沼津「高尾山祭典」
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江川太郎左衛門(江川英龍ひでたつ) 4
「韮山反射炉」18~19世紀におけるアジア近隣は西洋諸国の力による進出で、国権さえ危うくする事態が諸所に起きていたが、鎖国政策により海外への目を閉ざされていた日本は表面泰平をむさぼる状態にあった。先覚者「江川英龍担庵」はこれを深く憂え、国防特に海防の必要性を強く訴え、幕府に対して江戸湾防衛の具体策を建言してきたが、やがて幕府の容れるところとなり、品川沖に台場を構築し、大砲を据え、侵入する異国船を打ち払う方針が打ち出された。江川家三十六代担庵公は十八世紀のヨーロッパ諸国の植民地政策に対抗するため、鉄製の大砲を大量に鋳造する必要性を幕府に進言し、多くの困難のすえ着工した。
嘉永2年(1849)「英龍」が、幕府の許可を貰い自宅に今の原型となる小反射炉を築造する。嘉永6年(1853) 幕府から反射炉築造を許可を貰い、「伊豆下田」に反射炉の築造開始。当初、伊豆下田高馬に着工するが、翌年下田が開港され、外国船の乗組員が上陸して来たりするので、天城山を越えた韮山に移築する。反射炉の建設、移築とも併せ幕命で品川に台場を築き、安政元年(1854)露使プチャーチンの乗艦「デイアナ号」が沈没、その代船を戸田で建造、その取締役をも命じられている。
東奔西走の担庵も心身の過労に勝てず、翌年一月、五十五歳で多難な生涯を終えた。
安政4年(1857) 6月、その意志を継いだ子の英敏らにより完成することになる。
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函南で創業28年の割烹料理と鰻の店「花の木」が『和&イタリアン花の木HANA.NO.KI』になり3年パスタ・ピザ・サラダのイタリアンメニューからビーフシチュー・カツレツ・クリームコロッケ等の洋メニュー、鰻・天麩羅・駿河湾の新鮮な魚の和メニュー まで楽しめる貴重なお店です。
「花の木サラダ」ドレッシングと半熟の玉子のバランス最高。
花の木風 「若鶏のカツレツ」トマトバターソースがこくがあって美味い!
イカ味噌(げそ)ホイル焼きと駿河軍鶏手羽塩焼き
ケンブリッジの森藤原さんの設計の店内、木目基調のテーブル・床、漆喰の壁、いいですね~函南商工会青年部で活躍されているご子息の宏さん料理の説明親切に教えていただきありがとうございました。又お邪魔します。
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「江戸湾の海防」
天保8年(1837)6月、突然見たこともない船が来て国中が驚く。ペリーの黒船ではなく、中国のマカオを根拠地にしているアメリカ商船「モリソン号」で海外に漂着した日本人たちを引き替えに日本との貿易を開こうと目論んでいたのだが。
商船モリソン号が江戸の海にやってきた翌1838年末、海防担当の老中「水野忠邦」は今後に備えるため、江戸近海の調査を計画した。そこで「川路聖謨」からの推薦もあって「江川英龍」を副使に任命する。「江川英龍」は「江戸の海防」を以下の様にまとめ、幕府に提案した。「房総、三浦両半島や富津の沖に人工島作りを大砲を据えて、外敵の侵入をふせぎ、守備隊に農民を当てる」と言う要旨のもので海防のため、砲台の位置など具体的な配置まで作ったという。しかし、折角作った「江川」と「崋山」の草案も幕府の強力な推進者がなかったのか、具体化されないまま、幻の国防案として温められてしまった。
その14年後にやってきた「ペリー艦隊」は、遥か相模湾から江戸湾に我が物顔で航行し、その異様な姿をさらす示唆行為に江戸ばかりでなく、日本全体を震撼させた。軍艦7隻に驚かされて日米和親条約を結ばされる。その後、前水戸藩主「徳川成彬」を幕政に参与させ、国防充実する必要性から江戸湾に「台場」を気付くなどの安政の改革を行い江戸幕府末期から明治新政府の手によって、ようやく具体化され「英竜」の遺志は継がれた 。やって来た一隻の舟が国防意識を高め、「大砲や農兵隊」作りの芽を作ったのは言うまでもない。
「西洋砲術と江川塾」
「江川英龍」は国外に唯一門戸を開き、西洋文明に直に接した長崎の「高橋秋帆」から洋式の砲術を始め、兵制や蘭学を学んだ。これが前述の江戸防衛の建白書の提案に繋がっている。この学問なり技術は「佐久間象山」「桂小五郎」「大山巌」に伝授した。のちに「佐久間象山」が我が国が誇る開明的な蘭学者として兵学や砲術、地勢学に精通した第一人者になる。江戸に出てから象山書院を開設、「吉田松陰」や「橋本佐内」、「勝海舟」など人材を育てた。「一橋慶喜」に招かれて海防問題に関する顧問を勤めた。
