床約165,000m2(約50,000坪) 店舗面積約64,000m2 (約19,000坪)

場所 沼津市東椎路字東荒301番地3他

⇐PleaseClickクリックお願いします。
にほんブログ村

2017年11月15日 (水)

「沼津の観光資産 6 築150年の家・反射炉資材は香貫から」

⇐PleaseClickクリックお願いします。
にほんブログ村

「築150年以上の古民家」

Img_0385

こんな立派なお宅が沼津に残っているんです!Yさんのお宅に伺いご主人にお話を伺った所、この建物は【安政の地震直後に建てたもの】だそうです。屋根は瓦のように見えますが実はトタンで 瓦に似せて一つずつ作ってあります。本来茅葺きの屋根ですが葺き替え等大変なのでトタンで作った瓦もどきを被せてあるそうです。

小石を屋根に投げカランという音まで聞かせてくれました。遠くから見れば本物の瓦にしか見えませんね。釘などは一切使っていないそうですし、家の中の柱の太いこと、光沢のある廊下や梁さすが「150年以上」たっても丈夫そうな木材でしっかりしています~しばし見とれていました~

古民家に興味のある方には見るだけでよし、建築に興味なある方にも参考にもなるし貴重な家屋です。

「韮山反射炉の資材は香貫から運んだ」

江川英龍が海防の必要性と江戸湾防備の為設置する大砲は、従来のものより長射程で堅牢、かつ低コストの条件を満たすために、鉄製で口径長大な砲の製作が必要であり、それを想定していた英龍は「ライク~鋳造法」を石井修三と矢田部卿運に「和蘭国製鉄炉法」として翻訳させる等しており、幕府の許可が下りてすぐに、反射炉建造に着手。安政元年(1854に着工、3年後英敏の代に完成した、銑鉄(鉄鉱石から還元した鉄で不純物が多い)を溶かして良質な鉄を得るための洋式の金属溶解炉。はじめ建設場所を伊豆賀茂郡本郷村(現在の下田高馬付近)とした。0c622a64c988149a85e01072d96f1506

嘉永6年(1853)12月に本郷村で建設準備。安政元年(1854)3月27日、伊豆本郷村の工事中の反射炉に、近くにある下田港に入港していたペリー艦隊の水兵が侵入する事件が起きたため、建設地を急遽、韮山代官所に近い田方郡韮山中村村に変更することとなった。

5月29日本郷村から資材を運び出し、「沼津香貫村」に荷揚げ。(カヌキ山麓の絵図、霊山寺や牛臥山や狩野川河口付近に船が描かれている) 6月に現在の場所、田方郡中村で着工。翌月1日から土台、閏7月18日に耐火煉瓦を積み始め22日板鉄鋳造。安政2年(1855)1月16日に英龍が江戸屋敷で病没。子の英敏が意志を継いで工事は続行される。

⇐PleaseClickクリックお願いします。
にほんブログ村

「沼津の観光資産 7三津坂隧道」

⇇ ⇇ ⇇PleaseClickクリックお願いします~
にほんブログ村

Mitutunnel20
明治時代に作られた石巻きトンネルとしてよく知られている天城峠の「旧天城隧道」の竣工は、明治37年。しかし、実はそれよりも古い石巻きトンネルが「旧三津坂トンネル」明治30年竣工、延長170mである。

Mitutunnel8
「天城トンネル」は伊豆の踊子が歩いた道として注目され、文化遺産として脚光を浴ている。それと正反対に、旧三津坂隧道は現在の新トンネルができてから顧みられることがなくなっている(画像は10年前のもの今はどうなっているのか~)

井上靖の「しろばんば」にも登場します。「しろばんば」の主人公は洪作少年。三津に住んでいた叔母をしばしば訪ねていった。その際、長岡と三津の境の山を貫く旧三津坂隧道をくぐって三津に行った。トンネルを抜けて三津に下る時、そこから見える三津の街並みと青い空は日本で一番美しい風景だと記している。(雪国や伊豆の踊子のくだりと似ている)

800img_20140529_0001
昭和31年発行の付近の地図には「長瀬トンネル」となっているが・・・。
「これだけ古く価値のあるトンネル観光資産として使えるはずですね~近くには「長塚の切通し」や「嘗ての塩久津港あと」「砕石跡」「洞窟」等ジオパークなどの資産になる場所もいっぱいあります。

