カテゴリー「「我が街沼津」」の22件の記事

2017年11月29日 (水)

「ららぽーと沼津」2019年秋開業

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先日発表された「ららぽーと沼津」2019年秋開業は久々の嬉しいニュースです。これに加え原・浮島地区の道の駅設置構想に合わせて、2万人収容の複合型スタジアムやJR東海道線新駅整備などを盛り込んだ「原・浮島地区まちづくり構想」が実現出来たら益々楽しみですね!

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三井不動産は、静岡県沼津市に広域型ショッピングセンター「(仮称)三井ショッピングパークららぽーと沼津」を2019年秋に開業する。09年開業のららぽーと磐田(静岡県)、18年秋開業予定の(仮称)ららぽーと名古屋港明(愛知県)に続く東海地区3番目のららぽーとになる。

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開発地は南側が国道1号線、北側が金岡浮島線と接し、東名高速道路と新東名高速道路のスマートインターチェンジにも近く、広域からの集客が見込める好立地になる。

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営業面積や店舗数は発表されていないが、ファッション、雑貨、飲食、エンターテインメント施設などを誘致し、30~40代のファミリー層からヤング、シニアまで幅広い客が楽しめるようにする。敷地内は3カ所、計約5000平方メートルの緑地を整備し、地域と連携したイベントなどを開く。出店店舗数は200店舗を想定しているそうです。

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2017年3月31日(金)に都市計画変更が実施されて(上の周辺地図の青い点線部分)この一帯の約30ヘクタールが市街化編入されて商業施設新設が可能になりました。

沼津市の中心市街地から近くて国道1号線(沼津バイパス)沿いと大変便利な立地です。敷地面積:約121,300平方メートル(約36,600坪)延床面積:約172,000平方メートル(約52,000坪)※立体駐車場棟含むかなりの広さです。設計・施工:株式会社大林組 

所在地:静岡県沼津市東椎路字川向44番1他

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2017年10月11日 (水)

「沼津の観光資産 10歴史上の人物 江川太郎左衛門(江川英龍ひでたつ)」

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もう一つの黒船ゆかりの沼津市「戸田」と韮山名代官「江川太郎左衛門英龍」

Tannan1854年11月4日、下田湊(下田港)に停泊していたロシアのプチャーチン率いるディアナ号を大地震が襲う。下田周辺でのディアナ号修復作業はクリミア戦争でロシアと敵対関係にあった英仏などの艦船の目につきやすく、幕府外交上も不都合だので、幕閣川路聖謨と韮山代官江川太郎左衛門はディアナ号関係者と急遽合議し、外国艦船に見つかりにくく艦の修理にも適した戸田湾への回航を図ったのだった。その甲斐空しく、下田から修理地の戸田に向かう途中、折からの冬の嵐に翻弄され、戸田の北西方向8kmの駿河湾奥でディアナ号は完全に沈没してしまう(船長約60メートル、船幅約14メートル、二千トン)。当時としては、最大級の木造船、大破したディアナ号の代替船を作る技術は、当時の日本にはなかった。悲嘆にくれるロシア人たち。ただロシア船員の中には、飛行機の設計でも知られるモジャイスキーという優秀な技術将校が含まれていたので、その指導のもと立ち上がったのが下田警備を任されていた、韮山名代官「江川太郎左衛門英龍」だった。Photo_2修理地の、君沢郡戸田町(現;静岡県沼津市戸田)に造船世話役として集められたのは、「上田 寅吉」、緒明 嘉吉、鈴木七助、石原藤蔵、堤 藤吉、佐山 太郎兵衛、渡邊 金右衛門ら7名の西伊豆の船大工たち。人夫を合わせると日本人だけで約300名、それにロシア人500名を加えた実に800名もの人間がこの一大事業に参画することになった。Photo_7苦心の末、安政2年(1855年)、粋を集結した、スクナー船竣工。この戸田から誕生した日本近代様式造船の第一号は、造船地から「ヘダ号」と名づけられ、プチャーチンと47名のロシア水兵たちを故郷へと送っていったのだった。わずか3ヶ月間の戸田号建造の経験を通してスクーナー型帆船の製作技術を習得した船匠らは、ロシア人が帰国したあとも6隻の同型帆船を次々に完成させ幕府に納入した。また、それら船匠やその弟子たちは、江戸、横須賀、浦賀、長崎、大阪、神戸など国内各地の造船所に散り、今日に至る日本の造船業界発展の礎を築いていった。Photo_6翌安政3年(1856年)、ロシア軍艦・オリヴィッツ号、下田に入港。そこには、あの「ヘダ号」の姿があったーー。日本側の温かい対応に感謝を示したロシア政府が、五十二門の大砲を添えて「ヘダ号」を曳航・返還してきたのだった。Photo「長崎海軍伝習所」幕末、幕臣や雄藩藩士などから人員を選抜、オランダ語や航海術などを学ばせるために作られたこの学校の第1期生・37名の中に勝 海舟、中島 三郎助などと並び、ある男の姿があった。西伊豆の7人の船大工の1人「上田 寅吉」である。若く有能だった彼は、その知識を幕府に買われ、幕臣たちとともに様々なことを学び、文久2年(1862年)同校の二期生だった榎本 武揚らとともにオランダへ留学。その後、オランダで3年学んだ彼は、ともに留学した榎本 武揚とともに、旧幕府艦隊として、戊辰戦争にも参加することになる。、「ヘダ号」造船の知識を活かし、造船所(石川島)で働き、それぞれが日本の造船工業の近代化に尽力した。Img_history_1853現在の豊洲・有明・東雲などの街が、埋め立てにより作られた。それらの街は、後に工業地となり、石川島播磨重工業(IHI)などが本社を構えることになる。この石川島播磨重工業こそ、あの西伊豆の船大工たちが、日本造船の近代化のために力を尽くし、水戸藩が整備した石川島造船所(1853年設立)の後継会社である。(Beautifulコアラの温故知新ブログ、IHI等より抜粋)歴史って興味津々ですね~