母屋左側の一部はかつて塾になっており、その塾生に「佐久間象山」などの逸材が当所で育ち、羽ばたいて行った。近代日本の国家作りの為の人材作りの面でも「英龍」の役割は大きかった。担庵が他藩の者に韮山で教授したのは天保4年(1843)より10年あまりである。担庵の没後は江戸芝新銭座大小砲習練場において、担庵の嫡子、英敏を中心に担庵より指導を受けた門弟たちが、その数4000人とも言われている。
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大正初期に建てられ、かつては高級割烹として名をはせたものの老朽化などにより空き家状態だった大正ロマン漂う数寄屋建築「沼津倶楽部」が今秋、改修されてイタリアンレストランとして生まれ変わった。「沼津倶楽部」は、旧ミツワ石鹸創業者の三輪善兵衛(1871―1939年)が大正の初めに、避暑・避寒地だった沼津市千本に別荘として建設した。3000坪の広大な敷地に建ち、全部屋から庭園を望める設計。薄板を編み込んだ「網代天井」など、隅々まで凝った造りで建築雑誌にも度々紹介されてきた。(静岡新聞11/25)
かやぶきの長屋門も移し、建物へのアプローチを変更した。店も割烹から、社団法人が委託した運営会社が先月、イタリアンレストラン「ヴィーア サクラ」としてオープン。約3000坪の敷地の広大な庭園内にあります。ちなみにランチで、3500円と5500円とか。
園内の一番奥には会員制の宿泊施設もあります。 場所 沼津市本字千本郷林1907
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1 最も利用するファミリーレストランはどこ? マイボイスコムの調査によると、「ガスト」が最も多く20.8%、次いで「サイゼリア」(13.9%)、「デニーズ」(8.7%)、「びっくりドンキー」(8.0%)、「ジョイフル」(7.0%)と、低価格を“ウリ”にしたファミリーレストランが多くランクインインターネットによる調査で、1万5326人(男性46%、女性54%)が回答した。調査期間は11月1日から11月5日まで。
2 「昼食として最近増えたものは?」 との質問に対し「家から持参の弁当」で36%、次いで「コンビニで購入したパン、おにぎり、カップめんなど」(22%)。逆に最近減ったのは「レストラン、定食屋での外食」(43%)と、昼食に家から弁当を持参している人が増えている一方で、外食に行く人が減少していることが、インテージの調べで分かった。
「いつも必ず弁当持参」「昼ごはんを食べない」を除く1918人のビジネスパーソンに、1食当たりの昼ごはんの予算を聞いたところ「レストラン、定食屋などで外食」が最も多い人の平均金額は893円、「サンドイッチ、牛丼、ハンバーガーなどコーヒーショップ・ファストフードのイートイン」が617円、「コンビニなどで購入したパン、おにぎり、カップめんなど」が507円となり、全国平均で609円となった。この金額には地域差があり、首都圏が673円、関西圏が585円、そのほかの地域が561円だった。
インターネットによる調査で、20~59歳のビジネスパーソン2400人が回答した。調査期間は10月17日から10月21日まで。
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江川太郎左衛門(江川英龍ひでたつ) 2
「江戸幕府の代官」とは勘定奉行の配下で幕府直轄領の支配を担当する役人、つまり幕府直属の地方行政官です。関東筋・畿内筋など各地域に代官役所が置かれ、江戸時代後期にはおよそ40人の代官によって、400万石にもおよぶ幕府直轄領の支配が行われていました。代官は、この広い支配地域において、年貢の徴収などの他に、管轄下の村々の戸籍(宗門人別帳)の管理や紛争処理、治安維持や罪人の処罰、村方への貸付金の運用など、行政・司法・警察・金融と、実に様々な業務をこなさなければなりませんでした。
「韮山代官」
他の幕府代官と同じように幕府直轄領を支配する代官の一人。その支配地域は時期によって変化しますが、おおむね伊豆国(現静岡県)を中心として駿河国(現静岡県)・相模国(現神奈川県)・武蔵国(現東京都・埼玉県)・甲斐国(現山梨県)をその範囲としていました。また、伊豆諸島が管轄下に入っている時期もありました。石高は5万石から10万石余(当分預所を含めて)におよんでいます。
