カテゴリー「沼津の観光」の8件の記事

2017年8月19日 (土)

「沼津の観光資産 3明治の別荘(政界・軍人)」

⇇ ⇇ ⇇PleaseClickクリックお願いします~
にほんブログ村 明治時代、沼津の別荘

5_3
明治22年(1889)東海道線の開通は風光明媚な沼津に、薩摩藩出身の大山巌元帥・西郷従道元帥・川村純義海軍大将や佐賀藩大木喬任文部大臣らの別荘が建てられた。明治26年(1893)沼津御用邸が造営されると千本から牛臥・静浦・内浦にかけては政財界要人の別荘地として脚光を浴び幾多の別荘が建てられた.(画像はH/omura 涅槃の富士より)

かつて沼津は日本の政界・財界人の一大保養地・別荘地だったんです!

Photo_2

「1 大山巌陸軍大臣別荘」日露戦争の際、陸軍参謀本部となった別荘。前は砂浜から高い石垣、裏は山。別荘の東は牛臥山に抱かれ、南西の正面は山と山に挟まれた砂浜、そしてImg_0352静かな内海駿河湾、こんな場所に別荘はあった。子供の頃我入道の海岸から続く岩山を潮が引いた時探偵団になったつもりで別荘を見に行った記憶が有る。2階建ての大きな家だった。祖母からは大山元帥のお嬢さんが静養のためこの地に長く滞在され体調がいいと香貫の方まで外出されてきたなどと聞いた。ただし建物などは残念だが残っていない。

今は牛臥山公園となり整備された。誰もがこの跡地を利用できる。

大山巌」の父は鹿児島の薩摩藩々士で、西郷隆盛やその弟の西郷従道らと大山巌は従弟である。その父、大山彦八綱昌(おおやまひこはちつなまさ)の次男として天保13年(1842年)鹿児島で産声をあげた。政治家であり陸軍軍人でもある大山巌は日本陸軍の創設に貢献し、日清戦争と日露戦争では日本軍の司令官として出征している。
文久2年(1862年)島津久光公の上洛に際して、有馬新七に従い西郷従道とともに京都に出向き諸国の攘夷派と合流する。その結果、大山は寺田Iwao_oyama_屋事件で鎮圧されてしまい、帰国して謹慎処分に科せられてしまう。翌文久3年、謹慎放免後、薩英戦争に従軍し、イギリス艦乗っ取りの決死隊に参加し、敗退するも、黒田清隆らとともに江戸の江川太郎左衛門塾に派遣され、この江川塾で砲術を極め、そして砲の改良研究も行い、「弥介砲」(よすけほう)と呼ばれる十二斤綫臼砲を完成させる。その結果、戊辰戦争では薩摩藩二番砲兵隊長として従軍し、この「弥介砲」と砲術を大いに活用して戦果を挙げた。
日露戦争におけるその陸戦の総司令官として、日清戦争(1894年~95年)では第二軍司令官として旅順、威海衛を攻略、日露戦争(1904年~05年)に於いては満州軍総司令官として、日露戦争においては児玉源太郎とともに自ら大陸に渡って総指揮を執り、日本軍を勝利に導いた。日露戦争というと東郷平八郎や、乃木希典(のぎ まれすけ)が有名であるが、この前記の人物たちとはまた別格に位置する度量の大きな、そして人を掌握することに長けた大者であった。
大山巌」は、明治18年(1885年)陸軍卿から第一次伊藤博文内閣で初の陸軍大臣就任する。その後4度、計5度の陸軍大臣と海軍大臣にも1度就任し、参謀総長、内務大臣をも勤め元老となり、長州閥の山縣有朋と並ぶ陸軍の実力者であったが、政治はあまり好きではなかったようで積極的には関与しなかったといわれている。軍人は軍人であれかしが信念だったと思われる。

250pxtsugumichi_saigo_2「2 西郷従道海軍大臣別荘」現在の沼津市静浦漁港近くに所在していた。漁港沖にある爪島は我々の少年時代でも「西郷島」と呼んでいたくらいだ。現在は漁港も整備され西郷島までの突堤は釣りマニアの絶好のスポットになっていて多くの釣り人が訪れている。