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江川太郎左衛門(江川英龍)と塾生「大山巌」 

Iwao_oyama_江川英龍」は国外に唯一門戸を開き、西洋文明に直に接した長崎の「高橋秋帆」から洋式の砲術を始め、兵制や蘭学を学んだ。これが江戸防衛の建白書の提案に繋がっている。この学問なり技術は「佐久間象山」「桂小五郎」「大山巌」に。のちに「佐久間象山」が我が国が誇る開明的な蘭学者として兵学や砲術、地勢学に精通した第一人者になる。江戸に出て「吉田松陰」や「橋本佐内」、「勝海舟」などの人材を育てた。「一橋慶喜」に招かれて海防問題に関する顧問を勤めた。

大山巌江川塾生・西郷隆盛の従兄弟・陸軍大臣・元帥沼津牛臥に別荘を持っていた事は若い方はご存じないだろう。牛臥山に抱かれた別荘は前面が駿河湾の特別な場所に有った。母や祖母から大山元帥の話は幼い頃よく聞いた記憶が有る。今は牛臥山公園となり市民の憩いの場となっている。

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2017年10月 7日 (土)

沼津御用邸記念公園「東付属邸」

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東付属邸は明治36年(1903年)昭和天皇の御学問所として赤坂離宮の東宮官舎を移築して造られました。隣地の学習院遊泳場とともにご利用の機会も多かったといわれます。

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面積は550㎡と広くはありませんが、当時の御殿建築の姿をよくとどめています。今年も、秋恒例の「栗名月の宴」が、ここ東附属邸で開催。宝生流・辰巳満次郎さん(能楽師)による月下の仕舞が披露されました。

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沼津御用邸は、明治26年(1893年)大正天皇(当時は皇太子)の御静養先として本邸が建設されました。その後、御学問所として東附属邸が建設され、次にご幼少であった昭和天皇のお住まいとして、西附属邸が順次整備され大正11年(1922年)に御玉突所が増築され完成をみました。昭和20年(1946年)7月の沼津大空襲により、本邸は焼失しましたが東西附属邸は焼失を免れ、昭和44年(1969年)まで御用邸として使用されていました。

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昭和45年から沼津市の管理となり、沼津御用邸記念公園として整備され、今日に至っています。平成28年(2016年)10月には、沼津御用邸記念公園の一部の景観が「旧沼津御用邸苑地」として国名勝指定を受けました。

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御用邸の石垣沿いの松林を歩くと波の音がだんだん近く聞こえてきます。御用邸の西側は駿河湾島郷の海岸です。今でも学習院の遊泳場がある場所です。

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海岸は散歩にジョキングに多くの人が汗を流してランニング中です。ここは砂浜で遠浅な海水浴場で幼き昔はよく泳ぎに来たものです。

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2017年10月 6日 (金)