Dscn3303
また沼津の414号海岸線には嘗てのトンネルが多く残っている。「江の浦隧道」「旧多比隧道」等、内浦観光の切り口になるのでは~

昨今「ラブライブサンシャイン」で脚光の内浦ですが、少し頭をひねると「映画寅さんの聖地」だったり「井上靖しろばんばの道」「北条水軍の長浜城」「ジオパーク」「うずわ味噌」「内浦のビワ」など内浦観光に繋がるものだけでもたくさんあります~町おこしにつながればいいですね~

p>⇇ ⇇ ⇇PleaseClickクリックお願いします~
にほんブログ村

2017年10月 6日 (金)

沼津の観光資産「11韮山反射炉の資材は香貫から 築150年以上の家&内浦旧三津坂隧道」

⇇ ⇇ ⇇PleaseClickクリックお願いします~
にほんブログ村

「 ①韮山反射炉の資材は香貫から」

江川英龍が海防の必要性と江戸湾防備の具体策──台場を構築し異国船に備える等──を幕府に建言し、嘉永6年のペリー艦隊の来航等を受けて聞き入れられる。

E02863a35c5139d995d8bd4c876bafce台場に設置する大砲は、従来のものより長射程で堅牢、かつ低コストの条件を満たすためには、鉄製で口径長大な砲の製作が必要であるが、それを想定していた英龍は『ライク~鋳造法』を石井修三と矢田部卿運に「和蘭国製鉄炉法」として翻訳させる等しており、幕府の許可が下りてすぐに、反射炉建造に着手。安政元年(1854に着工、3年後英敏の代に完成した、銑鉄(せんてつ。鉄鉱石から還元した鉄で不純物が多い)を溶かして良質な鉄を得るための洋式の金属溶解炉。はじめ建設場所を伊豆賀茂郡本郷村(現在の下田高馬付近)とした。0c622a64c988149a85e01072d96f1506嘉永6年(1853)12月に本郷村で建設準備。安政元年(1854)3月27日、伊豆本郷村の工事中の反射炉に、近くにある下田港に入港していたペリー艦隊の水兵が侵入する事件が起きたため、建設地を急遽、韮山代官所に近い田方郡韮山中村村に変更することとなった。

5月29日本郷村から資材を運び出し、「沼津香貫村」に荷揚げ。(カヌキ山麓の絵図、霊山寺や牛臥山や狩野川河口付近に船が描かれている) 6月に現在の場所、田方郡中村で着工。翌月1日から土台、閏7月18日に耐火煉瓦を積み始め22日板鉄鋳造。安政2年(1855)1月16日に英龍が江戸屋敷で病没。子の英敏が意志を継いで工事は続行される。

「②築150年以上の古民家」こんな立派なお宅が沼津に残っているんです!

Yさんのお宅に伺いご主人にお話を伺った所、この建物は【安政の地震直後に建てたもの】だそうです。屋根は瓦のように見えますが実はトタンで 瓦に似せて一つずつ作ってあります。本来茅葺きの屋根ですが葺き替え等大変なのでトタンで作った瓦もどきを被せてあるそうです。小石を屋根に投げカランという音まで聞かせてくれました。遠くから見れば本物の瓦にしか見えませんね。釘などは一切使っていないそうですし、家の中の柱の太いこと、光沢のある廊下や梁さすが「150年以上」たっても丈夫そうな木材でしっかりしています~しばし見とれていました~

「③旧三津坂隧道

Mitutunnel8

明治時代に作られた石巻きトンネルとしてよく知られている天城峠の「旧天城隧道」の竣工は、明治37年。しかし、実はそれよりも古い石巻きトンネルが「旧三津坂トンネル」明治30年竣工、延長170mである。

「天城トンネル」は伊豆の踊子が歩いた道として注目され、文化遺産として脚光を浴ている。それと正反対に、旧三津坂隧道は現在の新トンネルができてから顧みられることがなくなっている(画像は10年前のもの今はどうなっているのか~)

Mitutunnel20

井上靖の「しろばんば」にも登場します。「しろばんば」の主人公は洪作少年。三津に住んでいた叔母をしばしば訪ねていった。その際、長岡と三津の境の山を貫く旧三津坂隧道をくぐって三津に行った。トンネルを抜けて三津に下る時、そこから見える三津の街並みと青い空は日本で一番美しい風景だと記している。(雪国や伊豆の踊子のくだりと似ている)