西郷従道

江戸時代後期から明治の軍人、政治家。父は西郷吉兵衛、母は政子。兄の西郷隆盛ほか。竜助。通称は信吾。本名は隆興、隆道。道は天保14年5月4日(1843年6月1日)薩摩藩鹿児島城下加治屋町に生まれました。剣術は薬丸兼義に薬丸自顕流を、兵学は伊地知正治に合伝流を学びました。有村俊斎の推薦で薩摩藩主・島津斉彬に出仕し、茶坊主となります。後に還俗し、斉彬を信奉する精忠組に加わり、薩英戦争にも参加。戊辰戦争においても鳥羽伏見の戦いなどに従軍。1869年には山県有朋と共に渡欧し、軍制を調査しました。1874年には陸軍中将となり、同年の台湾出兵の際には番地事務都督として軍勢を指揮しています。維新時の偉功によって伯爵を授けられます。伊藤博文内閣の海軍大臣、内務大臣などを歴任。兄・隆盛や従弟・大山巌と同じく鷹揚で懐の深い人物であったとされます。面影が兄の隆盛に似ているとされ、肖像画を作成するときは彼の写真が参考にされたといわれています

Photo「3 川村純義伯爵別荘」明治26年(l893)の7月、大正天皇(当時は皇太子)のご静養のために、沼津御用邸本邸が造営され、明治36年12月には、赤坂離宮の東宮大夫官舎を移築して東附属邸が設置これました。 38年8月に、本邸の隣にあった川村純義伯爵の別荘を買い上げ、更に増築して西附属邸となりました。

川村純義伯爵

鹿児島生まれ。海軍軍人。薩摩藩士として戊辰戦争時は陸戦で功を立てる。明治5年(1872)海軍省設立にあたり海軍大輔となる。11年(1878)参議・第2代海軍卿に就任。一時榎本武揚に交替したときを除き18年(1885)まで職にとどまり、その間に薩摩勢力を海軍内に伸ばした。17年(1884)伯爵。のち宮中顧問官、枢密顧問官を歴任し、34年(1901)に昭和天皇の養育主任となる。37年(1904)、死去にあたり大将に任じられているが、これは他に類例がない。

Photo「4 大木喬任たかとう文部大臣」沼津静浦海岸沿いの「駿海荘」現在の宿泊施設「はまゆう」の場所に別荘が有った。 

大木喬任たかとう

天保3年3月23日~明治32年9月26日 (1832~1899)佐賀生まれ。政治家。父は佐賀藩士。藩校弘道館に学び、勤王派として藩政改革を推進。新政府に出仕し、徴士、参与、軍務官判事、東京府知事などをつとめる。東京奠都にも尽力。明治4年(1871)文部卿となり、学制を制定。6年(1873)参議兼司法卿。萩の乱、神風連の乱で、反乱士族の処分にあたる。13年(1880)元老院議長。また民法編纂総裁として法典編纂に関わる。17年(1884)伯爵。21年(1888)から枢密顧問官を兼任し、翌年枢密院議長となる。第1次山県内閣の司法相、第1次松方内閣文相を歴任。「明治六大教育家」の一人「①森有礼ありのり薩摩藩士、政治家。初代の文部大臣。子爵。通称は助五郎、金之丞」「②福澤諭吉、中津藩士、著述家、啓蒙思想家、新聞時事新報の創刊・発行者、教育者、東京学士会院(現在の日本学士院)初代会長、慶應義塾創設者」「③大木喬任」「④新島襄キリスト教の布教家で、同志社大学の前身となる同志社英学校の創立者である」「⑤中村正直同人社創立者。また福澤諭吉、森有礼、西周らと明六社を結成。幼名を訓太郎。通称を敬輔。号は敬宇」「⑥近藤 真琴、明治の教育家、思想家、攻玉社創立者。日本海軍軍人及び軍属、最終階級は海軍中佐。幼名は鉚之助。江戸生まれ」