沼津の観光資産「11韮山反射炉の資材は香貫から 築150年以上の家&内浦旧三津坂隧道」

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「 ①韮山反射炉の資材は香貫から」江川英龍が海防の必要性と江戸湾防備の具体策──台場を構築し異国船に備える等──を幕府に建言し、嘉永6年のペリー艦隊の来航等を受けて聞き入れられる。E02863a35c5139d995d8bd4c876bafce台場に設置する大砲は、従来のものより長射程で堅牢、かつ低コストの条件を満たすためには、鉄製で口径長大な砲の製作が必要であるが、それを想定していた英龍は『ライク~鋳造法』を石井修三と矢田部卿運に「和蘭国製鉄炉法」として翻訳させる等しており、幕府の許可が下りてすぐに、反射炉建造に着手。安政元年(1854に着工、3年後英敏の代に完成した、銑鉄(せんてつ。鉄鉱石から還元した鉄で不純物が多い)を溶かして良質な鉄を得るための洋式の金属溶解炉。はじめ建設場所を伊豆賀茂郡本郷村(現在の下田高馬付近)とした。0c622a64c988149a85e01072d96f1506

嘉永6年(1853)12月に本郷村で建設準備。安政元年(1854)3月27日、伊豆本郷村の工事中の反射炉に、近くにある下田港に入港していたペリー艦隊の水兵が侵入する事件が起きたため、建設地を急遽、韮山代官所に近い田方郡韮山中村村に変更することとなった。
5月29日本郷村から資材を運び出し、「沼津香貫村」に荷揚げ。(カヌキ山麓の絵図、霊山寺や牛臥山や狩野川河口付近に船が描かれている) 6月に現在の場所、田方郡中村で着工。翌月1日から土台、閏7月18日に耐火煉瓦を積み始め22日板鉄鋳造。安政2年(1855)1月16日に英龍が江戸屋敷で病没。子の英敏が意志を継いで工事は続行される。

「②築150年以上の古民家」こんな立派なお宅が沼津に残っているんです!

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Yさんのお宅に伺いご主人にお話を伺った所、この建物は【安政の地震直後に建てたもの】だそうです。屋根は瓦のように見えますが実はトタンで 瓦に似せて一つずつ作ってあります。本来茅葺きの屋根ですが葺き替え等大変なのでトタンで作った瓦もどきを被せてあるそうです。小石を屋根に投げカランという音まで聞かせてくれました。遠くから見れば本物の瓦にしか見えませんね。釘などは一切使っていないそうですし、家の中の柱の太いこと、光沢のある廊下や梁さすが「150年以上」たっても丈夫そうな木材でしっかりしています~しばし見とれていました~

「③旧三津坂隧道

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明治時代に作られた石巻きトンネルとしてよく知られている天城峠の「旧天城隧道」の竣工は、明治37年。しかし、実はそれよりも古い石巻きトンネルが「旧三津坂トンネル」明治30年竣工、延長170mである。「天城トンネル」は伊豆の踊子が歩いた道として注目され、文化遺産として脚光を浴ている。それと正反対に、旧三津坂隧道は現在の新トンネルができてから顧みられることがなくなっている(画像は10年前のもの今はどうなっているのか~)

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井上靖の「しろばんば」にも登場します。「しろばんば」の主人公は洪作少年。三津に住んでいた叔母をしばしば訪ねていった。その際、長岡と三津の境の山を貫く旧三津坂隧道をくぐって三津に行った。トンネルを抜けて三津に下る時、そこから見える三津の街並みと青い空は日本で一番美しい風景だと記している。(雪国や伊豆の踊子の下りと似ている)

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昭和31年発行の付近の地図には「長瀬トンネル」となっているが・・・。
「これだけ古く価値のあるトンネル観光資産として使えるはずですね~近くには「長塚の切通し」や「嘗ての塩久津港あと」「砕石跡」「洞窟」等ジオパークなどの資産になる場所もいっぱいあります。また沼津の414号海岸線には嘗てのトンネルが多く残っている。「江の浦隧道」「旧多比隧道」等、内浦観光の切り口になるのでは~

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昨今「ラブライブサンシャイン」で脚光の内浦ですが、少し頭をひねると「映画寅さんの聖地」だったり「井上靖しろばんばの道」「北条水軍の長浜城」「ジオパーク」「うずわ味噌」「内浦のビワ」など内浦観光に繋がるものだけでもたくさんあります~町おこしにつながればいいですね~

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2017年10月 3日 (火)