800img_20140529_0001

昭和31年発行の付近の地図には「長瀬トンネル」となっているが・・・。
「これだけ古く価値のあるトンネル観光資産として使えるはずですね~近くには「長塚の切通し」や「嘗ての塩久津港あと」「砕石跡」「洞窟」等ジオパークなどの資産になる場所もいっぱいあります。

また沼津の414号海岸線には嘗てのトンネルが多く残っている。「江の浦隧道」「旧多比隧道」等、内浦観光の切り口になるのでは~

Image09

昨今「ラブライブサンシャイン」で脚光の内浦ですが、少し頭をひねると「映画寅さんの聖地」だったり「井上靖しろばんばの道」「北条水軍の長浜城」「ジオパーク」「うずわ味噌」「内浦のビワ」など内浦観光に繋がるものだけでもたくさんあります~町おこしにつながればいいですね~

⇇ ⇇ ⇇PleaseClickクリックお願いします~
にほんブログ村

2017年10月 3日 (火)

「沼津の観光資産9-4 歴史上の人物 北条早雲」

⇇ ⇇ ⇇PleaseClickクリックお願いします~
にほんブログ村

北条早雲 9-4 「小田原城略取

堀越公方(ほりごえくぼう)は、本来は鎌倉公方となるべく関東に下されたもので、室町幕府の出先機関として位置づけられていた。しかも、それを破ったのが駿河守護今川氏親の一武将にしかすぎない北條早雲だった。地位が下の者が上の者にとって代わる下剋上(げこくじょう)そのものだったのである。戦国時代のキーワードとして下剋上と弱肉強食ということがいわれており、早雲の伊豆討入は、そうした意味で、戦国時代の到来を告げるできごとだった。

Img_9603
伊豆平定にある程度成功した早雲は、西相模・小田原城へと目を向けます。当時の小田原城主は山内上杉顕定の重臣大森氏頼であり、山内上杉氏との闘争に明け暮れる扇谷上杉氏に対しても、有力な加勢として参陣の実績を重ね、大森氏を討っても扇谷への反逆にならない立場を固め準備を進めました。しかし、小田原城主・大森氏頼も手強くうまく行かずに いました。そして氏頼が死んだところであとを継いだ藤頼に接近し、手紙のやりとりや珍しい品物を贈ったりして藤頼を油断させます。

_23
そして、早雲は藤頼に「伊豆で鹿狩りをしていたら箱根山に逃げてしまった。伊豆に鹿を追い返すために勢子を入れさせて欲しい」と頼みます。何の疑いも持たない藤頼は「御自由に」と返事をしてしまいます。そうして、勢子に化けた 早雲の一隊は明応4年(1495年)9月、小田原城・大森藤頼に夜襲をかけ、城と城付の領地を奪い取ってしまいました。早雲は敵味方双方に あまり多くの犠牲を出さずに比較的容易に小田原城乗っ取りを成功させます。このとき早雲は六十四歳だった。韮山城で没したのは八十八歳であった。Ryoudo_0001
※後北条(北条五代 早雲・氏綱・氏康・氏政・氏直)

初代早雲から始まり、以来五代百年 代々名君に恵まれ広く善政を敷き、東国一の繁栄と安定を保っていた。早雲が歴史の表舞台に出てきたのは、妹の嫁ぎ先である今川家の家督争いを早雲が解決し、その手柄として沼津市にある興国寺城を与えられた事から始まる。
その後伊豆・小田原と次々に手に入れ、着実に戦国大名としての道を歩み始め1495年伊豆の北条早雲が小田原を平定し五代約100年間、民百姓を大事にし、教育文化の高揚と海運を活用して商工業の振興を図る。

Img_1
1590年豊臣秀吉により攻め落とされ北条五代は幕を閉じた。

20150630111536819

「北条五代の墓所 箱根湯本早雲寺」 後北条氏、早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直の墓。
1590年(天正18年)7月5日、豊臣秀吉の小田原攻めによって小田原北条氏(後北条氏)は降伏し小田原城は落城した。秀吉の側近黒田如水(官兵衛)の説得によるものだったという。

⇇ ⇇ ⇇PleaseClickクリックお願いします~
にほんブログ村

2017年9月26日 (火)

