カテゴリー「【246号長泉~裾野~御殿場~小山】」の8件の記事

2008年5月30日 (金)

【ぶらり御殿場市2】国道246号

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「御殿場市」②

御殿場の歴史」人々が住み着き始めたのは、今から6~7千年前の縄文時代早期と呼ばれる頃であった。当時の人々が残した土器や住居の跡が箱根外輪山の中腹から多数発見されている。この頃は、富士山が盛んに火山活動をしており、噴火があると逃げ、おさまると住み着くということを何度も繰り返していたようだ。「中田遺跡」「大沢原古墳群」がある。8世紀以降には「永原追分遺跡」がある。

10世紀から11世紀ごろにかけて、この地方は「大沼鮎沢御厨」という伊勢神宮の荘園となり、今でもこの地方を「みくりや」と呼んでいる。鎌倉時代に入ると、建久4年(1193)5月、将軍源頼朝による富士の巻狩りが行われた。市内には、この巻狩りに因んだ多くの伝説や地名が残っている。

Photo御殿場発祥の地」むかしから御殿場・小山・裾野地方を御厨(みくりや)といったが、厨(くりや)とは台所のことで、伊勢神宮の台所をまかなうための神宮領に指定され、物産を貢納させる地域は御厨と呼ばれておりました。「御殿場」という地名のいわれは、御殿のある場所の意であり、江戸時代に鷹狩りの好きな徳川家康がこの地に御殿を作らせたことによります。(戦国時代、この地は駿河・甲斐・相模の境界地帯として幾多の戦いに巻き込まれた。深沢城跡は、永禄12年(1569)と天正8年(1580)にかけて武田氏と北条氏が争奪戦を繰り広げた城である。関ヶ原の合戦に勝利した徳川家康は征夷大将軍となり江戸幕府を開いた。元和2年(1616)、沼津代官はこの地方の土豪「芹澤将監」に対し、家康が使う御殿の造営及びその周辺に新町を建設することを命じた。家康が実際に休憩所を使用することはなかったようですが、御殿を中心に御殿新町が生まれ「御殿場」という地名はこの「御殿」に由来しているという)

Fujisannumber富士山ナンバー決定

御殿場市、富士市、富士宮市、富士市、裾野市、小山町、芝川町の3市2町と一緒に「富士山ナンバー創設促進協議会」を平成17年2月26日に設立して、地域のシンボルである「富士山」を自動車のナンバーにする活動に取り組んできました。 この度、平成20年11月4日(火)より、富士山ナンバーが交付されることが、国土交通省より正式に発表された。(山梨県の一部も含まれます)

Images御殿場アウトレット

「プレミアム・アウトレット」とは、アメリカで完成された本格的アウトレット専業ショッピングセンター。全店舗、世界各国の著名ブランドが直接出店するスタイルで、一日中ショッピングを楽しめるのが特徴です。 小さな傷があるものや売れ残り品などを正規価格よりも割安価格で手に入れられたり、アウトレットオリジナルの商品などが手に入ります。 御殿場アウトレットは、ショップ、飲食店等合わせて150店舗以上、駐車スペースも1,700台という巨大なアウトレット・モール。場所 御殿場市深沢1312
Fujisw_head富士スピードウエイ」昭和38年設立、現在はトヨタ自動車株が93%の株を持っているF1レースをはじめ各種レースが開催され自動車ファンにはたまらないスポットになっています。場所 静岡県駿東郡小山町中日向694

2008年5月29日 (木)

【ぶらり御殿場市1】国道246号

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Sisyou2御殿場市御殿場市は、霊峰富士の東麓に位置する緑豊かな高原都市です。人口は約8万7千人余を有し、静岡県では中規模な都市として発展を続けています。御殿場は東京から約100キロの距離にあり、東京・横浜などの経済圏、通勤圏内にもなっています。また、市内には東富士演習場をはじめとする自衛隊関連施設が多く存在し、市域の約3分の1を占めています。御殿場といえば、富士山。世界でも有数の名山で、日本一の高さと景観を誇る富Photo_2 土山は、御殿場を象徴する名所でもあります。四季折々の美しい景観、雄大な自然に囲まれたスポーツ環境、自然散策、歴史探訪など、御殿場はひと味ちがった楽しみを味わうことができます。むかしから御殿場・小山・裾野地方を御厨(みくりや)といったが、厨(くりや)とは台所のことで、伊勢神宮の台所をまかなうための神宮領に指定され、物産を貢納させる地域は御厨と呼ばれていました。

文化財

Photo印野溶岩隧道

国指定天然記念物。富士山の噴火によって生じた溶岩洞窟で、奇岩奇石から成る国指定の天然記念物です。富士周辺の植物が集められた御胎内清宏園の中にあります。長さ155mのU字形の隧道で、内部が人間の胎内に似ていることから御胎内とも呼ばれています。入口から小腸部、五臓部、母の室、臍帯部、子返しと続き、産道を通って外に出ます。 場所 御殿場市 印野1382-1 御胎内清宏園内