Photo_2「5 侯爵井上馨外務大臣」井上馨外務大臣別荘予定地は現在の御用邸記念公園内北際あたりに有ったという。

侯爵井上馨

長州藩士、政治家、実業家。天保6年11月28日周防国湯田村で長州藩士・井上五郎三郎光享の次男として生まれる。父は萩藩の郷士。岩屋玄蔵や江川太郎左衛門に師事し蘭学を学ぶ。高杉晋作らとともに、尊王攘夷運動で活躍。坂本竜馬の仲介で薩摩藩と同盟し第2次長州征伐で幕府軍に勝利した。維新後は参与、大蔵大輔、参議兼工部卿、外務卿などを歴任。明治9年(1876)特命副全権大使として日朝修好条規の締結に関わる。三井をはじめ、実業界とも深いつながりを持ち、鉄道事業などにも関与した。明治18年(1885)第1次伊藤内閣の「外相」に就任。鹿鳴館に象徴される欧化政策を展開し、不平等条約の改正に奔走。黒田内閣農商務相、第2次伊藤内閣内相、第3次伊藤内閣蔵相等を歴任し、引退後も元老として重きをなした。大正4年9月1日静岡県静岡市興津の別荘・長者荘にて死去。

Photo「6 侯爵黒田長成ながしげ別荘(貴族院副議長)」沼津市旧静浦ホテル北岩崎弥之介別荘のすぐ北西側に有ったらしい。

黒田長成ながしげ」

(慶応3年1867年5月5日~昭和14年1939年8月14日)福岡生まれ。政治家。旧福岡藩主黒田長知の長男。明治11年(1878)家督を相続、17年(1884)侯爵、英国ケンブリッジ大学留学。帰国後22年(1889)式部官となるが翌年に辞す。25年(1892)貴族院議員、27年(1894)から長く貴族院副議長を務める。大正13年(1924)枢密顧問官。

他に「膳桂之助別荘(国務大臣)」 沼津市江の浦の海を見下ろす山手に有ったと言う。

膳桂之助ぜん けいのすけ」(1887年7月21日 - 1951年11月25日)財界人・政治家は、群馬県伊勢崎市出身。1914(T3)東大独法科卒。農商務省に入る。'34(S9)に日本団体生命保険を創立し、専務を経て'42社長。戦後は'46に貴族院議員に勅選され第1次吉田内閣で国務大臣を務めた。日本国憲法の制定にあたって国務大臣として参与し、連署している。従三位勲三等瑞宝章。

S080

※明治初期、日本の政治をつかさどる多くの方が沼津に別荘を建てた。これは「沼津」の気候温暖、風光明媚、利便性、場所等々有ったればこそです。御用邸や別荘が出来た背景をもっと観光資産として自慢してもいいのではないでしょうか。別荘地があったことは御用邸記念公園にある案内看板だけしかない。市民にもっと知らしめて「明治の沼津散歩」など活用したいものです。

⇇ ⇇ ⇇PleaseClickクリックお願いします~
にほんブログ村

2017年8月16日 (水)

「沼津の観光資産 2海軍技研跡」

⇇ ⇇ ⇇PleaseClickクリックお願いします~
にほんブログ村 

560pxb29s_dropping_bombs
「沼津大空襲」

昨日は終戦記念日でした。1945年(昭和20年)7月17日午前1時ごろアメリカ軍B29130機の編隊が海軍工廠や軍需工場のある沼津上空3200mに侵入した。愛鷹山と香貫山の高射砲が迎撃するも午前3時ごろ迄に9077発の焼夷弾を投下、9523戸焼失、274人が亡くなった。沼津市の89,5%が破壊された。サイパンから富士山に向け飛来するB29の本土空襲コースの真下の沼津は同年1月から機銃掃射を含め延べ8回の空襲を受け使者322名、全半焼11,756戸の被害を受けたという。

旧海軍技術研究所音響研究部跡

Photo_3

この「海軍技研」は昭和16年(1941)下香貫の地に新設された。27万平方メートル(82000坪)を越える敷地があり、技術を駆使した近代的な施設であった様だ。本部のほか、臨海実験所が江の浦、淡島、大瀬崎に、事務所が下土狩に置かれた。本部には研究室/実験用水槽/作業所/宿舎等があり武官や文官、工員や挺身隊ら2000人もの人が働いていた。任務は水中聴音機や潜水探知機、音響魚雷、爆雷の研究開発を行っていた。ガダルカナル沖海戦での敗因の一つはレーダー装備の差であったという。関連誌によると、これを機に陸海軍もようやくレーダーの開発に本腰を入れる。

776c2d4b
海軍はガダルカナル島でのレーダーによる敗北がきっかけとなって1943年(昭和18年)1月26日に開かれた「戦備考査会議」ではレーダーが議題となる。海軍大臣がレーダーの新規設計と基礎研究を緊急に進めるよう2月17日に指示を出し、レーダーの開発のための組織的な整備が始まる。3月に月島,鶴見,千葉県の大東岬にレーダーの試験場が設置、6月にレーダーを生産するため「沼津海軍工廠」が設立され、7月に海軍技術研究所にレーダーを専門に開発する電波研究部を設ける。