「沼津の観光資産9-3歴史上の人物 北条早雲」

⇇ ⇇ ⇇PleaseClickクリックお願いします~
にほんブログ村

北条早雲 9-3「伊豆討ち入り」戦国期の幕開け

Izuuchiiri00
延徳3年(1491年)4月3日、堀越公方足利政知の死にともなう公方家中の乱れに乗じて、同年10月11日の夜、氏親の兵を借り堀越御所を急襲して、後継者茶々丸を自害させて伊豆一国を手中に収めます。有名な「伊豆討ち入り」です。公方家中の乱れに乗じてとはいえ、伊豆は堀越公方の直轄地であり、代々山内上杉氏の守護領。その奪取はきわめて大胆で、今川氏配下の一客将の挙としては無謀ともいえます。

Cimg9875_2
しかし、この行動の軍事的指揮そのものは早雲の手によったものですが、その背景には大きな政治的了解が潜んでいたようです。山内上杉氏や扇谷上杉氏、太田道灌の存在、また早雲が伊豆を制圧したとき、扇谷上杉氏と山内上杉氏が合戦中で、伊豆の武士はみなその戦いに加わり、伊豆には百姓ばかりという、絶好の機会でもあったのです。

Photo
※伊豆討入ルートについて「北條五代記」の中に、「興国寺から黄瀬川を渡り、三島を経由して韮山に攻め寄せた」というのと、「清水湊で今川氏親から兵500を借り、大船10艘で駿河湾を横断して、西伊豆から上陸して山越えをして韮山を突いた」という2つの説があるが果たしてどちらが正解なのか~

司馬遼太郎の歴史小説「箱根の坂」で早雲の生涯が描かれている。

Photo_2

早雲は伊豆攻略にあたって、その善後策に精力を注ぎました。今川氏、扇谷上杉氏との関係のみならず、自ら湯治客などを装って敵情偵察なども行っています。農民撫育や諸卒の士気高揚に意を尽くし、伊豆の在地武士の領地安堵の条件として、四公六民を言い渡し「願わくば民ゆたかにあれかし」と説いています。その待遇に感激した民百姓が早雲の戦いに積極的に参加する意思を表明してしまうほどでした。早雲は当時の大名に欠けていた、民政に意を用いたのです。また、それは足軽や陣夫の積極的な徴用という面にも表れます。そして、これらのことは、早雲の戦略戦術面に重要な作用をもたらしていたと考えられます。早雲は戦略家、現実的政治家としても只者ではなかったようです。

⇇ ⇇ ⇇PleaseClickクリックお願いします~
にほんブログ村

2017年9月22日 (金)

「沼津の観光資産9-2歴史上の人物 北条早雲」

⇇ ⇇ ⇇PleaseClickクリックお願いします~
にほんブログ村

北条早雲 9-2 「興国寺城」

戦国時代はここから幕を開けたといわれる。沼津市根古屋と青野の境にある、篠山と呼ばれる愛鷹山の尾根を利用した城で、一番高い所で標高36mほど。その規模と大きな堀切、そして大きな土塁は、見所ある城「興国寺城」です。Photo

Houzyou_2_3興国寺城」は戦国時代に関東一円を支配した後北条氏の祖である伊勢新九郎長氏(北条早雲)の「旗揚げの城として名高い城である
(今川氏に身を寄せていた盛時は文明8年(1476年)義忠が急死すると、その後の相続争いに今川氏親を助けた功があり、長享2年(1488年)頃、 富士郡下方12郷を与えられ、興国寺城主となった。北条早雲50半ば過ぎ)交通の要衝に位置した為、今川氏滅亡後も武田・北条の争奪戦が繰り返され、その後は徳川の支配下に入るなど、駿東郡の戦国時代を代表する城である(沼津市誌) 関ヶ原の合戦により家康の天下が確定し、駿河は再び徳川氏の領土となった。翌6年、興国寺城には天野康景が1万石で入城した。天野康景はよほど頑固な人物であったようで、7年後の慶長12年、天領の百姓を斬殺した家臣を引き渡すように家康に命じられたが、こ れを拒否。天野氏は除封となり、同時に興国寺城も廃城となったという。

Img_0181

このように、”今川、北条、武田、徳川”と、めまぐるしく城主が入れ替わった城であった。城は愛鷹山麓の尾根上にあるが、南方はかつての湿地帯、浮島ケ原の東端で人馬の踏み込みが困難な要害地だった。また、城の一部を東西に根方街道が通過する一方、南に竹田道が伸び、根方 街道と東海道を結ぶ交通の要衝でもあった。それだけ重要な城であったということであろう。 

