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2009年3月

2009年3月29日 (日)

沼津近郊の「歴史ある神社4」

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沼津近郊の「歴史ある神社4

延喜式神名帳作成後に創建された神社

1旧県社「日枝神社」平町7-24

Photo 明治六年(1873)に郷社となり、大正十五年(1926)十一月二十五日県社に列せられた。平安時代からの神社で山王社とも称され、人々には山王さんとして親しまれてきた。
この地域一帯は平安時代の末頃には大岡庄と称され、関白藤原師通の領地であった。嘉保2年(1095)、源義綱が比叡山延暦寺の僧を殺害するといった事件があり、これに端を発し、師通は僧たちの呪詛により山王の祟りを受け、38歳で死亡した。師通の母は近江国の日吉神社の分祀を請い、これに大岡庄のうち八町八反を寄進して祀っPhoto_2 たといわれる。これが現在の日枝神社で、明治に至るまで近郷近在22か村の総鎮守の神としてあがめられ、9月24日の御輿渡御は10万石の格式による行列で、壮観であったという。祭神は大山おおやまぐいのみことで、相殿は大蔵神、大己貴神おおなむじである。毎年九月二十九日を例祭日としている。この神は治水をつかさどり、また造酒の神としても崇敬されている。神社には国の重要文化財に指定されている「紙本着色山王霊験記」1巻がある。奥書の冒頭の「弘安11年初春」という文字から、鎌倉時代に制作されたものとされ、作者は不明だが日枝神社の縁起を物語っている。また沼津城主大久保忠佐が奉納した助宗の槍や今川氏、北条氏など同社には古文書類が数多く残されている。

2旧郷社「浅間神社」浅間町4

Photo_3 延暦二十年(801)坂上田村麻呂が東征のときに当国に至り富士山に祈願し、凱旋の帰途に狩野川右岸(今の宮町)に奉斎したといわれている。建仁三年(1203)に今の地に遷座したという。祭神は木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)である。祭典は九月十五日で、沼津浅間祭といって遠近に有名である。江戸時代には、当社の神職の官位は従五位下であって、沼津城主水野氏も従五位下で同格であったが祭典の日は神職は領主の上についたという。また大名が参勤交代の時皆当社に参拝神主より武運長Photo_4 久・道中安全の神札を授けるのを例としたという。このように武門武将の崇敬厚く、社領の寄進や社殿の造営がしばしばあった。又祭神が木花開耶姫命であるために、古くから夫人の崇敬も厚く、安産の神として信仰された。大正十二年火災にあったが、のちに御料林の払下げを得て同十五年(1926)に復興した。昭和二十年七月に戦災をこうむったが、同二十三年再建された。

上記10神社以外にも沼津市内には約「121」箇所もの神社が存在しています。今後も個別に調査取材は続けていくつもりです。

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2009年3月17日 (火)

沼津近郊の「歴史ある神社3」

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沼津近郊の「歴史ある神社3

4 旧村社「大朝神社」下香貫字山宮前3056

Photo_2 牛臥山北東麓に鎮座する。寛保3年(1743)造営 江戸時代は[山宮][潮留明神」と称していた。古くから山宮と称せられていた。古代はじめてこの付近に上陸して土地を開拓した人たちが、牛臥山の美しい山に神の山としてこれを拝祀したのが当社の起原であつたと思われている。祭祀等が式内の楊原神社と全く共通であり、両社の結びつきが 深い。本来は楊原神社の「奥宮」的なものであったのではないかといわれる。

5 旧村社「玉造神社」黒瀬町6

Photo 狩野川にかかる黒瀬橋(香貫側)のすぐ東にある【玉造神社】今から1000年前に建立され、香貫地区では楊原神社・大朝神社と共に由緒ある神社です。玉造郷は一千年以上の昔 平安朝初期に伊豆と駿河の国境として狩野川の辺り香貫山麓一帯を指し玉造部氏族が住んでいた集落跡と言われています。玉作部は朝廷に貢納する丸玉や服飾用の勾玉管玉等を造る職業的部民で古代において祭祀用には欠くことのできない重要な役割をもった氏族でありました。全国に数少ない玉造郷として諸文献に記載されているとの事です。