Photo_2駒門風穴

国指定天然記念物。富士山の大爆発とともにできたもので、我が国に現存している熔岩墜道のなかで旧型を保っている一番古い大き なものの一つに数えられる貴重な学術資料で、大正11年11月より天然記念物に指定されています。穴の奥には多数のコウモリや微生虫が生息しており、その種類も全国一といわれています。奥行291m、広い所で20畳分もある。入場料は大人200円、学生(中・高生)150円、小人100円です。場所 御殿場市駒門69

Photo_3深沢城址」県指定史跡。元亀元年(1570)から始まる武田氏と後北条氏の深沢城攻防戦の時が注目される。駿河の今川氏、甲斐の武田氏、相模の後北条氏は甲相駿三国同盟を結んでいたが、永禄11年(1568)武田信玄が駿河府中に侵入し、今川氏真を遠江掛川城に追い落とし三国同盟は解消され、深沢城は武田氏のものとなった。元亀元年(1570)4月、北条氏康・氏政父子の兵3万8千が深沢城を攻め落とし、後北条氏は黄八幡で有名な北条綱成を城代に任じた。 今度は、北条綱成・松田憲秀が守る城を武田方が攻めた。元亀元年(1570)11月武田信玄が城を包囲し、甲州金山の鉱夫「金堀衆」を投入し、いわゆる「もぐら戦術」によって城を掘り崩しにかかったことが、北条氏政の上杉謙信宛の書状によってわかる。翌元亀2年(1571)1月3日、信玄は綱成に向けて「深沢城矢文」で有名な矢文を射ち込み開城を迫った。綱成は開城勧告を蹴って抵抗したが、ついに30余日の籠城の末、小田原からの後詰めの軍勢が到着するのを待たずに開城し玉縄城へ退却した。その後、後北条氏も奪回を試みたがかなわず、以後、天正10年(1582)の武田氏滅亡まで武田氏の重臣駒井右京之進昌直が城主として居城した。武田氏の城となってから、三日月堀や馬出しを造成したり、かなり大掛かりな修築が行われたようである。武田氏滅亡後は徳川家康の領土となった。家康は後北条氏への押さえの城として三宅惣左衛門康貞を置いていたが、天正18年(1590)の小田原の役にて後北条氏が滅亡し、家康が関東へ移封すると深沢城も廃城となった。

Photo_3永塚の大スギ

県指定天然記念物。御殿場市永塚浅間神社境内にある「永塚の大杉」幾度か落雷を受けていると言うが、その様子には見えず、下枝が無く性良くまっすぐに伸びたまだ若々しい杉である。説明板によると、「この杉は、京都大学の上田弘一郎博士の鑑定によると、文杉(あやすぎ)という品種で、葉が短く密生し、材質も優れ生育旺盛で巨樹となる性質を具えているといわれています」とあった。

Photo_4川柳浅間神社のスギ

県指定天然記念物。永塚の大杉から北西に800 mほど走った御殿場市川柳に川柳浅間神社がある。小振りの社殿の真ん前に『川柳浅間神社の芙桑樹』の二本の大杉がふさぐように立っている。説明板によると、「玉穂地区の別荘に住まわれた海軍大将伯爵樺山資紀氏は、この樹をこよなく愛し、明治三十九年「扶桑樹」と命名されました。「扶桑」とは中国の故事に由来しており、現在も『川柳の芙桑樹』として親しまれています」

Photo_4宝永のスギ

県指定天然記念物。国道138号線を北西に向かい、市街 地を外れた仁杉(ひとすぎ)交差点を右に折れ700mほど走ると、前方右手に巨木が見えてくる。「宝永の杉」は子神社の境内、社殿の左に圧倒的な存在感であった。太さも木立ちの勢いも一級品であった。説明板には「宝永4年(1707年)富士山の宝永の噴火の砂礫が高い枝の部分に積もったまま残っていたのが発見され、以来俗称「宝永のスギ」と呼ばれていますが、当時はすでに相当な巨木であったと思われます」

