カテゴリー「【36代江川太郎左衛門(英龍ひでたつ)】」の9件の記事

2016年5月17日 (火)

「もう一つの黒船ゆかりの戸田」沼津

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今年も5月20日から3日間下田市で恒例の黒船祭が行われます。今年で第77回になるそうです。もう一つの黒船とも言われるロシアのデイアナ号はペリー提督の黒船来航に比べあまり表面に出ませんが戸田で行われた帆船建造は歴史に残る偉業でもあるんです。Photo_5小学校の時母親の実家の沼津に横須賀市から転校してきた私。小学校途中までは横須賀軍港に近い「清泉」の小学校に通っていた。私より1歳上の従弟は横須賀に住み大学を出て「石川島播磨重工」に勤務していた。彼の会社の発祥の地ともいえる沼津戸田の事はしばしば話に聞いていたが昔はそんな話題は聞き流していたのだが~年齢を重ねた今は興味も多く久しぶりに会った時に戸田の話をした。彼は会社の同僚と戸田には数回来ていると言っていた。ペリーの「黒船来航の浦賀と下田」、「三浦按針の伊東と三浦」、「戸田号の横須賀と沼津」など三浦半島と伊豆半島の不思議な縁を感じたものだ。最近戸田号再建プロジェクトの話を聞いた。関係者の頑張りを期待しております。もう一つの「黒船ディアナ号と戸田号」の事を調べてみました。Photo1854年11月4日、ペリーの浦賀来航から遅れること数ヶ月「日露和親条約」締結に向け、10月15日より、下田湊(下田港)に停泊していたロシアのプチャーチン率いるディアナ号を大地震が襲う。九州から東北の太平洋側全域におよぶ全国的なもので、引き起こされた大津波により、ロシア船・ディアナ号は座礁した。その船とロシアの船員を救おうと、当時湾岸には、1,000人近い日本人男女があつまり、綱に体を結び付け、潮の引く勢いでディアナ号が沖へ奪われぬように、みなで協力し、しっかり支えたという。Photo_4下田周辺でのディアナ号修復作業はクリミア戦争でロシアと敵対関係にあった英仏などの艦船の目につきやすく、幕府外交上も不都合だので、幕閣川路聖謨と韮山代官江川太郎左衛門はディアナ号関係者と急遽合議し、外国艦船に見つかりにくく艦の修理にも適した戸田湾への回航を図ったのだった。その甲斐空しく、下田から修理地の戸田に向かう途中、折からの冬の嵐に翻弄され、戸田の北西方向8kmの駿河湾奥でディアナ号は完全に沈没してしまう(船長約60メートル、船幅約14メートル、二千トン)。Tannan当時としては、最大級の木造船、大破したディアナ号の代替船を作る技術は、当時の日本にはなかった。悲嘆にくれるロシア人たち。ただロシア船員の中には、飛行機の設計でも知られるモジャイスキーという優秀な技術将校が含まれていたので、その指導のもと立ち上がったのが下田警備を任されていた、韮山名代官「江川太郎左衛門英龍」だった。Photo_2修理地の、君沢郡戸田町(現;静岡県沼津市戸田)に造船世話役として集められたのは、「上田 寅吉」、緒明 嘉吉、鈴木七助、石原藤蔵、堤 藤吉、佐山 太郎兵衛、渡邊 金右衛門ら7名の西伊豆の船大工たち。人夫を合わせると日本人だけで約300名、それにロシア人500名を加えた実に800名もの人間がこの一大事業に参画することになった。Photo_7苦心の末、安政2年(1855年)、粋を集結した、スクナー船竣工。この戸田から誕生した日本近代様式造船の第一号は、造船地から「ヘダ号」と名づけられ、プチャーチンと47名のロシア水兵たちを故郷へと送っていったのだった。わずか3ヶ月間の戸田号建造の経験を通してスクーナー型帆船の製作技術を習得した船匠らは、ロシア人が帰国したあとも6隻の同型帆船を次々に完成させ幕府に納入した。また、それら船匠やその弟子たちは、江戸、横須賀、浦賀、長崎、大阪、神戸など国内各地の造船所に散り、今日に至る日本の造船業界発展の礎を築いていった。Photo_6翌安政3年(1856年)、ロシア軍艦・オリヴィッツ号、下田に入港。そこには、あの「ヘダ号」の姿があったーー。日本側の温かい対応に感謝を示したロシア政府が、五十二門の大砲を添えて「ヘダ号」を曳航・返還してきたのだった。Photo「長崎海軍伝習所」幕末、幕臣や雄藩藩士などから人員を選抜、オランダ語や航海術などを学ばせるために作られたこの学校の第1期生・37名の中に勝 海舟、中島 三郎助などと並び、ある男の姿があった。西伊豆の7人の船大工の1人「上田 寅吉」である。若く有能だった彼は、その知識を幕府に買われ、幕臣たちとともに様々なことを学び、文久2年(1862年)同校の二期生だった榎本 武揚らとともにオランダへ留学。その後、オランダで3年学んだ彼は、ともに留学した榎本 武揚とともに、旧幕府艦隊として、戊辰戦争にも参加することになる。、「ヘダ号」造船の知識を活かし、造船所(石川島)で働き、それぞれが日本の造船工業の近代化に尽力した。Img_history_1853現在の豊洲・有明・東雲などの街が、埋め立てにより作られた。それらの街は、後に工業地となり、石川島播磨重工業(IHI)などが本社を構えることになる。この石川島播磨重工業こそ、あの西伊豆の船大工たちが、日本造船の近代化のために力を尽くし、水戸藩が整備した石川島造船所(1853年設立)の後継会社である。(Beautifulコアラの温故知新ブログ、IHI等より抜粋)歴史って興味津々ですね~