6 旧郷社「大瀬神社」西浦江梨大瀬329

Oosezaki21 沼津駅から約28km大瀬崎に鎮座「伊豆国神名帳」に「正四位上瀬の明神」と記された古社で『豆州式社考案』には、式内社・白浪之彌奈阿和命神社として記されており『特選神名牒』などには、式内社・引手力命神社の論社となっている。駿河湾漁民の信仰を一身に集める海の守護神として知られ、船を新造するときは必ず神社に参詣し海上の安全を祈願したといわれる。古くから漁業の様子を描いた絵馬や漁船の模型が数多く奉納され、絵馬は明治から昭和の漁民の暮らしぶりを伝える貴重な資料として静岡県指定文化財となっている。例祭は4月4日に行われ大漁旗や杉、桜の小枝で飾り付けられた漁船が長襦袢を羽織って化粧した青年達が、笛や太鼓のお囃子に合わせ船上で踊る「勇み踊り」は天下の奇祭としてしられる。

7 旧村社「長浜神社」内浦長浜字水揚69

沼津駅から13km内浦長浜に鎮座。旧称を神明社といい官社の位階をしるした神階帳には、正四位上長浜明神とある。神社の鎮座している所を麻ノ坂おのさか、付近の海岸を麻ノ渓おのたにといい、昔は麻が自然に生え、一夜で成長したために、このように称されたと伝えられている。当社は社地が狭いため大正五年(1916)小比叡神社と合併しその地に遷座した。

8 「鮑玉白珠比め命神社あわびたましらたまひめのみことじんじゃ」木負赤崎

西浦木負の赤崎にある。神階帳には従四位上宮玉の明神としるされている。地名の木負は、和名抄にみえる「吉妾郷」に該当すると考えられているが、吉妾は美妻の意味で、この姫神の鎮座から起こったものといっている。社地赤崎の称も明光崎の意味で、此の祭神が容姿艶麗なのによって呼んだものともいわれている。合祀に御嶽神社・境内社に金刀毘羅神社がある。

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2009年3月15日 (日)

沼津近郊の「歴史ある神社2」

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沼津近郊の「歴史ある神社2

1 旧県社「丸子神社」沼津市丸子町→浅間町

Img_0046昔は大きな社で周囲には神楽免・油免・舞台・鳥居田・禰宜の後・宝蔵などの地名があった。市道の町名は丸子神社祭典に市が開かれた事から生まれた。書類は治承・文亀両度の兵火で消失さだかでないが第十代嵩神天皇の御宇国造に詔して丸子神社をこの地に鎮祭し、金山彦命を奉斎す。第十二代景行天皇の御宇、当社に国常立命を合祀す。第六十二代村上天皇の天暦年間天下泰平の祈願あり太刀一口を献ず。建武二年新田義貞の弟脇谷義助勅命にて鎌倉征伐の時、行光の太刀一口を献じ武運長Photo 久を祈願す。以上の如く朝廷の崇敬厚く住古の社領五百三十石、社地八町八反、社家八十六人、社地より二丁ほどの位置に東間門、西間門あり、当社の御門ありし所、市道町は商人の売買叉品物の交易をせし所。天保二年(1831)社殿炎上、明治十年(1877)十一月浅間町の浅間神社に移り二扉一社となった。旧社地は飛び地境内地として御旅所と称している。祭典は9月15日。(画像上段丸子町・下段浅間町)

2 旧郷社「桃沢神社」沼津市青野 

Img_0057本宮(愛鷹山頂)中の宮(宮本)下の宮(青野)の三社をいう。本宮の創建は孝霊天皇元年四月八日、中の宮は創建不詳、下の宮は建久年中に源頼朝が富士の巻狩りの際に勧請創建し愛鷹山一帯の芝地を神領とした。祭神が馬を愛すという事から牡牝の馬九十九頭を献じ、これを牧畜して祭典の料にあてた。以来愛鷹大明神として崇敬されてきた。永禄年中今川義元は神馬に保護を加え神領を寄進した。元亀年中、武田信玄も叉これを受け継ぎ、天正年中徳川家康も今川・武田の例にならって神馬を保護した。これにより牧馬は増殖し、寛政九年(1797)徳川幕府の命により、岩本石見守が牧場を経営し捕馬の牧三箇所を開いた。徳川幕府時代には、社領として除地高九石九斗二升、田畑六反余を有した。明治元年明治天皇が東幸の節、勅使として橋本少将・柳原侍従が当社に登山し幣料を奉納した。下の宮は本宮より三里のところにある。例祭は9月8日に行われている。(画像下の宮)