Photo_5二枚橋のカシワ」県指定天然記念物。

御殿場市二枚橋の滝口氏宅にある。

東山のサイカチ」県指定天然記念物。

Photo_6御殿場市の東山YMCA入り口に ある。

「富士山東表口参道宮新橋浅間神社」古代より富士山の噴火は活発で、数次にわたって噴火があった。富士山麓に住む人々はどんなに富士山の鎮静を願ったことであろうか。富士山頂に、火を鎮める神さまといわれる木花咲耶姫命をお祀りした。後に富士宮の桜ヶ丘に浅間(あさま)神社を建立したが、この神社の御神体は富士山であって、拝殿から山頂を仰ぐことができるようになっている。浅間(せんげん)神社とも呼び富士宮浅間神社のことで、本宮となっている。山頂に建てられている神社を奥宮という。浅間神社は山梨県、静岡県に多く御殿場市内だけでも大きな神社が十五社もある。「新橋の浅間神社」・古沢の一幣司神社を初めとして、二枚橋・西田中・北久原・駒門・大坂・神山・板妻・保土沢・永塚・北畑・川柳・印野・六日市場などにある。

2008年5月26日 (月)

【ぶらり裾野市Ⅳ】国道246号編

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Photo偕楽園不動の滝

不動の滝」は溶岩流の断崖にかかっていて、高さ10m余りの滝がうっそうとした樹木の間を飛瀑し見ていて壮観です。滝の北側に不動尊を祀った堂があるので、その名がつけられたといわれています。「不動堂」このPhoto_2 堂は、不動明王を祭り建立以来数度改修され特に寛永年間には大改修され、大聖庵不動明王と呼ばれ信仰を集めました。本尊は弘仁季宇弘大氏御目刻霊像と伝えられています。「顕彰碑」この墓碑は今より300有余年前、駿州茶畑村と豆州伊豆佐野村と大沢山の領地について約20年間論争、時の小田原領主を動かし当時の寺社奉行稲葉丹後守の裁許によPhoto_3 り茶畑村の所有が確定依ってその功徳を後世に伝えようとこの碑を立って霊を供養する。「偕楽園の由来」昭和33年、共有地を地元民の協力により開放され、以後裾野市がこれを管理し遊園地を作り、これを記念して偕楽園と名付けた。

定輪寺じょうりんじ」曹洞宗。

弘法大師が開創したとされています。清和天皇の皇子貞純親王によりPhoto_4 Photo_5 「桃園山定輪寺」と改称され、後に曹洞宗に改宗されました。箱根湯本で客死した連歌師「宗祗(そうぎ)の墓」や「句碑」があり、「直筆の写経」も伝わっています。(宗祇)和歌の西行、俳句の芭蕉と並び称される流浪の詩人。墓は小さな五輪塔で墓所の隣には宗祇没後450年、500年祭Img_0027 建立の「なべて世の風をおさめよ神の春」と「世こそ秋ふじはみゆきの初嵐」の句碑があります。春には本堂前のしだれ桜が有名です。 市指定史跡。場所 裾野市 桃園154

須山浅間神社社叢」須山登山道の本宮。(須山口登山道が初めて開かSuyama01 れた年代は明らかではありませんが、大宮(富士宮)吉田両登山道と共に古くからあったと言われています)。樹齢400年を超えるという杉の巨木が22本ある。市指定天然記念物 場所 裾野市須山722

頼朝井戸の森」十里木の村落地内にある。ブナ、ミズナラ、イタヤカエデ等を主要な上層木として持つ、小面積ながらよくまとまった落葉広葉樹林である。中央はミズナラの巨木で、四方に張った枝がこの森の古さを示している。井戸の由来を尋ねると、5万騎の将兵を動員した壮大な富士のYoritomo 裾野の巻狩りの折り、源頼朝公は岩間から流れる湧水に喉をうるおし、その美味成ることに感嘆して、手にした朱塗りの椀を淵に投げ入れたとある。今は、そのような湧水はないが、付近にある岩は湿気を帯びている。この森は富士南麓に現存するほとんど唯一の古い天然林として貴重なものである。

Asitakatutuzi2アシタカツツジ原生群落」この群落は、十里木高原別荘地奥西側の山林内にあり、ここへ行くためには別荘地の中を通り抜けなければならない。牧野富太郎博士の命名で愛鷹山や天子岳に自生する珍しいツツジである。花冠は3cm内外で紅紫色、純粋種は雄しべの数が10本であるが低地に下がるに従ってヤマツツジとの高配種が多くなり花色も紅色へと多彩になり、雄しImg_0080 べの数も7~9本と様様である。分布は800m~1500mの間に見られる。開花期は5月下旬から6月上旬。市の花、市指定天然記念物。

普明寺千福城址」葛山氏の一門であるみ御宿(みしゅく)氏が居住した地と伝えられる。
Img_0079 大森氏・葛山氏は同族であり、葛山氏より御宿氏・宮原氏・上田氏の各氏が分派し、在名をとって苗字とした。城史については不明だが、御宿勘兵衛正倫が居住したと伝えられている。御宿氏が退去した後に、後北条氏がこの地一帯を支配した時期に大改築したと考えられる。山麓にある普明寺の位置は、もとは城番の居館があったあたりと考えられ、南北80Img_0076 m、東西90mの規模である。