Kuchino16
昭和20年2月15日、電波、電気、無線、有線、音響関係の兵器研究部門を統合して、第二海軍技術廠音響研究部が設置され、音響研究部は第二海軍技術廠音響研究部に改組され、水中聴音機、水 中探信機研究等の音響兵器研究を任務とする事になった。空襲が激しくなると海軍技研は多比や江間(伊豆長岡)の石切場(伊豆石の丁場)跡を利用して地下工場にした。

本土空襲が激しくなると多比の石切り場に地下工場を建設し実験室、機械などを疎開させた。戦争の残りを感じさせる石切り場やトンネル、岩穴などが今でも多比や内浦地区等でみうけられる。今は洞窟となって水が溜まっており、泳がない限りは進めそうにない所もあるようだ。コウモリがたくさん冬眠している

Tabiworkshop_r沼津市江ノ浦の多比には海軍技術研究所音響研究部の地下工場跡が現存している(ここでは空中聴音機、潜水艦探知機、音響魚雷、爆雷などの研究をしていた)元々は海軍技術研究所音響部は1941年12月に沼津に設置されたのだが、戦時中、江浦や多比、重寺、重須など内浦湾沿岸には「回天」、「震洋」といった特攻兵器の基地が造られました。多比の地下工場への移転は45年7月のことだったそうだ。公式調査は6ヶ所掘られている内の3ヶ所のみなされているが、後の3ヶ所は記録がない。今回は下図①④のみの探索となる ②は水没状態なので行っていない、③は現在立坑しか発見されていない
⑤当時から水没で放棄との事、⑥?(戦争遺跡の探索Yakumoさんのブログより)

Kiridoshi09

(画像は大昔の街道と思われる切通しが近くにある)

024
昭和35年頃第3中学時代学校の裏山にはレンガの小屋があったり、沢に油が浮き出しているのを見た記憶もある。近所の人の話では地下トンネルがたくさん掘られていたという話も聞いた。今は平和な時代になってよかったものだ画像は昭和20年代の香貫地区、南に一直線の道が八間道路)

Photo_2_2
「海軍技研跡の碑」は戦争で犠牲になった若者達を偲び昭和28年(1973)に建立された。市立第三中学に前の海軍技研跡地に建つ記念碑

⇇ ⇇ ⇇PleaseClickクリックお願いします~
にほんブログ村

2017年8月 7日 (月)

「沼津の観光資産 1帆船アミ号」

⇇ ⇇ ⇇PleaseClickクリックお願いします~
にほんブログ村 ブログを始めて早や10年が過ぎました。以来毎日欠かさず書いています。 沼津の色々な話題載せようとブログのタイトルも「沼津あれこれ」 そう決めたんです。

Imgp2088_5
「10年という時間の中で、沼津の多くの事を知りました。大昔の事、歴史、文化、観光、催事・・・・・数え切れないくらいの情報が頭に入ってきました。10年を一言で言えば「沼津っていい所です!」 この言葉がぴったりです。

P1050235_r1_r1_1
元気のない沼津は嫌いです。年老いていく街も嫌いです。自分も元気を出していける輝く明日に期待したいです。前置きが長くなるのでこの辺にして・・・・・ 

沼津のあまり知られていない誇れる資産がたくさんるので少しだけ紹介させてください。1回目は「帆船アミ号) 海を語ることなしに沼津は語れない。駿河湾にぴったりの帆船アミです(大瀬まつりとアミ号)

2016_first_sunrise1_2

画像は静浦港が母港の「帆船アミ号」の美しい姿です。帆船Amiは,1990年(平成2年)11月,沼津で青少年のトレーニングを目的として誕生した,日本では数少ない2本マストのトップスル・スクーナーです。誕生時の名前は「海王」,その後,時代の変遷を経て「青雲」と名前を変え,2006年7月からは「帆船Ami」としてその姿を駿河湾に浮かべています。

8dsc000521

こんな洒落た帆船が身近にあって、低料金で気楽に体験乗船やチャーターも出来るんです。小さな子供や孫たちが、身近な駿河湾の素晴らしさを肌で体験し、沼津の海の素晴らしさを知る貴重な体験が出来るんです。世界に誇る駿河湾の景色、富士山の雄大さ、子供が成長しても忘れない貴重な思い出になると思います。

