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Numazu沼津 明治時代の別荘
「10 旅館・ホテル」
「①三島館さんとうかん」明治21年(1888)に三島宿の本陣を営んでいた世古直道氏が建てたもので瀟洒な高級旅館であった。明治26年に御用邸が出来たあとは、御用邸に訪れる高級官僚の宿舎として使われていたという。旅館の名前の由来は”文久3年三島世古本陣に宿泊した第14代将軍徳川家茂(いえもち)が、「ここが三島宿だから付けたのではない。
今宵の名月に輝く富士山が中国の「三神山」になぞらえるほど美しいので、三神山から三島館と名付けた」という。新 しく牛臥山に旅館が出来てみると、駿河湾に浮かぶ淡島、布島、瓜島が三神山に替わって三島さんとうに見立てられるので、再び「三島館」の扁額を掲げた”と「三島館記(明治32年三島中州記)」に記されている。
現在の千本公園の一番奥側(海岸の際)にあった。
当時の絵葉書がオークションなどに出ている。
画像転写の為不鮮明です~
「③静浦ホテル」
国道414号沿いNO40が静浦ホテル跡拡大してやっとわかります~
<別荘配地図の概要>
NO1若山牧水邸、NO4ホテル安田別館安田財閥梅乃舎、NO6津村順天堂別荘、NO14三輪善兵衛ミツワ石鹸別荘、NO15大賀邸、NO21西園寺侯爵別荘予定地、NO23大山巌元帥陸軍大臣別荘、NO24三島館、NO29井上馨外相別荘、NO30せせらぎ荘山本五十六元帥滞在、NO31川村純義別荘、NO35大木喬任文部別荘、NO38三菱財閥岩崎弥之助別荘、NO40静浦ホテル、NO41静浦保養館 NO42西郷従道侯爵海軍大臣別荘、NO63膳桂之助国務大臣別荘 NO82岡部長景文部大臣、NO84旧三井財閥長浜城址、
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Numazu沼津 明治時代の別荘
「9旧ミツワ石鹸創業者三輪善兵衛別荘(現沼津倶楽部)」
旧ミツワ石鹸創業者の故「三輪善兵衛」(1871‐1939)が大正の初めに、避暑・避寒地だった沼津市千本に別荘として建設した。三千坪の広大な敷地に建ち、全部屋から庭園を望める設計。薄板を編み込んだ「網代天井」など、大正ロマン漂う数寄屋建築隅々まで凝った造りである。場所は沼津市千本「若山牧水」記念館前にあります。
現在は「沼津倶楽部」として営業している。
「三輪善兵衛」1860年(万延元)、三輪善兵衛は大江戸で丸見屋を開店する。ミツワ石鹸が発売されたのが、1910年(明治43)。もともと化粧品店として出発し、一時は新橋資生堂と肩を並べて化粧品業界をリードしていたのだが、ミツワ石鹸が売れて、その後、社名を丸見屋からミツワ石鹸本舗丸見屋商会、戦後は(株)丸見屋から
(株)ミツワ石鹸へと変更している。当時、多くの小説家や画家を宣伝 部に入社させて、本格的な広告制作を行っている。そして、世界中から文学や広告、画集など10万冊にものぼる本を“資料”として集め、「ミツワ文庫」と名づけていた(関東大震災で焼失)のちに、ミツワ石鹸の副社長となる衣笠静夫が入社してからは、当時の電通をもしのぐほどの優秀なスタッフを抱えて、広告分野では優れた仕事を残している。1975年(昭和50)に、ミツワ石鹸は倒産して米国P&Gの傘下へ入る。
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Numadu 明治時代の別荘
「7 膳桂之助別荘(国務大臣)」
沼津市江の浦の海を見下ろす山手に有ったと言う。
