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「伊豆と源頼朝 5」 頼朝ゆかりの地巡り
「頼朝・義経対面石」長沢八幡宮境内の左奥まったところに頼朝・義経対面石があります。1180(治承4)年、源頼朝が源氏再興のため兵を挙げました。富士川合戦の為この黄瀬川八幡(やはた)神社に本陣を設営した兄頼朝の挙兵を知って奥州より駆けつけた源義経とこの大小の石に座って涙ながらに対面し平家打倒を誓い合ったと伝えられています。場所 駿東郡清水町八幡39
「大泉寺 阿野全盛の墓」阿野全盛は、源義朝と常盤御前との間に生まれた子(幼名今若丸・)で、源頼朝の異母弟で義経の同腹兄であります。平治の乱で源義朝が敗れると、常盤の子達もそれぞれ寺に預けられ、今若丸は京都醍醐寺に送られ、のちに全成と名乗りました。僧とはいえ、成長につれ逞しくなり「醍醐の悪禅師」と呼ばれるようになります。源頼朝が挙兵(治承4年・1180)すると、全成は修行を装って、いち早く京都から参陣。後にその功績によって駿河・阿野庄を与えられ、この地に館を建て、阿野姓を名乗りました。その当時の居館に付属していた持仏堂が、現在の「大泉寺」となったとされています。 阿野全成は北条政子の妹(阿波局)を妻とし、頼朝政権においては地位が安定していたものの、二代将軍に頼家が即位すると、阿波局が実朝(のち三代将軍)の乳母だったこともあり、頼家派と対立。建仁3年(1203)、謀反の罪で常陸に流された末、下野で八田知家に殺害されてしまいました。場所 沼津市井出
「指月殿」伊豆修善寺温泉で暗殺された源頼家の冥福を祈って、母政子が指月殿、宋版大蔵経釈迦三尊繍仏などを修禅寺に寄進。頼家の菩提所として建立、伊豆最古の木造建築。
頼家の墓は指月殿の左手にある。頼家は正治元年(1199年)に、父頼朝の死により家督を継いで、鎌倉二代将軍となった。家督を継いで間もなく、北条氏など元老の干渉も多く老臣会議制を敷かれて独裁を封じられた。北条氏に対抗して頼家は、源氏の実権の回復に努め、能員と組んで北条氏を討とうとしたが、かえって能員と一幡は殺され、頼家は修禅寺に幽閉されてしまった。元久元年(1204年)に時政の密計により、修禅寺門前の虎溪橋際にある箱湯で暗殺された。頼家は23歳という若さであった。源義朝の六男,頼朝の弟「範頼の墓」も修禅寺にある。
「鎌倉古道」三島大社西側の鳥居を出ると変則五差路があります。左の東海道より1本北の狭い道が通称鎌倉古道と言われます。鎌倉時代の京鎌倉往還は東海道を通っていました。箱根湯本から湯坂山に上る尾根道(湯坂道)を通り元箱根に出て、その後は海ノ平の付近を越え元山中を経て三島大社の前へと山を下るルートが推定路線とされています
「平家越えの橋」旧吉原宿和田川にかかる平家越えの橋、この付近で源平の軍勢が対峙している時、平家の軍勢が水鳥の羽音を源氏が攻めてきたと勘違いし驚いて敗走したと伝わっています。
「富士の巻狩り」頼朝主催の巻狩りは武士の軍事訓練の様なもので征夷大将軍の晴れの舞台だった。広大な富士山の裾野をその場所として選び自分の力を世の中に誇示しようとした。自慢の馬と弓矢を携え諸国の武士が「狩」に参加した。頼朝に良い所を見せたくて武士たちは勇んで参加したのである。富士の巻狩りは建久4年(1193)5月8日から6月7日までの一ヶ月に亘って行われ、頼朝に従い参加した武士 3万5千、諸国から集まった武士6万5千と合わせて十万にも及ぶ武士が参加したと伝えられている。日本三大仇討の一つ「曽我兄弟の仇討」もこの時に起きた。
1193年源頼朝が富士の巻狩りを行った際、馬から降りたことから狩宿の下馬ザクラと呼ばれるようになったという。樹齢は800年を越えかつては樹高35m幹回り8,5mの巨木で有ったらしい。富士宮市井出館
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