カテゴリー「沼津の観光」の16件の記事

2017年10月 6日 (金)

沼津の観光資産「11韮山反射炉の資材は香貫から 築150年以上の家&内浦旧三津坂隧道」

⇇ ⇇ ⇇PleaseClickクリックお願いします~
にほんブログ村

「 ①韮山反射炉の資材は香貫から」

江川英龍が海防の必要性と江戸湾防備の具体策──台場を構築し異国船に備える等──を幕府に建言し、嘉永6年のペリー艦隊の来航等を受けて聞き入れられる。

E02863a35c5139d995d8bd4c876bafce台場に設置する大砲は、従来のものより長射程で堅牢、かつ低コストの条件を満たすためには、鉄製で口径長大な砲の製作が必要であるが、それを想定していた英龍は『ライク~鋳造法』を石井修三と矢田部卿運に「和蘭国製鉄炉法」として翻訳させる等しており、幕府の許可が下りてすぐに、反射炉建造に着手。安政元年(1854に着工、3年後英敏の代に完成した、銑鉄(せんてつ。鉄鉱石から還元した鉄で不純物が多い)を溶かして良質な鉄を得るための洋式の金属溶解炉。はじめ建設場所を伊豆賀茂郡本郷村(現在の下田高馬付近)とした。0c622a64c988149a85e01072d96f1506嘉永6年(1853)12月に本郷村で建設準備。安政元年(1854)3月27日、伊豆本郷村の工事中の反射炉に、近くにある下田港に入港していたペリー艦隊の水兵が侵入する事件が起きたため、建設地を急遽、韮山代官所に近い田方郡韮山中村村に変更することとなった。

5月29日本郷村から資材を運び出し、「沼津香貫村」に荷揚げ。(カヌキ山麓の絵図、霊山寺や牛臥山や狩野川河口付近に船が描かれている) 6月に現在の場所、田方郡中村で着工。翌月1日から土台、閏7月18日に耐火煉瓦を積み始め22日板鉄鋳造。安政2年(1855)1月16日に英龍が江戸屋敷で病没。子の英敏が意志を継いで工事は続行される。

「②築150年以上の古民家」こんな立派なお宅が沼津に残っているんです!

Img_0385
Yさんのお宅に伺いご主人にお話を伺った所、この建物は【安政の地震直後に建てたもの】だそうです。屋根は瓦のように見えますが実はトタンで 瓦に似せて一つずつ作ってあります。本来茅葺きの屋根ですが葺き替え等大変なのでトタンで作った瓦もどきを被せてあるそうです。

小石を屋根に投げカランという音まで聞かせてくれました。遠くから見れば本物の瓦にしか見えませんね。釘などは一切使っていないそうですし、家の中の柱の太いこと、光沢のある廊下や梁さすが「150年以上」たっても丈夫そうな木材でしっかりしています~しばし見とれていました~

「③旧三津坂隧道

Mitutunnel8

明治時代に作られた石巻きトンネルとしてよく知られている天城峠の「旧天城隧道」の竣工は、明治37年。しかし、実はそれよりも古い石巻きトンネルが「旧三津坂トンネル」明治30年竣工、延長170mである。

「天城トンネル」は伊豆の踊子が歩いた道として注目され、文化遺産として脚光を浴ている。それと正反対に、旧三津坂隧道は現在の新トンネルができてから顧みられることがなくなっている(画像は10年前のもの今はどうなっているのか~)

Mitutunnel20

井上靖の「しろばんば」にも登場します。「しろばんば」の主人公は洪作少年。三津に住んでいた叔母をしばしば訪ねていった。その際、長岡と三津の境の山を貫く旧三津坂隧道をくぐって三津に行った。トンネルを抜けて三津に下る時、そこから見える三津の街並みと青い空は日本で一番美しい風景だと記している。(雪国や伊豆の踊子のくだりと似ている)

800img_20140529_0001

昭和31年発行の付近の地図には「長瀬トンネル」となっているが・・・。
「これだけ古く価値のあるトンネル観光資産として使えるはずですね~近くには「長塚の切通し」や「嘗ての塩久津港あと」「砕石跡」「洞窟」等ジオパークなどの資産になる場所もいっぱいあります。

また沼津の414号海岸線には嘗てのトンネルが多く残っている。「江の浦隧道」「旧多比隧道」等、内浦観光の切り口になるのでは~

Image09

昨今「ラブライブサンシャイン」で脚光の内浦ですが、少し頭をひねると「映画寅さんの聖地」だったり「井上靖しろばんばの道」「北条水軍の長浜城」「ジオパーク」「うずわ味噌」「内浦のビワ」など内浦観光に繋がるものだけでもたくさんあります~町おこしにつながればいいですね~

⇇ ⇇ ⇇PleaseClickクリックお願いします~
にほんブログ村

2017年10月 3日 (火)

「沼津の観光資産9-4 歴史上の人物 北条早雲」

⇇ ⇇ ⇇PleaseClickクリックお願いします~
にほんブログ村

北条早雲 9-4 「小田原城略取

堀越公方(ほりごえくぼう)は、本来は鎌倉公方となるべく関東に下されたもので、室町幕府の出先機関として位置づけられていた。しかも、それを破ったのが駿河守護今川氏親の一武将にしかすぎない北條早雲だった。地位が下の者が上の者にとって代わる下剋上(げこくじょう)そのものだったのである。戦国時代のキーワードとして下剋上と弱肉強食ということがいわれており、早雲の伊豆討入は、そうした意味で、戦国時代の到来を告げるできごとだった。