「沼津の観光資産9-4 歴史上の人物 北条早雲」

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北条早雲 9-4 「小田原城略取

堀越公方(ほりごえくぼう)は、本来は鎌倉公方となるべく関東に下されたもので、室町幕府の出先機関として位置づけられていた。しかも、それを破ったのが駿河守護今川氏親の一武将にしかすぎない北條早雲だった。地位が下の者が上の者にとって代わる下剋上(げこくじょう)そのものだったのである。戦国時代のキーワードとして下剋上と弱肉強食ということがいわれており、早雲の伊豆討入は、そうした意味で、戦国時代の到来を告げるできごとだった。

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伊豆平定にある程度成功した早雲は、西相模・小田原城へと目を向けます。当時の小田原城主は山内上杉顕定の重臣大森氏頼であり、山内上杉氏との闘争に明け暮れる扇谷上杉氏に対しても、有力な加勢として参陣の実績を重ね、大森氏を討っても扇谷への反逆にならない立場を固め準備を進めました。しかし、小田原城主・大森氏頼も手強くうまく行かずに いました。そして氏頼が死んだところであとを継いだ藤頼に接近し、手紙のやりとりや珍しい品物を贈ったりして藤頼を油断させます。

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そして、早雲は藤頼に「伊豆で鹿狩りをしていたら箱根山に逃げてしまった。伊豆に鹿を追い返すために勢子を入れさせて欲しい」と頼みます。何の疑いも持たない藤頼は「御自由に」と返事をしてしまいます。そうして、勢子に化けた 早雲の一隊は明応4年(1495年)9月、小田原城・大森藤頼に夜襲をかけ、城と城付の領地を奪い取ってしまいました。早雲は敵味方双方に あまり多くの犠牲を出さずに比較的容易に小田原城乗っ取りを成功させます。このとき早雲は六十四歳だった。韮山城で没したのは八十八歳であった。Ryoudo_0001
※後北条(北条五代 早雲・氏綱・氏康・氏政・氏直)

初代早雲から始まり、以来五代百年 代々名君に恵まれ広く善政を敷き、東国一の繁栄と安定を保っていた。早雲が歴史の表舞台に出てきたのは、妹の嫁ぎ先である今川家の家督争いを早雲が解決し、その手柄として沼津市にある興国寺城を与えられた事から始まる。
その後伊豆・小田原と次々に手に入れ、着実に戦国大名としての道を歩み始め1495年伊豆の北条早雲が小田原を平定し五代約100年間、民百姓を大事にし、教育文化の高揚と海運を活用して商工業の振興を図る。

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1590年豊臣秀吉により攻め落とされ北条五代は幕を閉じた。

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「北条五代の墓所 箱根湯本早雲寺」 後北条氏、早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直の墓。
1590年(天正18年)7月5日、豊臣秀吉の小田原攻めによって小田原北条氏(後北条氏)は降伏し小田原城は落城した。秀吉の側近黒田如水(官兵衛)の説得によるものだったという。

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2017年9月26日 (火)

「沼津の観光資産9-3歴史上の人物 北条早雲」

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北条早雲 9-3「伊豆討ち入り」戦国期の幕開け

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延徳3年(1491年)4月3日、堀越公方足利政知の死にともなう公方家中の乱れに乗じて、同年10月11日の夜、氏親の兵を借り堀越御所を急襲して、後継者茶々丸を自害させて伊豆一国を手中に収めます。有名な「伊豆討ち入り」です。公方家中の乱れに乗じてとはいえ、伊豆は堀越公方の直轄地であり、代々山内上杉氏の守護領。その奪取はきわめて大胆で、今川氏配下の一客将の挙としては無謀ともいえます。

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しかし、この行動の軍事的指揮そのものは早雲の手によったものですが、その背景には大きな政治的了解が潜んでいたようです。山内上杉氏や扇谷上杉氏、太田道灌の存在、また早雲が伊豆を制圧したとき、扇谷上杉氏と山内上杉氏が合戦中で、伊豆の武士はみなその戦いに加わり、伊豆には百姓ばかりという、絶好の機会でもあったのです。

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※伊豆討入ルートについて「北條五代記」の中に、「興国寺から黄瀬川を渡り、三島を経由して韮山に攻め寄せた」というのと、「清水湊で今川氏親から兵500を借り、大船10艘で駿河湾を横断して、西伊豆から上陸して山越えをして韮山を突いた」という2つの説があるが果たしてどちらが正解なのか~