韮山代官の役所は江戸と韮山の二か所にあり、江戸役所で武蔵・相模・甲斐、韮山役所で伊豆・駿河の支配を担当していたと考えられています。また、代官役所の出先機関として、三島に三島陣屋、甲斐国都留郡に谷村陣屋、駿河国富士郡に松岡陣屋が置かれていた。
江川邸「庭の紅葉」
韮山代官となった「江川英龍」の前には、解決しなければならない問題が山積していました。特に、天保9年7月に韮山代官所支配に編入された甲斐の国都留郡は、その2年前に甲州騒動(郡内騒動)と呼ばれる大規模な打ち壊しが発生した地域で、いまだ人心も荒廃しており、統治の難しい土地として知られていました。しかし英龍は、事前に身分を隠しての民情視察を行うなど、実情を把握していただけでなく、正式に支配を開始してからは、有能な手代を派遣して公正な民政を実施させました。また、困窮した村方に対して長期低金利による貸付金を設定するなど、金融面での施策も積極的に導入しています。 (江川邸HPより)
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箱根仙石原【SOLO PIZZA(ソロ・ピザ)】
開店して7年、有名に成りました~仙石原【SOLO PIZZA(ソロ・ピザ)】イタリアの田舎にある素朴な小さなレストランの感がこの仙石原の森の中にピッタリ。店は混んでます土日は予約して行ったほうがいいですね。
室内は、削り出しの太い柱、漆喰の壁、床は石のテラコッタ風、イタリアから取り寄せたという家具・インテリア・
窓も凝ってます。
生地の上に直接チーズオンの「クワトロフォルマジィオ」素朴で小麦の香りが仄かに感じるようです。
人気の「窯焼きチキン」皮のパリパリ感と中味のジューシーな味わいはぺロリとたいらげました。
「バーニャカウダ」アンチョビの熱々ソースの中に冷たい野菜を付け食べればきりが無い。人気の秘密はコレ
寒い時期に薪が燃える暖炉があり、箱根に行ったら是非寄って見る価値あり。
場所 神奈川県足柄下郡箱根町仙石原999 ℡ 0460-85-2884
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36代江川太郎左衛門(江川英龍ひでたつ) 1
静岡東部の歴史を紐解いていく中で、興味を抱く人物は多いが中でも「源頼朝」「北条早雲」「江川太郎左衛門」は特別な人物である。前回「北条早雲」を取り上げ「早雲の生立ち」→「駿河下向」「興国寺城址」→「伊豆討ち入り」「韮山城址」→「小田原城」まで調べてきた。歴史は学ぶほど興味が湧く、興味が湧くと足を運び調べてみたくなる。早雲が伊豆に討ち入り韮山城に入った時に、「23代江川英住」が「早雲」の家来にとなり「後北条」に仕える。早雲と江川家の接点がこのあたりにある。又「頼朝」伊豆旗揚げに「9代宇野親信」が参加したとも云われています。歴史とはこんな繋がりが興味をそそる大きな要素でしょうね。
初代は大和源氏の祖とされる「源頼親みなもとのよりちか」8代までは大和国(奈良県)に居た。「9代宇野親信うのちかのぶ」が、従者と共に伊豆のヤマキと呼ばれた現在地に移住し鎌倉幕府・室町幕府に仕えヤマキの豪族として勢力をもったようです。「23代英住ひでずみ」が早雲の家来となり、以後、後北条氏に仕えたこと、江川酒を醸造して名声を得ていたことは良く聞く話です。「28代の江川英長ひでなが」が、「徳川家康」に仕えて「代官」になり、以後明治に至るまで代々「代官」が続く。家督相続した当主は「皆太郎左衛門」を称しました「韮山代官」の役所は「江戸と韮山」の二か所にあり、「江戸役所で武蔵・相模・甲斐」「韮山役所で伊豆・駿河」の支配を担当していたといいます。「英龍ひでたつ」は、文政7年(1824)から代官見習として父英毅(ひでたけ)の仕事を補佐し経験を積んだ後、天保6年(1835)に「韮山代官」となりました。
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我が家、いや私のキッチン代わりでもあるレストラン「和(なごみ)」メニューはまさしく「玉手箱」色々あります。何が出てくるか毎日が楽しみの店。最近食べた裏メニュー紹介しちゃいます。
画像「タイしゃぶ」ママの実家は静浦の網本、新鮮な魚が味わえます。6kはあった真鯛刺身も良かったがしゃぶしゃぶ」甘くプリプリポン酢で最高でした!
