カテゴリー「【北条早雲】沼津~小田原」の8件の記事

2012年9月18日 (火)

「北条早雲の小田原へ」

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久しぶりに小田原、後北条氏巡りに出かけました。沼津から国1箱根越え約30kmの距離ですが天下の剣箱根山が控えなかなか行く事がない小田原です。

Sdsc_0020

伊豆の「北条早雲」は明応4年(1495年)9月策略をこうじ、小田原城・大森藤頼に夜襲をかけ、城と城付の領地を奪いました。 早雲は敵味方双方に あまり多くの犠牲を出さずに比較的容易に小田原城乗っ取ります。(小田原駅西口の早雲の銅像)

Gh_kamon私の住む沼津の興国寺城は伊勢新九郎長氏(北条早雲)の「旗揚げの城として名高い城である」当時50歳を超えた早雲が興国寺城を足掛かりに戦国時代関東一円を支配した後北条氏五代の祖であり、歴史上も興味を引く拠点小田原でもある。戦国時代の先駆け早雲は熟年の年齢から出世した我々世代には頼もしい男である。その家紋は「三つ鱗」である。三つ鱗は鎌倉執権家北条氏の家紋であった。自ら北条氏の後裔を称し、北条氏にならって三つ鱗を用いたのだろうか。120110122135910「小田原城」北条氏の本拠地であった小田原城(戦国時代から江戸時代)城址は国の史跡指定。最大の特徴は、豊臣軍に対抗するために作られた広大な外郭で八幡山から海側に至るまで小田原の町全体を総延長9キロメートルの土塁と空堀で取り囲んだものであり、後の豊臣大坂城の惣構を凌いでいたという。(小田原の後北条氏の史跡は数も多いが以前紹介したので今回は除く)

Sdsc_0002途中箱根峠の道路脇にもススキがたくさん見受けられ穏やかな芦ノ湖をゆっくり遊覧船が動いていました。Sdsc_0006箱根旧道沿いの紅葉林も1か月もすれば色づいてくるでしょう。

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2009年11月17日 (火)

後北条(北条五代 早雲・氏綱・氏康・氏政・氏直)

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後北条(北条五代 早雲・氏綱・氏康・氏政・氏直)

初代早雲から始まり、以来五代百年 代々名君に恵まれ広く善政を敷き、東国一の繁栄と安定を保っていた。早雲が歴史の表舞台に出てきたのは、妹の嫁ぎ先である今川家の家督争いを早雲が解決し、その手柄として沼津市にある興国寺城を与えられた事から始まる。
その後伊豆・小田原と次々に手に入れ、着実に戦国大名としての道を歩み始めました。
1495年伊豆の北条早雲が小田原を平定し五代約100年間、民百姓を大事にし、教育文化の高揚と海運を活用して商工業の振興を図る1590年豊臣秀吉により攻め落とされ開城し北条五代は幕を閉じた。

Dscn6957 初代 早雲(そううん)

後北条の祖、早雲とは伊勢

新九郎宗瑞であり、京都建

仁寺にて修学、禅道号宗瑞

を賜り早雲庵宗瑞と号してい

た。今川家の家督争いを見

事終結、それにより沼津興国

寺城を手に入れる。その後

伊豆・小田原と次々に手中にし戦国大名としての道を歩み始

める。北条早雲と呼ばれ1495年小田原平定し四公六民の

善政をしき民百姓を大事にした、1519年88歳で没。

Dscn6958 ニ代 氏綱(うじつな)

沼津興国寺城で誕生したとい

われる。今川義元とは決別し

武蔵・下総国に進出。1523年

北条に改姓。知略に秀でた武将

で1540年には鎌倉の鶴岡八幡

宮を営繕完成させる弟と共に

文化にも力をいれた1541年55

歳小田原城で没。氏綱の弟、幻庵は早雲の三男で北条五代を生きぬき1589年97歳で没。

Dscn6959 三代 氏康(うじやす)

氏綱の子で関東全域を治め

北条文化全盛期を築く、

武田信玄・上杉謙信と共に

関東の三名将と称され帝王

学を身に付け教養豊な

平和を愛する名将と言われた、

1571年57歳で没。

Dscn6960

四代 氏政(うじまさ)

隣国との争いがあり、

戦国時代の情勢が

変化し秀吉の大群に

攻め落とされ自害

1590年53歳で没

Dscn6961 五代 氏直(うじなお)

