カテゴリー「沼津の観光」の17件の記事

2017年10月11日 (水)

「沼津の観光資産 10歴史上の人物 江川太郎左衛門(江川英龍ひでたつ)」

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もう一つの黒船ゆかりの沼津市「戸田」と韮山名代官「江川太郎左衛門英龍」

Tannan1854年11月4日、下田湊(下田港)に停泊していたロシアのプチャーチン率いるディアナ号を大地震が襲う。下田周辺でのディアナ号修復作業はクリミア戦争でロシアと敵対関係にあった英仏などの艦船の目につきやすく、幕府外交上も不都合だので、幕閣川路聖謨と韮山代官江川太郎左衛門はディアナ号関係者と急遽合議し、外国艦船に見つかりにくく艦の修理にも適した戸田湾への回航を図ったのだった。その甲斐空しく、下田から修理地の戸田に向かう途中、折からの冬の嵐に翻弄され、戸田の北西方向8kmの駿河湾奥でディアナ号は完全に沈没してしまう(船長約60メートル、船幅約14メートル、二千トン)。当時としては、最大級の木造船、大破したディアナ号の代替船を作る技術は、当時の日本にはなかった。悲嘆にくれるロシア人たち。ただロシア船員の中には、飛行機の設計でも知られるモジャイスキーという優秀な技術将校が含まれていたので、その指導のもと立ち上がったのが下田警備を任されていた、韮山名代官「江川太郎左衛門英龍」だった。Photo_2修理地の、君沢郡戸田町(現;静岡県沼津市戸田)に造船世話役として集められたのは、「上田 寅吉」、緒明 嘉吉、鈴木七助、石原藤蔵、堤 藤吉、佐山 太郎兵衛、渡邊 金右衛門ら7名の西伊豆の船大工たち。人夫を合わせると日本人だけで約300名、それにロシア人500名を加えた実に800名もの人間がこの一大事業に参画することになった。Photo_7苦心の末、安政2年(1855年)、粋を集結した、スクナー船竣工。この戸田から誕生した日本近代様式造船の第一号は、造船地から「ヘダ号」と名づけられ、プチャーチンと47名のロシア水兵たちを故郷へと送っていったのだった。わずか3ヶ月間の戸田号建造の経験を通してスクーナー型帆船の製作技術を習得した船匠らは、ロシア人が帰国したあとも6隻の同型帆船を次々に完成させ幕府に納入した。また、それら船匠やその弟子たちは、江戸、横須賀、浦賀、長崎、大阪、神戸など国内各地の造船所に散り、今日に至る日本の造船業界発展の礎を築いていった。Photo_6翌安政3年(1856年)、ロシア軍艦・オリヴィッツ号、下田に入港。そこには、あの「ヘダ号」の姿があったーー。日本側の温かい対応に感謝を示したロシア政府が、五十二門の大砲を添えて「ヘダ号」を曳航・返還してきたのだった。Photo「長崎海軍伝習所」幕末、幕臣や雄藩藩士などから人員を選抜、オランダ語や航海術などを学ばせるために作られたこの学校の第1期生・37名の中に勝 海舟、中島 三郎助などと並び、ある男の姿があった。西伊豆の7人の船大工の1人「上田 寅吉」である。若く有能だった彼は、その知識を幕府に買われ、幕臣たちとともに様々なことを学び、文久2年(1862年)同校の二期生だった榎本 武揚らとともにオランダへ留学。その後、オランダで3年学んだ彼は、ともに留学した榎本 武揚とともに、旧幕府艦隊として、戊辰戦争にも参加することになる。、「ヘダ号」造船の知識を活かし、造船所(石川島)で働き、それぞれが日本の造船工業の近代化に尽力した。Img_history_1853現在の豊洲・有明・東雲などの街が、埋め立てにより作られた。それらの街は、後に工業地となり、石川島播磨重工業(IHI)などが本社を構えることになる。この石川島播磨重工業こそ、あの西伊豆の船大工たちが、日本造船の近代化のために力を尽くし、水戸藩が整備した石川島造船所(1853年設立)の後継会社である。(Beautifulコアラの温故知新ブログ、IHI等より抜粋)歴史って興味津々ですね~