Fukugen
城の構造は、尾根の先端部を利用した連郭式縄張りで、北から北曲輪・本丸・二の丸・三の丸の順に配され、北曲輪と本丸の間には大空堀がある。本丸は標高36m、土塁内側で東西60m、南北50mの規模があり、北側土塁の最高部には約300㎡の平坦地があり、ここが天守台跡と伝えられている。また、本丸南方には石火矢台(石火矢は大砲という意味)があり、三の丸南端にも土塁の跡が残されている。昭和57年には天守台跡の発掘調査が行われ、東西2棟の建物の礎石が 検出された。また、天守台跡の南面には石垣遺構も残されている。また、東船着場跡と伝承される小さな曲輪や東側の小字清水の台地もこの城郭に取り込まれていたと考えられ、清水曲輪と呼称している。

16011613a_1

国指定史跡 興国寺城址整備中

⇇ ⇇ ⇇PleaseClickクリックお願いします~
にほんブログ村

2017年9月19日 (火)

嘗ての沼津の名門企業「昌和クルーザーの昌和製作所」

⇇ ⇇ ⇇PleaseClickクリックお願いします~
にほんブログ村

F0351435_21241730

1951年(昭和26年)あたりからのモーターサイクルの爆発的需要は多くのオートバイメーカーが乱立した時代だ。その中でも沼津市に有った「昌和製作所」は嘗ての名車”昌和クルーザー”のオートバイを製造している名門の会社だった。私も昌和エコーやクルーザーには思いでがいっぱいある。その後はヤマハ発動機の関連会社として、売れに売れたヤマハ”トレールDT1”の製造拠点でもあった。

≪1950年代当時のオートバイメーカー≫

宮田製作所アサヒ号1933年 メグロ目黒製作所バイク製造1937-1964 

富士産業(旧中島飛行機)ラビット1947-1968 陸王1934-1959 

中日本重工業(三菱重工業)1946-1964 トーハツ1950-1964

ホンダドリーム号1949年 丸正自動車ライラック1948-1961 ブリジストン1952-1971

昌和製作所は、1918年(大正7年)に小島和三郎が中国(旧満州)の奉天で創業した貿易商社の昌和洋行が、中国で販売する軽オートバイの製造を目的として1939年(昭和14年)3月に設立した会社である。オートバイの製造に当たっては、設計に目黒製作所の村田延春や鈴木高治等の支援を受け、独ザックス社(Sachs Bikes ,SACHS Fahrzeug- und Motorentechnik GmbH)のエンジンを研究し100ccのオートバイを完成させるものの、まもなく第二次世界大戦が始まりそのオートバイが生産されることはなく、軍需工場として操業する。

第二次世界大戦の終戦に伴い、昌和製作所はいち早く操業を再開する。操業再開後、1946年(昭和21年)5月に最初に生産されたオートバイは2サイクル単気筒100ccエンジンを搭載した「昌和号」であった。昌和号は戦前に開発されたもので、資材不足の中で寄せ集めの部品で作られ、とても「生産」と云えるような状況ではなかったが、それでも1948年(昭和23年)には172台が生産された。

Img_0_m
クルーザーSC551955年)

その後、オートバイ生産・販売の拡大に伴って、山輪研究所が開発したヤマリン・エンジンとオートバイ部品を山田輪盛館から購入し自社で組み立てて販売するようになる。最初に発売したのは、4サイクル単気筒OHC150ccエンジンを搭載する。昌和号SF型で1951年(昭和26年)8月に発売、翌年8月にはSH型と200ccエンジンを搭載するSS型を発売する。これらヤマリン・エンジンを搭載する昌和号は、1953年(昭和28年)3月に開催された名古屋TT(全日本選抜優良軽オートバイ旅行賞パレード)、同年7月に開催された第1回富士登山レースで活躍、富士登山レースでは1位から4位までを独占すると言う快挙を成し遂げる。(但し、レース後の車検でバッテリーを取り外していることが発覚し「実用標準車にあらず」として失格となった。他にもギア比、圧縮比、マフラー等を改造している出場者があったため昌和としては納得できない結果であった。 