1580年に氏政から家督をゆずられ1582年には徳川家康と和睦、家康の娘督姫と結婚。1590年秀吉に小田原城を攻め落とされた後高野山へ移されるがその後、氏直は許され1万石を与えられ家は維持されたいう。やがて氏直は1591年30歳で亡くなるが、氏直の叔父の氏規が、河内国狭山に所領を与えられ、幕末まで河内狭山藩1万石として引き継がれる。そして、小田原北条氏の領民を大切にする想いも、受け継がれていたという。

小田原の発展の礎を作った、北条五代百年の善政を慕っての北条五代祭りが、毎年5月の連休中にある。

「北条五代墓所早雲寺」北条氏綱が伊勢新九朗(早雲)の遺言により、1521年に建立した臨済宗の寺である。豊臣秀吉による小田原攻めでは、秀吉の在所となった。墓地奥の石段を登ったところに北条五代の墓所が五基並んでいる。これは寛文十二年(1672)に後北条氏の末裔である河内国狭山藩主北条氏治により建立されたものといわれる。

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2008年11月20日 (木)

北条早雲 6 「早雲から氏綱へ」

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北条早雲 6 「早雲から氏綱へHouzyou_5

P1000365 永正15年(1518年)には、家督を子・氏綱に譲ります。その前後より「虎印判状」が登場、虎をかたどった印を使い始めます。かつて早雲は「三嶋大明神」に深く帰依しており、そんな折り縁起の良い夢を見たといいます。「野原に2本の大きな杉が立っており、そこに1匹の小さな鼠(ねずP1000371み)が現れ、その杉の根をかじり始めた。すると2本の杉は倒れ、鼠(ねずみ)が 虎になった」…という夢です。その夢を早雲は、2本の杉を山内・扇谷両上杉氏、鼠(ねずみ)を子(ね)年生まれの自分と解釈し、虎となって山内・扇谷両上杉氏と戦う事を自分の使命と受け取ったのです。子(ね)年生まれの自分と虎になった鼠(ねずみ)を重ね合わせ、虎をかたどったP1000370印を使ったのではないかと思います。きっとそんな話しを、子・氏綱にしながら家督 を譲り、彼に想いを託したのではないでしょうか。印に彫られた文字は「禄寿応隠」。「人民よ皆平和に暮らそう」という意味です。
家督を譲った翌年、永正16年(1519年)8月15日、安心したのか早雲は、韮山城で亡くなりました。88歳という当時としてはかなりの大往生でした。 P1000375箱根の早雲寺にお墓があります。法名・早雲寺殿天岳宗瑞大禅定門。

2代氏綱からは又の機会に~

2008年11月19日 (水)

北条早雲 5 「山内上杉顕定と扇谷上杉朝良」

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北条早雲 5 「山内上杉顕定と扇谷上杉朝良

Houzyou_4 関東で争っていた山内上杉顕定と扇谷上杉朝良は「このまま対立していては、早雲にやられる」と気付き始め、永正7年(1510年)6月、早雲が扇谷上杉朝良の家臣・上田政盛を味方に寝返らせたところで、ついに、それまで早雲に好意的だった朝良も山内上杉顕定の養子・憲房と結び、同年7月19日早雲の城として取り立てられたばかりの権現山城へと襲いかかりました。はじめての山内・扇谷両上杉氏の大連合軍によって早雲はE697a9e99bb2e996a2e4bf82e59bb3大敗を喫し、上杉の壁 がいかに厚く高いかを思い知らされることとなりました。両上杉氏を直接相手にしたのでは勝ち目がないと判断した早雲は、永正8年(1511年)扇谷上杉氏と和睦しつつ、扇谷上杉氏の重臣で相模国最大の勢力を持つ三浦氏の討伐に的を絞ります。そして永正9年(1512年)8月、早雲の軍勢は三浦氏当主・義同(道寸)のいる岡崎城を急襲、三浦道寸は城を支えることが出来ずに住吉城へと逃れ新井城へと落ちのびます。そのままSos4新井城を攻め三浦氏にとどめをという家臣もあったけれど、三浦氏の実力を知っていた早雲は慎重にならざるを得ず、そこではそれ以上攻め入ることはありませんでした

2008年11月18日 (火)