Img_9603
伊豆平定にある程度成功した早雲は、西相模・小田原城へと目を向けます。当時の小田原城主は山内上杉顕定の重臣大森氏頼であり、山内上杉氏との闘争に明け暮れる扇谷上杉氏に対しても、有力な加勢として参陣の実績を重ね、大森氏を討っても扇谷への反逆にならない立場を固め準備を進めました。しかし、小田原城主・大森氏頼も手強くうまく行かずに いました。そして氏頼が死んだところであとを継いだ藤頼に接近し、手紙のやりとりや珍しい品物を贈ったりして藤頼を油断させます。

_23
そして、早雲は藤頼に「伊豆で鹿狩りをしていたら箱根山に逃げてしまった。伊豆に鹿を追い返すために勢子を入れさせて欲しい」と頼みます。何の疑いも持たない藤頼は「御自由に」と返事をしてしまいます。そうして、勢子に化けた 早雲の一隊は明応4年(1495年)9月、小田原城・大森藤頼に夜襲をかけ、城と城付の領地を奪い取ってしまいました。早雲は敵味方双方に あまり多くの犠牲を出さずに比較的容易に小田原城乗っ取りを成功させます。このとき早雲は六十四歳だった。韮山城で没したのは八十八歳であった。Ryoudo_0001
※後北条(北条五代 早雲・氏綱・氏康・氏政・氏直)

初代早雲から始まり、以来五代百年 代々名君に恵まれ広く善政を敷き、東国一の繁栄と安定を保っていた。早雲が歴史の表舞台に出てきたのは、妹の嫁ぎ先である今川家の家督争いを早雲が解決し、その手柄として沼津市にある興国寺城を与えられた事から始まる。
その後伊豆・小田原と次々に手に入れ、着実に戦国大名としての道を歩み始め1495年伊豆の北条早雲が小田原を平定し五代約100年間、民百姓を大事にし、教育文化の高揚と海運を活用して商工業の振興を図る。

Img_1
1590年豊臣秀吉により攻め落とされ北条五代は幕を閉じた。

20150630111536819

「北条五代の墓所 箱根湯本早雲寺」 後北条氏、早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直の墓。
1590年(天正18年)7月5日、豊臣秀吉の小田原攻めによって小田原北条氏(後北条氏)は降伏し小田原城は落城した。秀吉の側近黒田如水(官兵衛)の説得によるものだったという。

⇇ ⇇ ⇇PleaseClickクリックお願いします~
にほんブログ村

2017年9月26日 (火)

「沼津の観光資産9-3歴史上の人物 北条早雲」

⇇ ⇇ ⇇PleaseClickクリックお願いします~
にほんブログ村

北条早雲 9-3「伊豆討ち入り」戦国期の幕開け

Izuuchiiri00
延徳3年(1491年)4月3日、堀越公方足利政知の死にともなう公方家中の乱れに乗じて、同年10月11日の夜、氏親の兵を借り堀越御所を急襲して、後継者茶々丸を自害させて伊豆一国を手中に収めます。有名な「伊豆討ち入り」です。公方家中の乱れに乗じてとはいえ、伊豆は堀越公方の直轄地であり、代々山内上杉氏の守護領。その奪取はきわめて大胆で、今川氏配下の一客将の挙としては無謀ともいえます。

Cimg9875_2
しかし、この行動の軍事的指揮そのものは早雲の手によったものですが、その背景には大きな政治的了解が潜んでいたようです。山内上杉氏や扇谷上杉氏、太田道灌の存在、また早雲が伊豆を制圧したとき、扇谷上杉氏と山内上杉氏が合戦中で、伊豆の武士はみなその戦いに加わり、伊豆には百姓ばかりという、絶好の機会でもあったのです。

Photo
※伊豆討入ルートについて「北條五代記」の中に、「興国寺から黄瀬川を渡り、三島を経由して韮山に攻め寄せた」というのと、「清水湊で今川氏親から兵500を借り、大船10艘で駿河湾を横断して、西伊豆から上陸して山越えをして韮山を突いた」という2つの説があるが果たしてどちらが正解なのか~

司馬遼太郎の歴史小説「箱根の坂」で早雲の生涯が描かれている。

Photo_2

早雲は伊豆攻略にあたって、その善後策に精力を注ぎました。今川氏、扇谷上杉氏との関係のみならず、自ら湯治客などを装って敵情偵察なども行っています。農民撫育や諸卒の士気高揚に意を尽くし、伊豆の在地武士の領地安堵の条件として、四公六民を言い渡し「願わくば民ゆたかにあれかし」と説いています。その待遇に感激した民百姓が早雲の戦いに積極的に参加する意思を表明してしまうほどでした。早雲は当時の大名に欠けていた、民政に意を用いたのです。また、それは足軽や陣夫の積極的な徴用という面にも表れます。そして、これらのことは、早雲の戦略戦術面に重要な作用をもたらしていたと考えられます。早雲は戦略家、現実的政治家としても只者ではなかったようです。

⇇ ⇇ ⇇PleaseClickクリックお願いします~
にほんブログ村

2017年9月22日 (金)

「沼津の観光資産9-2歴史上の人物 北条早雲」

⇇ ⇇ ⇇PleaseClickクリックお願いします~
にほんブログ村

北条早雲 9-2 「興国寺城」

戦国時代はここから幕を開けたといわれる。沼津市根古屋と青野の境にある、篠山と呼ばれる愛鷹山の尾根を利用した城で、一番高い所で標高36mほど。その規模と大きな堀切、そして大きな土塁は、見所ある城「興国寺城」です。Photo