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江川太郎左衛門(江川英龍)と塾生「大山巌」 

Iwao_oyama_江川英龍」は国外に唯一門戸を開き、西洋文明に直に接した長崎の「高橋秋帆」から洋式の砲術を始め、兵制や蘭学を学んだ。これが江戸防衛の建白書の提案に繋がっている。この学問なり技術は「佐久間象山」「桂小五郎」「大山巌」に。のちに「佐久間象山」が我が国が誇る開明的な蘭学者として兵学や砲術、地勢学に精通した第一人者になる。江戸に出て「吉田松陰」や「橋本佐内」、「勝海舟」などの人材を育てた。「一橋慶喜」に招かれて海防問題に関する顧問を勤めた。

大山巌江川塾生・西郷隆盛の従兄弟・陸軍大臣・元帥沼津牛臥に別荘を持っていた事は若い方はご存じないだろう。牛臥山に抱かれた別荘は前面が駿河湾の特別な場所に有った。母や祖母から大山元帥の話は幼い頃よく聞いた記憶が有る。今は牛臥山公園となり市民の憩いの場となっている。

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2017年10月 6日 (金)

沼津の観光資産「11韮山反射炉の資材は香貫から 築150年以上の家&内浦旧三津坂隧道」

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「 ①韮山反射炉の資材は香貫から」江川英龍が海防の必要性と江戸湾防備の具体策──台場を構築し異国船に備える等──を幕府に建言し、嘉永6年のペリー艦隊の来航等を受けて聞き入れられる。E02863a35c5139d995d8bd4c876bafce台場に設置する大砲は、従来のものより長射程で堅牢、かつ低コストの条件を満たすためには、鉄製で口径長大な砲の製作が必要であるが、それを想定していた英龍は『ライク~鋳造法』を石井修三と矢田部卿運に「和蘭国製鉄炉法」として翻訳させる等しており、幕府の許可が下りてすぐに、反射炉建造に着手。安政元年(1854に着工、3年後英敏の代に完成した、銑鉄(せんてつ。鉄鉱石から還元した鉄で不純物が多い)を溶かして良質な鉄を得るための洋式の金属溶解炉。はじめ建設場所を伊豆賀茂郡本郷村(現在の下田高馬付近)とした。0c622a64c988149a85e01072d96f1506

嘉永6年(1853)12月に本郷村で建設準備。安政元年(1854)3月27日、伊豆本郷村の工事中の反射炉に、近くにある下田港に入港していたペリー艦隊の水兵が侵入する事件が起きたため、建設地を急遽、韮山代官所に近い田方郡韮山中村村に変更することとなった。
5月29日本郷村から資材を運び出し、「沼津香貫村」に荷揚げ。(カヌキ山麓の絵図、霊山寺や牛臥山や狩野川河口付近に船が描かれている) 6月に現在の場所、田方郡中村で着工。翌月1日から土台、閏7月18日に耐火煉瓦を積み始め22日板鉄鋳造。安政2年(1855)1月16日に英龍が江戸屋敷で病没。子の英敏が意志を継いで工事は続行される。

「②築150年以上の古民家」こんな立派なお宅が沼津に残っているんです!

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Yさんのお宅に伺いご主人にお話を伺った所、この建物は【安政の地震直後に建てたもの】だそうです。屋根は瓦のように見えますが実はトタンで 瓦に似せて一つずつ作ってあります。本来茅葺きの屋根ですが葺き替え等大変なのでトタンで作った瓦もどきを被せてあるそうです。小石を屋根に投げカランという音まで聞かせてくれました。遠くから見れば本物の瓦にしか見えませんね。釘などは一切使っていないそうですし、家の中の柱の太いこと、光沢のある廊下や梁さすが「150年以上」たっても丈夫そうな木材でしっかりしています~しばし見とれていました~

「③旧三津坂隧道

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明治時代に作られた石巻きトンネルとしてよく知られている天城峠の「旧天城隧道」の竣工は、明治37年。しかし、実はそれよりも古い石巻きトンネルが「旧三津坂トンネル」明治30年竣工、延長170mである。「天城トンネル」は伊豆の踊子が歩いた道として注目され、文化遺産として脚光を浴ている。それと正反対に、旧三津坂隧道は現在の新トンネルができてから顧みられることがなくなっている(画像は10年前のもの今はどうなっているのか~)

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井上靖の「しろばんば」にも登場します。「しろばんば」の主人公は洪作少年。三津に住んでいた叔母をしばしば訪ねていった。その際、長岡と三津の境の山を貫く旧三津坂隧道をくぐって三津に行った。トンネルを抜けて三津に下る時、そこから見える三津の街並みと青い空は日本で一番美しい風景だと記している。(雪国や伊豆の踊子の下りと似ている)

