カテゴリー「「我が街沼津」」の14件の記事

2019年6月19日 (水)

「ららぽーと沼津、工事進む」沼津

⇐Clickクリックノヨロシク!(ランキング参加中)
にほんブログ村

C6a8a02857c2d2821b1464979f37f52d

開業は2019年10月を予定している大型ショッピングセンター

「三井ショッピングパーク ららぽーと沼津」工事はだいぶ進んでいます。

Sdsc_1194

南側エントランスは富士山をイメージした建物。南側には国道1 号、

北側は拡幅整備された都市計画道路「金岡浮島線」にそれぞれ面している。

Sdsc_1196

至近には東名高速道路「愛鷹スマートIC」、新東名高速道路「駿河湾沼津スマートIC」があり

広域アクセスにも優れた立地となっている。路線バスについては、敷地内にバス停も配置。


Sdsc_1204

210店舗が出店予定とか、珈琲やカフェだけでもスターバックスコーヒー,タリーズコーヒー,

サンマルクカフェ,ケニーズハウスカフェ,コメダ珈琲店,マクドナルド、

ホノルル食堂 Da CafE,カルディコーヒーファームと多彩だ。

Sdsc_1198

場所 沼津市東椎路字東荒301番地3他

Map

⇐Clickクリックノヨロシク!(ランキング参加中)
にほんブログ村

 

2019年1月 3日 (木)

「行幸橋」沼津香貫

⇐Clickクリックどうぞ
にほんブログ村

S_2_2
家の近くに歴史的にも貴重な橋がある。国道414号の通称八間道路が出来る前は”御成道”と呼ばれ沼津市内から香貫、島郷に静浦に抜ける唯一の道だった所だ。

Ss_2_4

そこにかかる橋の名は「行幸橋」今でも橋の上を通過する多くの車両を支えている。以前見た時は昭和四年五月竣功の文字が薄っすら見えたが今はもうはっきり見えなくなった!

S_2_3
90年が経とうという立派な橋で 近くの沼津御用邸に天皇が向かう時に通過された橋なんですね。石で出来た欄干も何故か遠い昔を思わせる洒落たアーチ窓だ。

Robo_2
大正13年1月27日両殿下行幸の時は未だ「行幸橋は」なかったんですがきっとこんな行列が橋を通過したんでしょう。

Iaqst0wh_2

「行幸橋」と思われる場所に名前を記してみた(上の地図)

⇐Clickクリックどうぞ
にほんブログ村

2018年12月16日 (日)

「画像で見る昔と今 5我入道」沼津南部

⇐PleaseClickクリックお願いします。
にほんブログ村

「沼津市我入道」日蓮上人が鎌倉から逃げ舟で流れ着いた時”我この道に入る”デ我入道の名前が付いたとか~(画像 狩野川河口左岸に位置する地区が我入道)Hshxisit

江戸時代には我入道村は駿河国駿東郡に属した。江戸時代は山畑は僅かであり、村の主たる産業は漁業であった。明治元年(1868年)には駿府藩領(翌年には静岡藩と改称)、明治4年(1872年)には静岡県に属した。1889年(明治22年)の町村制施行に伴い我入道村は下香貫村・上香貫村・善太夫新田と合併、楊原村の大字となった[1]。1922年(大正12年)には楊原村の沼津町との合併及び市制施行により沼津市の大字となった。かつては軍人・大山巌の別荘があった。また作家・芹沢光治良の生誕地としても知られ、これを記念した芹沢文学館・詩碑が残されている。

Ganyudo_2

「我入道より富士を望む」狩野川河口左岸に位置する我入道の不動岩から、観音川にかかる藤見橋その奥に富士山を見る事が出来る。明治19年東海道線の工事が開始され横浜から船で建築資材を狩野川河口に運び、それを沼津の市街地の工事現場まで運搬するという目的で敷設された蛇松線が最初の工事だった。その後昭和8年沼津港の建設等で周辺の景色は変わった。

Dsc_0979e1484736975990

沼津港外港の建設で沼津港は大きく変わり現在に至っている。

⇐PleaseClickクリックお願いします。
にほんブログ村

2018年12月14日 (金)

「画像で見る昔と今 4香貫・楊原」沼津南部

⇐PleaseClickクリックお願いします。
にほんブログ村

Postcard2_2「楊原村」

狩野川の南に位置する。1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、駿東郡下香貫村、上香貫村、我入道村、善太夫新田が合併して発足。1920年(大正9年)8月 - 若山牧水が転居してきた。1923年(大正12年)7月1日 - 駿東郡沼津町と合併し市制を施行、沼津市となった。

「香貫山から狩野川河口~大瀬崎を望む」Photo_3
「昭和20年代の香貫地区」大瀬崎や狩野川河口の位置から見ると香貫山から撮った画像の様です。下香貫地区は一面田んぼですね。

Maxresdefault
香貫山の南麓地区の地名の由来も知っておきましょう!