Houzyou_2_3興国寺城」は戦国時代に関東一円を支配した後北条氏の祖である伊勢新九郎長氏(北条早雲)の「旗揚げの城として名高い城である
(今川氏に身を寄せていた盛時は文明8年(1476年)義忠が急死すると、その後の相続争いに今川氏親を助けた功があり、長享2年(1488年)頃、 富士郡下方12郷を与えられ、興国寺城主となった。北条早雲50半ば過ぎ)交通の要衝に位置した為、今川氏滅亡後も武田・北条の争奪戦が繰り返され、その後は徳川の支配下に入るなど、駿東郡の戦国時代を代表する城である(沼津市誌) 関ヶ原の合戦により家康の天下が確定し、駿河は再び徳川氏の領土となった。翌6年、興国寺城には天野康景が1万石で入城した。天野康景はよほど頑固な人物であったようで、7年後の慶長12年、天領の百姓を斬殺した家臣を引き渡すように家康に命じられたが、こ れを拒否。天野氏は除封となり、同時に興国寺城も廃城となったという。

Img_0181

このように、”今川、北条、武田、徳川”と、めまぐるしく城主が入れ替わった城であった。城は愛鷹山麓の尾根上にあるが、南方はかつての湿地帯、浮島ケ原の東端で人馬の踏み込みが困難な要害地だった。また、城の一部を東西に根方街道が通過する一方、南に竹田道が伸び、根方 街道と東海道を結ぶ交通の要衝でもあった。それだけ重要な城であったということであろう。 

Fukugen
城の構造は、尾根の先端部を利用した連郭式縄張りで、北から北曲輪・本丸・二の丸・三の丸の順に配され、北曲輪と本丸の間には大空堀がある。本丸は標高36m、土塁内側で東西60m、南北50mの規模があり、北側土塁の最高部には約300㎡の平坦地があり、ここが天守台跡と伝えられている。また、本丸南方には石火矢台(石火矢は大砲という意味)があり、三の丸南端にも土塁の跡が残されている。昭和57年には天守台跡の発掘調査が行われ、東西2棟の建物の礎石が 検出された。また、天守台跡の南面には石垣遺構も残されている。また、東船着場跡と伝承される小さな曲輪や東側の小字清水の台地もこの城郭に取り込まれていたと考えられ、清水曲輪と呼称している。

16011613a_1

国指定史跡 興国寺城址整備中

⇇ ⇇ ⇇PleaseClickクリックお願いします~
にほんブログ村

2017年9月15日 (金)

「沼津の観光資産  9-1  歴史上の人物 北条早雲」

⇇ ⇇ ⇇PleaseClickクリックお願いします~
にほんブログ村

沼津に関係する歴史上の人物

9-1「北条早雲と興国寺城(沼津市根古屋428)」

Photo
伊勢新九郎盛時(北条早雲)の「旗揚げの城として名高い沼津興国寺城」当時50歳を超えた早雲が興国寺城を足掛かりに戦国時代関東一円を支配した後北条氏五代の祖である。沼津は早雲の伊豆討ち入りから、秀吉の小田原攻めの100年の間、後北条の西の境目にあり、常に駿河の国を領有する「今川氏」「武田氏」「徳川氏」と対峙して争奪の渦中にあり、合戦と和睦が繰り返された所である。

120111201104523戦国時代の先駆け早雲は熟年の年齢から出世したシニア世代には頼もしい男である。その家紋は「三つ鱗」である。三つ鱗は鎌倉執権家北条氏の家紋であった。自ら北条氏の後裔を称し、北条氏にならって三つ鱗を用いたのだろうか。

Gohoujyou02ver

初代早雲(1519年88歳で没)から始まり、以来「五代百年」 代々名君に恵まれ広く善政を敷き、東国一の繁栄と安定を保っていた。早雲が歴史の表舞台に出てきたのは、妹の嫁ぎ先である今川家の家督争いを早雲が解決し、その手柄として沼津市にある「興国寺城」を与えられた事から始まる。その後伊豆韮山・小田原と次々に手に入れ、着実に戦国大名としての道を歩み始めました。1495年伊豆の「北条早雲」が小田原を平定し五代約100年間、民百姓を大事にし、教育文化の高揚と海運を活用して商工業の振興を図る。1590年豊臣秀吉により攻め落とされ開城し北条五代は幕を閉じた。

Photo_2
北条氏に係る沼津の史跡 ①北条早雲旗揚げの城興国寺城 ②北条水軍長浜城址 ③深沢城(御殿場) ④葛山城(裾野) ⑤長久保城(長泉) ⑥泉頭城(清水町)  ⑦徳倉城(清水町) ⑧大平城(沼津市) ⑨獅子浜城(沼津市) ⑩鷲頭砦 ⑪韮山城 

※北条早雲が興国寺城から出陣し、堀越公方の茶々丸を滅ぼした1493年から、三枚橋城で秀吉が家康と作戦会議を行い小田原攻めを成し遂げた1590年までの戦国時代100年。沼津をめぐる北条・今川・武田の三国志は興味を持ちますね~

9‐2へ続く

⇇ ⇇ ⇇PleaseClickクリックお願いします~
にほんブログ村

2017年9月11日 (月)

「沼津の観光資産  8 歴史上の人物 名僧白隠禅師」

⇇ ⇇ ⇇PleaseClickクリックお願いします~
にほんブログ村 2017年は白隠禅師没後250年でした。

「白隠禅師と松蔭寺(沼津市原128)」

知徳が優れた僧だけにしか贈られない、高く名誉な名前「国師(こくし)」を、明治天皇から与えられた白隠(はくいん)。そんな白隠が生まれた「沼津市原」には、白隠が住職を務めた「松蔭寺」や、「産湯井戸」など、ゆかりの場所が200年以上経った今でも残されています。