Jeans_sail1_1
広島県福山市からジーンズ生地メーカーさんのプロモーションの一環で一ヵ月間デニムのセイルに艤装を変え瀬戸内から沼津迄航海。セイルはダメージジーンズに仕立てられます。これは潮風に晒された風合いの良いジーンズのパンツに。

03_naruto_1
≪帆船アミ号の記録≫〇夏の瀬戸内のクルーズ。毎年行っている遠洋航海。〇障害者支援団体の福祉活動。恒例行事で参加者は100名を超えました。〇地元ヨットレース観戦、後半はフルセイル帆走(駿河湾) 〇初日の出クルーズ〇沼津港発着 (通常は静浦港発着) の半日体験乗船会

Img_2402_5
〇ぬまづ港の街BAR 船上ライブが人気。〇駿河湾三角形クルーズ(静浦⇨清水⇨松崎⇨静浦)  (画像はAmiHPより)

Sdsc_000001_3
ラブライズサンシャインの声優さんもアミ号に初乗船!駿河湾へヨーソロー。

問い合わせ先 「帆船Amiアミ号」で検索 帆船Ami号 Schooner Ami

⇇ ⇇ ⇇PleaseClickクリックお願いします~
にほんブログ村

2017年8月 3日 (木)

ラブライブ・サンシャインの聖地「奥駿河湾花火大会」沼津内浦 

⇇⇇⇇PleaseClickクリックお願いします~
にほんブログ村  

≪今日8月3日奥駿河湾花火大会20:00~20:30内浦漁協広場≫元内浦観光商工会が昭和50年代に花火を打ち上げ始め、奥駿河湾海浜祭という名称になったのは平成19年からです。

20170715134552_2
ラブライブ!サンシャイン!!の聖地で花火撮影。・・・・・盛り上がるといいですね!

沼津市内浦では、毎年8月3日に夏祭りを行い、夜は花火大会を行っています。

Okusurugakaihinsai

祭りは夕方から子供太鼓と大道芸披露から始まり、慰霊祭に続き抽選大会、5つの地区の

沖合から1つ1つ船で海面に浮かべる夏の風物詩灯篭流し19:25~が行われます。

Suchiuragyokyo
広場では夜店が並び地元名産品の販売が20時からは約1000発の花火が祭りを彩ります。

⇇ ⇇ ⇇PleaseClickクリックお願いします~
にほんブログ村

2016年9月18日 (日)

近代造船の礎 「ヘダ号再建事業シンポジウム10/1」沼津

Please clickクリックお願いします~
にほんブログ村

「帆船ヘダ号の再建に向けて」Img035既に新聞等で報道されご存知の方も多いと思います。幕末のロシアプチャーチン提督率いるデアナ号が①下田沖で津波に合い破損、修理をすべく戸田に向かうが②③嵐で沈没、ロシアに帰還する代替え船として④沼津市戸田(旧戸田村)において「洋式帆船ヘダ号」が建造されました。 Img042これは現在の日本近代造船の基礎となる出来事であり、ロシアとの交流のきっかけにもなりました。 しかしこれら歴史的意義のある事を我々市民が十分周知できていないのが現状です。 このような歴史上重要な意義をもつヘダ号に関する語り継ぎが無くなり、資料や記憶が失われてしまうのは防がねばなりません。「ヘダ号再建」という沼津にとって貴重な歴史遺産を再建するプロジェクトを応援しましょう。「戸田号再建」シンポにも参加して沼津の歴史を感じましょう! Photo≪近代造船の礎 ヘダ号再建事業シンポジウム≫
・日時 : 2016年10月1日(土) 9:30~11:50
・場所 :サンウェルぬまづ (ぬまづ健康福祉プラザ )2F大会議室
  沼津市日の出町1-15
・定員 :100名 ・参加費: 無料
・主催 : ヘダ号再建プロジェクト会
・協力:セイルタウンNUMAZUクラブ 
・後援:沼津市 沼津市教育委員会