その一方で、昌和は優秀な技術者を集めて、ヤマリン・エンジンとは別に自社エンジンの開発を進めた。ヤマリンのOHCエンジンは高性能であるものの、製造技術の問題などからカムシャフトを駆動するチェーンが伸びたり、複雑なエンジンのメンテナンス性に問題があった当時、弁機構はサイドバルブからOHV、そしてOHCへと変革していく過渡期だったが、            昌和はOHCエンジンの問題を回避するために時代に逆行してサイド・バルブエンジンを新たに自社開発、そのエンジンは‘サイドバルブとしては’優れた性能で、「クルーザー」と名付けられた新型車に搭載された。1954年(昭和28年)5月に発売されたクルーザーSC型は、250ccサイドバルブ・エンジンを搭載し80φバックボーン・フレームやアールズ・フロントフォークの採用等の特徴を備えていた。昌和は1955年(昭和30年)11月に開催された第1回浅間高原レースに、このクルーザーSC55をライト級に出場させた他に、ウルトラ・ライト級(125cc)、ジュニア級(350cc)にも出場したが、どのクラスも好成績を残すことはできなかった。1491昌和は、その頃普及し始めた4輪車に対して、モーターサイクルが実用車からいずれスポーツ車として用いられるようになると考え、自社開発したサイドバルブ・エンジンを捨てて、新たに2サイクル・エンジンの開発に乗り出した。1956年(昭和31年)7月に発売した2サイクル、リードバルブ125ccエンジンを搭載したライトクルーザーSLは月産8,000台にもなるほどの人気を得て、2サイクル・エンジン技術に自信を得た昌和は、250cc2サイクル・エンジンを開発し、浅間レースにも積極的に出場した。

⇇ ⇇ ⇇PleaseClickクリックお願いします~
にほんブログ村

2回浅間火山レース(ウルトラ・ライト級)に出場したライトクルーザーSL

ヤマハ、ホンダに続く好成績を収めるとともに、浅間レース専用車をベースとした250cc<の2サイクルエンジンを搭載するクルーザーSCT250cc2サイクル・エンジンを同年12月に発売するが、性能面では平均的でヒットには繋がらなかった。それまで、昌和はどちらかと言うと小型~中型オートバイの開発・生産を得意とするメーカーであったが、後にヤマハの4サイクル・エンジンの技術の源となる大型4サイクル・エンジンの技術を「日本高速機関」を買収する事によって手に入れる。日本高速機関は、「HOSK」ブランドで知られる大型オートバイ生産メーカーで、輸入オートバイの大手販売代理店だった山田輪盛館が、輸入オートバイに肩を並べる大型オートバイを開発・製造するために起こしたメーカーである。日本高速機関は、ヤマリン・エンジンを搭載したオートバイとは全く異なり、英国アリエル車を模範とした大型車を生産する会社だったが、当時は趣向生の強い大型オートバイよりも実用性のある小型オートバイが売れており、経営面ではが思わしくない状況が続き、かつて取引のあった昌和製作所に買収される。 Echooha
しかし、その昌和製作所も経営面では安泰とは云えなかった。開発に力を注いだ昌和は、軽4輪自動車(ミニカ)やセミ・スクーター(マリーン125)等を次々と発表したが、その一方で若い社員が多く開発に力を入れすぎたことによって資金繰りが悪化し、それに加えて日本高速機関を買収したことにより、いよいよ経営が行き詰まってしまったのである。

そこに目をつけたのがヤマハ発であった。ヤマハは、昌和製作所の負債を肩代わりする代償として、昌和製作所の経営陣であった小島一族を事業から撤退することを条件とした。その小島は、昌和製作所の他に日本電算機などの事業があったため、行き詰まったオートバイの開発・生産事業を切り離し売却することでヤマハと合意し、ヤマハは1960年(昭和35年)4月に昌和製作所を買収、昌和製作所はヤマハの傘下に加わった。ヤマハはこの買収によって、かつての昌和製作所と同様に、日本高速機関にルーツを持つ大型4サイクル・エンジンやパイプフレームの技術の一部を手に入れることになる。

B0076232_16281388

ヤマハはその頃、2サイクル650ccエンジンの開発を進めていたが、これに代わって4サイクル650ccエンジンの開発に着手、英国トライアンフ風のバーチカル・ツインエンジンを搭載したヤマハ初の4サイクル・オートバイとなる1969年の第16回東京モーターショーで発表されたたが、この名車のルーツは昌和製作所、さらに遡れば日本高速機関の4サイクル・エンジン技術が基礎にあるともいえる。