司馬遼太郎の歴史小説「箱根の坂」で早雲の生涯が描かれている。

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早雲は伊豆攻略にあたって、その善後策に精力を注ぎました。今川氏、扇谷上杉氏との関係のみならず、自ら湯治客などを装って敵情偵察なども行っています。農民撫育や諸卒の士気高揚に意を尽くし、伊豆の在地武士の領地安堵の条件として、四公六民を言い渡し「願わくば民ゆたかにあれかし」と説いています。その待遇に感激した民百姓が早雲の戦いに積極的に参加する意思を表明してしまうほどでした。早雲は当時の大名に欠けていた、民政に意を用いたのです。また、それは足軽や陣夫の積極的な徴用という面にも表れます。そして、これらのことは、早雲の戦略戦術面に重要な作用をもたらしていたと考えられます。早雲は戦略家、現実的政治家としても只者ではなかったようです。

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2017年9月22日 (金)

「沼津の観光資産9-2歴史上の人物 北条早雲」

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北条早雲 9-2 「興国寺城」

戦国時代はここから幕を開けたといわれる。沼津市根古屋と青野の境にある、篠山と呼ばれる愛鷹山の尾根を利用した城で、一番高い所で標高36mほど。その規模と大きな堀切、そして大きな土塁は、見所ある城「興国寺城」です。Photo

Houzyou_2_3興国寺城」は戦国時代に関東一円を支配した後北条氏の祖である伊勢新九郎長氏(北条早雲)の「旗揚げの城として名高い城である
(今川氏に身を寄せていた盛時は文明8年(1476年)義忠が急死すると、その後の相続争いに今川氏親を助けた功があり、長享2年(1488年)頃、 富士郡下方12郷を与えられ、興国寺城主となった。北条早雲50半ば過ぎ)交通の要衝に位置した為、今川氏滅亡後も武田・北条の争奪戦が繰り返され、その後は徳川の支配下に入るなど、駿東郡の戦国時代を代表する城である(沼津市誌) 関ヶ原の合戦により家康の天下が確定し、駿河は再び徳川氏の領土となった。翌6年、興国寺城には天野康景が1万石で入城した。天野康景はよほど頑固な人物であったようで、7年後の慶長12年、天領の百姓を斬殺した家臣を引き渡すように家康に命じられたが、こ れを拒否。天野氏は除封となり、同時に興国寺城も廃城となったという。

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このように、”今川、北条、武田、徳川”と、めまぐるしく城主が入れ替わった城であった。城は愛鷹山麓の尾根上にあるが、南方はかつての湿地帯、浮島ケ原の東端で人馬の踏み込みが困難な要害地だった。また、城の一部を東西に根方街道が通過する一方、南に竹田道が伸び、根方 街道と東海道を結ぶ交通の要衝でもあった。それだけ重要な城であったということであろう。 

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城の構造は、尾根の先端部を利用した連郭式縄張りで、北から北曲輪・本丸・二の丸・三の丸の順に配され、北曲輪と本丸の間には大空堀がある。本丸は標高36m、土塁内側で東西60m、南北50mの規模があり、北側土塁の最高部には約300㎡の平坦地があり、ここが天守台跡と伝えられている。また、本丸南方には石火矢台(石火矢は大砲という意味)があり、三の丸南端にも土塁の跡が残されている。昭和57年には天守台跡の発掘調査が行われ、東西2棟の建物の礎石が 検出された。また、天守台跡の南面には石垣遺構も残されている。また、東船着場跡と伝承される小さな曲輪や東側の小字清水の台地もこの城郭に取り込まれていたと考えられ、清水曲輪と呼称している。

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国指定史跡 興国寺城址整備中

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2017年9月19日 (火)

嘗ての沼津の名門企業「昌和クルーザーの昌和製作所」

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1951年(昭和26年)あたりからのモーターサイクルの爆発的需要は多くのオートバイメーカーが乱立した時代だ。その中でも沼津市に有った「昌和製作所」は嘗ての名車”昌和クルーザー”のオートバイを製造している名門の会社だった。私も昌和エコーやクルーザーには思いでがいっぱいある。その後はヤマハ発動機の関連会社として、売れに売れたヤマハ”トレールDT1”の製造拠点でもあった。

≪1950年代当時のオートバイメーカー≫

宮田製作所アサヒ号1933年 メグロ目黒製作所バイク製造1937-1964 

富士産業(旧中島飛行機)ラビット1947-1968 陸王1934-1959 

中日本重工業(三菱重工業)1946-1964 トーハツ1950-1964

ホンダドリーム号1949年 丸正自動車ライラック1948-1961 ブリジストン1952-1971

昌和製作所は、1918年(大正7年)に小島和三郎が中国(旧満州)の奉天で創業した貿易商社の昌和洋行が、中国で販売する軽オートバイの製造を目的として1939年(昭和14年)3月に設立した会社である。オートバイの製造に当たっては、設計に目黒製作所の村田延春や鈴木高治等の支援を受け、独ザックス社(Sachs Bikes ,SACHS Fahrzeug- und Motorentechnik GmbH)のエンジンを研究し100ccのオートバイを完成させるものの、まもなく第二次世界大戦が始まりそのオートバイが生産されることはなく、軍需工場として操業する。