3 旧郷社「楊原神社」下香貫宮脇

Photo_3 昔の社地は今の楊原であったが、永禄年中、北条・武田の合戦のおり北条兵の為に焼かれ、その後天正年中になって今の社地に移したという。「神名紀」には従一位楊原明神とあり「伊豆山峯紀」に「昔は社人州人、別当八坊あり、両香貫より江の浦まで共に之を祭祀す」としるしてある。今は上・下香貫及び我入道の鎮守である。口碑によると、住吉明神大であった時代には、神領五百石を有し、社家三十余家があったという。又今の馬場の人家は、多く社家の子孫であるともいわれる。また馬場を今「ばんば」といPhoto_4 うが、ここは神馬・流鏑馬等の馬場であったことを地名によって知る事ができる。また境内には八幡神社・津島神社・吉田神社などがあり社域には古来樹木が繁茂し、古社地をなしていたが昭和二十年の戦災で跡形もなく焼けてしまった。文政三年頃堀を掘ったところ甕が出土した。また駿河国造の一族物部氏の墓誌が出たともいう。例祭は真冬の1月、楊原神社・大朝神社共同で行われる。両社の神輿が大朝神社近くの我入道浜に渡御し、神輿をかついだまま海の中に入る「御輿洗い の儀」が行われる。

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2009年3月11日 (水)

沼津近郊の「歴史ある神社1」

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沼津近郊の「歴史ある神社1

近郊の神社も数多く訪れましたが「日本の神社の格式、歴史や由緒」が我々素人には良くわかりませんね。まずはそのあたりの理解をする為に~

1 明治~戦前の社格の最高位、官幣大社であった。2 二十二社、特に上七社であった。3 延喜式に記された式内社の最高位、明神大社であった。4 現在の社格のようなものである別表神社である。5 律令国の一宮であった。6 四方拝の対象となる神社である。以上の要素があげられるという。これらを踏まえると日本の神社の格式の高い所は以下のようになるらしい。1 伊勢神宮 2 出雲大社 3 上加茂神社 4 下鴨神社 5 宇佐神宮6 石清水八幡宮 7 熱田神宮 8 伏見稲荷大社 9 春日大社 10 住吉大社・松尾大社日吉大社・八坂神社・諏訪大社・富士山本宮浅間大社・日前神宮・國懸神宮・氷川神社・鹿島神宮・香取神宮

延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう)」延長5年(927年)にまとめられた『延喜式』の巻九・十のことで、当時「官社」とされていた全国の神社一覧である。延喜式神名帳に記載された神社を、「延喜式の内に記載された神社」の意味で延喜式内社、または単に式内社(しきないしゃ)、式社(しきしゃ)といい、一種の社格となっている。

近郊であげられる式内明神大社は、駿河国「富士山本宮浅間大社富士宮」伊豆国加茂郡「三島大社三島」「伊古奈比め命神社下田」「物忌奈命神社若宮神社」「阿波命神社神津島」伊豆国楊原神社沼津」である。式内社明神小は「丸子神社」「桃沢神社」「楊原神社」「大朝神社」「玉造神社」あげられる。

延喜式神名帳に載っている沼津市の神社

1旧県社「丸子神社」

2旧郷社「桃沢神社」

3旧郷社「楊原神社」

4旧村社「大朝神社」

5旧村社「玉造神社」

6旧郷社「大瀬神社」

7旧村社「長浜神社」

8「鮑玉白珠比め命神社あわびたましらたまひめのみことじんじゃ」木負赤崎

延喜式神名帳作成後に創建された神社

1旧県社「日枝神社」

2旧郷社「浅間神社」

上記神社を巡ってみましょう~

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2009年3月10日 (火)