昌和製作所は、1960年(昭和35年)にヤマハ傘下に加わった後、(株)昌和製作所としてヤマハブランドの発電機やゴルフカー等を生産していたが、同じくヤマハブランドオートバイの組み立てを行っていた(株)榛葉シボリ製作所と1988年(平成元年)に合併し「創輝(株)」として操業、2006年(平成18年)には「ヤマハモーターパワープロダクツ(株)」に社名を変更している。

⇇ ⇇ ⇇PleaseClickクリックお願いします~
にほんブログ村

2017年9月15日 (金)

「沼津の観光資産  9-1  歴史上の人物 北条早雲」

⇇ ⇇ ⇇PleaseClickクリックお願いします~
にほんブログ村

沼津に関係する歴史上の人物

9-1「北条早雲と興国寺城(沼津市根古屋428)」

Photo
伊勢新九郎盛時(北条早雲)の「旗揚げの城として名高い沼津興国寺城」当時50歳を超えた早雲が興国寺城を足掛かりに戦国時代関東一円を支配した後北条氏五代の祖である。沼津は早雲の伊豆討ち入りから、秀吉の小田原攻めの100年の間、後北条の西の境目にあり、常に駿河の国を領有する「今川氏」「武田氏」「徳川氏」と対峙して争奪の渦中にあり、合戦と和睦が繰り返された所である。

120111201104523戦国時代の先駆け早雲は熟年の年齢から出世したシニア世代には頼もしい男である。その家紋は「三つ鱗」である。三つ鱗は鎌倉執権家北条氏の家紋であった。自ら北条氏の後裔を称し、北条氏にならって三つ鱗を用いたのだろうか。

Gohoujyou02ver

初代早雲(1519年88歳で没)から始まり、以来「五代百年」 代々名君に恵まれ広く善政を敷き、東国一の繁栄と安定を保っていた。早雲が歴史の表舞台に出てきたのは、妹の嫁ぎ先である今川家の家督争いを早雲が解決し、その手柄として沼津市にある「興国寺城」を与えられた事から始まる。その後伊豆韮山・小田原と次々に手に入れ、着実に戦国大名としての道を歩み始めました。1495年伊豆の「北条早雲」が小田原を平定し五代約100年間、民百姓を大事にし、教育文化の高揚と海運を活用して商工業の振興を図る。1590年豊臣秀吉により攻め落とされ開城し北条五代は幕を閉じた。

Photo_2
北条氏に係る沼津の史跡 ①北条早雲旗揚げの城興国寺城 ②北条水軍長浜城址 ③深沢城(御殿場) ④葛山城(裾野) ⑤長久保城(長泉) ⑥泉頭城(清水町)  ⑦徳倉城(清水町) ⑧大平城(沼津市) ⑨獅子浜城(沼津市) ⑩鷲頭砦 ⑪韮山城 

※北条早雲が興国寺城から出陣し、堀越公方の茶々丸を滅ぼした1493年から、三枚橋城で秀吉が家康と作戦会議を行い小田原攻めを成し遂げた1590年までの戦国時代100年。沼津をめぐる北条・今川・武田の三国志は興味を持ちますね~

9‐2へ続く

⇇ ⇇ ⇇PleaseClickクリックお願いします~
にほんブログ村

2018年7月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        

訪問者カウンター

「美味い店」

  • 「焼肉 東海苑」三島
    沼津近郊には美味しい店がいっぱいあります

「美味イタリアン」

  • 「Cafe Olio Motore ~カフェ オーリオ モトーレ~オープン」沼津
    沼津近郊ピッザやパスタが美味しいイタリアンの店

「美味い寿司店」

  • 「海鮮丼専門店 伊助」沼津港
    沼津に来たら美味いお寿司をどうぞ

「素敵なカフェ」

  • 「CAFE LEONカフェレオン」函南
    チョット一息美味しいコーヒーでも如何ですか

「和食」

  • 焼き鳥「山笠」
    蕎麦・うどん・鰻・天麩羅・カツ、和食が美味しい店

沼津近郊の寺

  • 伊豆市「實成寺じつじょうじ」日蓮宗
    沼津近郊の【寺】を紹介しています
フォト

ウェブページ

最近のトラックバック

静岡プログ村

無料ブログはココログ