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昭和31年発行の付近の地図には「長瀬トンネル」となっているが・・・。
「これだけ古く価値のあるトンネル観光資産として使えるはずですね~近くには「長塚の切通し」や「嘗ての塩久津港あと」「砕石跡」「洞窟」等ジオパークなどの資産になる場所もいっぱいあります。また沼津の414号海岸線には嘗てのトンネルが多く残っている。「江の浦隧道」「旧多比隧道」等、内浦観光の切り口になるのでは~

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昨今「ラブライブサンシャイン」で脚光の内浦ですが、少し頭をひねると「映画寅さんの聖地」だったり「井上靖しろばんばの道」「北条水軍の長浜城」「ジオパーク」「うずわ味噌」「内浦のビワ」など内浦観光に繋がるものだけでもたくさんあります~町おこしにつながればいいですね~

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2017年10月 3日 (火)

「沼津の観光資産9-4 歴史上の人物 北条早雲」

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北条早雲 9-4 「小田原城略取

堀越公方(ほりごえくぼう)は、本来は鎌倉公方となるべく関東に下されたもので、室町幕府の出先機関として位置づけられていた。しかも、それを破ったのが駿河守護今川氏親の一武将にしかすぎない北條早雲だった。地位が下の者が上の者にとって代わる下剋上(げこくじょう)そのものだったのである。戦国時代のキーワードとして下剋上と弱肉強食ということがいわれており、早雲の伊豆討入は、そうした意味で、戦国時代の到来を告げるできごとだった。

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伊豆平定にある程度成功した早雲は、西相模・小田原城へと目を向けます。当時の小田原城主は山内上杉顕定の重臣大森氏頼であり、山内上杉氏との闘争に明け暮れる扇谷上杉氏に対しても、有力な加勢として参陣の実績を重ね、大森氏を討っても扇谷への反逆にならない立場を固め準備を進めました。しかし、小田原城主・大森氏頼も手強くうまく行かずに いました。そして氏頼が死んだところであとを継いだ藤頼に接近し、手紙のやりとりや珍しい品物を贈ったりして藤頼を油断させます。

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そして、早雲は藤頼に「伊豆で鹿狩りをしていたら箱根山に逃げてしまった。伊豆に鹿を追い返すために勢子を入れさせて欲しい」と頼みます。何の疑いも持たない藤頼は「御自由に」と返事をしてしまいます。そうして、勢子に化けた 早雲の一隊は明応4年(1495年)9月、小田原城・大森藤頼に夜襲をかけ、城と城付の領地を奪い取ってしまいました。早雲は敵味方双方に あまり多くの犠牲を出さずに比較的容易に小田原城乗っ取りを成功させます。このとき早雲は六十四歳だった。韮山城で没したのは八十八歳であった。Ryoudo_0001
※後北条(北条五代 早雲・氏綱・氏康・氏政・氏直)

初代早雲から始まり、以来五代百年 代々名君に恵まれ広く善政を敷き、東国一の繁栄と安定を保っていた。早雲が歴史の表舞台に出てきたのは、妹の嫁ぎ先である今川家の家督争いを早雲が解決し、その手柄として沼津市にある興国寺城を与えられた事から始まる。
その後伊豆・小田原と次々に手に入れ、着実に戦国大名としての道を歩み始め1495年伊豆の北条早雲が小田原を平定し五代約100年間、民百姓を大事にし、教育文化の高揚と海運を活用して商工業の振興を図る。

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1590年豊臣秀吉により攻め落とされ北条五代は幕を閉じた。

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「北条五代の墓所 箱根湯本早雲寺」 後北条氏、早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直の墓。
1590年(天正18年)7月5日、豊臣秀吉の小田原攻めによって小田原北条氏(後北条氏)は降伏し小田原城は落城した。秀吉の側近黒田如水(官兵衛)の説得によるものだったという。

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2017年9月26日 (火)

「沼津の観光資産9-3歴史上の人物 北条早雲」

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北条早雲 9-3「伊豆討ち入り」戦国期の幕開け

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延徳3年(1491年)4月3日、堀越公方足利政知の死にともなう公方家中の乱れに乗じて、同年10月11日の夜、氏親の兵を借り堀越御所を急襲して、後継者茶々丸を自害させて伊豆一国を手中に収めます。有名な「伊豆討ち入り」です。公方家中の乱れに乗じてとはいえ、伊豆は堀越公方の直轄地であり、代々山内上杉氏の守護領。その奪取はきわめて大胆で、今川氏配下の一客将の挙としては無謀ともいえます。