画像 釣れたばかりのメジの「ちらし寿司」 漬丼も美味しかった!
マスターの実家新潟高田の”ねぎ”すき焼きにして貰いました。この近くには無い歯ごたえ甘味、ネギってこんなに美味しいの、ビックリでした。「和なごみ」のお米は新潟実家直送コシヒカリ、精米は都度近くの農協でしているので文句なし美味しいですよ。
画像「牛スジシチュー」和なごみのビーフシチューの美味しさは男だったらこたえられない味ですがこの牛スジシチューが又美味い、しっかり煮込んであるのでとろけるようです~シチューベースのハヤシライスもいいですね~今回のメニューは裏メニューにつき運がよければ食べる事が出来ます。定番にしてくれればいいのにね~TEL055‐933‐8803
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永正15年(1518年)には、家督を子・氏綱に譲ります。その前後より「虎印判状」が登場、虎をかたどった印を使い始めます。かつて早雲は「三嶋大明神」に深く帰依しており、そんな折り縁起の良い夢を見たといいます。「野原に2本の大きな杉が立っており、そこに1匹の小さな鼠(ねず
み)が現れ、その杉の根をかじり始めた。すると2本の杉は倒れ、鼠(ねずみ)が 虎になった」…という夢です。その夢を早雲は、2本の杉を山内・扇谷両上杉氏、鼠(ねずみ)を子(ね)年生まれの自分と解釈し、虎となって山内・扇谷両上杉氏と戦う事を自分の使命と受け取ったのです。子(ね)年生まれの自分と虎になった鼠(ねずみ)を重ね合わせ、虎をかたどった
印を使ったのではないかと思います。きっとそんな話しを、子・氏綱にしながら家督 を譲り、彼に想いを託したのではないでしょうか。印に彫られた文字は「禄寿応隠」。「人民よ皆平和に暮らそう」という意味です。
家督を譲った翌年、永正16年(1519年)8月15日、安心したのか早雲は、韮山城で亡くなりました。88歳という当時としてはかなりの大往生でした。
箱根の早雲寺にお墓があります。法名・早雲寺殿天岳宗瑞大禅定門。
2代氏綱からは又の機会に~
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北条早雲 5 「山内上杉顕定と扇谷上杉朝良」
関東で争っていた山内上杉顕定と扇谷上杉朝良は「このまま対立していては、早雲にやられる」と気付き始め、永正7年(1510年)6月、早雲が扇谷上杉朝良の家臣・上田政盛を味方に寝返らせたところで、ついに、それまで早雲に好意的だった朝良も山内上杉顕定の養子・憲房と結び、同年7月19日早雲の城として取り立てられたばかりの権現山城へと襲いかかりました。はじめての山内・扇谷両上杉氏の大連合軍によって早雲は
大敗を喫し、上杉の壁 がいかに厚く高いかを思い知らされることとなりました。両上杉氏を直接相手にしたのでは勝ち目がないと判断した早雲は、永正8年(1511年)扇谷上杉氏と和睦しつつ、扇谷上杉氏の重臣で相模国最大の勢力を持つ三浦氏の討伐に的を絞ります。そして永正9年(1512年)8月、早雲の軍勢は三浦氏当主・義同(道寸)のいる岡崎城を急襲、三浦道寸は城を支えることが出来ずに住吉城へと逃れ新井城へと落ちのびます。そのまま
新井城を攻め三浦氏にとどめをという家臣もあったけれど、三浦氏の実力を知っていた早雲は慎重にならざるを得ず、そこではそれ以上攻め入ることはありませんでした
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北条早雲 4 「小田原城略取」
伊豆平定にある程度成功した早雲は、西相模・小田原城へと目を向けます。当時の小田原城主は山内上杉顕定の重臣大森氏頼であり、山内上杉氏との闘争に明け暮れる扇谷上杉氏に対しても、有力な加勢として参陣の実績を重ね、大森氏を討っても扇谷への反逆にならない立場を固め準備を進めました。しかし、小田原城主・大森氏頼も手強くうまく行かずに いました。そして氏頼が死んだところであとを継いだ藤頼に接近し、手紙