「玉江町」この地の小字名を江間田と称していましたが、昭和初年に玉江町と呼ばれるようになりました。これは江間田を逆に呼んでしゃれた地名にしたかったためと言われています。

「宮原町」楊原神社の近くの平担な土地ということで、称されるようになったと言われています。

「二瀬川」二つの瀬がある川ということで、この地で川が二又に分かれていたところから付けられた地名と言われています。

「宮脇」楊原神社の脇にある土地ということから付けられた地名です。

「八重」香貫山と徳倉山の尾根が接する山あいの地域で、山が幾重にも重なっているところから付けられた

「馬場」この土地が楊原神社の社地で、神馬や流鏑馬(やぶさめ)などの馬場であったところから付けられた

「楊原」楊原神社にあやかって付けられた地名です。神社の南東の八重原(やえはら)の地域が楊原神社にゆかりの土地であるということから、昭和の初めごろは楊原と呼ばれました。一説には八重原は楊原のなまった呼び方と言われています。(沼津市HP)

⇐PleaseClickクリックお願いします。
にほんブログ村

2018年12月11日 (火)

「画像で見る昔と今3」沼津南部

⇐PleaseClickクリックお願いします。
にほんブログ村

「3大瀬崎」

古くから引手力命神社が祀られてはいたものの大瀬崎一帯は長らく無住地で、周辺住民も漁業や温州みかんの栽培、薪炭生産などで生計を立てていた。伝承では、鎌倉時代末期頃、北条高時に味方して護良親王と戦った鈴木繁伴が鎌倉幕府が倒れた際にこの地に潜伏したとされ、以降この地一帯を支配する江梨鈴木氏として続いた。

Osezaki_2

「伊豆国となっている古い画像の大瀬崎↑」小さな帆を張った小舟が漁をしているのでしょうか~戦後1982年頃からは急速にダイバー数が増加、日本を代表するダイビングスポットとなった。Osezaki_main_2

「大瀬崎 現在↑」 富士山の絶景スポットであり、心霊スポット神池を取り囲むビャクシン樹林でも有名ある。

古き時代との対比は故郷沼津を考え直す機会にもなります!

⇐PleaseClickクリックお願いします。
にほんブログ村

2018年12月 7日 (金)

「画像で見る昔と今 2島郷~牛臥海岸」沼津南部

⇐PleaseClickクリックお願いします。
にほんブログ村Sdsc_0018
国道414号沿い「沼津御用邸記念公園」に隣接する海岸が「島郷海岸」その西に「牛臥海岸」があります。その昔、牛臥山は島であり、山裾には海水が入りこんでいて、内側一帯は入り江であったと言われています。

Sdsc_4321
そして、島の入り江に面した土地ということで安永年間(1772年~1780年)までは島江と称されていました。その後、次第に土地が干拓され入江が無くなったので江を郷に代え島郷となりました。また江戸時代末期になると、桃の栽培が行われ出し、一時期、島を桃に変えて桃郷としていました(沼津市HP)

「2島郷~牛臥海岸↓時代不詳」

U5wfbr9d

「島郷の海岸」は未だ小石がある広い浜辺があった様だ。小学校の生徒と思われる子供達が楽しそうに草履を脱いで水遊びをしている。牛臥方面も浜辺がしっかりあり松林も立派だ。牛臥山の下には嘗ての三島館の建物が軒を連ねている。

Sdsc_0036

「島郷~牛臥海岸↑ 現在」浸食がすすんだ島郷海岸は突堤が出来たり昔とは様変わりしている。昔は遠浅で砂浜で賑やかだった海水浴も今はこじんまり家族ずれが利用している。牛臥海岸は遊泳禁止となっている。

⇐PleaseClickクリックお願いします。
にほんブログ村

2018年12月 6日 (木)

