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2008年11月

2008年11月29日 (土)

江川太郎左衛門(江川英龍ひでたつ) 4

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江川太郎左衛門(江川英龍ひでたつ) 4

韮山反射炉」18~19世紀におけるアジア近隣は西洋諸国の力による進出で、国権さえ危うくする事態が諸所に起きていたが、鎖国政策により海外への目を閉ざされていた日本は表面泰平をむさぼる状態にあった。先覚者「江川英龍担庵」はこれを深く憂え、国防特に海防の必要性を強く訴え、幕府に対して江戸湾防衛の具体策を建言してきたが、やがて幕府の容れるところとなり、品川沖に台場を構築し、大砲を据え、侵入する異国船を打ち払う方針が打ち出された。江川家三十六代担庵公は十八世紀のヨーロッパ諸国の植民地政策に対抗するため、鉄製の大砲を大量に鋳造する必要性を幕府に進言し、多くの困難のすえ着工した。

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嘉永2年(1849)「英龍」が、幕府の許可を貰い自宅に今の原型となる小反射炉を築造する。嘉永6年(1853) 幕府から反射炉築造を許可を貰い、「伊豆下田」に反射炉の築造開始。当初、伊豆下田高馬に着工するが、翌年下田が開港され、外国船の乗組員が上陸して来たりするので、天城山を越えた韮山に移築する。反射炉の建設、移築とも併せ幕命で品川に台場を築き、安政元年(1854)露使プチャーチンの乗艦「デイアナ号」が沈没、その代船を戸田で建造、その取締役をも命じられている。

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東奔西走の担庵も心身の過労に勝てず、翌年一月、五十五歳で多難な生涯を終えた。
安政4年(1857) 6月、その意志を継いだ子の英敏らにより完成することになる。

2008年11月27日 (木)

江川太郎左衛門(江川英龍ひでたつ) 3

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江戸湾の海防

天保8年(1837)6月、突然見たこともない船が来て国中が驚く。ペリーの黒船ではなく、中国のマカオを根拠地にしているアメリカ商船「モリソン号」で海外に漂着した日本人たちを引き替えに日本との貿易を開こうと目論んでいたのだが。
商船モリソン号が江戸の海にやってきた翌1838年末、海防担当の老中「水野忠邦」は今後に備えるため、江戸近海の調査を計画した。そこで「川路聖謨」からの推薦もあって「江川英龍」を副使に任命する。「江川英龍」は「江戸の海防」を以下の様にまとめ、幕府に提案した。「房総、三浦両半島や富津の沖に人工島作りを大砲を据えて、外敵の侵入をふせぎ、守備隊に農民を当てる」と言う要旨のもので海防のため、砲台の位置など具体的な配置まで作ったという。しかし、折角作った「江川」と「崋山」の草案も幕府の強力な推進者がなかったのか、具体化されないまま、幻の国防案として温められてしまった。
その14年後にやってきた「ペリー艦隊」は、遥か相模湾から江戸湾に我が物顔で航行し、その異様な姿をさらす示唆行為に江戸ばかりでなく、日本全体を震撼させた。軍艦7隻に驚かされて日米和親条約を結ばされる。その後、前水戸藩主「徳川成彬」を幕政に参与させ、国防充実する必要性から江戸湾に「台場」を気付くなどの安政の改革を行い江戸幕府末期から明治新政府の手によって、ようやく具体化され「英竜」の遺志は継がれた 。やって来た一隻の舟が国防意識を高め、「大砲や農兵隊」作りの芽を作ったのは言うまでもない。

西洋砲術と江川塾

江川英龍」は国外に唯一門戸を開き、西洋文明に直に接した長崎の「高橋秋帆」から洋式の砲術を始め、兵制や蘭学を学んだ。これが前述の江戸防衛の建白書の提案に繋がっている。この学問なり技術は「佐久間象山」「桂小五郎」「大山巌」に伝授した。のちに「佐久間象山」が我が国が誇る開明的な蘭学者として兵学や砲術、地勢学に精通した第一人者になる。江戸に出てから象山書院を開設、「吉田松陰」や「橋本佐内」、「勝海舟」など人材を育てた。「一橋慶喜」に招かれて海防問題に関する顧問を勤めた。

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母屋左側の一部はかつて塾になっており、その塾生に「佐久間象山」などの逸材が当所で育ち、羽ばたいて行った。近代日本の国家作りの為の人材作りの面でも「英龍」の役割は大きかった。担庵が他藩の者に韮山で教授したのは天保4年(1843)より10年あまりである。担庵の没後は江戸芝新銭座大小砲習練場において、担庵の嫡子、英敏を中心に担庵より指導を受けた門弟たちが、その数4000人とも言われている。

2008年11月24日 (月)

江川太郎左衛門(江川英龍ひでたつ) 2

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江川太郎左衛門(江川英龍ひでたつ) 2

江戸幕府の代官」とは勘定奉行の配下で幕府直轄領の支配を担当する役人、つまり幕府直属の地方行政官です。関東筋・畿内筋など各地域に代官役所が置かれ、江戸時代後期にはおよそ40人の代官によって、400万石にもおよぶ幕府直轄領の支配が行われていました。代官は、この広い支配地域において、年貢の徴収などの他に、管轄下の村々の戸籍(宗門人別帳)の管理や紛争処理、治安維持や罪人の処罰、村方への貸付金の運用など、行政・司法・警察・金融と、実に様々な業務をこなさなければなりませんでした。