北条早雲 4 「小田原城略取」

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北条早雲 4 「小田原城略取

Houzyou_3 伊豆平定にある程度成功した早雲は、西相模・小田原城へと目を向けます。当時の小田原城主は山内上杉顕定の重臣大森氏頼であり、山内上杉氏との闘争に明け暮れる扇谷上杉氏に対しても、有力な加勢として参陣の実績を重ね、大森氏を討っても扇谷への反逆にならない立場を固め準備を進めました。しかし、小田原城主・大森氏頼も手強くうまく行かずに いました。そして氏頼が死んだところであとを継いだ藤頼に接近し、手紙Dscn2746のやりとりや珍しい品物を贈ったりして藤頼を油断させます。そして、早雲は藤頼に「伊豆で鹿狩りをしていたら箱根山に逃げてしまった。伊豆に鹿を追い返すために勢子を入れさせて欲しい」と頼みます。何の疑いも持たない藤頼は「御自由に」と返事をしてしまいます。そうして、勢子に化けた 早雲の01一隊は明応4年(1495年)9月、小田原城・大森藤頼に夜襲をかけ、城と城付の領地を奪い取ってしまいました。 早雲は敵味方双方に あまり多くの犠牲を出さずに比較的容易に小田原城乗っ取りを成功させま11す。

2008年11月16日 (日)

北条早雲 3 「伊豆討ち入り」

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北条早雲3「伊豆討ち入り」戦国期の幕開け

Houzyou_2 延徳3年(1491年)4月3日、堀越公方足利政知の死にともなう公方家中の乱れに乗じて、同年10月11日の夜、氏親の兵を借り堀越御所を急襲して、後継者茶々丸を自害させて伊豆一国を手中に収めます。有名な「伊豆討ち入り」です。公方家中の乱れに乗じてとはいえ、伊豆は堀越公方の直轄地であり、代々山内上杉氏の守護領。その奪取はきわめて大胆で、今川氏配下の一客将の挙としては無謀ともいえます。しかし、この行動のPhoto軍事的指揮そのものは早雲の手によったものですが、その背景には大きな政治的了解が潜んでいたようです。山内上杉氏や扇谷上杉氏、太田道灌の存在、また早雲が伊豆を制圧したとき、扇谷上杉氏と山内上杉氏が合戦中で、伊豆の武士はみなその戦いに加わり、伊豆には百姓ばかりという、絶好の機会でもあったのです。また、早雲は伊豆攻略にあたって、その善後策に精力を注ぎました。今川氏、扇谷上杉氏との関係のみならず、自ら湯治客などを装って敵情偵察なども行っています。農民撫育やPhoto諸卒の士気高揚に意を尽くし、伊豆の在地武士の領地安堵の条件として、四公六民を言い渡し「願わくば民ゆたかにあれかし」と説いています。その待遇に感激した民百姓が早雲の戦いに積極的に参加する意思を表明してしまうほどでした。早雲は当時の大名に欠けていた、民政に意を用いたのです。また、それは足軽や陣夫の積極的な徴用という面にも表れます。そして、これらのことは、早雲の戦略戦術面に重要な作用をもたらしていたと考えられます。早雲は戦略家、現Dscn0192実的政治家としても只者ではなかったようです。

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2008年11月10日 (月)

北条早雲 2 「興国寺城」

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北条早雲 2 「興国寺城」

Img_0865興国寺城」は沼津市根古屋に所在し、戦国時代に関東一円を支配した後北条氏の祖である伊勢新九郎長氏(北条早雲)の「旗揚げの城として名高い城である
(今川氏に身を寄せていた盛時は文明8年(1476年)義忠が急死すると、その後の相続争いに今川氏親を助けた功があり、長享2年(1488年)頃、Photo 富士郡下方12郷を与えられ、興国寺城主となった。北条早雲50半ば過ぎ)
交通の要衝に位置した為今川氏滅亡後も武田・北条の争奪戦が繰り返され、その後は徳川の支配下に入るなど、駿東郡の戦国時代を代表する城である。(沼津市誌)関ヶ原の合戦により家康の天下が確定し、駿河は再び徳川氏の領土となった。翌6年、興国寺城には天野康景が1万石で入城した。天野康景はよほど頑固な人物であったようで、7年後の慶長12年、天領の百姓を斬殺した家臣を引き渡すように家康に命じられたが、こImg_0870 れを拒否。天野氏は除封となり、同時に興国寺城も廃城となったという。このように、今川、北条、武田、徳川と、めまぐるしく城主が入れ替わった城であった。城地は愛鷹山麓の尾根上にあるが、南方はかつての湿地帯、浮島ケ原の東端で人馬の踏み込みが困難な要害地だった。また、城地の一部を東西に根方街道が通過する一方、南に竹田道が伸び、根方Img_0867 街道と東海道を結ぶ交通の要衝でもあった。それだけ重要な城であったということであろう。 城の構造は、尾根の先端部を利用した連郭式縄張りで、北から北曲輪・本丸・二の丸・三の丸の順に配され、北曲輪と本丸の間には大空堀がある。本丸は標高36m、土塁内側で東西60m、南北50mの規模があり、北側土塁の最高部には約300㎡の平坦地があり、ここが天守台跡と伝えられている。また、本丸南方には石火矢台(石火矢は大砲という意味)があり、三の丸南端にも土塁の跡が残されている。昭和57年には天守台跡の発掘調査が行われ、東西2棟の建物の礎石がImg_0866 検出された。また、天守台跡の南面には石垣遺構も残されている。また、東船着場跡と伝承される小さな曲輪や東側の小字清水の台地もこの城郭に取り込まれていたと考えられ、清水曲輪と呼称している。