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2008年12月21日 (日)

江川太郎左衛門(江川英龍ひでたつ) 8

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江川太郎左衛門(江川英龍ひでたつ) 8

江川太郎左衛門(江川英龍)と塾生「大山巌」 

江川英龍」は国外に唯一門戸を開き、西洋文明に直に接した長崎の「高橋秋帆」から洋式の砲術を始め、兵制や蘭学を学んだ。これが江戸防衛の建白書の提案に繋がっている。この学問なり技術は「佐久間象山」「桂小五郎」「大山巌」に。のちに「佐久間象山」が我が国が誇る開明的な蘭学者として兵学や砲術、地勢学に精通した第一人者になる。江戸に出て「吉田松陰」や「橋本佐内」、「勝海舟」などの人材を育てた。「一橋慶喜」に招かれて海防問題に関する顧問を勤めた。

Iwao_oyama_大山巌江川塾生・西郷隆盛の従兄弟・陸軍大臣・元帥沼津牛臥に別荘を持っていた事は若い方はご存じないだろう。牛臥山に抱かれた別荘は前面が駿河湾の特別な場所に有った。母や祖母から大山元帥の話は幼い頃よく聞いた記憶が有る。今は牛臥山公園となり市民の憩いの場となっている。

「旧沼津御用邸時代の別荘」明治22年(1889年)東海道線の開通により風光明媚な牛臥から静浦にかけて薩摩藩出身の大山巌元帥・西郷従道元帥・川村純義海軍大将や佐賀藩大木喬任たかとう文部大臣の別荘がいち早く建てられた。明治26年(1893年)御用邸が造営されると千本から内浦にかけ沼津は一大保養地として脚光を浴びるように成る。

私の地元でもあるこの地が明治時代に日本有数の別荘地だった。これは興味有ですね~次のゆっくり調べるシリーズは「明治時代の沼津の別荘」を追いかけてみますか。

2008年12月11日 (木)

江川太郎左衛門(江川英龍ひでたつ) 7

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江川太郎左衛門(江川英龍ひでたつ) 7

江川太郎左衛門(江川英龍ひでたつ)と大場の久八

Img_0110任侠久八」といわれた「大場の久八」は、文化十一年十月二日(1814)伊豆の国、田方郡函南村間宮の百姓栄助の長男として生まれました。姓は森、名は久治郎、通称久八といわれ、六尺二寸の大男であったそうです。江戸湾お台場築造に数千人もの人足を連れ「江川太郎左衛門」に協力した人物です。