第二次世界大戦の終戦に伴い、昌和製作所はいち早く操業を再開する。操業再開後、1946年(昭和21年)5月に最初に生産されたオートバイは2サイクル単気筒100ccエンジンを搭載した「昌和号」であった。昌和号は戦前に開発されたもので、資材不足の中で寄せ集めの部品で作られ、とても「生産」と云えるような状況ではなかったが、それでも1948年(昭和23年)には172台が生産された。

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その後、オートバイ生産・販売の拡大に伴って、山輪研究所が開発したヤマリン・エンジンとオートバイ部品を山田輪盛館から購入し自社で組み立てて販売するようになる。最初に発売したのは、4サイクル単気筒OHC150ccエンジンを搭載する。昌和号SF型で1951年(昭和26年)8月に発売、翌年8月にはSH型と200ccエンジンを搭載するSS型を発売する。これらヤマリン・エンジンを搭載する昌和号は、1953年(昭和28年)3月に開催された名古屋TT(全日本選抜優良軽オートバイ旅行賞パレード)、同年7月に開催された第1回富士登山レースで活躍、富士登山レースでは1位から4位までを独占すると言う快挙を成し遂げる。(但し、レース後の車検でバッテリーを取り外していることが発覚し「実用標準車にあらず」として失格となった。他にもギア比、圧縮比、マフラー等を改造している出場者があったため昌和としては納得できない結果であった。 

その一方で、昌和は優秀な技術者を集めて、ヤマリン・エンジンとは別に自社エンジンの開発を進めた。ヤマリンのOHCエンジンは高性能であるものの、製造技術の問題などからカムシャフトを駆動するチェーンが伸びたり、複雑なエンジンのメンテナンス性に問題があった当時、弁機構はサイドバルブからOHV、そしてOHCへと変革していく過渡期だったが、            昌和はOHCエンジンの問題を回避するために時代に逆行してサイド・バルブエンジンを新たに自社開発、そのエンジンは‘サイドバルブとしては’優れた性能で、「クルーザー」と名付けられた新型車に搭載された。1954年(昭和28年)5月に発売されたクルーザーSC型は、250ccサイドバルブ・エンジンを搭載し80φバックボーン・フレームやアールズ・フロントフォークの採用等の特徴を備えていた。昌和は1955年(昭和30年)11月に開催された第1回浅間高原レースに、このクルーザーSC55をライト級に出場させた他に、ウルトラ・ライト級(125cc)、ジュニア級(350cc)にも出場したが、どのクラスも好成績を残すことはできなかった。1491昌和は、その頃普及し始めた4輪車に対して、モーターサイクルが実用車からいずれスポーツ車として用いられるようになると考え、自社開発したサイドバルブ・エンジンを捨てて、新たに2サイクル・エンジンの開発に乗り出した。1956年(昭和31年)7月に発売した2サイクル、リードバルブ125ccエンジンを搭載したライトクルーザーSLは月産8,000台にもなるほどの人気を得て、2サイクル・エンジン技術に自信を得た昌和は、250cc2サイクル・エンジンを開発し、浅間レースにも積極的に出場した。

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2回浅間火山レース(ウルトラ・ライト級)に出場したライトクルーザーSL

ヤマハ、ホンダに続く好成績を収めるとともに、浅間レース専用車をベースとした250cc<の2サイクルエンジンを搭載するクルーザーSCT250cc2サイクル・エンジンを同年12月に発売するが、性能面では平均的でヒットには繋がらなかった。それまで、昌和はどちらかと言うと小型~中型オートバイの開発・生産を得意とするメーカーであったが、後にヤマハの4サイクル・エンジンの技術の源となる大型4サイクル・エンジンの技術を「日本高速機関」を買収する事によって手に入れる。日本高速機関は、「HOSK」ブランドで知られる大型オートバイ生産メーカーで、輸入オートバイの大手販売代理店だった山田輪盛館が、輸入オートバイに肩を並べる大型オートバイを開発・製造するために起こしたメーカーである。日本高速機関は、ヤマリン・エンジンを搭載したオートバイとは全く異なり、英国アリエル車を模範とした大型車を生産する会社だったが、当時は趣向生の強い大型オートバイよりも実用性のある小型オートバイが売れており、経営面ではが思わしくない状況が続き、かつて取引のあった昌和製作所に買収される。 Echooha
しかし、その昌和製作所も経営面では安泰とは云えなかった。開発に力を注いだ昌和は、軽4輪自動車(ミニカ)やセミ・スクーター(マリーン125)等を次々と発表したが、その一方で若い社員が多く開発に力を入れすぎたことによって資金繰りが悪化し、それに加えて日本高速機関を買収したことにより、いよいよ経営が行き詰まってしまったのである。