 

Syouinnji

名僧白隠は江戸中期、五代・綱吉の時代に”静岡県・原”に生まれました。生まれつき記憶力に優れ、4歳の時には300字もある村歌を一語も間違えることなく正確に覚え、歌って歩いて村人を驚かしたといいます。多くの伝説を残しつつ、一時期衰退していた禅宗を再び勢いあるものにし、84歳でその生涯を終えました。

Cf_je0husaalpmt
当時のこんな歌が残っています。「駿河には、過ぎたるものがふたつあり、富士のお山と原の白隠」その心は、「駿河の国には凄すぎるものがふたつある。それは、富士山の美しさと、もうひとつは、白隠禅師の素晴らしさだ。」という意味。あの富士山と並び称されるほどの偉大な人物であったこということです。彼は独学の天才でした。禅師が晩年を暮らした沼津市原「松蔭寺」,風格ある立派なお寺。周りを檀家さんのお墓がびっしりと囲みます。由緒あるけれど庶民的。禅師の人柄を感じさせるお寺

S1001
15歳には、父の叔父大瑞宗育(だいずいそういく)禅師が復興した松蔭寺で、剃髪し「慧鶴(えかく)」となりました。各地で修行をした後、32歳で松蔭寺に戻りました。当時は廃寺寸前の状態だったようです。その後、修行僧が全国各地から集まり、弟子の育成に力を注ぎました。近在からも多くの居士が参禅しました。白隠禅師墓の周囲には、各地から参じた修行僧の墓石が多数残っており、当時の師弟関係が偲ばれます。禅師の著書『夜船閑話』(やせんかんな)では、長くこの寺で修行した僧について、「盡く是叢林の頭角、四方の精英なり」と記し、優秀な人材がここに集まっていたと述べています。白隠の産湯井戸から、徒歩で約2・3分の場所にある「松蔭寺」。白隠は15歳で出家し、その後全国を行脚。1717年、33歳の時から住職を務めたお寺が、ここ「松蔭寺」です。

95dac9a5da8d47dd8f3a773e7f23c62f_l_

松陰寺の山門です。白隠が考えた山門と言われています。山門の工事が行われた時、この門の瓦を外して数えてみると、全部で108枚あったそうです。山門は、お寺に訪れると誰もが通る場所。お寺に訪れる人の煩悩を鎮めるよう、白隠は人々を思って、瓦を人間の煩悩と同じ数、108枚にしたそうです。そんな白隠の思いが込められていた山門をくぐると、ご利益があるかもしれませんよ。

20170325092113
白隠慧鶴「関羽図」近世では白隠慧鶴らが禅画を描いて民衆への布教を行いました。

※戦国時代の武将たちは、禅僧に帰依して指導を受ける一方、時に参謀として戦略の相談や交渉役を任せることもあり、各地の禅宗寺院は大名の庇護を受けて繁栄しました。

Genpou1
昭和に名だたる名禅僧の一人に、般若窟「白隠の再来」と称えられた「山本玄峰老師」は、白隠禅師没後百年近く経った慶応2(1866)年、和歌山県湯の峰温泉で生まれます。生後すぐに捨てられてしまい、通りかかった岡本善蔵に拾われたと伝えられています。十九歳の時、失明の不幸に見舞われ、これを契機に一念発起して、四国八十八箇所の霊場を巡拝します。その途中、土佐雪蹊寺で太玄和尚と出会い、この地で仏道に入ります。
 玄峰老師は各地の寺で修行を重ね、龍澤寺や松蔭寺を始めとする全国各地の寺を復興し、やがて「白隠の再来」と称されるほどの高僧となり、96歳で三島市竹倉の伯日荘にてこの世を去りました。大本山妙心寺の管長も勤められ、さらには太平洋戦争の終結時、あの「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び……」の文言を進言され、象徴天皇制の発案をされたり、当時の鈴木貫太郎首相の相談役でもあったという傑僧である。

⇇ ⇇ ⇇PleaseClickクリックお願いします~
にほんブログ村

2017年9月 3日 (日)

「沼津の観光資産 7 武田対北条 香貫古戦場」

⇇ ⇇ ⇇PleaseClickクリックお願いします~
にほんブログ村

武田対北条 香貫古戦場

Dsc_0572_2

「東駿河の戦国要図」天分14年(1545)~永禄3年(1560)今川支配図

武田氏対北条氏の「香貫古戦場」は”千本沖合戦”は多くの人が知っているが、同じ時期に沼津香貫で両軍の合戦があったことは余り知られていない。三枚橋城(武田氏)と戸倉城(北条氏)は狩野川を挟んで僅か10kmの距離のところにあったから小競り合いは常に絶えなかった。

Dscn0907

国道414号の香貫一帯は武田と北条の「古戦場」があった地区と伝えられています。天正8年9月香貫周辺で行われた「武田勝頼」対「北条氏政」の「合戦の布陣図」(東間門田中家文書)。「武田方の三枚橋城」と「北条の戸倉城」を出た兵は、今の八重坂を越えたあたり、この下香貫の地で戦った。

C1um2jouaaa7uzc_2
(下香貫、此の辺古戦場と記載されている)昔この地区で建物を建てようと掘削すると人骨が良く見つかった。皆おおっぴらにするのをいやがって内々で処理したと今は亡き老人からよく聞いた。天正8年といえば御館の乱と武田・北条の手切れ直後のことで、すごく生々しいものを感じます。(甲州方が勝利)Dsc_0454