壽永六年ペリー黒船艦隊が浦賀へ来航、品川沖へも江戸湾深く入って来ました、江戸の町は大騒ぎとなり、武士の間では攘夷論が真剣に論じられる様になりました。 幕府は「坦庵公」の建白を取り上げ、お台場の築造を全任しました。「坦庵公」はエンゲルベルツのオランダ式築城法を学んでいて、これを元に、工事の総指揮官に就任し、鋼鉄洋式砲を韮山で造り、土木工事は甲州の土木請負、天野海蔵を指名しました。 やがて海蔵は、土運びの人足を集Img_0113 める難題にぶつかり、三島にやって参り、「久八」を招き、 「久八どん、ほかでもねぇ、あんたを見込んでの頼みなんだ「江川太郎左ェ門」様から江戸湾お「台場」の土方を頼まれたにだが人足が少ねぇ、なにせ海の上だから何人かかるかわからねぇー、ここはたっての頼みだ」と頭を下げた。そこへ柏木総蔵が入って参りました。この人は代官所の役人で 「久八、この度は坦庵様がじかに海蔵殿にご依頼されたものだ、ここにお墨付きがある、久八の名も乗っておるので間違いないぞ」 「こりゃ柏木様のお出ましとはもっImg_0115 てーねー、わっちも任侠道を歩く人間だ、命をかけてお引受けいたしゃしょう」 そして、久八の人足集めが大いそぎで始められ「久八」は千人を引き連れて江戸へ上がりました。これには「江川太郎左ェ門公」もすっかり感服しまして、「任侠久八」の書を賜り、十手取り縄を授けると申されましたが、久八は、 「おことわりいたします。私は任侠一すじの覚悟をしております。二足のわらじははいたことはございません。せっかくですが、お気持ちだけいただきます」 坦庵公は二度感服しまして大そうの金子を与えたそうでございます。これが江戸中に知れ渡り、大仕事をした「お台場の久八親分」として江戸の有名人となり、新門辰五郎とも親交を結び、関東の侠客小金井の小次郎とも兄弟分となったという。

やがて維新戦争となり、薩、長、土、肥の官軍が伊豆へも進軍し、「久八」は代官所に義理を立て、鉄砲隊を組織して、徹底的に官軍に抵抗しました。 そして、敗戦。官軍に追われる身となります。一時甲州へ逃れていましたが韮山へ戻って来ますが、すでに維新政府の韮山県が置かれ、県令に捕えられましたが、東京の芝増上寺の管長などの有名な人々の運動によって釈放され堅気となり、農業に励むかたわら、学校を建て、貧困の者を助け、郷土の子弟の育成に力をそそいだという事です。
そして「久八」は明治二十五年十二月四日七十九才にて、大波乱に満ちた人生を終えた。 久八の墓は田方郡函南町間宮の「広渡寺」にあります。


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2008年12月 7日 (日)

江川太郎左衛門(江川英龍ひでたつ) 6

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江川太郎左衛門(江川英龍ひでたつ) 6

パン祖・江川英龍坦庵

日本人ではじめて本格的にパン製造を行ったのは、伊豆韮山の代官であり、軍学者でもあった「江川太郎左衛門英龍」です。日本の海防に危機感を抱いていた江川太郎左衛門は 日持ちのする腐らない しかも 米をたくときのように煙で敵に居所を知られない ”パン”を何とか作りいたいと考えたんです。江川太郎左衛門の師に当たる高島秋帆の従者に、長崎のオランダ屋敷に料理方として勤め、製パン技術を覚えた作太郎という人がいました。そこで、作太郎を伊豆韮山の「江川太郎左衛門」宅に呼び寄せ、パン焼き窯を作り、1842年4月12日、記念すべき「兵糧パン」第1号が焼き上げられました。この兵糧パンはまあまあの評判を得て、その後、大規模な製パン所で、大量のパンが作られるようになったのです。また、水戸や薩摩でも、同じようなパンが作られるようになりました。

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1854年に鎖国が解かれると、横浜、神戸など港町を中心に、パン作りが広がりました。1869年、現存するパン屋でもっとも古い「木村屋総本店」が銀座に開業。6年後には、日本独特の「あんパン」が発売され、人気商品になりました。

「江川邸」当時の代官屋敷をそのままの形で今に伝える、国の重要文化財です。 場所 伊豆の国市韮山韮山1

2008年12月 2日 (火)

江川太郎左衛門(江川英龍ひでたつ) 5

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江川太郎左衛門(江川英龍ひでたつ) 5

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主家の内部」棟高12.26m 土間から見上げた天井の作りが「小屋組」作りと呼ばれ有名なものである。流罪によって伊東に居住していた日蓮聖人をこの家にお迎えし供養を尽くした。聖人から「この旧家がなお繁栄するように」と自筆の「棟札」を贈られた。そのご利益により700年以上火災にもあわず無事に保たれてきたと伝えられる。欅柱と左右に張りめぐる梁を中核に大小の柱が更にきめ細かに組上がっている。

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生き柱」江川家がこの地に移り住んだ時に、生えていた欅をそのまま柱として利用したものと考え、大事にされている「生き柱」大変珍しい柱である。

Egawa_1_2Egawa_2江川家家紋」徳川家康が伊豆北条にきた時二十八代「太郎左衛門英長」が江川酒と白餅を献上した。「ご賞味あそばれ、井水清く、軽く、酒に叶い、養老酒ともいうべし」と称賛され、自ら河原の野菊を祈って、これから「井の内に菊を家紋とせよ」と言われたという。
Img_0066江川家では上意であるので、五三の桐門から「井桁に十六葉の菊紋」にしたという。