「画像で見る昔と今 1内浦長沢海岸」沼津南部

⇐PleaseClickクリックお願いします。
にほんブログ村

昔の写真と現在の写真を同じ場所で比べてみると色々な事を思い考えたりして楽しい。

「1長沢海岸 年代不詳」↓

Pdjy0rjf

まさに北条水軍の長浜城址の真下の長沢。中央には魚見の櫓が立っていて鳥山の魚や潮の流れなども監視していたという。生け簀の鰯を餌にしたカツオ漁が盛んだったともいう。

Hmrfni6g

「1長沢海岸 現在⇑」遠くの淡島や富士山の位置から現在はマリーナとなっているこの場所が同じ所のようだ。

⇐PleaseClickクリックお願いします。
にほんブログ村

2018年6月17日 (日)

「島郷の桃は健在」沼津

⇐PleaseClickクリックお願いします。
にほんブログ村

Sdsc_5878

嘗て桃の栽培がおこなわれ”桃郷”と言われたほど桃の栽培が盛んだった「沼津市島郷」今も僅かながら栽培は続いているんです。小学生の頃、この辺りは一面桃の花が咲き島郷の桃畑はとても綺麗でした。

Sdsc_5876
この少し小さくて身が赤い島郷の桃をよく食べたものです。1ケースを珈舎さんで譲っもらい冷蔵庫で冷やしています。

Scimg0130
4月には島郷の桃の花も綺麗に咲きます。今は桃の木を捜すのに苦労します。槙の木の垣根に囲まれた桃畑が2~3か所あるだけです。それだけ島郷の桃は懐かしくもあり貴重なものになりました。

Sdsc_5877
場所 沼津市下香貫島郷

⇐PleaseClickクリックお願いします。
にほんブログ村

2017年9月19日 (火)

嘗ての沼津の名門企業「昌和クルーザーの昌和製作所」

⇇ ⇇ ⇇PleaseClickクリックお願いします~
にほんブログ村

F0351435_21241730

1951年(昭和26年)あたりからのモーターサイクルの爆発的需要は多くのオートバイメーカーが乱立した時代だ。その中でも沼津市に有った「昌和製作所」は嘗ての名車”昌和クルーザー”のオートバイを製造している名門の会社だった。私も昌和エコーやクルーザーには思いでがいっぱいある。その後はヤマハ発動機の関連会社として、売れに売れたヤマハ”トレールDT1”の製造拠点でもあった。

≪1950年代当時のオートバイメーカー≫

宮田製作所アサヒ号1933年 メグロ目黒製作所バイク製造1937-1964 

富士産業(旧中島飛行機)ラビット1947-1968 陸王1934-1959 

中日本重工業(三菱重工業)1946-1964 トーハツ1950-1964

ホンダドリーム号1949年 丸正自動車ライラック1948-1961 ブリジストン1952-1971

昌和製作所は、1918年(大正7年)に小島和三郎が中国(旧満州)の奉天で創業した貿易商社の昌和洋行が、中国で販売する軽オートバイの製造を目的として1939年(昭和14年)3月に設立した会社である。オートバイの製造に当たっては、設計に目黒製作所の村田延春や鈴木高治等の支援を受け、独ザックス社(Sachs Bikes ,SACHS Fahrzeug- und Motorentechnik GmbH)のエンジンを研究し100ccのオートバイを完成させるものの、まもなく第二次世界大戦が始まりそのオートバイが生産されることはなく、軍需工場として操業する。

第二次世界大戦の終戦に伴い、昌和製作所はいち早く操業を再開する。操業再開後、1946年(昭和21年)5月に最初に生産されたオートバイは2サイクル単気筒100ccエンジンを搭載した「昌和号」であった。昌和号は戦前に開発されたもので、資材不足の中で寄せ集めの部品で作られ、とても「生産」と云えるような状況ではなかったが、それでも1948年(昭和23年)には172台が生産された。

Img_0_m
クルーザーSC551955年)

その後、オートバイ生産・販売の拡大に伴って、山輪研究所が開発したヤマリン・エンジンとオートバイ部品を山田輪盛館から購入し自社で組み立てて販売するようになる。最初に発売したのは、4サイクル単気筒OHC150ccエンジンを搭載する。昌和号SF型で1951年(昭和26年)8月に発売、翌年8月にはSH型と200ccエンジンを搭載するSS型を発売する。これらヤマリン・エンジンを搭載する昌和号は、1953年(昭和28年)3月に開催された名古屋TT(全日本選抜優良軽オートバイ旅行賞パレード)、同年7月に開催された第1回富士登山レースで活躍、富士登山レースでは1位から4位までを独占すると言う快挙を成し遂げる。(但し、レース後の車検でバッテリーを取り外していることが発覚し「実用標準車にあらず」として失格となった。他にもギア比、圧縮比、マフラー等を改造している出場者があったため昌和としては納得できない結果であった。 

