「朝散歩で見つけ寛文七年の石碑」
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散歩中墓地の入り口に古い石碑が有る。前からに気になっていて今日じっくり見たら「寛文七年・南無妙法蓮華経‥‥・」の文字。寛文(かんぶん)は万治の後、延宝の前。1661年から1673年までの期間を指す。寛文七年は1667年、今から355年前になる。
この時代の天皇は後西天皇、霊元天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱とある。寛文二年1662年には近江・若狭大地震が連続発生。
沼津の歴史をみると大久保忠佐が三枚橋城の城主になったのが1601年、内膳堀が完成したのが1644年、その時代に近い頃だ!
この周辺の歴史を少し遡って見よう!(※これより戦国のいくさと沼津より)
天正8年(1580年)、駿河へ兵を進めた武田軍とこれをむかえうった北条軍とが、千本浜の沖で海戦をおこなった。そしてその後、千本付近で両者の地上戦がおこなわれ多数の死傷者が出る激しいものであった。
このころ、武田方は、小田原の北条氏にそなえて、三枚橋と呼ばれるようになっていたかっての「車返」の地に三枚橋城を築き、勝頼の家臣高坂源五郎が守ることになった。一方、狩野川をはさんで南側には、わずかの距離のところに北条方の戸倉城(清水町徳倉)や大平新城があった。天正9年(1581年)には、戸倉城の城主笠原新六郎が、北条方を裏切って高坂源五郎に降伏したということもあったようで、両者の間には、常に激しいかけひきや戦いがおこなわれていたのであろう。
高坂源五郎を城代とした三枚橋城は、その後松平康親・中村一栄がつぎつぎと城主・城代となり、慶長6年(1601年)、大久保忠佐が城主となった。沼津は、城下町としての性格をもつようになった。
(※武田対北条 香貫古戦場 2019年10月ブログ)
「東駿河の戦国要図」天分14年(1545)~永禄3年(1560)今川支配図
武田氏対北条氏の「香貫古戦場」は”千本沖合戦”は多くの人が知っているが、同じ時期に沼津香貫で両軍の合戦があったことは余り知られていない。三枚橋城(武田氏)と戸倉城(北条氏)は狩野川を挟んで僅か10kmの距離のところにあったから小競り合いは常に絶えなかった。
国道414号の香貫一帯は武田と北条の「古戦場」があった地区と伝えられています。天正8年(1580)9月香貫周辺で行われた「武田勝頼」対「北条氏政」の「合戦の布陣図」(東間門田中家文書)。「武田方の三枚橋城」と「北条の戸倉城」を出た兵は、今の八重坂を越えたあたり、この下香貫の地で戦った。
(下香貫、此の辺古戦場と記載されている)昔この地区で建物を建てようと掘削すると人骨が良く見つかった。皆おおっぴらにするのをいやがって内々で処理したと今は亡き老人からよく聞いた。天正8年といえば御館の乱と武田・北条の手切れ直後のことで、すごく生々しいものを感じます。(甲州方が勝利)
この石碑のあった場所はまさに古戦場の真っ只中、石碑の文字が判読できず残念だが家の近くの歴史を遠く遡って想像するのもまた楽しい!今朝の散歩は3000歩 時間は石碑で30分で1時間の所要時間だった。
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