北条早雲 1 「生い立ち」
静岡東部沼津周辺の歴史探索をしていて興味を持ったのが「源頼朝」そして「北条早雲」と「江川坦庵」チョット調べてみたくなりましたね。少し時間を掛けて今回はまず「北条早雲」から書き込んでいきます。
「 北条早雲(伊勢盛時) 」は室町中後期の武将で戦国大名となった後北条氏の祖である。永享4年(1432年)頃備中伊勢氏の高越山城の城主伊勢盛定の子・新九郎盛時として生まれ、京へとのぼり京都伊勢氏の伊勢貞高の養子となりました。
一介の素浪人から戦国大名にのし上がった下剋上の典型とするのが長く通説とされてきましたが、実際には室町幕府の政所執事を務めた伊勢氏とみられる。「伊勢新九郎盛時」の名は文明13年(1481年)から文書に現れる。文明15年(1481年)に将軍義尚の申次衆に任命されている。長享元年(1487年)奉公衆となる。京で幕府に出仕して いる間、早雲は建仁寺と大徳寺で禅を学んでいる。
文明8年(1476年)今川義忠は遠江国の塩売坂の戦いで西軍の遠江守護斯波義廉方の国人横地氏、勝間田氏の襲撃を受けて討ち死に残された嫡男「龍王丸」は幼少であり、このため今川氏の家臣三浦氏、朝比奈氏などが一族の小鹿範満(義忠の従兄弟)を擁立して、家中が二分される家督争いとなった。これに堀越公方と扇谷上杉氏が介入し、それぞれ執事の上杉政憲と家宰の太田道灌を駿河国へ兵を率いて派遣させた。範満と上杉政憲は血縁があり、また太田道灌も史料に「合力」と記されている。「龍王丸」派にとって情勢は不利であった。「北川殿」の弟(または兄)である「早雲」は駿河国へ下り、調停を行い「龍王丸」が成人するまで範満を家督代行とすることで決着させた。上杉政憲と太田道灌も撤兵させた(こ
の時に道灌と会談したという話もある。旧来の説なら、早雲と道灌は同年齢であった)両派は浅間神社で神水を酌み交わして和議を誓った。家督を代行した範満が駿河館に入り、龍王丸は母北川殿と小川の法永長者(長谷川政宣)の屋敷(小川城(焼津市))に身を寄せた。従来、この調停成功は早雲の抜群の知略による立身出世の第一歩とされるが、これは貞親・盛定の命により駿河守護家・今川氏の家督相続介入の為に下向したものであるとの説が有力となっている。今川氏の家督争いが収まると早雲は京へ戻り、上述のとおり将軍義尚に仕えて奉公衆になっている。
「駿河下向」
文明11年(1479年)前将軍義政は「龍王丸」の家督継承を認めて本領を安堵する内書を出している。ところが、「龍王丸」が15歳を過ぎて成人しても「範満」は家督を戻そうとはしなかった。長享元年(1487年)「早雲」は再び駿河国へ下り、「龍王丸」を補佐すると共に石脇城(焼津市)に入って同志を集めた。同年11月、「早雲」は兵を起こし、駿河館を襲撃して範満とその弟小鹿孫五郎を殺した。龍王丸は駿河館に入り、2年後に元服して氏親を名乗り正式に今川家当主となる。
早雲は伊豆国との国境に近い「興国寺城」(現沼津市)と所領を与えられた。駿河へ留まり、今川氏の家臣となった早雲は氏親を補佐、守護代の出す「打渡状」を発行していることから駿河守護代の地位にあったとも考えられている。この頃に早雲は伊勢家と同格である平氏一門の幕府奉公衆小笠原政清の娘(南陽院殿)と結婚し、嫡男「氏綱」が生まれている。
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