「膳桂之助ぜん けいのすけ」(1887年7月21日 - 1951年11月25日)財界人・政治家は、群馬県伊勢崎市出身。1914(T3)東大独法科卒。農商務省に入る。'34(S9)に日本団体生命保険を創立し、専務を経て'42社長。戦後は'46に貴族院議員に勅選され第1次吉田内閣で国務大臣を務めた。日本国憲法の制定にあたって国務大臣として参与し、連署している。従三位勲三等瑞宝章。
「8 侯爵黒田長成ながしげ別荘(貴族院副議長)」
沼津市旧静浦ホテル北岩崎弥之介別荘のすぐ北西側に有ったらしい。
「黒田長成ながしげ」(慶応3年1867年5月5日~昭和14年1939年8月14日)福岡生まれ。政治家。旧福岡藩主黒田長知の長男。明治11年(1878)家督を相続、17年(1884)侯爵、英国ケンブリッジ大学留学。帰国後22年(1889)式部官となるが翌年に辞す。25年(1892)貴族院議員、27年(1894)から長く貴族院副議長を務める。大正13年(1924)枢密顧問官。
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Numazu沼津 明治時代の別荘
「6男爵岩崎弥之介別荘」 今は無い「静浦ホテル」の北側付近にあった。
三菱財閥第2代の統率者、三菱の創業者岩崎弥太郎の弟。1851年2月8日(旧暦では嘉永4年1月8日)、土佐国安芸郡井ノ口村(高知県安芸市)に生まれる。藩校致道館や大坂の成達書院で漢学を学んだ後、明治5年米国に留学する。兄弥太郎の片腕となって九十九商会以来の草創期三菱の事業に尽力した。1885年(明治18)弥太郎の死後、海運業を分離した後の三菱社の社長となり、事業多角化に努め、1893年財閥本社(三菱社)、銀行、鉱山、炭礦、造船などを一体とした三菱合資会社を発足させた。その際、社長を弥太郎の長男久弥へ譲り後見役に退いた。また、明治23年には貴族院議員に勅選され、1896(明治29)年、日本銀行第4代総裁に就任。なお同年には久弥とともに男爵を授けられた。妻早苗は後藤象二郎の娘、長男小弥太は第4代の三菱財閥統率者になる。1928(明治41)年、病気のため58歳で逝去。
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Munazu沼津 明治時代の別荘
「5 侯爵井上馨外務大臣」
井上馨外務大臣別荘予定地は現在の御用邸記念公園内北際あたりに有ったという。
「侯爵井上馨」長州藩士、政治家、実業家。天保6年11月28日周防国湯田村で長州藩士・井上五郎三郎光享の次男として生まれる。父は萩藩の郷士。岩屋玄蔵や江川太郎左衛門に師事し蘭学を学ぶ。高杉晋作らとともに、尊王攘夷運動で活躍。坂本竜馬の仲介で薩摩藩と同盟し第2次長州征伐で幕府軍に勝利した。維新後は参与、大蔵大輔、参議兼工部卿、外務卿などを歴任。明治9年(1876)特命副全権大使として日朝修好条規の締結に関わる。三井をはじめ、実業界とも深いつながりを持ち、鉄道事業などにも関与した。明治18年(1885)第1次伊藤内閣の「外相」に就任。鹿鳴館に象徴される欧化政策を展開し、不平等条約の改正に奔走。黒田内閣農商務相、第2次伊藤内閣内相、第3次伊藤内閣蔵相等を歴任し、引退後も元老として重きをなした。大正4年9月1日静岡県静岡市興津の別荘・長者荘にて死去。
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Munazu沼津 明治時代の別荘
「4 大木喬任たかとう文部大臣」
沼津静浦海岸沿いの「駿海荘」現在の宿泊施設「はまゆう」の場所に別荘が有った。
