「沼津の観光資産 歴史上の人物 名僧白隠禅師」
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2017年は白隠禅師没後250年でした。
「白隠禅師と松蔭寺(沼津市原128)」
知徳が優れた僧だけにしか贈られない、高く名誉な名前
「国師(こくし)」を、明治天皇から与えられた白隠(はくいん)。
そんな白隠が生まれた「沼津市原」には、白隠が住職を務めた
「松蔭寺」や、「産湯井戸」など、ゆかりの場所が
200年以上経った今でも残されています
名僧白隠は江戸中期、五代・綱吉の時代に”静岡県・原”に生まれました。
生まれつき記憶力に優れ、4歳の時には300字もある村歌を
一語も間違えることなく正確に覚え、歌って歩いて村人を驚かしたと
いいます。多くの伝説を残しつつ、一時期衰退していた禅宗を再び
勢いあるものにし、84歳でその生涯を終えました。

当時のこんな歌が残っています。駿河には、過ぎたるものがふたつあり、
「富士のお山と原の白隠」駿河の国には凄すぎるものがふたつある。
それは、富士山の美しさと、もうひとつは、白隠禅師の素晴らしさだ。
あの富士山と並び称されるほどの偉大な人物であったこということです。
彼は独学の天才でした。禅師が晩年を暮らした沼津市原「松蔭寺」
風格ある立派なお寺。周りを檀家さんのお墓がびっしりと囲みます。
由緒あるけれど庶民的。禅師の人柄を感じさせるお寺
松蔭寺で、剃髪し「慧鶴(えかく)」となりました。
各地で修行をした後、32歳で松蔭寺に戻りました。
当時は廃寺寸前の状態だったようです。
その後、修行僧が全国各地から集まり、弟子の育成に力を注ぎました。
近在からも多くの居士が参禅しました。白隠禅師墓の周囲には、
各地から参じた修行僧の墓石が多数残っており、当時の師弟関係が偲ばれます。
禅師の著書『夜船閑話』(やせんかんな)では、長くこの寺で修行した僧について、
「盡く是叢林の頭角、四方の精英なり」と記し、優秀な人材がここに集まっていた
と述べています。白隠の産湯井戸から、徒歩で約2・3分の場所にある「松蔭寺」。
白隠は15歳で出家し、その後全国を行脚。
1717年、33歳の時から住職を務めたお寺が、ここ「松蔭寺」です。
松陰寺の山門です。白隠が考えた山門と言われています。
山門の工事が行われた時、この門の瓦を外して数えてみると、
全部で108枚あったそうです。山門は、お寺に訪れると誰もが通る場所。
お寺に訪れる人の煩悩を鎮めるよう、白隠は人々を思って、
瓦を人間の煩悩と同じ数、108枚にしたそうです。
そんな白隠の思いが込められていた山門をくぐると、
ご利益があるかもしれません。

白隠慧鶴「関羽図」近世では白隠慧鶴らが禅画を描いて民衆への布教を行いました。
※戦国時代の武将たちは、禅僧に帰依して指導を受ける一方、
時に参謀として戦略の相談や交渉役を任せることもあり、
各地の禅宗寺院は大名の庇護を受けて繁栄しました。

昭和に名だたる名禅僧の一人に、般若窟「白隠の再来」と称えられた「山本玄峰老師」は、白隠禅師没後百年近く経った慶応2(1866)年、和歌山県湯の峰温泉で生まれます。生後すぐに捨てられてしまい、通りかかった岡本善蔵に拾われたと伝えられています。十九歳の時、失明の不幸に見舞われ、これを契機に一念発起して、四国八十八箇所の霊場を巡拝します。その途中、土佐雪蹊寺で太玄和尚と出会い、この地で仏道に入ります。
玄峰老師は各地の寺で修行を重ね、龍澤寺や松蔭寺を始めとする全国各地の寺を復興し、やがて「白隠の再来」と称されるほどの高僧となり、96歳で三島市竹倉の伯日荘にてこの世を去りました。大本山妙心寺の管長も勤められ、さらには太平洋戦争の終結時、あの「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び……」の文言を進言され、象徴天皇制の発案をされたり、当時の鈴木貫太郎首相の相談役でもあったという傑僧である。
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