「北条五代記巻の七、駿河海にて船軍の事」の記述のようにこの地区の激戦を述べている。見しは昔。北条氏直と武田勝頼戦ひの時節、駿州の内高国寺と三枚橋は勝頼の城也。泉頭、長久保、戸倉、志師浜、此四ヶ城はするかの国中たりといえ共、先年今川義元時代、氏綱切て取しより以来、氏直領国となる。義元、信玄時代、此するか領を取返さんと遺恨やんことなしといへ共、ついに叶わず。

201409220001
沼津の浦つつき、香貫、志下、真籠、志師浜、江浦、田飛、口野、此等浦里もするか領、氏直持也。・・・・・然に天正八年の春、勝頼駿河に出陣す。氏直も伊豆の国へ出馬し、三島にはたを立たたかひ有。

重須の兵船、駿河海へ働をなすへき由、氏直下知に付て、毎日駿河海へ乗出す。勝頼旗本は浮島が原、諸勢は沼津千本の松原より吉原迄寸地のすきまなく真砂の上、海きはまて陣取。然に十艘の舟かけをきたる大鉄砲をはなしかくる。敵こらへす皆ことことく退散し、へいへいたる砂地白砂に見えたり。

650ba96ec28b83eec9e258b88a0ddb9e
・・・・・・この海戦のあと千本付近に激戦があり、多数の死傷者でて、その結果後世千本松原に首塚が出来た。(※永岡治著「伊豆水軍」参照)

静岡市は今川(徳川)、浜松市は徳川、政令両市とも大大名が城を築き祀りごとを行った歴史がある。沼津市は「今川氏」「武田氏」「北条氏」「秀吉・家康」領と目まぐるしく変遷をした領地の境界所、今でも東部市町が纏まらないのはこんな歴史背景も影響しているのかもしれない。

⇇ ⇇ ⇇PleaseClickクリックお願いします~
にほんブログ村

2017年8月30日 (水)

「沼津の観光資産 5 絵画/映画」

⇇ ⇇ ⇇PleaseClickクリックお願いします~
にほんブログ村

沼津に縁のある作家(井上靖・芹沢光治良・若山牧水・大岡信)さん、俳優三国連太郎さん、映画監督原田眞人さんなどの文化人は市民にもお馴染みだが意外と知られていないこともある。

男はつらいよ寅さん沼津ロケ地

24saku

山田洋二監督と渥美清の名コンビ「寅さん」シリーズも沼津市内浦~西浦で撮影された本数も多い。寅さんは沼津に良く来ており4作品で登場。(7作奮闘編、16作葛飾立志編、24作春の夢、41作心の旅路)そういえば昔見た中に沼津あったな~

41
祭りの行われている神社の境内は沼津市内浦三津 。三津にある氣多神社境内、場所は沼津市内浦三津112 。

Photo
画像は田所教授と寅さん遠くに牛臥山や香貫山が見える。沼津市西浦足保地区と思われる。

41
第41作はラストシーンが秀逸だ。今も同じ風景の 富士山や淡島、防波堤もそのままに残るこのロケ地 沼津市内浦長浜172付近 。

映画沼津市ロケ作品は他にも日本沈没 (1973年)  釣りバカ日誌3(1990年) わが母の記(2012年)などがある。

竹内栖鳳の名作”班猫”は沼津の猫

東の大観、西の栖鳳、と称されるほどの日本画の巨匠。「竹内栖鳳(たけうち・せいほう 1864~1942)」は近代日本画壇に燦然と輝く巨星である。花鳥、風景、動物、人物等々、それらを描きだすあらゆる技に通じている。

137914384210713216639
竹内栖鳳「班猫(はんびょう)」1924年 重要文化財(山種美術館蔵)『班猫』は栖鳳が60歳のときの作品。モデルの猫との出会いは、ある初秋、沼津の千本の八百屋の前に置かれた荷車の上で寝ていた猫を見た栖鳳は、無意識に中国の徽宗皇帝が書いたとされる猫の絵が目に浮かんだといいます。その猫は八百屋の飼い猫だったため、再三交渉を重ね、一枚の絵と交換して貰い、京都に連れて帰った。

0626
栖鳳は猫の一瞬の仕草を捉えようと、何度もスケッチを繰り返します。「栖鳳」は度々沼津千本浜の柴田別荘を訪れていたようです。

柴田又吉は京都の人ですが東京に出て末廣という料亭を開き大成功した人で栖鳳の子供を養子として縁組するほどの間柄だったそうです。柴田定吉別荘の家は外観の屋根は改築されていますが立派な内部はまだ残っています。今は一般の方が住んでいますが貴重な沼津の財産です。

新選組岩崎一郎隊士のお墓があります

T02200293_0457060910369975844
千本公園のに入口ある「長谷寺」地元の人からは「浜の観音さん」と呼ばれて親しまれているお寺さんです。ここに新選組岩崎一郎隊士のお墓があります。

岩崎一郎は、陸奥出身で、慶応3年に入隊するが、翌年、鳥羽・伏見の戦いの中で脱走して江戸で離隊した。維新後は、沼津の魚町にある民家に寄宿して、「南一郎」と改名した。明治4年に28歳で死亡し、墓石の正面に「南一郎之墓」、左側に「元奥劦盛岡藩臼沢宮[]男左近有故属静岡藩称南一郎没時年二十有八明治4辛末正月八日」右側に「元同盟 結城無一二 親方 浅井達也」と刻まれている。