そこに目をつけたのがヤマハ発であった。ヤマハは、昌和製作所の負債を肩代わりする代償として、昌和製作所の経営陣であった小島一族を事業から撤退することを条件とした。その小島は、昌和製作所の他に日本電算機などの事業があったため、行き詰まったオートバイの開発・生産事業を切り離し売却することでヤマハと合意し、ヤマハは1960年(昭和35年)4月に昌和製作所を買収、昌和製作所はヤマハの傘下に加わった。ヤマハはこの買収によって、かつての昌和製作所と同様に、日本高速機関にルーツを持つ大型4サイクル・エンジンやパイプフレームの技術の一部を手に入れることになる。

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ヤマハはその頃、2サイクル650ccエンジンの開発を進めていたが、これに代わって4サイクル650ccエンジンの開発に着手、英国トライアンフ風のバーチカル・ツインエンジンを搭載したヤマハ初の4サイクル・オートバイとなる1969年の第16回東京モーターショーで発表されたたが、この名車のルーツは昌和製作所、さらに遡れば日本高速機関の4サイクル・エンジン技術が基礎にあるともいえる。

昌和製作所は、1960年(昭和35年)にヤマハ傘下に加わった後、(株)昌和製作所としてヤマハブランドの発電機やゴルフカー等を生産していたが、同じくヤマハブランドオートバイの組み立てを行っていた(株)榛葉シボリ製作所と1988年(平成元年)に合併し「創輝(株)」として操業、2006年(平成18年)には「ヤマハモーターパワープロダクツ(株)」に社名を変更している。

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2017年9月15日 (金)

「沼津の観光資産  9-1  歴史上の人物 北条早雲」

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沼津に関係する歴史上の人物

9-1「北条早雲と興国寺城(沼津市根古屋428)」

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伊勢新九郎盛時(北条早雲)の「旗揚げの城として名高い沼津興国寺城」当時50歳を超えた早雲が興国寺城を足掛かりに戦国時代関東一円を支配した後北条氏五代の祖である。沼津は早雲の伊豆討ち入りから、秀吉の小田原攻めの100年の間、後北条の西の境目にあり、常に駿河の国を領有する「今川氏」「武田氏」「徳川氏」と対峙して争奪の渦中にあり、合戦と和睦が繰り返された所である。

120111201104523戦国時代の先駆け早雲は熟年の年齢から出世したシニア世代には頼もしい男である。その家紋は「三つ鱗」である。三つ鱗は鎌倉執権家北条氏の家紋であった。自ら北条氏の後裔を称し、北条氏にならって三つ鱗を用いたのだろうか。

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初代早雲(1519年88歳で没)から始まり、以来「五代百年」 代々名君に恵まれ広く善政を敷き、東国一の繁栄と安定を保っていた。早雲が歴史の表舞台に出てきたのは、妹の嫁ぎ先である今川家の家督争いを早雲が解決し、その手柄として沼津市にある「興国寺城」を与えられた事から始まる。その後伊豆韮山・小田原と次々に手に入れ、着実に戦国大名としての道を歩み始めました。1495年伊豆の「北条早雲」が小田原を平定し五代約100年間、民百姓を大事にし、教育文化の高揚と海運を活用して商工業の振興を図る。1590年豊臣秀吉により攻め落とされ開城し北条五代は幕を閉じた。

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北条氏に係る沼津の史跡 ①北条早雲旗揚げの城興国寺城 ②北条水軍長浜城址 ③深沢城(御殿場) ④葛山城(裾野) ⑤長久保城(長泉) ⑥泉頭城(清水町)  ⑦徳倉城(清水町) ⑧大平城(沼津市) ⑨獅子浜城(沼津市) ⑩鷲頭砦 ⑪韮山城 

※北条早雲が興国寺城から出陣し、堀越公方の茶々丸を滅ぼした1493年から、三枚橋城で秀吉が家康と作戦会議を行い小田原攻めを成し遂げた1590年までの戦国時代100年。沼津をめぐる北条・今川・武田の三国志は興味を持ちますね~