《講師のご紹介》
・杉村宗作氏制作のヘダ号復元模型(十分の一)をめぐって』
岡 有作先生
元東海大学海洋科学博物館主任 学芸員 / 日本シーホッパー協会 副会長

Tannan・『ヘダ号建造への江川坦庵の寄与と韮山形帆船について』
橋本 敬之先生
NPO法人伊豆学研究会理事長 / 公益財団法人江川文庫嘱託

・「ヘダ号再建プロジェクト会」
http://schooner-heda.com/

Please clickクリックお願いします~
にほんブログ村

2016年7月17日 (日)

明日は海の日 「スクーナー帆船 アミ号」

Please clickクリックお願いします~
にほんブログ村  Sdsc_0098明日は海の日です。若い頃プレジャーボートで釣りや水上スキーを楽しんだ時期もありました。当時取得した海技免許がいつの間にか小型船舶1級免許になっています。何十年も船には乗っていませんが免許の更新だけは続けた結果です。S13652455_1067637946659085_43221306先日神戸に向け出航する直前の「帆船アミ号」に記念撮影で乗船させてもらいました。木のぬくもりを感じるデッキ、手入れの行き届いた艇体は船長の帆船に対する愛おしい気持ちが伝わってきます。デッキに座ると一層感じるものもあり久しぶりにスキッとしました~そして若い頃この海で感じていた潮の香りも思い出しました。まだまだ感動する心は残っていますね!Sdsc_0131まさに波も静かな静浦港を瀬戸内に向けて静かに出航していく帆船アミ号。外海はうねりもあるんでしょうね~行ってらっしゃい!S13707749_2084038198487983_34767195(※昨日朝に淡路島津名港を出港、神戸港に無事到着した様です)同乗しているIさんのフェースブックより。Sail_ami004この帆船アミ号の姿を目の当たりにし年甲斐もなく帆船に興味津々「スクーナー」という帆船の事を調べてみたくなりました。 Eastwindアメリカ東海岸を中心に発展したスクーナー(英語: schooner)と呼ばれる帆船は、2本以上のマストに張られた縦帆帆装を特徴とする、帆船の一種である。スクーナーは、最初にオランダで16世紀から17世紀にかけて用いられ、アメリカ独立戦争の時期に北米で更に発展した。(画像白い船体のEastwind号)Lazy_jack先日衛星放送でアメリカ東海岸の街(ニューイングランド)で行われている「スクーナー帆船のフェステバル」の模様を見ました。さすがアメリカ帆船の歴史深さや港の美しさなど見入ってしまいました(画像黒い船体のLazyJack号)大型帆船はあえて触れていません。Schooner_heda日本では幕末に君沢形と呼ばれた。1855年(安政2年)、開国の目的で来日したロシアのエフィム・プチャーチン一行の喪失した乗艦「ディアナ号」の代りに「ヘダ(戸田)号」(75トン)がロシア人船員(帆船乗員は航海中の船体損傷修理のため造船技術も全般に習得している)に加えて、日本人船大工を交えて幕府により沼津市戸田で建造された。その後、幕府は戸田村で6隻、石川島で4隻のスクーナーを建造した。この船型を建造地が「伊豆君沢郡戸田村」であったことから「君沢形」と名付けた。ちなみに戸田号建造からスクーナー建造までの現場責任者は江川英龍で、(当時江川に弟子入りしていた)桂小五郎は江川の許可の下,地元長州から船大工を現場に招き、長州に君沢型の建造技術を伝えている(後に桂はこの件で長州藩から表彰されている)。 その後、同型ではなくともスクーナー一般に対する呼称として、君沢形の名が使われることがあった。

この戸田号再建プロジェクトが地元沼津で立ち上がり活動されているようです。大いに頑張っていただきたいですね!

Please clickクリックお願いします~
にほんブログ村

2016年5月17日 (火)