のやりとりや珍しい品物を贈ったりして藤頼を油断させます。そして、早雲は藤頼に「伊豆で鹿狩りをしていたら箱根山に逃げてしまった。伊豆に鹿を追い返すために勢子を入れさせて欲しい」と頼みます。何の疑いも持たない藤頼は「御自由に」と返事をしてしまいます。そうして、勢子に化けた 早雲の
一隊は明応4年(1495年)9月、小田原城・大森藤頼に夜襲をかけ、城と城付の領地を奪い取ってしまいました。 早雲は敵味方双方に あまり多くの犠牲を出さずに比較的容易に小田原城乗っ取りを成功させま
す。
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北条早雲3「伊豆討ち入り」戦国期の幕開け
延徳3年(1491年)4月3日、堀越公方足利政知の死にともなう公方家中の乱れに乗じて、同年10月11日の夜、氏親の兵を借り堀越御所を急襲して、後継者茶々丸を自害させて伊豆一国を手中に収めます。有名な「伊豆討ち入り」です。公方家中の乱れに乗じてとはいえ、伊豆は堀越公方の直轄地であり、代々山内上杉氏の守護領。その奪取はきわめて大胆で、今川氏配下の一客将の挙としては無謀ともいえます。しかし、この行動の
軍事的指揮そのものは早雲の手によったものですが、その背景には大きな政治的了解が潜んでいたようです。山内上杉氏や扇谷上杉氏、太田道灌の存在、また早雲が伊豆を制圧したとき、扇谷上杉氏と山内上杉氏が合戦中で、伊豆の武士はみなその戦いに加わり、伊豆には百姓ばかりという、絶好の機会でもあったのです。また、早雲は伊豆攻略にあたって、その善後策に精力を注ぎました。今川氏、扇谷上杉氏との関係のみならず、自ら湯治客などを装って敵情偵察なども行っています。農民撫育や
諸卒の士気高揚に意を尽くし、伊豆の在地武士の領地安堵の条件として、四公六民を言い渡し「願わくば民ゆたかにあれかし」と説いています。その待遇に感激した民百姓が早雲の戦いに積極的に参加する意思を表明してしまうほどでした。早雲は当時の大名に欠けていた、民政に意を用いたのです。また、それは足軽や陣夫の積極的な徴用という面にも表れます。そして、これらのことは、早雲の戦略戦術面に重要な作用をもたらしていたと考えられます。早雲は戦略家、現実的政治家としても只者ではなかったようです。
延徳3年(1491年)4月3日、堀越公方足利政知の死にともなう公方家中の
乱れに乗じて、同年10月11日の夜、氏親の兵を借り堀越御所を急襲して、後継者茶々丸を自害させて伊豆一国を手中に収めます。有名な「伊豆討ち入り」です。公方家中の乱れに乗じてとはいえ、伊豆は堀越公方の直轄地であり、代々山内上杉氏の守護領。その奪取はきわめて大胆で、今川氏配下の一客将の挙としては無謀ともいえます。しかし、この行動の
軍事的指揮そのものは早雲の手によったものですが、その背景には大きな政治的了解が潜んでいたようです。山内上杉氏や扇谷上杉氏、太田道灌の存在、また早雲が伊豆を制圧したとき、扇谷上杉氏と山内上杉氏が 合戦中で、伊豆の武士はみなその戦いに加わり、伊豆には百姓ばかりという、絶好の機会でもあったのです。また、早雲は伊豆攻略にあたって、その善後策に精力を注ぎました。今川氏、扇谷上杉氏との関係のみならず、自ら湯治客などを装って敵情偵察なども行っています。農民撫育や諸卒の士気高揚に意を尽くし、伊豆の在地武士の領地安堵の条件とし て、四公六民を言い渡し「願わくば民ゆたかにあれかし」と説いています。その待遇に感激した民百姓が早雲の戦いに積極的に参加する意思を表明してしまうほどでした。早雲は当時の大名に欠けていた、民政に意を用いたのです。また、それは足軽や陣夫の積極的な徴用という面にも表れます。そして、これらのことは、早雲の戦略戦術面に重要な作用をもたらしていたと考えられます。早雲は戦略家、現実的政治家としても只者ではなかったようです。
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紅葉真っ盛り「河口湖・西湖」 紅葉が綺麗です!