長谷観音寺には、杉田玄端の墓もあるらしいが、どれが玄端の墓石かはっきりしない。杉田玄端は、維新後駿東に移住し、初代沼津兵学校附属病院長、駿東病院長などを務めた。

⇇ ⇇ ⇇PleaseClickクリックお願いします~
にほんブログ村

2017年8月28日 (月)

「沼津の観光資産 4明治の別荘 (財界人・ホテル)」

⇇ ⇇ ⇇PleaseClickクリックお願いします~
にほんブログ村 明治の別荘(財界人・他)

Src_19165084
「明治末期から昭和にかけての千本浜の町並」博物館紀要によれば千本浜一帯には著名な財界人の多くが別荘をかまえていた事がわかる。今でも周辺は松林に囲まれた別荘地の面影がいっぱい残っている。(千本浜公園入口付近、これより左奥の海岸松林沿いが別荘地帯だった)

Dscn4218
画面左上より時計回りに 楠太病院長別荘、柴田定吉スエヒロ社長別荘、津村重舎津村順天堂社長別荘、沼津銀行クラブ、岡本一郎平別荘、川上五郎別荘、石原宗五郎別荘、仏松園ホテル、足助四郎、相馬銀行、井上浅司郎、足助太郎、中井銀行、町田忠早、ミツワ石鹸三輪善兵衛邸、中村作太郎邸、ソニー大賀邸、浜野茂新宿将軍邸、諸戸誠六別荘、西田嘉平別邸、小平家別邸、竹中工務店社長別荘、日本山岳会長槇別荘、西園寺侯爵別邸用地。

沼津別荘群配置図略図」による当時の財界人別荘

Photo_6_2

NO1若山牧水邸、NO4安田財閥梅乃舎ホテル安田別邸(千本)、NO6 津村順天堂社長別荘(千本)、NO10相馬銀行・NO12中井銀行別荘(千本)、NO13東京人絹社長町田別荘、NO14ミツワ石鹸三輪別荘(現沼津倶楽部)、NO15ソニー大賀会長祖父別荘(千本)、NO19竹中工務店社長別荘(千本)、NO30せせらぎ荘山本五十六元帥滞在、NO38男爵岩崎弥之助三菱財閥別荘、NO58広田別荘(獅子浜静海荘)、NO61日産汽船社長小田切別荘(江の浦)、NO62三井銀行重役岡田別荘(江の浦)、NO68 龍澤寺老師山本玄峰庵(多比)、NO69東陶社長大倉別荘(口野)、NO72東麻社長小松別荘(口野)、NO73明電舎社長重宗別荘(重寺)、 NO84旧三井財閥長浜城址(長浜)

Snumazu_and_mount_fuji 「ホテル・旅館」

三島館さんとうかん」明治21年(1888)に三島宿の本陣を営んでいた世古直道氏が建てたもので瀟洒な高級旅館であった。明治26年に御用邸が出来たあとは、御用邸に訪れる高級官僚の宿舎として使われていたという。旅館の名前の由来は”文久3年三島世古本陣に宿泊した第14代将軍徳川家茂(いえもち)が、「ここが三島宿だから付けたのではない。今宵の名月に輝く富士山が中国の「三神山」になぞらえるほど美しいので、三神山から三島館と名付けた」という。Photo_4

新しく牛臥山に旅館が出来てみると、駿河湾に浮かぶ淡島、布島、瓜島が三神山に替わって三島さんとうに見立てられるので、再び「三島館」の扁額を掲げた”と「三島館記(明治32年三島中州記)」に記されている。

Photo_3

目の前には奥駿河湾の青い海が。背後には象山、鷲頭山が連なっています。かつてこの海・山の両方が揃う素晴らしい景観地に『三島館』という高級旅館がありました。残念ながら、昭和20年7月の空襲で焼失してしまい、現在は跡形もありません。三島館は、明治21年(1888)に三島宿の本陣を営んでいた世古氏が建てたもので、明治26年に御用邸ができた後は、御用邸に伺候する高級官僚の宿舎として使われていました。

「仙松閣ホテル」別館は西園寺侯爵専用  現在の千本公園の一番奥(海岸の際)にあった。「静浦ホテル」国414号沿い静浦志下にあった。

”明治の沼津を歩く”千本浜から文学の道や我入道の渡し、芹沢光治良記念館、牛臥山公園、旧御用邸記念公園など組み合わせれば益々面白いと思う!

⇇ ⇇ ⇇PleaseClickクリックお願いします~
にほんブログ村

2017年8月19日 (土)

「沼津の観光資産 3明治の別荘(政界・軍人)」

⇇ ⇇ ⇇PleaseClickクリックお願いします~
にほんブログ村 明治時代、沼津の別荘

5_3
明治22年(1889)東海道線の開通は風光明媚な沼津に、薩摩藩出身の大山巌元帥・西郷従道元帥・川村純義海軍大将や佐賀藩大木喬任文部大臣らの別荘が建てられた。明治26年(1893)沼津御用邸が造営されると千本から牛臥・静浦・内浦にかけては政財界要人の別荘地として脚光を浴び幾多の別荘が建てられた.(画像はH/omura 涅槃の富士より)

かつて沼津は日本の政界・財界人の一大保養地・別荘地だったんです!