「もう一つの黒船ゆかりの戸田」沼津

Please clickクリックお願いします~
にほんブログ村

今年も5月20日から3日間下田市で恒例の黒船祭が行われます。今年で第77回になるそうです。もう一つの黒船とも言われるロシアのデイアナ号はペリー提督の黒船来航に比べあまり表面に出ませんが戸田で行われた帆船建造は歴史に残る偉業でもあるんです。Photo_5小学校の時母親の実家の沼津に横須賀市から転校してきた私。小学校途中までは横須賀軍港に近い「清泉」の小学校に通っていた。私より1歳上の従弟は横須賀に住み大学を出て「石川島播磨重工」に勤務していた。彼の会社の発祥の地ともいえる沼津戸田の事はしばしば話に聞いていたが昔はそんな話題は聞き流していたのだが~年齢を重ねた今は興味も多く久しぶりに会った時に戸田の話をした。彼は会社の同僚と戸田には数回来ていると言っていた。ペリーの「黒船来航の浦賀と下田」、「三浦按針の伊東と三浦」、「戸田号の横須賀と沼津」など三浦半島と伊豆半島の不思議な縁を感じたものだ。最近戸田号再建プロジェクトの話を聞いた。関係者の頑張りを期待しております。もう一つの「黒船ディアナ号と戸田号」の事を調べてみました。Photo1854年11月4日、ペリーの浦賀来航から遅れること数ヶ月「日露和親条約」締結に向け、10月15日より、下田湊(下田港)に停泊していたロシアのプチャーチン率いるディアナ号を大地震が襲う。九州から東北の太平洋側全域におよぶ全国的なもので、引き起こされた大津波により、ロシア船・ディアナ号は座礁した。その船とロシアの船員を救おうと、当時湾岸には、1,000人近い日本人男女があつまり、綱に体を結び付け、潮の引く勢いでディアナ号が沖へ奪われぬように、みなで協力し、しっかり支えたという。Photo_4下田周辺でのディアナ号修復作業はクリミア戦争でロシアと敵対関係にあった英仏などの艦船の目につきやすく、幕府外交上も不都合だので、幕閣川路聖謨と韮山代官江川太郎左衛門はディアナ号関係者と急遽合議し、外国艦船に見つかりにくく艦の修理にも適した戸田湾への回航を図ったのだった。その甲斐空しく、下田から修理地の戸田に向かう途中、折からの冬の嵐に翻弄され、戸田の北西方向8kmの駿河湾奥でディアナ号は完全に沈没してしまう(船長約60メートル、船幅約14メートル、二千トン)。Tannan当時としては、最大級の木造船、大破したディアナ号の代替船を作る技術は、当時の日本にはなかった。悲嘆にくれるロシア人たち。ただロシア船員の中には、飛行機の設計でも知られるモジャイスキーという優秀な技術将校が含まれていたので、その指導のもと立ち上がったのが下田警備を任されていた、韮山名代官「江川太郎左衛門英龍」だった。Photo_2修理地の、君沢郡戸田町(現;静岡県沼津市戸田)に造船世話役として集められたのは、「上田 寅吉」、緒明 嘉吉、鈴木七助、石原藤蔵、堤 藤吉、佐山 太郎兵衛、渡邊 金右衛門ら7名の西伊豆の船大工たち。人夫を合わせると日本人だけで約300名、それにロシア人500名を加えた実に800名もの人間がこの一大事業に参画することになった。Photo_7苦心の末、安政2年(1855年)、粋を集結した、スクナー船竣工。この戸田から誕生した日本近代様式造船の第一号は、造船地から「ヘダ号」と名づけられ、プチャーチンと47名のロシア水兵たちを故郷へと送っていったのだった。わずか3ヶ月間の戸田号建造の経験を通してスクーナー型帆船の製作技術を習得した船匠らは、ロシア人が帰国したあとも6隻の同型帆船を次々に完成させ幕府に納入した。また、それら船匠やその弟子たちは、江戸、横須賀、浦賀、長崎、大阪、神戸など国内各地の造船所に散り、今日に至る日本の造船業界発展の礎を築いていった。Photo_6翌安政3年(1856年)、ロシア軍艦・オリヴィッツ号、下田に入港。そこには、あの「ヘダ号」の姿があったーー。日本側の温かい対応に感謝を示したロシア政府が、五十二門の大砲を添えて「ヘダ号」を曳航・返還してきたのだった。Photo「長崎海軍伝習所」幕末、幕臣や雄藩藩士などから人員を選抜、オランダ語や航海術などを学ばせるために作られたこの学校の第1期生・37名の中に勝 海舟、中島 三郎助などと並び、ある男の姿があった。西伊豆の7人の船大工の1人「上田 寅吉」である。若く有能だった彼は、その知識を幕府に買われ、幕臣たちとともに様々なことを学び、文久2年(1862年)同校の二期生だった榎本 武揚らとともにオランダへ留学。その後、オランダで3年学んだ彼は、ともに留学した榎本 武揚とともに、旧幕府艦隊として、戊辰戦争にも参加することになる。、「ヘダ号」造船の知識を活かし、造船所(石川島)で働き、それぞれが日本の造船工業の近代化に尽力した。Img_history_1853現在の豊洲・有明・東雲などの街が、埋め立てにより作られた。それらの街は、後に工業地となり、石川島播磨重工業(IHI)などが本社を構えることになる。この石川島播磨重工業こそ、あの西伊豆の船大工たちが、日本造船の近代化のために力を尽くし、水戸藩が整備した石川島造船所(1853年設立)の後継会社である。(Beautifulコアラの温故知新ブログ、IHI等より抜粋)歴史って興味津々ですね~