工事進む第2東名」千福付近の工事現場、橋げたがまるでビルの工事のようです。

2008年5月25日 (日)

【ぶらり裾野市3】国道246号編

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Img_0047中央公園」裾野市中央公園は、その昔佐野瀑園(さのばくえん)と呼ばれており、昭和天皇が行幸された名勝地です。日本庭園造りの園内には国指定重要文化財である「旧植松家住宅」があります。  茅葺き屋根の昔ながらのその姿は、今に歴史を伝えています。また、園内には県指定天然記念物である「五竜の滝」があります。約1万年前の新富士火山三島溶岩流の末端に形成された滝で、高さは約13mあります。黄瀬川本流の3本が雄滝で、雪解け(ゆきどけ)・富士見(ふじみ)・月見(つきみ)と名づけられています。東側の支流2本は雌滝で、銚子(ちょうし)・狭衣(さごろも)と名づけられています。長さ約63mの吊り橋からの滝の眺めは素晴らしく、見る人に感銘を与えてくれます。歌人・若山牧水も、度々この地を訪れて歌を詠んでおり、園内には歌碑も建てられています。

Img_0042旧植松家」国重要文化財植松家住宅は、裾野市石脇328番地にあった農家の一軒家でした。口伝による同家の由緒では、源頼朝が建久4年(1193年)5月富士の裾野で巻狩りを行った頃に、尾張国島津から当地に移住した草分け七家のうちで、代々名主を務めたと云われています。住宅の建築年代について詳細な資料がないため不明ですが、18世紀初Img_0043 め頃とされています。この民家は静岡県東部に残る中では保存状態も良好であることから、昭和48年(1973年)6月2日に重要文化財に指定されました。その後、裾野市に建物が寄付され、市内の景勝地でもある「中央公園」に移築保存されることになり、1年2ヶ月の工事期間を経て昭和49年(1974年)8月に完了しました。住宅の屋根は茅葺きで、正面と座敷Img_0048 回りには葺下しの庇(ひさし)が取り付けてあり、間口は9間(16.2m)奥行きは5間(9m)で、土間の裏側はさらに半間程張り出しています。平面は3間(5.4m)取り形式で建物の約半分を広い土間が占めており、土間の隅には「むかい」と呼ばれる部屋が設けられています。土間の裏側には大きな石造りの「くど(かまど)」が据え付けられています。

Photo_8五竜の滝」県指定天然記念物に指定されており、富士山噴火三島溶岩流の末端に形成された高さ13mの滝、本流側大きな三条の滝を雄滝、東側の支流側の小さな二条の滝を雌滝と呼び、そのうち5条には五竜の滝の語源になっている、雪解、富士見、月見、銚子、狭衣といった名がつけられていますつり橋の名前は五竜の架け橋というそうです。長さ63mPhoto_9 Photo_10 高さ9m。今日はあいにくの雨で富士山は見えませんでしたが水量は今日も豊富でした。裾野駅から1,5km。

若山牧水の歌碑」公園内にある牧水歌碑<富士が嶺やすそのに来り仰ぐときいよよ親しき山にぞありける>

2008年5月24日 (土)

【ぶらり裾野市2】国道246号編

にほんブログ村 地域生活ブログ 静岡情報へ【ぶらり裾野市Ⅱ】

Photo_7Img_0070_3景ヶ島渓谷と依京寺」名勝地

景ヶ島渓谷は黄瀬川の支流にあり集塊岩や溶岩 流が侵食された奇景に富む渓谷です。景ヶ島渓谷中央の依京寺は、空海の作と伝えられる由緒ある聖観音像が自然のままの岩に彫られており古くから信仰の対象になっています。境内には各種の石仏や石造物があります。

屏風岩」県指定天然記念物

Img_0073富士山裾野の縁を流れる佐野川が富士山の玄武岩溶岩流を600mにわたり侵食して出来たのが景ヶ島渓谷です。その末端の谷壁に見事な柱状節理が高さ10数m、幅50m滝壺から10mの範囲で露出しています。これは溶岩の中心部が冷却に伴って収縮し垂直に割れ目が入ったもので六角形の柱が何百本と谷壁を作っており侵食により谷壁状に露出し直接観察でき学問的にも価値の高いものです。