Photo_2

「1 大山巌陸軍大臣別荘」日露戦争の際、陸軍参謀本部となった別荘。前は砂浜から高い石垣、裏は山。別荘の東は牛臥山に抱かれ、南西の正面は山と山に挟まれた砂浜、そして静かな内海駿河湾、こんな場所に別荘はあった。

Maxresdefault
子供の頃我入道の海岸から続く岩山を潮が引いた時探偵団になったつもりで別荘を見に行った記憶が有る。2階建ての大きな家だった。

96e0d05001fb4181976eed5034117658_l
祖母からは大山元帥のお嬢さんが静養のためこの地に長く滞在され体調がいいと香貫の方まで外出されてきたなどと聞いた。ただし建物などは残念だが残っていない。今は牛臥山公園となり整備された。誰もがこの跡地を利用できる。

Photo_4大山巌」の父は鹿児島の薩摩藩々士で、西郷隆盛やその弟の西郷従道らと大山巌は従弟である。その父、大山彦八綱昌(おおやまひこはちつなまさ)の次男として天保13年(1842年)鹿児島で産声をあげた。政治家であり陸軍軍人でもある大山巌は日本陸軍の創設に貢献し、日清戦争と日露戦争では日本軍の司令官として出征している。
文久2年(1862年)島津久光公の上洛に際して、有馬新七に従い西郷従道とともに京都に出向き諸国の攘夷派と合流する。その結果、大山は寺田屋事件で鎮圧されてしまい、帰国して謹慎処分に科せられてしまう。翌文久3年、謹慎放免後、薩英戦争に従軍し、イギリス艦乗っ取りの決死隊に参加し、敗退するも、黒田清隆らとともに江戸の江川太郎左衛門塾に派遣され、この江川塾で砲術を極め、そして砲の改良研究も行い、「弥介砲」(よすけほう)と呼ばれる十二斤綫臼砲を完成させる。その結果、戊辰戦争では薩摩藩二番砲兵隊長として従軍し、この「弥介砲」と砲術を大いに活用して戦果を挙げた。

日露戦争におけるその陸戦の総司令官として、日清戦争(1894年~95年)では第二軍司令官として旅順、威海衛を攻略、日露戦争(1904年~05年)に於いては満州軍総司令官として、日露戦争においては児玉源太郎とともに自ら大陸に渡って総指揮を執り、日本軍を勝利に導いた。日露戦争というと東郷平八郎や、乃木希典(のぎ まれすけ)が有名であるが、この前記の人物たちとはまた別格に位置する度量の大きな、そして人を掌握することに長けた大者であった。

大山巌」は、明治18年(1885年)陸軍卿から第一次伊藤博文内閣で初の陸軍大臣就任する。その後4度、計5度の陸軍大臣と海軍大臣にも1度就任し、参謀総長、内務大臣をも勤め元老となり、長州閥の山縣有朋と並ぶ陸軍の実力者であったが、政治はあまり好きではなかったようで積極的には関与しなかったといわれている。軍人は軍人であれかしが信念だったと思われる。

Photo_5「2 西郷従道海軍大臣別荘」現在の沼津市静浦漁港近くに所在していた。漁港沖にある爪島は我々の少年時代でも「西郷島」と呼んでいたくらいだ。現在は漁港も整備され西郷島までの突堤は釣りマニアの絶好のスポットになっていて多くの釣り人が訪れている。

西郷従道

江戸時代後期から明治の軍人、政治家。父は西郷吉兵衛、母は政子。兄の西郷隆盛ほか。竜助。通称は信吾。本名は隆興、隆道。道は天保14年5月4日(1843年6月1日)薩摩藩鹿児島城下加治屋町に生まれました。剣術は薬丸兼義に薬丸自顕流を、兵学は伊地知正治に合伝流を学びました。有村俊斎の推薦で薩摩藩主・島津斉彬に出仕し、茶坊主となります。後に還俗し、斉彬を信奉する精忠組に加わり、薩英戦争にも参加。戊辰戦争においても鳥羽伏見の戦いなどに従軍。1869年には山県有朋と共に渡欧し、軍制を調査しました。1874年には陸軍中将となり、同年の台湾出兵の際には番地事務都督として軍勢を指揮しています。維新時の偉功によって伯爵を授けられます。伊藤博文内閣の海軍大臣、内務大臣などを歴任。兄・隆盛や従弟・大山巌と同じく鷹揚で懐の深い人物であったとされます。面影が兄の隆盛に似ているとされ、肖像画を作成するときは彼の写真が参考にされたといわれています。

Photo_6「3 川村純義伯爵別荘」明治26年(l893)の7月、大正天皇(当時は皇太子)のご静養のために、沼津御用邸本邸が造営され、明治36年12月には、赤坂離宮の東宮大夫官舎を移築して東附属邸が設置これました。 38年8月に、本邸の隣にあった川村純義伯爵の別荘を買い上げ、更に増築して西附属邸となりました。

川村純義伯爵」鹿児島生まれ。海軍軍人。薩摩藩士として戊辰戦争時は陸戦で功を立てる。明治5年(1872)海軍省設立にあたり海軍大輔となる。11年(1878)参議・第2代海軍卿に就任。一時榎本武揚に交替したときを除き18年(1885)まで職にとどまり、その間に薩摩勢力を海軍内に伸ばした。17年(1884)伯爵。のち宮中顧問官、枢密顧問官を歴任し、34年(1901)に昭和天皇の養育主任となる。37年(1904)、死去にあたり大将に任じられているが、これは他に類例がない。