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しかし、この行動の軍事的指揮そのものは早雲の手によったものですが、その背景には大きな政治的了解が潜んでいたようです。山内上杉氏や扇谷上杉氏、太田道灌の存在、また早雲が伊豆を制圧したとき、扇谷上杉氏と山内上杉氏が合戦中で、伊豆の武士はみなその戦いに加わり、伊豆には百姓ばかりという、絶好の機会でもあったのです。

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※伊豆討入ルートについて「北條五代記」の中に、「興国寺から黄瀬川を渡り、三島を経由して韮山に攻め寄せた」というのと、「清水湊で今川氏親から兵500を借り、大船10艘で駿河湾を横断して、西伊豆から上陸して山越えをして韮山を突いた」という2つの説があるが果たしてどちらが正解なのか~

司馬遼太郎の歴史小説「箱根の坂」で早雲の生涯が描かれている。

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早雲は伊豆攻略にあたって、その善後策に精力を注ぎました。今川氏、扇谷上杉氏との関係のみならず、自ら湯治客などを装って敵情偵察なども行っています。農民撫育や諸卒の士気高揚に意を尽くし、伊豆の在地武士の領地安堵の条件として、四公六民を言い渡し「願わくば民ゆたかにあれかし」と説いています。その待遇に感激した民百姓が早雲の戦いに積極的に参加する意思を表明してしまうほどでした。早雲は当時の大名に欠けていた、民政に意を用いたのです。また、それは足軽や陣夫の積極的な徴用という面にも表れます。そして、これらのことは、早雲の戦略戦術面に重要な作用をもたらしていたと考えられます。早雲は戦略家、現実的政治家としても只者ではなかったようです。

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2017年9月22日 (金)

「沼津の観光資産9-2歴史上の人物 北条早雲」

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北条早雲 9-2 「興国寺城」

戦国時代はここから幕を開けたといわれる。沼津市根古屋と青野の境にある、篠山と呼ばれる愛鷹山の尾根を利用した城で、一番高い所で標高36mほど。その規模と大きな堀切、そして大きな土塁は、見所ある城「興国寺城」です。Photo

Houzyou_2_3興国寺城」は戦国時代に関東一円を支配した後北条氏の祖である伊勢新九郎長氏(北条早雲)の「旗揚げの城として名高い城である
(今川氏に身を寄せていた盛時は文明8年(1476年)義忠が急死すると、その後の相続争いに今川氏親を助けた功があり、長享2年(1488年)頃、 富士郡下方12郷を与えられ、興国寺城主となった。北条早雲50半ば過ぎ)交通の要衝に位置した為、今川氏滅亡後も武田・北条の争奪戦が繰り返され、その後は徳川の支配下に入るなど、駿東郡の戦国時代を代表する城である(沼津市誌) 関ヶ原の合戦により家康の天下が確定し、駿河は再び徳川氏の領土となった。翌6年、興国寺城には天野康景が1万石で入城した。天野康景はよほど頑固な人物であったようで、7年後の慶長12年、天領の百姓を斬殺した家臣を引き渡すように家康に命じられたが、こ れを拒否。天野氏は除封となり、同時に興国寺城も廃城となったという。

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このように、”今川、北条、武田、徳川”と、めまぐるしく城主が入れ替わった城であった。城は愛鷹山麓の尾根上にあるが、南方はかつての湿地帯、浮島ケ原の東端で人馬の踏み込みが困難な要害地だった。また、城の一部を東西に根方街道が通過する一方、南に竹田道が伸び、根方 街道と東海道を結ぶ交通の要衝でもあった。それだけ重要な城であったということであろう。 

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城の構造は、尾根の先端部を利用した連郭式縄張りで、北から北曲輪・本丸・二の丸・三の丸の順に配され、北曲輪と本丸の間には大空堀がある。本丸は標高36m、土塁内側で東西60m、南北50mの規模があり、北側土塁の最高部には約300㎡の平坦地があり、ここが天守台跡と伝えられている。また、本丸南方には石火矢台(石火矢は大砲という意味)があり、三の丸南端にも土塁の跡が残されている。昭和57年には天守台跡の発掘調査が行われ、東西2棟の建物の礎石が 検出された。また、天守台跡の南面には石垣遺構も残されている。また、東船着場跡と伝承される小さな曲輪や東側の小字清水の台地もこの城郭に取り込まれていたと考えられ、清水曲輪と呼称している。