深良用水

Ysui_map  箱根山の外輪山をくりぬき芦ノ湖の水を箱根西麓の地域に流し込む深 良用水は、1670(寛文10)年の完成以来、現在に至るまで重要な農業・生活用水として、この地域に暮らす人々にとってかけがえのない産業・生活基盤の社会資本として利用されている。従来、深良用水開削以前の裾野市域は水に乏しかったと言われてきたが、深良用水を単に日損田への水Dsc006871 不足対策という一義的な見方をするのではなく、新田開発が数多く行われた当時の世相をも鑑みて語る必要がある。深良用水が開発されたころ、つまり江戸時代初期のようやく幕府の支配が固まってきた17世紀後半は、全国各地で投機的な新田開発がブームのように行われた時期で あった。江戸町人による開発は、駿河以外でも、武蔵・相模・下総・上野・Dsc006941 下野に確認できる。近隣でも、阿田野原(小山町)・東山新田(御殿場市)・小倉野新田(小山町)で町人請合による新田開発が行われている。こうした事例に見られる投機的側面をそのまま深良用水開削に当てはめるのはいささか無理があるかもしれないが、開発に至った時代背景として理解 しておく必要がある。深良用水開発の発起人は文献の上でも当時の深良Dsc007181 村の名主・大庭源之丞の名前になっており、彼が計画の構想をし、友野与右衛門ら元締衆に工事を託したと伝えられる。友野与右衛門は江戸浅草の町人で、本業は不明だが、深良用水開発前にも、現在の横浜伊勢佐木町周辺にあたる「吉田新田」の埋め立て新田開発にたずさわっていた人物で、深良用水の開発は彼を中心とした元締衆により進められた。
Yousui1 1663(寛文3)年、与右衛門らは箱根神社の別当快長を通じて箱根大権現・東照大権現(徳川家康を神格化したもの)へ立願状を提出する。芦ノ湖は箱根権現(箱根神社)の「御手洗池」と言われ、領有権自体は幕府が持っていたものの、箱根神社とは密接な関係にある芦ノ湖の水を使わせてもらうということから、まずは箱根神社への立願をもって許可取得の運動をはじめたのであろう。しかし、このとき開発願いは認可されず、それから3年後の1666年、ようやく開発請負手形を小田原藩と幕府に受理され開発許可を得る。

Dsc007151 1666(寛文6)年夏、工事は着工された。本来こういった工事の場合、目論見帳と呼ばれる工事計画書や出来高帳と呼ばれる工事完了報告書を作るものだが、深良用水の場合は工事費元締負担ということで作成されなかったらしい。そのため工事方法は今もって不明であるが、金堀とよばれた鉱夫の存在を確認できることから、鉱山技術が利用され掘削されたWebimg_2047_1_syusuimon_2 ものと考えられている。隧道の中程に高さ約1メートルの段差がある。これは両側から掘り進んだための誤差であろうと永年言われてきたが、水流の勢いを変えるための細工ではないかとの説もある。隧道は所々蛇行して掘られており、これは岩石の質によるものと考えられている。また本道とは別に、換気のために掘られたと思われる坑道が確認されている。この坑道は隧道から地上に2箇所堀抜かれていて、それぞれ本道の天井裏に掘られた副道につながり、本道天井にいくつか掘られた息抜き穴へと通じている。
1670(寛文10)年春、掘削工事は完了し湖尻峠の地下に長さ1.28キロメーDsc006941_2 トルのトンネルが完成した。また、翌年には小田原藩によって新川が作られ、用水を黄瀬川に通水させることにより、より多くの村々に水が行き渡るようになった。

1707(宝永4)年の「箱根水懸り村々高帳」という文献によると、深良用水の水を使う村々の総石高約11,344石のうち約4,324石が用水掛り、つまり深良用水を通る水によって収穫された分が、実に全体の38%にも及ぶ。仮にこれがすべて用水開発によって増えた分と考えると、1.6倍も収穫量が増えた計算になる(*深良用水の定義は隧道部分のみでなく、各堰を通じた末端の用水路までを含む)。
 深良用水の開発には堰の整備も含めて9,700両かかったと言われており、このうち6,000両は幕府からの借金である。大きな利潤を期待して開発にあたったであろう元締たちの負担はたいへん大きく、借金返済に追われ自己資金の回収もままならなかったものと思われる。その結果、用水の維持管理を十分に行うことができず、1689(元禄2)年、ついに用水権を幕府に取りあげられてしまう。友野与右衛門の名前はそれ以後文献には一切登場せず、どのような晩年を過ごしたのかは分かっていない。

※ 米1石=米約150kg※ 1両=米価換算で現在の約10万円(江戸時代初期)

『裾野市史』6・8・9巻

2008年5月23日 (金)

【ぶらり裾野市1】国道246号編

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200805100900344861_2裾野市」は静岡県の東部に位置し、麗峰富士の裾野に広がり、東に箱根の山々、西に愛鷹連山と自然豊かな工業のまちとして発展しています。面積は138.39平方キロメートル、人口は約53000人で、便利な交通網と気候温暖で水と緑に恵まれた、自然と産業の調和するまちです。また、平成7年には『健康文化都市』を宣言し、「すがすがしく、すこやかに、たすけあいに生きるまちづくり」を目指しています。そして、裾野市の一番の自慢は雄大な富士山の眺望です。稜線が最も美しく、優雅で、気品に満ちた四季折々の富士山をぜひご覧ください。(裾野市HP)