「大木喬任たかとう」天保3年3月23日~明治32年9月26日 (1832~1899)佐賀生まれ。政治家。父は佐賀藩士。藩校弘道館に学び、勤王派として藩政改革を推進。新政府に出仕し、徴士、参与、軍務官判事、東京府知事などをつとめる。東京奠都にも尽力。明治4年(1871)文部卿となり、学制を制定。6年(1873)参議兼司法卿。萩の乱、神風連の乱で、反乱士族の処分にあたる。13年(1880)元老院議長。また民法編纂総裁として法典編纂に関わる。17年(1884)伯爵。21年(1888)から枢密顧問官を兼任し、翌年枢密院議長となる。第1次山県内閣の司法相、第1次松方内閣文相を歴任。「明治六大教育家」の一人「①森有礼ありのり薩摩藩士、政治家。初代の文部大臣。子爵。通称は助五郎、金之丞」「②福澤諭吉、中津藩士、著述家、啓蒙思想家、新聞時事新報の創刊・発行者、教育者、東京学士会院(現在の日本学士院)初代会長、慶應義塾創設者」「③大木喬任」「④新島襄キリスト教の布教家で、同志社大学の前身となる同志社英学校の創立者である」「⑤中村正直同人社創立者。また福澤諭吉、森有礼、西周らと明六社を結成。幼名を訓太郎。通称を敬輔。号は敬宇」「⑥近藤 真琴、明治の教育家、思想家、攻玉社創立者。日本海軍軍人及び軍属、最終階級は海軍中佐。幼名は鉚之助。江戸生ま<大木喬任文部大臣別荘の有った場所>
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Munazu沼津 明治時代の別荘
明治26年(l893)の7月、大正天皇(当時は皇太子)のご静養のために、沼津御用邸本邸が造営され、明治36年12月には、赤坂離宮の東宮大夫官舎を移築して東附属邸が設置これました。 38年8月に、本邸の隣にあった川村純義伯爵の別荘を買い上げ、更に増築して西附属邸となりました。
鹿児島生まれ。海軍軍人。薩摩藩士として戊辰戦争時は陸戦で功を立てる。明治5年(1872)海軍省設立にあたり海軍大輔となる。11年(1878)参議・第2代海軍卿に就任。一時榎本武揚に交替したときを除き18年(1885)まで職にとどまり、その間に薩摩勢力を海軍内に伸ばした。17年(1884)伯爵。のち宮中顧問官、枢密顧問官を歴任し、34年(1901)に昭和天皇の養育主任となる。37年(1904)、死去にあたり大将に任じられているが、これは他に類例がない
<川村純義伯爵別荘の有った場所>
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Numazu沼津 明治時代の別荘
現在の沼津市静浦漁港近くに所在していた。漁港沖にある爪島は我々の少年時代でも「西郷島」と呼んでいたくらいだ。
現在は漁港も整備され西郷島までの突堤は釣りマニアの絶好のスポットになっていて多くの釣り人が訪れている。
「西郷従道」江戸時代後期から明治の軍人、政治家。父は西郷吉兵衛、母は政子。兄の西郷隆盛ほか。竜助。通称は信吾。本名は隆興、隆道。道は天保14年5月4日(1843年6月1日)薩摩藩鹿児島城下加治屋町に生まれました。剣術は薬丸兼義に薬丸自顕流を、兵学は伊地知正治に合伝流を学びました。有村俊斎の推薦で薩摩藩主・島津斉彬に出仕し、茶坊主となります。後に還俗し、斉彬を信奉する精忠組に加わり、薩英戦争にも参加。戊辰戦争においても鳥羽伏見の戦いなどに従軍。1869年には山県有朋と共に渡欧し、軍制を調査しました。1874年には陸軍中将となり、同年の台湾出兵の際には番地事務都督として軍勢を指揮しています。維新時の偉功によって伯爵を授けられます。伊藤博文内閣の海軍大臣、内務大臣などを歴任。兄・隆盛や従弟・大山巌と同じく鷹揚で懐の深い人物であったとされます。
面影が兄の隆盛に似ているとされ、肖像画を作成するときは彼の写真が参考にされたといわれています。
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