Numazu沼津 明治時代の別荘 「1大山巌陸軍大臣」
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Numazu沼津 明治時代の別荘
明治22年(1889)東海道線の開通は風光明媚な沼津に、薩摩藩出身の大山巌元帥・西郷従道元帥・川村純義海軍大将や佐賀藩大木喬任文部大臣らの別荘が建てられた。明治26年(1893)沼津御用邸が造営されると千本から牛臥・静浦・内浦にかけては政財界要人の別荘地として脚光を浴び幾多の別荘が建てられた。かつて沼津は日本の政界・財界人の一大保養地・別荘地だったんです!
「1 大山巌陸軍大臣別荘」日露戦争の際、陸軍参謀本部となった別荘。前は砂浜から高い石垣、裏は山。
別荘の東は牛臥山に抱かれ、南西の正面は山と山に挟まれた砂浜、そして静かな内海駿河湾、こんな場所に別荘はあった。子供の頃我入道の海岸から続く岩山を潮が引いた時探偵団になったつもりで別荘を見に行った記憶が有る。2階建ての大きな家だった。祖母からは大山元帥のお嬢さんが静養のためこの地に長く滞在され体調がいいと香貫の方まで外出されてきたなどと聞いた。
今は牛臥山公園となり整備された。誰もがこの跡地を利用できる。ただし建物などは残念だが残っていない。
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「大山巌」の父は鹿児島の薩摩藩々士で、西郷隆盛やその弟の西郷従道らと大山巌は従弟である。その父、大山彦八綱昌(おおやまひこはちつなまさ)の次男として天保13年(1842年)鹿児島で産声をあげた。政治家であり陸軍軍人でもある大山巌は日本陸軍の創設に貢献し、日清戦争と日露戦争では日本軍の司令官として出征している。
文久2年(1862年)島津久光公の上洛に際して、有馬新七に従い西郷従道とともに京都に出向き諸国の攘夷派と合流する。その結果、大山は寺田屋事件で鎮圧されてしまい、帰国して謹慎処分に科せられてしまう。翌文久3年、謹慎放免後、薩英戦争に従軍し、イギリス艦乗っ取りの決死隊に参加し、敗退するも、黒田清隆らとともに江戸の江川太郎左衛門塾に派遣され、この江川塾で砲術を極め、そして砲の改良研究も行い、「弥介砲」(よすけほう)と呼ばれる十二斤綫臼砲を完成させる。その結果、戊辰戦争では薩摩藩二番砲兵隊長として従軍し、この「弥介砲」と砲術を大いに活用して戦果を挙げた。
日露戦争におけるその陸戦の総司令官として、日清戦争(1894年~95年)では第二軍司令官として旅順、威海衛を攻略、日露戦争(1904年~05年)に於いては満州軍総司令官として、日露戦争においては児玉源太郎とともに自ら大陸に渡って総指揮を執り、日本軍を勝利に導いた。日露戦争というと東郷平八郎や、乃木希典(のぎ まれすけ)が有名であるが、この前記の人物たちとはまた別格に位置する度量の大きな、そして人を掌握することに長けた大者であった。
「大山巌」は、明治18年(1885年)陸軍卿から第一次伊藤博文内閣で初の陸軍大臣就任する。その後4度、計5度の陸軍大臣と海軍大臣にも1度就任し、参謀総長、内務大臣をも勤め元老となり、長州閥の山縣有朋と並ぶ陸軍の実力者であったが、政治はあまり好きではなかったようで積極的には関与しなかったといわれている。軍人は軍人であれかしが信念だったと思われる。
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