沼津「創建の古い寺」平安時代4

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沼津「創建の古い寺」平安時代4

Img_0056光長寺 法華宗」  岡宮

光長寺は法華宗大本山で、700年以上の歴史をもつと伝えられている。寺の創建についてははっきりしないが、旧記によれば、もとは天台宗の寺院であったものが、文永年間(1264~1275)空存の代に、日蓮上人の高弟日法上人の布教により改宗したと伝えられている。空存は日蓮の門弟となり日春の名を授けられ、寺を徳永山光長寺と改称したと伝えられている。そのため寺は日蓮を開祖とし、日春・Img_0044 日法が同時二祖となった。時に建治2年(1276)であった。本堂は延慶4年(1311)日春の時に建立され、その後いくたびかの修理を経て大伽藍となったが、慶長年間(1596~1615)に火災にあい堂宇は焼失してしまった。その後、江戸時代を通して再建が続けられたが、明治23年に再び火災にあい、山門と本堂を残したのみで、他のほとんどが焼失してしまった。この本堂は茅葺・入母屋造り、柱はすべて棒丸柱で一部の柱には漆が塗られ、天井の一部は格天井で彩色が施されていた。外観の素朴さの中に荘重さがImg_0051 みられ、桃山様式の影響を受けたもので、木造建築としては市内最古の建造物の一つだったが、昭和38年に解体され、昭和40年に現在の鉄筋コンクリート造りの本堂となった。山門(仁王門)は正保2年(1645)の建立と伝えられ、木造・切妻造り・瓦葺の平屋建てで、貴重な古建築である。門内両脇にはニ王像が安置され市の有形文化財に指定されている。山門から本堂への参道には、辻之坊、南之坊、東之坊、西之坊、山本坊の5つの塔頭(たっちゅう)が並び、大本山にふさわしいたたずまいを見ることがでImg_0034 きる。宝物集は、民衆を仏教の道に導くため例話をあげて仏法の貴さを説いた説話集で、平康頼の作と伝えられている。この宝物集は日蓮により説教や法談によく用いられたため、日蓮宗内でも積極的に写本がつくられ、光長寺に伝わるものは弘安10年(1287)日春が写したものと巻末奥書に記されており、平成6年6月に国の重要文化財に指定された。宝物庫「光長寺御宝蔵」は大正15年に起工し翌年完成、昭和4年に宝物収納法要を行った市内最古の鉄筋コンクリート建造物の一つで、意匠、機能、記録の観点から価値が高く、国の有形文化財に登録されている。法門聴聞集」は県の文化財に指定。

Photo_10本光寺 本門法華宗」 千本郷林 

文永11年(1274)5月14日日蓮大聖人は鎌倉より身延へ隠棲の際、車返しの里に宿泊されました。さらに、弘安5年(1282)10月23日、池上にてご入滅の後の大聖人の尊骨を身延へ奉送の砌、再びお宿にされた。この縁故により草創された法華道場が車返霊場本光寺です。旧檀主関家の系図に「日蓮大聖人が、山王神社にて説法された際、土地の古老勝地、関、斉藤、井田4人が掛け合い、世話Photo_11 人となり一寺建立を申し上げた。大聖人は、喜ばれ年々法華経を流布せよと山号を幼名より薬王山とし、寺号は本門本光の意を取り本光寺と定められた」と記してあります。大聖人は、岡宮日法聖人に後を託された。日法聖人の弟子が轉阿闍梨日性聖人で三枚橋城城主景山右京亮基広(かげやまうきょうのすけもとひろ)の三男で、永和元年(1375)光長寺西之坊より入寺、本光寺開基となりました。第5世日勢上人の代、天文14年(1545)8月武田信玄の軍が駿河に侵入、衆徒は大原に逃げて越年しました。第7Photo_12 世日出上人の代、江戸時代沼津城築城の際、車返の地より旧境内地八幡町に移転再興しました。八幡町由来の八幡坊がありました。安永7年(1778)沼津宿の時の鐘を仰せつかるとの記録があります。第34世日光(にちこう)上人明治31年(1898)法華宗八品(はっぽん)派を本門法華宗と改め、同宗管長を歴任。その間、数度宮中に参内しました。第36世日英上人の代、昭和20年7月17日沼津空襲にて石蔵を残し全焼失。同25年沼津市より復興都市計画のための移転要請があり墓地と共に現在地に移りました。

(参考沼津仏教会HP 沼津市誌下巻)

次回からの「創建の古い寺」は鎌倉時代に移ります。

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