Photo_7「4 大木喬任たかとう文部大臣」沼津静浦海岸沿いの「駿海荘」現在の宿泊施設「はまゆう」の場所に別荘が有った。 

大木喬任たかとう」天保3年3月23日~明治32年9月26日 (1832~1899)佐賀生まれ。政治家。父は佐賀藩士。藩校弘道館に学び、勤王派として藩政改革を推進。新政府に出仕し、徴士、参与、軍務官判事、東京府知事などをつとめる。東京奠都にも尽力。明治4年(1871)文部卿となり、学制を制定。6年(1873)参議兼司法卿。萩の乱、神風連の乱で、反乱士族の処分にあたる。13年(1880)元老院議長。また民法編纂総裁として法典編纂に関わる。17年(1884)伯爵。21年(1888)から枢密顧問官を兼任し、翌年枢密院議長となる。第1次山県内閣の司法相、第1次松方内閣文相を歴任。

「明治六大教育家」の一人「①森有礼ありのり薩摩藩士、政治家。初代の文部大臣。子爵。通称は助五郎、金之丞」「②福澤諭吉、中津藩士、著述家、啓蒙思想家、新聞時事新報の創刊・発行者、教育者、東京学士会院(現在の日本学士院)初代会長、慶應義塾創設者」「③大木喬任」「④新島襄キリスト教の布教家で、同志社大学の前身となる同志社英学校の創立者である」「⑤中村正直同人社創立者。また福澤諭吉、森有礼、西周らと明六社を結成。幼名を訓太郎。通称を敬輔。号は敬宇」「⑥近藤 真琴、明治の教育家、思想家、攻玉社創立者。日本海軍軍人及び軍属、最終階級は海軍中佐。幼名は鉚之助。江戸生まれ」

Photo_8「5 侯爵井上馨外務大臣」井上馨外務大臣別荘予定地は現在の御用邸記念公園内北際あたりに有ったという。

侯爵井上馨」長州藩士、政治家、実業家。天保6年11月28日周防国湯田村で長州藩士・井上五郎三郎光享の次男として生まれる。父は萩藩の郷士。岩屋玄蔵や江川太郎左衛門に師事し蘭学を学ぶ。高杉晋作らとともに、尊王攘夷運動で活躍。坂本竜馬の仲介で薩摩藩と同盟し第2次長州征伐で幕府軍に勝利した。維新後は参与、大蔵大輔、参議兼工部卿、外務卿などを歴任。明治9年(1876)特命副全権大使として日朝修好条規の締結に関わる。三井をはじめ、実業界とも深いつながりを持ち、鉄道事業などにも関与した。明治18年(1885)第1次伊藤内閣の「外相」に就任。鹿鳴館に象徴される欧化政策を展開し、不平等条約の改正に奔走。黒田内閣農商務相、第2次伊藤内閣内相、第3次伊藤内閣蔵相等を歴任し、引退後も元老として重きをなした。大正4年9月1日静岡県静岡市興津の別荘・長者荘にて死去。

Photo_10

「6 侯爵黒田長成ながしげ別荘(貴族院副議長)」沼津市旧静浦ホテル北岩崎弥之介別荘のすぐ北西側に有ったらしい。

黒田長成ながしげ」(慶応3年1867年5月5日~昭和14年1939年8月14日)福岡生まれ。政治家。旧福岡藩主黒田長知の長男。明治11年(1878)家督を相続、17年(1884)侯爵、英国ケンブリッジ大学留学。帰国後22年(1889)式部官となるが翌年に辞す。25年(1892)貴族院議員、27年(1894)から長く貴族院副議長を務める。大正13年(1924)枢密顧問官。

他に「膳桂之助別荘(国務大臣)」 沼津市江の浦の海を見下ろす山手に有ったと言う。

膳桂之助ぜん けいのすけ」(1887年7月21日 - 1951年11月25日)財界人・政治家は、群馬県伊勢崎市出身。1914(T3)東大独法科卒。農商務省に入る。'34(S9)に日本団体生命保険を創立し、専務を経て'42社長。戦後は'46に貴族院議員に勅選され第1次吉田内閣で国務大臣を務めた。日本国憲法の制定にあたって国務大臣として参与し、連署している。従三位勲三等瑞宝章。

S080

※明治初期、日本の政治をつかさどる多くの方が沼津に別荘を建てた。これは「沼津」の気候温暖、風光明媚、利便性、場所等々有ったればこそです。御用邸や別荘が出来た背景をもっと観光資産として自慢してもいいのではないでしょうか。別荘地があったことは御用邸記念公園にある案内看板だけしかない。市民にもっと知らしめて「明治の沼津散歩」など活用したいものです。

⇇ ⇇ ⇇PleaseClickクリックお願いします~
にほんブログ村

2018年2月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28      

訪問者カウンター

「美味い店」

  • 「レストラン力亭 御殿場」
    沼津近郊には美味しい店がいっぱいあります

「美味イタリアン」

  • 「ベーカーズダズン」沼津
    沼津近郊ピッザやパスタが美味しいイタリアンの店

「美味い寿司店」

  • 「海鮮丼専門店 伊助」沼津港
    沼津に来たら美味いお寿司をどうぞ

「素敵なカフェ」

  • 「CAFE LEONカフェレオン」函南
    チョット一息美味しいコーヒーでも如何ですか

「和食」

  • 「かつや」沼津香貫店
    蕎麦・うどん・鰻・天麩羅・カツ、和食が美味しい店

沼津近郊の寺

  • 伊豆市「實成寺じつじょうじ」日蓮宗
    沼津近郊の【寺】を紹介しています

神社・史跡

  • 沼津 旧県社「丸子神社」
    沼津近郊の神社・史跡の紹介
フォト

ウェブページ

最近のトラックバック

静岡プログ村

無料ブログはココログ