9‐2へ続く

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2017年9月11日 (月)

「沼津の観光資産  8 歴史上の人物 名僧白隠禅師」

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にほんブログ村 白隠禅師没後250年、「白隠展2017inぬまづ」9/13㈬⇨21㈭開催されます。

「白隠禅師と松蔭寺(沼津市原128)」

知徳が優れた僧だけにしか贈られない、高く名誉な名前「国師(こくし)」を、明治天皇から与えられた白隠(はくいん)。そんな白隠が生まれた沼津市原には、白隠が住職を務めた松蔭寺や、産湯井戸など、ゆかりの場所が200年以上経った今でも残されています。

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名僧白隠は江戸中期、五代・綱吉の時代に静岡県・原に生まれました。生まれつき記憶力に優れ、4歳の時には300字もある村歌を一語も間違えることなく正確に覚え、歌って歩いて村人を驚かしたといいます。多くの伝説を残しつつ、一時期衰退していた禅宗を再び勢いあるものにし、84歳でその生涯を終えました。

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当時のこんな歌が残っています。「駿河には、過ぎたるものがふたつあり、富士のお山と原の白隠」その心は、「駿河の国には凄すぎるものがふたつある。それは、富士山の美しさと、もうひとつは、白隠禅師の素晴らしさだ。」という意味。あの富士山と並び称されるほどの偉大な人物であったこということです。彼は独学の天才でした。禅師が晩年を暮らした沼津市原「松蔭寺」,風格ある立派なお寺。周りを檀家さんのお墓がびっしりと囲みます。由緒あるけれど庶民的。禅師の人柄を感じさせるお寺

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15歳には、父の叔父大瑞宗育(だいずいそういく)禅師が復興した松蔭寺で、剃髪し「慧鶴(えかく)」となりました。各地で修行をした後、32歳で松蔭寺に戻りました。当時は廃寺寸前の状態だったようです。その後、修行僧が全国各地から集まり、弟子の育成に力を注ぎました。近在からも多くの居士が参禅しました。白隠禅師墓の周囲には、各地から参じた修行僧の墓石が多数残っており、当時の師弟関係が偲ばれます。禅師の著書『夜船閑話』(やせんかんな)では、長くこの寺で修行した僧について、「盡く是叢林の頭角、四方の精英なり」と記し、優秀な人材がここに集まっていたと述べています。白隠の産湯井戸から、徒歩で約2・3分の場所にある「松蔭寺」。白隠は15歳で出家し、その後全国を行脚。1717年、33歳の時から住職を務めたお寺が、ここ「松蔭寺」です。

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松陰寺の山門です。白隠が考えた山門と言われています。山門の工事が行われた時、この門の瓦を外して数えてみると、全部で108枚あったそうです。山門は、お寺に訪れると誰もが通る場所。お寺に訪れる人の煩悩を鎮めるよう、白隠は人々を思って、瓦を人間の煩悩と同じ数、108枚にしたそうです。そんな白隠の思いが込められていた山門をくぐると、ご利益があるかもしれませんよ。

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白隠慧鶴「関羽図」近世では白隠慧鶴らが禅画を描いて民衆への布教を行いました。

※戦国時代の武将たちは、禅僧に帰依して指導を受ける一方、時に参謀として戦略の相談や交渉役を任せることもあり、各地の禅宗寺院は大名の庇護を受けて繁栄しました。

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昭和に名だたる名禅僧の一人に、般若窟「白隠の再来」と称えられた「山本玄峰老師」は、白隠禅師没後百年近く経った慶応2(1866)年、和歌山県湯の峰温泉で生まれます。生後すぐに捨てられてしまい、通りかかった岡本善蔵に拾われたと伝えられています。十九歳の時、失明の不幸に見舞われ、これを契機に一念発起して、四国八十八箇所の霊場を巡拝します。その途中、土佐雪蹊寺で太玄和尚と出会い、この地で仏道に入ります。
 玄峰老師は各地の寺で修行を重ね、龍澤寺や松蔭寺を始めとする全国各地の寺を復興し、やがて「白隠の再来」と称されるほどの高僧となり、96歳で三島市竹倉の伯日荘にてこの世を去りました。大本山妙心寺の管長も勤められ、さらには太平洋戦争の終結時、あの「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び……」の文言を進言され、象徴天皇制の発案をされたり、当時の鈴木貫太郎首相の相談役でもあったという傑僧である。

静岡東部の歴史上の人物として「源頼朝」や「江川担庵(英龍)」も外してはならない。

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