Please clickクリックお願いします~
にほんブログ村

2013年7月27日 (土)

「沼津の観光1」

にほんブログ村 地域生活(街) 中部ブログ 静岡県情報へ←クリックお願いします~
にほんブログ村 

今日明日「沼津夏祭り狩野川花火大会

Numazu 長年の仕事をリタイヤし沼津で少し落着いた頃にブログを書きはじめた。その時のふる里沼津は幼い頃から頭に描かれた富士山や香貫山、狩野川、千本浜や我入道、島郷の山や海がお帰りと言ってくれている様だった。こんな素晴らしい沼津をもっと知りたくなったし多くの方にも紹介したい気持ちになりブログを始めた。

Sdsc_0052_sh01 2008年の1月6日のブログにこんな事を書いてあった。沼津に帰って来て近くを散歩します。御用邸も整備され綺麗になりました。海岸を散歩する人も沢山います。文学館や記念碑を見たり、美味しい魚を食したりもっと多くの方に沼津の良さを知って貰いたいですね!Sdsc_0002 歩いたり、自転車に乗ったり、車でも、方法や手段は人がそれぞれ決める、こんな沼津巡りコースを考えてみたらどうでしょう。山あり、海辺あり、さらに至る所から見える絶景の富士山や駿河湾は誰もが認める素晴らしさです。

640dscn0801 こんな印象をを持ったのは6年経った今も変わりません。沼津市いう素晴らしい素材はその持っているポテンシャルを発揮できないまま年を経ている様に感じます。人が集わない所は何か原因があるはずです。Scimg3217 沼津の印象は”魚やお寿司が美味しい街”としか言えないのも寂しいものです。嘗て近隣から沼津の街に行こう!という吸引力が時代と共に分散し今沼津の街は寂しいくらいです。隣町三島の本町通りは歩道に綺麗な花籠が飾られちょっと行って見たくなります。街並みや季節の催事も特徴を出そうとしているのも良くわかります。若い大学生がいたり、三島駅や広小路近辺の食事処は美味しくてセンスの良いお店がたくさんあります。長泉や裾野、函南地区も道路整備が進み街の進化を感じます。若い人の心理として子育てや環境、津波等を考えると住みたくなるのもうなずけます。B0117700_1333096

さて我が街沼津の数ある観光資源どうしたらいいんでしょう~次回から6年間近郊を動き廻って”コレいいな”と思ったおススメを書いてみます。

にほんブログ村 地域生活(街) 中部ブログ 静岡県情報へ←クリックお願いします~
にほんブログ村

2017年8月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    

訪問者カウンター

「美味い店」

  • 「イワセコーヒー Iwase-coffee」 三島
    沼津近郊には美味しい店がいっぱいあります

「美味イタリアン」

  • Osteria「Casa di ranaカーサ・ディ・ラナ 」清水町
    沼津近郊ピッザやパスタが美味しいイタリアンの店

「美味い寿司店」

  • 「海鮮丼専門店 伊助」沼津港
    沼津に来たら美味いお寿司をどうぞ

「素敵なカフェ」

  • 「Kenny'sHouseCafeケニーズハウスカフェ」沼津イーラデ2F
    チョット一息美味しいコーヒーでも如何ですか

「和食」

  • 「とんかつ小椿」沼津
    蕎麦・うどん・鰻・天麩羅・カツ、和食が美味しい店

沼津近郊の寺

  • 伊豆市「實成寺じつじょうじ」日蓮宗
    沼津近郊の【寺】を紹介しています

神社・史跡

  • 沼津 旧県社「丸子神社」
    沼津近郊の神社・史跡の紹介

にほんブログ村

  • にほんブログ村

静岡プログ村

最近のトラックバック

無料ブログはココログ
フォト

他のアカウント

ウェブページ