「西湖紅葉台キャンプ場近くの紅葉」
「西湖から河口湖に向かう途中」どうだんとモミジ
「西湖モミジ並木からの富士山」
「河口湖モミジ回廊」ライトアップされ一段と赤が引き立ちます。紅葉祭りは11月16日迄 11月13日撮影
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日本カー・オブ・ザ・イヤー実行委員会は11日、「2008-2009日本カー・オブ・ザ・イヤー」に、トヨタ自動車が今月20日に発売する超小型車「iQ(アイキュー)」(排気量1・0リットル、4人
乗り)を選んだ。
全長は3メートルに満たないが、エンジンルームの小型化などで4人乗りを可能にした点や9個のエアバッグを標準装備する高い安全性などが評価された。トヨタの受賞は06~07年の「レクサスLS460」以来、2年ぶり。
輸入車の「インポート・カー・オブ・ザ・イヤー」には、プジョー・シトロエン・ジャポンの「シトロエンC5」が選ばれた。
選考の対象は、07年11月から08年10月末までに国内で新型車として発表された41台。読売新聞(11月11日)
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原油価格の急落が続いていることで“安売り激戦区”の東京都世田谷区の環状8号線沿いにはレギュラーガソリン1リットル当たり123円のスタンドが登場した。周辺には120円台のスタンドも多く、最高値の時より約50円も安くなり利用者には朗報だが、再び訪れた安売り合戦に苦闘している給油所もあるという。8日午前9時、環状8号沿いのゼネラル系のガソリンスタンド。入り口の電光掲示板に「123」の文字が赤く光る。石油情報センターによる最新のレギュラーガソリン1リットル当たりの全国平均は141円だが、同店では「今年最安値」という値段に引き寄せられるように、次々と乗用車が入ってきた。12台ある給油機が休む間もないほどの繁盛ぶり。休日のため家族連れも多く、スタンド内のトイレにまで列ができた。毎日新聞(11月08日)
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11月9日~15日は「秋の火災予防週間」ですね。
幼稚園の園児が「火の用心」と大きな声で巡回していました。今年は特に『火のしまつ 君がしなくて 誰がする』『高齢者は特に注意!住宅火災』『ついていますか住宅用火災警報器』などが重点のようです。(沼津市広報に記載)
幼稚園の先生から貰った「ティシュ」 ~火の用心~
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北条早雲 2 「興国寺城」
「興国寺城」は沼津市根古屋に所在し、戦国時代に関東一円を支配した後北条氏の祖である伊勢新九郎長氏(北条早雲)の「旗揚げの城として名高い城である」
(今川氏に身を寄せていた盛時は文明8年(1476年)義忠が急死すると、その後の相続争いに今川氏親を助けた功があり、長享2年(1488年)頃、
富士郡下方12郷を与えられ、興国寺城主となった。北条早雲50半ば過ぎ)
交通の要衝に位置した為今川氏滅亡後も武田・北条の争奪戦が繰り返され、その後は徳川の支配下に入るなど、駿東郡の戦国時代を代表する城である。(沼津市誌)関ヶ原の合戦により家康の天下が確定し、駿河は再び徳川氏の領土となった。翌6年、興国寺城には天野康景が1万石で入城した。天野康景はよほど頑固な人物であったようで、7年後の慶長12年、天領の百姓を斬殺した家臣を引き渡すように家康に命じられたが、こ
れを拒否。天野氏は除封となり、同時に興国寺城も廃城となったという。このように、今川、北条、武田、徳川と、めまぐるしく城主が入れ替わった城であった。城地は愛鷹山麓の尾根上にあるが、南方はかつての湿地帯、浮島ケ原の東端で人馬の踏み込みが困難な要害地だった。また、城地の一部を東西に根方街道が通過する一方、南に竹田道が伸び、根方