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国指定史跡 興国寺城址整備中

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2017年9月15日 (金)

「沼津の観光資産  9-1  歴史上の人物 北条早雲」

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沼津に関係する歴史上の人物

9-1「北条早雲と興国寺城(沼津市根古屋428)」

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伊勢新九郎盛時(北条早雲)の「旗揚げの城として名高い沼津興国寺城」当時50歳を超えた早雲が興国寺城を足掛かりに戦国時代関東一円を支配した後北条氏五代の祖である。沼津は早雲の伊豆討ち入りから、秀吉の小田原攻めの100年の間、後北条の西の境目にあり、常に駿河の国を領有する「今川氏」「武田氏」「徳川氏」と対峙して争奪の渦中にあり、合戦と和睦が繰り返された所である。

120111201104523戦国時代の先駆け早雲は熟年の年齢から出世したシニア世代には頼もしい男である。その家紋は「三つ鱗」である。三つ鱗は鎌倉執権家北条氏の家紋であった。自ら北条氏の後裔を称し、北条氏にならって三つ鱗を用いたのだろうか。

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初代早雲(1519年88歳で没)から始まり、以来「五代百年」 代々名君に恵まれ広く善政を敷き、東国一の繁栄と安定を保っていた。早雲が歴史の表舞台に出てきたのは、妹の嫁ぎ先である今川家の家督争いを早雲が解決し、その手柄として沼津市にある「興国寺城」を与えられた事から始まる。その後伊豆韮山・小田原と次々に手に入れ、着実に戦国大名としての道を歩み始めました。1495年伊豆の「北条早雲」が小田原を平定し五代約100年間、民百姓を大事にし、教育文化の高揚と海運を活用して商工業の振興を図る。1590年豊臣秀吉により攻め落とされ開城し北条五代は幕を閉じた。

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北条氏に係る沼津の史跡 ①北条早雲旗揚げの城興国寺城 ②北条水軍長浜城址 ③深沢城(御殿場) ④葛山城(裾野) ⑤長久保城(長泉) ⑥泉頭城(清水町)  ⑦徳倉城(清水町) ⑧大平城(沼津市) ⑨獅子浜城(沼津市) ⑩鷲頭砦 ⑪韮山城 

※北条早雲が興国寺城から出陣し、堀越公方の茶々丸を滅ぼした1493年から、三枚橋城で秀吉が家康と作戦会議を行い小田原攻めを成し遂げた1590年までの戦国時代100年。沼津をめぐる北条・今川・武田の三国志は興味を持ちますね~

9‐2へ続く

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2017年9月11日 (月)

「沼津の観光資産  8 歴史上の人物 名僧白隠禅師」

⇇ ⇇ ⇇PleaseClickクリックお願いします~
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「白隠禅師と松蔭寺(沼津市原128)」

知徳が優れた僧だけにしか贈られない、高く名誉な名前「国師(こくし)」を、明治天皇から与えられた白隠(はくいん)。そんな白隠が生まれた沼津市原には、白隠が住職を務めた松蔭寺や、産湯井戸など、ゆかりの場所が200年以上経った今でも残されています。

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名僧白隠は江戸中期、五代・綱吉の時代に静岡県・原に生まれました。生まれつき記憶力に優れ、4歳の時には300字もある村歌を一語も間違えることなく正確に覚え、歌って歩いて村人を驚かしたといいます。多くの伝説を残しつつ、一時期衰退していた禅宗を再び勢いあるものにし、84歳でその生涯を終えました。

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当時のこんな歌が残っています。「駿河には、過ぎたるものがふたつあり、富士のお山と原の白隠」その心は、「駿河の国には凄すぎるものがふたつある。それは、富士山の美しさと、もうひとつは、白隠禅師の素晴らしさだ。」という意味。あの富士山と並び称されるほどの偉大な人物であったこということです。彼は独学の天才でした。禅師が晩年を暮らした沼津市原「松蔭寺」,風格ある立派なお寺。周りを檀家さんのお墓がびっしりと囲みます。由緒あるけれど庶民的。禅師の人柄を感じさせるお寺