2008年11月 8日 (土)

北条早雲 1 「生い立ち」

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静岡東部沼津周辺の歴史探索をしていて興味を持ったのが「源頼朝」そして「北条早雲」と「江川坦庵」チョット調べてみたくなりましたね。少し時間を掛けて今回はまず「北条早雲」から書き込んでいきます。

Houzyou北条早雲(伊勢盛時) 」は室町中後期の武将で戦国大名となった後北条氏の祖である。永享4年(1432年)頃備中伊勢氏の高越山城の城主伊勢盛定の子・新九郎盛時として生まれ、京へとのぼり京都伊勢氏の伊勢貞高の養子となりました。

一介の素浪人から戦国大名にのし上がった下剋上の典型とするのが長く通説とされてきましたが、実際には室町幕府政所執事を務めた伊勢氏とみられる。伊勢新九郎盛時」の名は文明131481から文書に現れる。文明151481に将軍義尚の申次衆に任命されている。長享元年1487奉公衆となる。京で幕府に出仕して いる間、早雲は建仁寺大徳寺で禅を学んでいる。

Sou03文明81476今川義忠遠江国の塩売坂の戦いで西軍の遠江守護斯波義廉方の国人横地氏勝間田氏の襲撃を受けて討ち死に残された嫡男「龍王丸」は幼少であり、このため今川氏の家臣三浦氏朝比奈氏などが一族の小鹿範満(義忠の従兄弟)を擁立して、家中が二分される家督争いとなった。これに堀越公方扇谷上杉氏が介入し、それぞれ執事の上杉政憲と家宰の太田道灌を駿河国へ兵を率いて派遣させた。範満上杉政憲は血縁があり、また太田道灌も史料に「合力」と記されている。「龍王丸」派にとって情勢は不利であった。「北川殿」の弟(または兄)である「早雲」は駿河国へ下り、調停を行い「龍王丸」が成人するまで範満を家督代行とすることで決着させた。上杉政憲と太田道灌も撤兵させた(こSou2の時に道灌と会談したという話もある。旧来の説なら、早雲と道灌は同年齢であった)両派は浅間神社で神水を酌み交わして和議を誓った。家督を代行した範満が駿河館に入り、龍王丸は母北川殿と小川の法永長者(長谷川政宣)の屋敷小川城焼津市))に身を寄せた。従来、この調停成功は早雲の抜群の知略による立身出世の第一歩とされるが、これは貞親・盛定の命により駿河守護家・今川氏の家督相続介入の為に下向したものであるとの説が有力となっている。今川氏の家督争いが収まると早雲は京へ戻り、上述のとおり将軍義尚に仕えて奉公衆になっている。

駿河下向

文明111479前将軍義政は「龍王丸」の家督継承を認めて本領を安堵する内書を出している。ところが、「龍王丸」が15歳を過ぎて成人しても「範満」は家督を戻そうとはしなかった。長享元年1487年)早雲」は再び駿河国へ下り、「龍王丸」を補佐すると共に石脇城(焼津市)に入って同志を集めた。同年11月、「早雲」は兵を起こし、駿河館を襲撃して範満とその弟小鹿孫五郎を殺した。龍王丸は駿河館に入り、2年後に元服して氏親を名乗り正式に今川家当主となる。

Sou_zu 早雲は伊豆国との国境に近い「興国寺城(現沼津市と所領を与えられた。駿河へ留まり、今川氏の家臣となった早雲は氏親を補佐、守護代の出す「打渡状」を発行していることから駿河守護代の地位にあったとも考えられている。この頃に早雲は伊勢家と同格である平氏一門の幕府奉公衆小笠原政清の娘(南陽院殿)と結婚し、嫡男「氏綱」が生まれている。

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