その一方で、昌和は優秀な技術者を集めて、ヤマリン・エンジンとは別に自社エンジンの開発を進めた。ヤマリンのOHCエンジンは高性能であるものの、製造技術の問題などからカムシャフトを駆動するチェーンが伸びたり、複雑なエンジンのメンテナンス性に問題があった当時、弁機構はサイドバルブからOHV、そしてOHCへと変革していく過渡期だったが、            昌和はOHCエンジンの問題を回避するために時代に逆行してサイド・バルブエンジンを新たに自社開発、そのエンジンは‘サイドバルブとしては’優れた性能で、「クルーザー」と名付けられた新型車に搭載された。1954年(昭和28年)5月に発売されたクルーザーSC型は、250ccサイドバルブ・エンジンを搭載し80φバックボーン・フレームやアールズ・フロントフォークの採用等の特徴を備えていた。昌和は1955年(昭和30年)11月に開催された第1回浅間高原レースに、このクルーザーSC55をライト級に出場させた他に、ウルトラ・ライト級(125cc)、ジュニア級(350cc)にも出場したが、どのクラスも好成績を残すことはできなかった。1491昌和は、その頃普及し始めた4輪車に対して、モーターサイクルが実用車からいずれスポーツ車として用いられるようになると考え、自社開発したサイドバルブ・エンジンを捨てて、新たに2サイクル・エンジンの開発に乗り出した。1956年(昭和31年)7月に発売した2サイクル、リードバルブ125ccエンジンを搭載したライトクルーザーSLは月産8,000台にもなるほどの人気を得て、2サイクル・エンジン技術に自信を得た昌和は、250cc2サイクル・エンジンを開発し、浅間レースにも積極的に出場した。

⇇ ⇇ ⇇PleaseClickクリックお願いします~
にほんブログ村

2回浅間火山レース(ウルトラ・ライト級)に出場したライトクルーザーSL

ヤマハ、ホンダに続く好成績を収めるとともに、浅間レース専用車をベースとした250cc<の2サイクルエンジンを搭載するクルーザーSCT250cc2サイクル・エンジンを同年12月に発売するが、性能面では平均的でヒットには繋がらなかった。それまで、昌和はどちらかと言うと小型~中型オートバイの開発・生産を得意とするメーカーであったが、後にヤマハの4サイクル・エンジンの技術の源となる大型4サイクル・エンジンの技術を「日本高速機関」を買収する事によって手に入れる。日本高速機関は、「HOSK」ブランドで知られる大型オートバイ生産メーカーで、輸入オートバイの大手販売代理店だった山田輪盛館が、輸入オートバイに肩を並べる大型オートバイを開発・製造するために起こしたメーカーである。日本高速機関は、ヤマリン・エンジンを搭載したオートバイとは全く異なり、英国アリエル車を模範とした大型車を生産する会社だったが、当時は趣向生の強い大型オートバイよりも実用性のある小型オートバイが売れており、経営面ではが思わしくない状況が続き、かつて取引のあった昌和製作所に買収される。 Echooha
しかし、その昌和製作所も経営面では安泰とは云えなかった。開発に力を注いだ昌和は、軽4輪自動車(ミニカ)やセミ・スクーター(マリーン125)等を次々と発表したが、その一方で若い社員が多く開発に力を入れすぎたことによって資金繰りが悪化し、それに加えて日本高速機関を買収したことにより、いよいよ経営が行き詰まってしまったのである。

そこに目をつけたのがヤマハ発であった。ヤマハは、昌和製作所の負債を肩代わりする代償として、昌和製作所の経営陣であった小島一族を事業から撤退することを条件とした。その小島は、昌和製作所の他に日本電算機などの事業があったため、行き詰まったオートバイの開発・生産事業を切り離し売却することでヤマハと合意し、ヤマハは1960年(昭和35年)4月に昌和製作所を買収、昌和製作所はヤマハの傘下に加わった。ヤマハはこの買収によって、かつての昌和製作所と同様に、日本高速機関にルーツを持つ大型4サイクル・エンジンやパイプフレームの技術の一部を手に入れることになる。