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15歳には、父の叔父大瑞宗育(だいずいそういく)禅師が復興した松蔭寺で、剃髪し「慧鶴(えかく)」となりました。各地で修行をした後、32歳で松蔭寺に戻りました。当時は廃寺寸前の状態だったようです。その後、修行僧が全国各地から集まり、弟子の育成に力を注ぎました。近在からも多くの居士が参禅しました。白隠禅師墓の周囲には、各地から参じた修行僧の墓石が多数残っており、当時の師弟関係が偲ばれます。禅師の著書『夜船閑話』(やせんかんな)では、長くこの寺で修行した僧について、「盡く是叢林の頭角、四方の精英なり」と記し、優秀な人材がここに集まっていたと述べています。白隠の産湯井戸から、徒歩で約2・3分の場所にある「松蔭寺」。白隠は15歳で出家し、その後全国を行脚。1717年、33歳の時から住職を務めたお寺が、ここ「松蔭寺」です。

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松陰寺の山門です。白隠が考えた山門と言われています。山門の工事が行われた時、この門の瓦を外して数えてみると、全部で108枚あったそうです。山門は、お寺に訪れると誰もが通る場所。お寺に訪れる人の煩悩を鎮めるよう、白隠は人々を思って、瓦を人間の煩悩と同じ数、108枚にしたそうです。そんな白隠の思いが込められていた山門をくぐると、ご利益があるかもしれませんよ。

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白隠慧鶴「関羽図」近世では白隠慧鶴らが禅画を描いて民衆への布教を行いました。

※戦国時代の武将たちは、禅僧に帰依して指導を受ける一方、時に参謀として戦略の相談や交渉役を任せることもあり、各地の禅宗寺院は大名の庇護を受けて繁栄しました。

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昭和に名だたる名禅僧の一人に、般若窟「白隠の再来」と称えられた「山本玄峰老師」は、白隠禅師没後百年近く経った慶応2(1866)年、和歌山県湯の峰温泉で生まれます。生後すぐに捨てられてしまい、通りかかった岡本善蔵に拾われたと伝えられています。十九歳の時、失明の不幸に見舞われ、これを契機に一念発起して、四国八十八箇所の霊場を巡拝します。その途中、土佐雪蹊寺で太玄和尚と出会い、この地で仏道に入ります。
 玄峰老師は各地の寺で修行を重ね、龍澤寺や松蔭寺を始めとする全国各地の寺を復興し、やがて「白隠の再来」と称されるほどの高僧となり、96歳で三島市竹倉の伯日荘にてこの世を去りました。大本山妙心寺の管長も勤められ、さらには太平洋戦争の終結時、あの「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び……」の文言を進言され、象徴天皇制の発案をされたり、当時の鈴木貫太郎首相の相談役でもあったという傑僧である。

静岡東部の歴史上の人物として「源頼朝」や「江川担庵(英龍)」も外してはならない。

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2017年9月 3日 (日)

「沼津の観光資産 7 武田対北条 香貫古戦場」

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武田対北条 香貫古戦場

Dsc_0572_2「東駿河の戦国要図」天分14年(1545)~永禄3年(1560)今川支配図

静岡市は今川(徳川)、浜松市は徳川、政令両市とも大大名が城を築き祀りごとを行った歴史がある。沼津市は「今川氏」「武田氏」「北条氏」「秀吉・家康」領と目まぐるしく変遷をした領地の境界所、今でも東部市町が纏まらないのはこんな歴史背景も影響しているのかもしれない。近隣市町が歴史を通して共通理解を深めていけば東部全体の活性化にも繋がっていくのだろうが~そんな沼津にも戦国の歴史は多く残っている。

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武田氏対北条氏の「香貫古戦場」は”千本沖合戦”は多くの人が知っているが、同じ時期に沼津香貫で両軍の合戦があったことは余り知られていない。三枚橋城(武田氏)と戸倉城(北条氏)は狩野川を挟んで僅か10kmの距離のところにあったから小競り合いは常に絶えなかった。

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国道414号の香貫一帯は武田と北条の「古戦場」があった地区と伝えられています。天正8年9月香貫周辺で行われた「武田勝頼」対「北条氏政」の「合戦の布陣図」(東間門田中家文書)。「武田方の三枚橋城」と「北条の戸倉城」を出た兵は、今の八重坂を越えたあたり、この下香貫の地で戦った。昔この地区で建物を建てようと掘削すると人骨が良く見つかった。皆おおっぴらにするのをいやがって内々で処理したと今は亡き老人からよく聞いた。天正8年といえば御館の乱と武田・北条の手切れ直後のことで、すごく生々しいものを感じます。(甲州方が勝利)Dsc_0454

