江川太郎左衛門(江川英龍ひでたつ) 7
江川太郎左衛門(江川英龍ひでたつ) 7
江川太郎左衛門(江川英龍ひでたつ)と大場の久八
「任侠久八」といわれた「大場の久八」は、文化十一年十月二日(1814)伊豆の国、田方郡函南村間宮の百姓栄助の長男として生まれました。姓は森、名は久治郎、通称久八といわれ、六尺二寸の大男であったそうです。江戸湾お台場築造に数千人もの人足を連れ「江川太郎左衛門」に協力した人物です。
壽永六年ペリー黒船艦隊が浦賀へ来航、品川沖へも江戸湾深く入って来ました、江戸の町は大騒ぎとなり、武士の間では攘夷論が真剣に論じられる様になりました。 幕府は「坦庵公」の建白を取り上げ、お台場の築造を全任しました。「坦庵公」はエンゲルベルツのオランダ式築城法を学んでいて、これを元に、工事の総指揮官に就任し、鋼鉄洋式砲を韮山で造り、土木工事は甲州の土木請負、天野海蔵を指名しました。 やがて海蔵は、土運びの人足を集
める難題にぶつかり、三島にやって参り、「久八」を招き、 「久八どん、ほかでもねぇ、あんたを見込んでの頼みなんだ「江川太郎左ェ門」様から江戸湾お「台場」の土方を頼まれたにだが人足が少ねぇ、なにせ海の上だから何人かかるかわからねぇー、ここはたっての頼みだ」と頭を下げた。そこへ柏木総蔵が入って参りました。この人は代官所の役人で 「久八、この度は坦庵様がじかに海蔵殿にご依頼されたものだ、ここにお墨付きがある、久八の名も乗っておるので間違いないぞ」 「こりゃ柏木様のお出ましとはもっ
てーねー、わっちも任侠道を歩く人間だ、命をかけてお引受けいたしゃしょう」 そして、久八の人足集めが大いそぎで始められ「久八」は千人を引き連れて江戸へ上がりました。これには「江川太郎左ェ門公」もすっかり感服しまして、「任侠久八」の書を賜り、十手取り縄を授けると申されましたが、久八は、 「おことわりいたします。私は任侠一すじの覚悟をしております。二足のわらじははいたことはございません。せっかくですが、お気持ちだけいただきます」 坦庵公は二度感服しまして大そうの金子を与えたそうでございます。これが江戸中に知れ渡り、大仕事をした「お台場の久八親分」として江戸の有名人となり、新門辰五郎とも親交を結び、関東の侠客小金井の小次郎とも兄弟分となったという。
やがて維新戦争となり、薩、長、土、肥の官軍が伊豆へも進軍し、「久八」は代官所に義理を立て、鉄砲隊を組織して、徹底的に官軍に抵抗しました。 そして、敗戦。官軍に追われる身となります。一時甲州へ逃れていましたが韮山へ戻って来ますが、すでに維新政府の韮山県が置かれ、県令に捕えられましたが、東京の芝増上寺の管長などの有名な人々の運動によって釈放され堅気となり、農業に励むかたわら、学校を建て、貧困の者を助け、郷土の子弟の育成に力をそそいだという事です。
そして「久八」は明治二十五年十二月四日七十九才にて、大波乱に満ちた人生を終えた。 久八の墓は田方郡函南町間宮の「広渡寺」にあります。![]()
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