2008年11月29日 (土)

江川太郎左衛門(江川英龍ひでたつ) 4

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江川太郎左衛門(江川英龍ひでたつ) 4

韮山反射炉」18~19世紀におけるアジア近隣は西洋諸国の力による進出で、国権さえ危うくする事態が諸所に起きていたが、鎖国政策により海外への目を閉ざされていた日本は表面泰平をむさぼる状態にあった。先覚者「江川英龍担庵」はこれを深く憂え、国防特に海防の必要性を強く訴え、幕府に対して江戸湾防衛の具体策を建言してきたが、やがて幕府の容れるところとなり、品川沖に台場を構築し、大砲を据え、侵入する異国船を打ち払う方針が打ち出された。江川家三十六代担庵公は十八世紀のヨーロッパ諸国の植民地政策に対抗するため、鉄製の大砲を大量に鋳造する必要性を幕府に進言し、多くの困難のすえ着工した。

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嘉永2年(1849)「英龍」が、幕府の許可を貰い自宅に今の原型となる小反射炉を築造する。嘉永6年(1853) 幕府から反射炉築造を許可を貰い、「伊豆下田」に反射炉の築造開始。当初、伊豆下田高馬に着工するが、翌年下田が開港され、外国船の乗組員が上陸して来たりするので、天城山を越えた韮山に移築する。反射炉の建設、移築とも併せ幕命で品川に台場を築き、安政元年(1854)露使プチャーチンの乗艦「デイアナ号」が沈没、その代船を戸田で建造、その取締役をも命じられている。

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東奔西走の担庵も心身の過労に勝てず、翌年一月、五十五歳で多難な生涯を終えた。
安政4年(1857) 6月、その意志を継いだ子の英敏らにより完成することになる。

2008年11月27日 (木)

江川太郎左衛門(江川英龍ひでたつ) 3

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江戸湾の海防

天保8年(1837)6月、突然見たこともない船が来て国中が驚く。ペリーの黒船ではなく、中国のマカオを根拠地にしているアメリカ商船「モリソン号」で海外に漂着した日本人たちを引き替えに日本との貿易を開こうと目論んでいたのだが。
商船モリソン号が江戸の海にやってきた翌1838年末、海防担当の老中「水野忠邦」は今後に備えるため、江戸近海の調査を計画した。そこで「川路聖謨」からの推薦もあって「江川英龍」を副使に任命する。「江川英龍」は「江戸の海防」を以下の様にまとめ、幕府に提案した。「房総、三浦両半島や富津の沖に人工島作りを大砲を据えて、外敵の侵入をふせぎ、守備隊に農民を当てる」と言う要旨のもので海防のため、砲台の位置など具体的な配置まで作ったという。しかし、折角作った「江川」と「崋山」の草案も幕府の強力な推進者がなかったのか、具体化されないまま、幻の国防案として温められてしまった。
その14年後にやってきた「ペリー艦隊」は、遥か相模湾から江戸湾に我が物顔で航行し、その異様な姿をさらす示唆行為に江戸ばかりでなく、日本全体を震撼させた。軍艦7隻に驚かされて日米和親条約を結ばされる。その後、前水戸藩主「徳川成彬」を幕政に参与させ、国防充実する必要性から江戸湾に「台場」を気付くなどの安政の改革を行い江戸幕府末期から明治新政府の手によって、ようやく具体化され「英竜」の遺志は継がれた 。やって来た一隻の舟が国防意識を高め、「大砲や農兵隊」作りの芽を作ったのは言うまでもない。

西洋砲術と江川塾

江川英龍」は国外に唯一門戸を開き、西洋文明に直に接した長崎の「高橋秋帆」から洋式の砲術を始め、兵制や蘭学を学んだ。これが前述の江戸防衛の建白書の提案に繋がっている。この学問なり技術は「佐久間象山」「桂小五郎」「大山巌」に伝授した。のちに「佐久間象山」が我が国が誇る開明的な蘭学者として兵学や砲術、地勢学に精通した第一人者になる。江戸に出てから象山書院を開設、「吉田松陰」や「橋本佐内」、「勝海舟」など人材を育てた。「一橋慶喜」に招かれて海防問題に関する顧問を勤めた。

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母屋左側の一部はかつて塾になっており、その塾生に「佐久間象山」などの逸材が当所で育ち、羽ばたいて行った。近代日本の国家作りの為の人材作りの面でも「英龍」の役割は大きかった。担庵が他藩の者に韮山で教授したのは天保4年(1843)より10年あまりである。担庵の没後は江戸芝新銭座大小砲習練場において、担庵の嫡子、英敏を中心に担庵より指導を受けた門弟たちが、その数4000人とも言われている。