裾野市の歴史

1193年源頼朝、富士山麓で巻狩。1221年承久の乱。大森氏・葛山氏、幕府軍に参加。1495年北条早雲、大森氏から小田原城を奪う。1516年今川の甲斐侵攻に「葛山氏」も出兵。1526年甲斐の梨木平で武田・北条の合戦。1537年今川・武田の縁組み。北条氏駿河に侵攻(河東一乱のはじまり(~1545))。1554年駿甲相三国同盟成立。(駿河郡の葛山氏支配の安定期)。1560年桶狭間の戦い今川義元、織田信長に討たれる。1568年武田・徳川、密約を交わし東西から今川氏を攻める。「葛山氏元」、武田信玄に内通して今川に背くが、北条氏政、すぐさま今川氏に援軍を差し向け、葛山氏の領国を制圧。1570年信玄、深沢城(御殿場)を北条氏から攻め取る。葛山氏の旧領には葛山氏ではなく御宿監物を置く。1573年武田信玄から反逆の疑いをかけられた「葛山氏元」、信玄の追求を受け諏訪湖で投身。その2か月後に信玄病死。1582年武田氏、織田信長によって滅ぼされる。駿河は徳川家康領に。1590年豊臣秀吉の小田原攻め。3か月の籠城ののち開城、北条氏滅亡。秀吉の天下統一。1592~98年秀吉の朝鮮出兵。1600年関ヶ原の戦い(全国支配の実権は徳川家康の手に)。1603年江戸幕府成立。1666~70年深良用水開削工事。1707年富士山の一番新しい噴火。宝永火口はこのときの噴火火口。1853年アメリカ海軍東インド艦隊長官ペリー"黒船"にて来航。1854年~ペリー再来航。この年から異国船対策のための臨時徴税が、駿東の各村にも本格的に課されるようになる。1867年大政奉還。江戸幕府滅ぶ。1871年廃藩置県。静岡県の誕生。1887年東海道線佐野駅開設。1952年泉村と小泉村が合併、裾野町誕生。1956年深良村が裾野町に合併。1957年富岡村と須山村、裾野町に合併。1971年裾野町、市制施行し裾野市となる。

河東一乱(かとういちらん)】後北条家の祖、早雲が国持ち大名になる以前より早雲の後見をしていた今川家は、北条氏が相模に入った後も同盟関係を続け、北の武田に共同して対峙してきた。しかし、1536(天文5)年、今川家の時の当主氏輝が急死し、花蔵の乱と呼ばれる家督争いが生じる。翌1537年、この争いに勝った義元は、家督を継承するとすぐに、それまで敵対していた武田信虎の娘と縁組みする。これに対して北条家の当主氏綱は即座に今川と断絶、軍勢を駿河に侵攻させる。河東一乱と呼ばれる8年あまりにもおよぶ戦争の始まりである。それまでの今川・北条対武田という構図は、今川とそれを支援する武田と北条という構図に一気に塗り変わった。
河東とは富士川から箱根までの一帯を指す。緒戦での北条軍の勢いはすさまじく、今川・武田の婚儀が行われた2月10日からほぼ一月の間に河東地域を制圧してしまう。これ以降、富士川西岸周辺や駿河郡(現在の駿東郡域)北部の甲斐国境をはさんで、両軍の争いは断続的に続けられた。しかし、河東一乱の直中である1541(天文10)年6月、武田家においてクーデターが起こり、当主信虎は嫡男晴信(信玄)によって駿河に追放される。こののち、1545(天文14)年まで、河東地域における武田軍の動きには、目立つものが見られなくなった。なお、同1541年、北条氏綱が没し、嫡男の氏康が家督を継いでいる。
1545年、それまで内々に行われていた京都聖護院門跡道増によって行われていた和議が不調に終わると、今川氏元の反抗が開始された。8月11日に富士郡善得寺城で武田信玄と合流した氏元は、9月16日に吉原(富士市)を奪還、今川・武田両軍は東進し、9月19Photo 日には長久保城(長泉町)周辺で戦っている。北条方は小田原から北条氏康が出陣するも抗いきれず、和睦して長久保城を開城、領国の三島(三島市)に撤退した。
ここに河東一乱はようやく終息し、6年後の1551(天文20)年、駿甲相三国同盟締結に至り、この地域にはしばしの安定をもたらす。
Photo_2 なお、河東一乱以前、一貫して北条・今川方につき、北の武田に対峙してきた「葛山氏」は、時の当主氏広が北条家出身の者と思われ、河東一乱の間北条方に与していたものと思われる。その間、「葛山氏」は北条氏に従属し、支配の実権は北条氏が持ち、「葛山氏」は前面からは退いていた感がある。しかし、河東一乱後の氏元の時代、今川氏との良好な関Photo_3 係の中で、「葛山氏はこの地域での支配権を確立していく