「北条五代記巻の七、駿河海にて船軍の事」の記述のようにこの地区の激戦を述べている。見しは昔。北条氏直と武田勝頼戦ひの時節、駿州の内高国寺と三枚橋は勝頼の城也。泉頭、長久保、戸倉、志師浜、此四ヶ城はするかの国中たりといえ共、先年今川義元時代、氏綱切て取しより以来、氏直領国となる。義元、信玄時代、此するか領を取返さんと遺恨やんことなしといへ共、ついに叶わず。

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沼津の浦つつき、香貫、志下、真籠、志師浜、江浦、田飛、口野、此等浦里もするか領、氏直持也。・・・・・然に天正八年の春、勝頼駿河に出陣す。氏直も伊豆の国へ出馬し、三島にはたを立たたかひ有。重須の兵船、駿河海へ働をなすへき由、氏直下知に付て、毎日駿河海へ乗出す。勝頼旗本は浮島が原、諸勢は沼津千本の松原より吉原迄寸地のすきまなく真砂の上、海きはまて陣取。然に十艘の舟かけをきたる大鉄砲をはなしかくる。敵こらへす皆ことことく退散し、へいへいたる砂地白砂に見えたり。

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・・・・・・この海戦のあと千本付近に激戦があり、多数の死傷者でて、その結果後世千本松原に首塚が出来た。(※永岡治著「伊豆水軍」参照)

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2017年8月30日 (水)

「沼津の観光資産 5 絵画/映画」

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沼津に縁のある作家(井上靖・芹沢光治良・若山牧水・大岡信)さん、俳優三国連太郎さん、映画監督原田眞人さんなどの文化人は市民にもお馴染みだが意外と散られていないこともある。

男はつらいよ寅さん沼津ロケ地

山田洋二監督と渥美清の名コンビ「寅さん」シリーズも沼津市内浦~西浦で撮影された本数も多い。

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寅さんは沼津に良く来ており4作品で登場。(7作奮闘編、16作葛飾立志編、24作春の夢、41作心の旅路)

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祭りの行われている沼津市内浦三津 。三津にある氣多神社境内沼津市内浦三津112 。

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画像は田所教授と寅さん沼津市西浦足保地区と思われる。

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第41作はラストシーンが秀逸だ。 防波堤もそのままに残るこのロケ地 沼津市内浦長浜172付近 

映画沼津市ロケ作品は他にも日本沈没 (1973年)  釣りバカ日誌3(1990年) わが母の記(2012年)などがある。

竹内栖鳳の名作”班猫”は沼津の猫

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東の大観、西の栖鳳、と称されるほどの日本画の巨匠。「竹内栖鳳(たけうち・せいほう 1864~1942)」は近代日本画壇に燦然と輝く巨星である。花鳥、風景、動物、人物等々、それらを描きだすあらゆる技に通じている。竹内栖鳳「班猫(はんびょう)」1924年 重要文化財(山種美術館蔵)『班猫』は栖鳳が60歳のときの作品。モデルの猫との出会いは、ある初秋、沼津の千本の八百屋の前に置かれた荷車の上で寝ていた猫を見た栖鳳は、無意識に中国の徽宗皇帝が書いたとされる猫の絵が目に浮かんだといいます。その猫は八百屋の飼い猫だったため、再三交渉を重ね、一枚の絵と交換して貰い、京都に連れて帰りました。

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栖鳳は猫の一瞬の仕草を捉えようと、何度もスケッチを繰り返します。「栖鳳」は度々沼津千本浜の柴田別荘を訪れていたようです。柴田又吉は京都の人ですが東京に出て末廣という料亭を開き大成功した人で栖鳳の子供を養子として縁組するほどの間柄だったそうです。柴田定吉別荘の家は外観の屋根は改築されていますが立派な内部はまだ残っています。今は一般の方が住んでいますが貴重な沼津の財産です。

新選組岩崎一郎隊士のお墓があります

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千本公園のに入口ある「長谷寺」地元の人からは「浜の観音さん」と呼ばれて親しまれているお寺さんです。ここに新選組岩崎一郎隊士のお墓があります。岩崎一郎は、陸奥出身で、慶応3年に入隊するが、翌年、鳥羽・伏見の戦いの中で脱走して江戸で離隊した。維新後は、沼津の魚町にある民家に寄宿して、「南一郎」と改名した。明治4年に28歳で死亡し、墓石の正面に「南一郎之墓」、左側に「元奥劦盛岡藩臼沢宮[]男左近有故属静岡藩称南一郎没時年二十有八明治4辛末正月八日」右側に「元同盟 結城無一二 親方 浅井達也」と刻まれている。長谷観音寺には、杉田玄端の墓もあるらしいが、どれが玄端の墓石かはっきりしない。杉田玄端は、維新後駿東に移住し、初代沼津兵学校附属病院長、駿東病院長などを務めた。