街道と東海道を結ぶ交通の要衝でもあった。それだけ重要な城であったということであろう。 城の構造は、尾根の先端部を利用した連郭式縄張りで、北から北曲輪・本丸・二の丸・三の丸の順に配され、北曲輪と本丸の間には大空堀がある。本丸は標高36m、土塁内側で東西60m、南北50mの規模があり、北側土塁の最高部には約300㎡の平坦地があり、ここが天守台跡と伝えられている。また、本丸南方には石火矢台(石火矢は大砲という意味)があり、三の丸南端にも土塁の跡が残されている。昭和57年には天守台跡の発掘調査が行われ、東西2棟の建物の礎石が
検出された。また、天守台跡の南面には石垣遺構も残されている。また、東船着場跡と伝承される小さな曲輪や東側の小字清水の台地もこの城郭に取り込まれていたと考えられ、清水曲輪と呼称している。
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静岡東部沼津周辺の歴史探索をしていて興味を持ったのが「源頼朝」そして「北条早雲」と「江川坦庵」チョット調べてみたくなりましたね。少し時間を掛けて今回はまず「北条早雲」から書き込んでいきます。
「 北条早雲(伊勢盛時) 」は室町中後期の武将で戦国大名となった後北条氏の祖である。永享4年(1432年)頃備中伊勢氏の高越山城の城主伊勢盛定の子・新九郎盛時として生まれ、京へとのぼり京都伊勢氏の伊勢貞高の養子となりました。
一介の素浪人から戦国大名にのし上がった下剋上の典型とするのが長く通説とされてきましたが、実際には室町幕府の政所執事を務めた伊勢氏とみられる。「伊勢新九郎盛時」の名は文明13年(1481年)から文書に現れる。文明15年(1481年)に将軍義尚の申次衆に任命されている。長享元年(1487年)奉公衆となる。京で幕府に出仕して いる間、早雲は建仁寺と大徳寺で禅を学んでいる。
文明8年(1476年)今川義忠は遠江国の塩売坂の戦いで西軍の遠江守護斯波義廉方の国人横地氏、勝間田氏の襲撃を受けて討ち死に残された嫡男「龍王丸」は幼少であり、このため今川氏の家臣三浦氏、朝比奈氏などが一族の小鹿範満(義忠の従兄弟)を擁立して、家中が二分される家督争いとなった。これに堀越公方と扇谷上杉氏が介入し、それぞれ執事の上杉政憲と家宰の太田道灌を駿河国へ兵を率いて派遣させた。範満と上杉政憲は血縁があり、また太田道灌も史料に「合力」と記されている。「龍王丸」派にとって情勢は不利であった。「北川殿」の弟(または兄)である「早雲」は駿河国へ下り、調停を行い「龍王丸」が成人するまで範満を家督代行とすることで決着させた。上杉政憲と太田道灌も撤兵させた(こ
の時に道灌と会談したという話もある。旧来の説なら、早雲と道灌は同年齢であった)両派は浅間神社で神水を酌み交わして和議を誓った。家督を代行した範満が駿河館に入り、龍王丸は母北川殿と小川の法永長者(長谷川政宣)の屋敷(小川城(焼津市))に身を寄せた。従来、この調停成功は早雲の抜群の知略による立身出世の第一歩とされるが、これは貞親・盛定の命により駿河守護家・今川氏の家督相続介入の為に下向したものであるとの説が有力となっている。今川氏の家督争いが収まると早雲は京へ戻り、上述のとおり将軍義尚に仕えて奉公衆になっている。
「駿河下向」
文明11年(1479年)前将軍義政は「龍王丸」の家督継承を認めて本領を安堵する内書を出している。ところが、「龍王丸」が15歳を過ぎて成人しても「範満」は家督を戻そうとはしなかった。長享元年(1487年)「早雲」は再び駿河国へ下り、「龍王丸」を補佐すると共に石脇城(焼津市)に入って同志を集めた。同年11月、「早雲」は兵を起こし、駿河館を襲撃して範満とその弟小鹿孫五郎を殺した。龍王丸は駿河館に入り、2年後に元服して氏親を名乗り正式に今川家当主となる。
早雲は伊豆国との国境に近い「興国寺城」(現沼津市)と所領を与えられた。駿河へ留まり、今川氏の家臣となった早雲は氏親を補佐、守護代の出す「打渡状」を発行していることから駿河守護代の地位にあったとも考えられている。この頃に早雲は伊勢家と同格である平氏一門の幕府奉公衆小笠原政清の娘(南陽院殿)と結婚し、嫡男「氏綱」が生まれている。
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本場の高知のチームをはじめ、全国から74チームが参加、3000人余の踊り手が参加する「よさこい東海道2008」 沼津市街を会場に熱き踊りを披露!