「裾野市史」2・8・9巻

葛山城址」葛山は室町・戦国期をつうじて東駿一帯に勢威を振るった今Photo_4 川氏国人衆の一人葛山氏の本拠地です。平時に住居とした館址と戦時に備えた城址があります。城は愛鷹山を背景に、宮川を東に館址から230m北西に位置し、城域東西350m南北70m余りです。城の構造は主郭、二の曲輪、東曲輪、曲輪、大手曲輪とその他小郭群、堀切からなり、山頂部を階段式に削平して主郭を中央に設け、その左右に曲輪を配している並郭式の山城といえます。市指定史跡。

2008年5月20日 (火)

【ぶらり長泉町2】国道246号

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「長泉町2」

Photo_11城山神社・長久保城址」城址は国道246号沿い「城山神社」近くにある。「長久保城」については鎌倉時代初期に竹の下孫八左衛門が、この地に砦を築いたといわれているが定かではない。戦国期、今川氏により長久保城が構築され、東駿地方を治める拠点として、また北条氏に対する備えとして築かれた。
Photo_12 天文14年(1545)には北条氏の持ち城となっていたが、その年今川義 元の攻撃を受けた。義元は関東管領上杉憲政と挟撃する体制を取り、武田信玄は甲駿同盟により駿河へ出兵した。結果停戦となり義元、憲政と北条氏康との講和が成立し、長久保城には今川氏の城番が入った。天文23年には義元が三河に出兵している隙をつき、氏康は再度駿河に侵Photo_13 入。今川、武田軍と対峙するが戦況は進展せず、三者は婚姻により同盟を結んだ。その後、武田氏の手に長久保城が渡った。武田氏滅亡後は徳川氏、北条氏滅亡後は中村氏が入り、関ヶ原の戦いにより中村氏の転封後、廃城になったとされている。城山神社は長久保城の守護神を祭っていた神社。   場所   駿東郡長泉町下長窪

「鎧が淵のいわれ」黄瀬川の下流に鎧が淵という地名がある。合戦で敗れた北条の武者達が鎧に着いた血を洗ったなどの諸説がある.

長泉の寺・神社

Photo_2願掛八幡宮」長泉町下土狩にある氏神様です。

下土狩481番地

諏訪神社本宿に鎮座する諏訪神社はいつどこから誰のてによっPhoto_3て本宿に祭られたか不詳である。しかし、氏子代々の申し伝えによ れば、長野県の諏訪大社であるとされる。本宿に鎮座する諏訪神社はいつどこから誰のてによって本宿に祭られたか不詳である。しかし、氏子代々の申し伝えによれば、長野県の諏訪大社であるとされる。元和5年頃に三島代官所の管轄に入っているがその後、本宿村Photo_4の管轄は三島代官所から沼津代官所に配属が変わった。

越方神社」長泉町竹原にある氏神様です。

桃澤神社」716年(霊亀2)創建といわれる神社。「東照宮」明治維新後入植した徳川家臣団が建立した。

Photo_14蓮華寺」法華宗。場所 長泉町下長窪680

玉泉寺」海獣葡萄鏡長泉町南一色149

普向寺」文化財阿彌陀如来像、二十一羅漢像がある。明治8年に普向寺を教場に設けられた「映雪舎」小学校創設地。長泉町納米里91。

円蔵寺」明寺9年設けられた小学校「長窪舎」創設地。長泉町元長窪。

Photo_15西願禅寺」黄檗宗。禅宗三派(曹洞宗、臨済宗、黄檗宗)の一つ。中国・明代末の禅宗の高僧・隠元禅師(1592~ 1673)が、江戸時代初期(1654)に来日。徳川4代将軍・家綱公より山城国宇治(京都)に寺領を賜わり、“黄檗山萬福寺”を創建して開宗した。隠元禅師は明代末の中国における臨済系統の禅宗の重鎮であったが、日本では臨済宗を名のらPhoto_16ず、“黄檗宗”を名のった。教えの特徴として、人間が生まれながらにしてもっている仏心を、坐禅行を行なうことによって、自 らの力で見出し、仏陀と同様の境涯を体得させようとするもので、日常生活における一挙手一投足をし往生浄土や念仏などの浄土教教義をあわせて説いて、念禅一致をはかる一方で真言陀羅尼などの密教的要素も加味している。また、漢文ではなく、本場の唐韻による誦経はその独特の節まわしで、「黄檗の梵唄」として有名なものである。貞享3年(1686)12月鉄牛禅師の法嗣香州禅師がその志を継ぎ、愛鷹山麓の台地にあって長久保城跡とは百沢渓谷を距てて相対する形勝の地に当寺を創建された。