B0076232_16281388

ヤマハはその頃、2サイクル650ccエンジンの開発を進めていたが、これに代わって4サイクル650ccエンジンの開発に着手、英国トライアンフ風のバーチカル・ツインエンジンを搭載したヤマハ初の4サイクル・オートバイとなる1969年の第16回東京モーターショーで発表されたたが、この名車のルーツは昌和製作所、さらに遡れば日本高速機関の4サイクル・エンジン技術が基礎にあるともいえる。

昌和製作所は、1960年(昭和35年)にヤマハ傘下に加わった後、(株)昌和製作所としてヤマハブランドの発電機やゴルフカー等を生産していたが、同じくヤマハブランドオートバイの組み立てを行っていた(株)榛葉シボリ製作所と1988年(平成元年)に合併し「創輝(株)」として操業、2006年(平成18年)には「ヤマハモーターパワープロダクツ(株)」に社名を変更している。

⇇ ⇇ ⇇PleaseClickクリックお願いします~
にほんブログ村

2017年9月15日 (金)

「沼津の観光資産  9-1  歴史上の人物 北条早雲」

⇇ ⇇ ⇇PleaseClickクリックお願いします~
にほんブログ村

沼津に関係する歴史上の人物

9-1「北条早雲と興国寺城(沼津市根古屋428)」

Photo
伊勢新九郎盛時(北条早雲)の「旗揚げの城として名高い沼津興国寺城」当時50歳を超えた早雲が興国寺城を足掛かりに戦国時代関東一円を支配した後北条氏五代の祖である。沼津は早雲の伊豆討ち入りから、秀吉の小田原攻めの100年の間、後北条の西の境目にあり、常に駿河の国を領有する「今川氏」「武田氏」「徳川氏」と対峙して争奪の渦中にあり、合戦と和睦が繰り返された所である。

120111201104523戦国時代の先駆け早雲は熟年の年齢から出世したシニア世代には頼もしい男である。その家紋は「三つ鱗」である。三つ鱗は鎌倉執権家北条氏の家紋であった。自ら北条氏の後裔を称し、北条氏にならって三つ鱗を用いたのだろうか。

Gohoujyou02ver

初代早雲(1519年88歳で没)から始まり、以来「五代百年」 代々名君に恵まれ広く善政を敷き、東国一の繁栄と安定を保っていた。早雲が歴史の表舞台に出てきたのは、妹の嫁ぎ先である今川家の家督争いを早雲が解決し、その手柄として沼津市にある「興国寺城」を与えられた事から始まる。その後伊豆韮山・小田原と次々に手に入れ、着実に戦国大名としての道を歩み始めました。1495年伊豆の「北条早雲」が小田原を平定し五代約100年間、民百姓を大事にし、教育文化の高揚と海運を活用して商工業の振興を図る。1590年豊臣秀吉により攻め落とされ開城し北条五代は幕を閉じた。

Photo_2
北条氏に係る沼津の史跡 ①北条早雲旗揚げの城興国寺城 ②北条水軍長浜城址 ③深沢城(御殿場) ④葛山城(裾野) ⑤長久保城(長泉) ⑥泉頭城(清水町)  ⑦徳倉城(清水町) ⑧大平城(沼津市) ⑨獅子浜城(沼津市) ⑩鷲頭砦 ⑪韮山城 

※北条早雲が興国寺城から出陣し、堀越公方の茶々丸を滅ぼした1493年から、三枚橋城で秀吉が家康と作戦会議を行い小田原攻めを成し遂げた1590年までの戦国時代100年。沼津をめぐる北条・今川・武田の三国志は興味を持ちますね~

9‐2へ続く

⇇ ⇇ ⇇PleaseClickクリックお願いします~
にほんブログ村

2019年7月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      

訪問者カウンター

「美味い店」

  • 「ロールケーキ#バトン」沼津
    沼津近郊には美味しい店がいっぱいあります

「美味イタリアン」

  • S20190406_152648
    沼津近郊ピッザやパスタが美味しいイタリアンの店

「美味い寿司店」

  • 「海鮮丼専門店 伊助」沼津港
    沼津に来たら美味いお寿司をどうぞ

最近のトラックバック

フォト

静岡プログ村

ウェブページ

無料ブログはココログ