2008年11月24日 (月)

江川太郎左衛門(江川英龍ひでたつ) 2

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江川太郎左衛門(江川英龍ひでたつ) 2

江戸幕府の代官」とは勘定奉行の配下で幕府直轄領の支配を担当する役人、つまり幕府直属の地方行政官です。関東筋・畿内筋など各地域に代官役所が置かれ、江戸時代後期にはおよそ40人の代官によって、400万石にもおよぶ幕府直轄領の支配が行われていました。代官は、この広い支配地域において、年貢の徴収などの他に、管轄下の村々の戸籍(宗門人別帳)の管理や紛争処理、治安維持や罪人の処罰、村方への貸付金の運用など、行政・司法・警察・金融と、実に様々な業務をこなさなければなりませんでした。

Img_0045 江川邸「表門」

韮山代官

他の幕府代官と同じように幕府直轄領を支配する代官の一人。その支配地域は時期によって変化しますが、おおむね伊豆国(現静岡県)を中心として駿河国(現静岡県)・相模国(現神奈川県)・武蔵国(現東京都・埼玉県)・甲斐国(現山梨県)をその範囲としていました。また、伊豆諸島が管轄下に入っている時期もありました。石高は5万石から10万石余(当分預所を含めて)におよんでいます。
韮山代官の役所は江戸と韮山の二か所にあり、江戸役所で武蔵・相模・甲斐、韮山役所で伊豆・駿河の支配を担当していたと考えられています。また、代官役所の出先機関として、三島に三島陣屋、甲斐国都留郡に谷村陣屋、駿河国富士郡に松岡陣屋が置かれていた。

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江川邸「庭の紅葉」

 

韮山代官となった「江川英龍」の前には、解決しなければならない問題が山積していました。特に、天保9年7月に韮山代官所支配に編入された甲斐の国都留郡は、その2年前に甲州騒動(郡内騒動)と呼ばれる大規模な打ち壊しが発生した地域で、いまだ人心も荒廃しており、統治の難しい土地として知られていました。しかし英龍は、事前に身分を隠しての民情視察を行うなど、実情を把握していただけでなく、正式に支配を開始してからは、有能な手代を派遣して公正な民政を実施させました。また、困窮した村方に対して長期低金利による貸付金を設定するなど、金融面での施策も積極的に導入しています。      (江川邸HPより)

2008年11月22日 (土)

江川太郎左衛門(江川英龍ひでたつ) 1

36代江川太郎左衛門(江川英龍ひでたつ) 1

静岡東部の歴史を紐解いていく中で、興味を抱く人物は多いが中でも「源頼朝」「北条早雲」「江川太郎左衛門」は特別な人物である。前回「北条早雲」を取り上げ「早雲の生立ち」→「駿河下向」「興国寺城址」→「伊豆討ち入り」「韮山城址」→「小田原城」まで調べてきた。歴史は学ぶほど興味が湧く、興味が湧くと足を運び調べてみたくなる。早雲が伊豆に討ち入り韮山城に入った時に、「23代江川英住」が「早雲」の家来にとなり「後北条」に仕える。早雲と江川家の接点がこのあたりにある。又「頼朝」伊豆旗揚げに「9代宇野親信」が参加したとも云われています。歴史とはこんな繋がりが興味をそそる大きな要素でしょうね。

Tannan江川家」と「英龍

初代は大和源氏の祖とされる「源頼親みなもとのよりちか」8代までは大和国(奈良県)に居た。「9代宇野親信うのちかのぶ」が、従者と共に伊豆のヤマキと呼ばれた現在地に移住し鎌倉幕府・室町幕府に仕えヤマキの豪族として勢力をもったようです。「23代英住ひでずみ」が早雲の家来となり、以後、後北条氏に仕えたこと、江川酒を醸造して名声を得ていたことは良く聞く話です。「28代の江川英長ひでなが」が、「徳川家康」に仕えて「代官」になり、以後明治に至るまで代々「代官」が続く。家督相続した当主は「皆太郎左衛門」を称しました「韮山代官」の役所は「江戸と韮山」の二か所にあり、「江戸役所で武蔵・相模・甲斐」「韮山役所で伊豆・駿河」の支配を担当していたといいます。「英龍ひでたつは、文政7年(1824)から代官見習として父英毅(ひでたけ)の仕事を補佐し経験を積んだ後、天保6年(1835)に「韮山代官」となりました。

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