2008年5月17日 (土)

【ぶらり長泉町1】国道246号編

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ぶらり長泉町国道246号】編

今回からぶらり246号(昔の呼び名山線)編です。最近のこの地域の発展は目を見張るものがありますね。長泉~裾野~御殿場を巡ります。

Mk_map長泉町」長泉町は静岡県の東部、富士山の南東、伊豆半島の付け根の位置にある町である。駿河国の最東部に位置する市町村のひとつであり、伊豆国の区域である三島市に東方で接する。町域は南東から北西にかけて長細い形であり、愛鷹山を北西に抱く。狩野川の支流である黄瀬川は、町域を北から南に横切ったあと、町の西側の境界として沼津市大岡地区との間を流れる。1888年、村制の施行により、小泉荘(主要部はImg_0028 現在の裾野市)の一部と大岡荘(主要部はのちの大岡村から現在の沼津市大岡地区)の一部を一村として長泉村が発足した。長泉の名称は、大岡荘の長窪地区から長の字、小泉荘から泉の字をとって合成した合成地名である。かつての三島駅であった下土狩駅は、町役場の最寄り駅であるなど長泉町を代表する駅であるが、現在の三島駅と直線距離で1km程度しか離れていない。北西部は駿河平とよばれる高原であり、クレマチスの丘・静岡サッカーミュージアムなどの観光施設が立地するほか、静岡がんセンターを中心としてファルマバレーとよばれる医療および医用工業の先進施設が集中した地区が形成されている。また、宅地として高級住宅地が建設されている。この地域には片側3車線の「国道246号」裾野バイパスが通り、町内唯一の高速バスの停留所である南一色バス停が設置されているほか、現在建設中の第二東名高速道路東駿河湾環状道路、などが開通したときにはこれらとの結節点となる予定。

文化財Budoukyo_2「玉泉寺」海獣葡萄鏡 南一色149

Seiganji 「西願寺」八幡神像

「普向寺」二十一羅 漢像 納米里91 「法善寺」日蓮上人一代絵記 竹原238「雲龍時」雲龍寺石仏 本宿398「下土狩のイチョウ」下土狩605

クレマチスの丘」富士山を望む丘陵地帯に広がる花・芸術・食の複合施設。200品種2000株のクレマチスが園内を彩るなか、美術鑑賞をしたり、懐石料理やイタリア料理を味わうことができる。

Img_0026ヴァンジ彫刻庭園美術館」は、現代イタリアを代表する彫刻家、ジュリア-ノ・ヴァンジ(1931ー)に捧げられた世界唯一の個人美術館です。2002年4月にオープンした当館では、1960年代から現在までの彼の作品が展示され、ひとりの彫刻家の歩みを展望できるようになっています。
ビュフェ美術館」は、フランスの画家ベルナール・ビュフェ(1928-1999)Photo_10 作品のみを収蔵する美術館として、1973年11月25日に開館しました。建築家の菊竹清訓氏による設計で自然と共存する美術館が誕生したのです。ビュフェの黒い線を連想させる中央部分の三角形の建物の白壁には、ビュフェのサインが描かれ、現代の美術館ならではデザインとなってます。現在、ビュフェのモノクロームの色調の初期作品から、各年代の代表作まで約2000点(油彩・水彩・デッサンなど約500点、その他版画など1500点以上)を所蔵しています。
井上靖文学館」北海道出身の井上靖は、幼少年時代を伊豆半島の湯Photo_8ケ島で過し、沼津中学(現沼津東高校)で青春を謳歌しました。井上靖は彼自身の幼少年時代をモチーフにした名作「しろばんば」や、「あすなろ物語」などの作品において、天城湯ケ島の自然と人間の成長過程を描いています。湯ケ島は彼にとってまぎれもなく故郷であり、地元では郷土の作 家として親しまれています。
Photo_9富士竹類植物園」西に富士山と愛鷹山、東に箱根の山々を一望できる 雄大な位置にあり、緑あふれる広大な自然の中で、昭和26年から集められた世界各地の約500種の竹を見ることができる施設。総面積12,000坪の敷地の中には、研究資料館・竹細工売店・苗木売店などもある。特別展やイベントなども行われている。
Img_1562369_40479682_1鮎つぼの滝
黄瀬川の中流にある。鮎がここで止められるので鮎つぼと いわれるようになったという。溶岩の間から流れ落ちる風景は見事です。後方に見える富士山が絶景ですね。手前は県立がんセンター。県天然記念物。
Photo_17東駿河湾道路」工事が進む東駿河湾道路。旧246号(御殿場線な めり駅前)と交差する橋げたも間もなく繋がりそうですね。

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