Img_0045 江川邸「表門」

韮山代官

他の幕府代官と同じように幕府直轄領を支配する代官の一人。その支配地域は時期によって変化しますが、おおむね伊豆国(現静岡県)を中心として駿河国(現静岡県)・相模国(現神奈川県)・武蔵国(現東京都・埼玉県)・甲斐国(現山梨県)をその範囲としていました。また、伊豆諸島が管轄下に入っている時期もありました。石高は5万石から10万石余(当分預所を含めて)におよんでいます。
韮山代官の役所は江戸と韮山の二か所にあり、江戸役所で武蔵・相模・甲斐、韮山役所で伊豆・駿河の支配を担当していたと考えられています。また、代官役所の出先機関として、三島に三島陣屋、甲斐国都留郡に谷村陣屋、駿河国富士郡に松岡陣屋が置かれていた。

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江川邸「庭の紅葉」

 

韮山代官となった「江川英龍」の前には、解決しなければならない問題が山積していました。特に、天保9年7月に韮山代官所支配に編入された甲斐の国都留郡は、その2年前に甲州騒動(郡内騒動)と呼ばれる大規模な打ち壊しが発生した地域で、いまだ人心も荒廃しており、統治の難しい土地として知られていました。しかし英龍は、事前に身分を隠しての民情視察を行うなど、実情を把握していただけでなく、正式に支配を開始してからは、有能な手代を派遣して公正な民政を実施させました。また、困窮した村方に対して長期低金利による貸付金を設定するなど、金融面での施策も積極的に導入しています。      (江川邸HPより)

2008年11月23日 (日)

箱根仙石原【SOLO PIZZA(ソロ・ピザ)】

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箱根仙石原【SOLO PIZZA(ソロ・ピザ)

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開店して7年、有名に成りました~仙石原【SOLO PIZZA(ソロ・ピザ)】イタリアの田舎にある素朴な小さなレストランの感がこの仙石原の森の中にピッタリ。店は混んでます土日は予約して行ったほうがいいですね。

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Dscn3000室内は、削り出しの太い柱、漆喰の壁、床は石のテラコッタ風、イタリアから取り寄せたという家具・インテリア・窓も凝ってます。

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生地の上に直接チーズオンの「クワトロフォルマジィオ」素朴で小麦の香りが仄かに感じるようです。

Dscn3009  人気の「窯焼きチキン」皮のパリパリ感と中味のジューシーな味わいはぺロリとたいらげました。

Dscn3007バーニャカウダ」アンチョビの熱々ソースの中に冷たい野菜を付け食べればきりが無い。人気の秘密はコレ

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寒い時期に薪が燃える暖炉があり、箱根に行ったら是非寄って見る価値あり。

場所 神奈川県足柄下郡箱根町仙石原999 ℡ 0460-85-2884

2008年11月22日 (土)

江川太郎左衛門(江川英龍ひでたつ) 1

36代江川太郎左衛門(江川英龍ひでたつ) 1

静岡東部の歴史を紐解いていく中で、興味を抱く人物は多いが中でも「源頼朝」「北条早雲」「江川太郎左衛門」は特別な人物である。前回「北条早雲」を取り上げ「早雲の生立ち」→「駿河下向」「興国寺城址」→「伊豆討ち入り」「韮山城址」→「小田原城」まで調べてきた。歴史は学ぶほど興味が湧く、興味が湧くと足を運び調べてみたくなる。早雲が伊豆に討ち入り韮山城に入った時に、「23代江川英住」が「早雲」の家来にとなり「後北条」に仕える。早雲と江川家の接点がこのあたりにある。又「頼朝」伊豆旗揚げに「9代宇野親信」が参加したとも云われています。歴史とはこんな繋がりが興味をそそる大きな要素でしょうね。

Tannan江川家」と「英龍

初代は大和源氏の祖とされる「源頼親みなもとのよりちか」8代までは大和国(奈良県)に居た。「9代宇野親信うのちかのぶ」が、従者と共に伊豆のヤマキと呼ばれた現在地に移住し鎌倉幕府・室町幕府に仕えヤマキの豪族として勢力をもったようです。「23代英住ひでずみ」が早雲の家来となり、以後、後北条氏に仕えたこと、江川酒を醸造して名声を得ていたことは良く聞く話です。「28代の江川英長ひでなが」が、「徳川家康」に仕えて「代官」になり、以後明治に至るまで代々「代官」が続く。家督相続した当主は「皆太郎左衛門」を称しました「韮山代官」の役所は「江戸と韮山」の二か所にあり、「江戸役所で武蔵・相模・甲斐」「韮山役所で伊豆・駿河」の支配を担当していたといいます。「英龍ひでたつは、文政7年(1824)から代官見習として父英毅(ひでたけ)の仕事を補佐し経験を積んだ後、天保6年(1835)に「韮山代官」となりました。

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