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2017年8月28日 (月)

「沼津の観光資産 4明治の別荘 (財界人・ホテル)」

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「明治末期から昭和にかけての千本浜の町並」博物館紀要によれば千本浜一帯には著名な財界人の多くが別荘をかまえていた事がわかる。今でも周辺は松林に囲まれた別荘地の面影がいっぱい残っている。(千本浜公園入口付近、これより左奥の海岸松林沿いが別荘地帯だった)

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画面左上より時計回りに 楠太病院長別荘、柴田定吉スエヒロ社長別荘、津村重舎津村順天堂社長別荘、沼津銀行クラブ、岡本一郎平別荘、川上五郎別荘、石原宗五郎別荘、仏松園ホテル、足助四郎、相馬銀行、井上浅司郎、足助太郎、中井銀行、町田忠早、ミツワ石鹸三輪善兵衛邸、中村作太郎邸、ソニー大賀邸、浜野茂新宿将軍邸、諸戸誠六別荘、西田嘉平別邸、小平家別邸、竹中工務店社長別荘、日本山岳会長槇別荘、西園寺侯爵別邸用地。

沼津別荘群配置図略図」による当時の財界人別荘Photo_6_2

NO1若山牧水邸、NO4安田財閥梅乃舎ホテル安田別邸(千本)、NO6 津村順天堂社長別荘(千本)、NO10相馬銀行・NO12中井銀行別荘(千本)、NO13東京人絹社長町田別荘、NO14ミツワ石鹸三輪別荘(現沼津倶楽部)、NO15ソニー大賀会長祖父別荘(千本)、NO19竹中工務店社長別荘(千本)、NO30せせらぎ荘山本五十六元帥滞在、NO38男爵岩崎弥之助三菱財閥別荘、NO58広田別荘(獅子浜静海荘)、NO61日産汽船社長小田切別荘(江の浦)、NO62三井銀行重役岡田別荘(江の浦)、NO68 龍澤寺老師山本玄峰庵(多比)、NO69東陶社長大倉別荘(口野)、NO72東麻社長小松別荘(口野)、NO73明電舎社長重宗別荘(重寺)、 NO84旧三井財閥長浜城址(長浜)

Snumazu_and_mount_fuji 「ホテル・旅館」

三島館さんとうかん」明治21年(1888)に三島宿の本陣を営んでいた世古直道氏が建てたもので瀟洒な高級旅館であった。明治26年に御用邸が出来たあとは、御用邸に訪れる高級官僚の宿舎として使われていたという。旅館の名前の由来は”文久3年三島世古本陣に宿泊した第14代将軍徳川家茂(いえもち)が、「ここが三島宿だから付けたのではない。今宵の名月に輝く富士山が中国の「三神山」になぞらえるほど美しいので、三神山から三島館と名付けた」という。Photo_4

新しく牛臥山に旅館が出来てみると、駿河湾に浮かぶ淡島、布島、瓜島が三神山に替わって三島さんとうに見立てられるので、再び「三島館」の扁額を掲げた”と「三島館記(明治32年三島中州記)」に記されている。

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目の前には奥駿河湾の青い海が。背後には象山、鷲頭山が連なっています。かつてこの海・山の両方が揃う素晴らしい景観地に『三島館』という高級旅館がありました。残念ながら、昭和20年7月の空襲で焼失してしまい、現在は跡形もありません。三島館は、明治21年(1888)に三島宿の本陣を営んでいた世古氏が建てたもので、明治26年に御用邸ができた後は、御用邸に伺候する高級官僚の宿舎として使われていました。

「仙松閣ホテル」別館は西園寺侯爵専用  現在の千本公園の一番奥(海岸の際)にあった。「静浦ホテル」国414号沿い静浦志下にあった。

”明治の沼津を歩く”千本浜から文学の道や我入道の渡し、芹沢光治良記念館、牛臥山公園、旧御用邸記念公園など組み合わせれば益々面白いと思う!

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