「スケジュールは以下の通りです」
11月8日(土)前日際
イシバシプラザ正面12:00~14:00
仲見世演舞場 13:00~15:30
上土演舞場 13:00~16:30
魚町仲町演舞場 13:00~16:30
中央公園演舞場 12:00~16:30
狩野川演舞場 14:00~17:00
前夜祭狩野川演舞場17:00~19:30
11月9日(日)本祭
イシバシプラザ正面11:00~15:30
北口演舞場 11:00~16:30
仲見世演舞場 12:00~14:30
アーケード会場 11:30~16:30
本町審査会場 11:30~16:30
中央公園演舞場 11:00~16:30
狩野川演舞場 11:00~16:30
フィナーレ(狩野川演舞場)17:00~19:30
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久しぶり小田原に出かけまし
た。以前は仕事の関係で湘南
や鎌倉、三浦に良く出かけて
いましたが今回は1年ぶりに
「四川」には良く 通いました~
その味が忘れられず寄って
見ました。
「四川」の坦々麺は、辛さの
向け)→ C(辛い)→スペシ
ャル(激辛)→ Wスペシャル
(超激辛,メニューにはありま
せん)があります。スープは
リめのスープに、自家製の
手打ち麺が、スープとよく絡
み、もっちり感もあり、それ
はもう絶品なんです。麺が
具としてはひき肉とネギが
上手くマッチしてついつい
スープまで残さず飲んでし
まいます。トッピングで
チャーシューや支那竹が頼めます。
他ではなかなかお目にかかれない坦々麺なので、
忘れられない、癖になる味です。
場所小田原市上曽我173-1 / 11:00-17:00 /0465-42-5451
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沼津千本の住宅街にこんな
可愛いレストランがあります。
名前は「キャプテンズキッチン」
ワンプレートに綺麗に盛り付け
セット」が美味しかったです
(¥1,000円)値段も安い
(エビフライ1本OR唐揚げ3個+
サラダ・ドリンク)
¥1,000円(ナポリタン+エビフライ
2本+ドリンク)
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国土交通省は31日、新たなご当地ナンバーとして「富士山ナンバー」の交付を11月4日から山梨運輸支局と静岡運輸支局沼津自動車検査登録事務所で開始すると発表した。
「富士山ナンバー」は、複数の県・運輸支局をまたぐ初めてのケースで、ご当地ナンバーとしては19ナンバー目となる。
「富士山ナンバー」交付対象地域
静岡県:富士宮市、富士市(11月1日に富士川町を合併)、御殿場市、裾野市、小山町、芝川町
山梨県:富士吉田市、富士河口湖町、西桂町、忍野村、山中湖村、鳴沢村、道志村
予約での人気ナンバーは富士山22-36 37-76だという。
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清水町イタリアン【キャナリー
ロウ】オリーブの木に囲まれた
洒落た雰囲気のお店です。
日本人に合う味付けのパエリ
アが好きで出かけています。
野菜や前菜、飲み物のコー
ケーキワゴンサービスもあ
ります。パスタ、ピザもいい
すよ~パスタ約30種類、
ピザ8種のほかにチーズ
フォンデュもある。ここでは
にセットメニューがオススメ。
ランチは1180円からで、好み
のパスタにサラダバーとフリ
ードリンクが付く。サラダバー
コーナーには生野菜だけで
イタリアの家庭料理、手作り
パンも置かれ、食べ放題。
場所は三島バイパス天神屋
の交差点を南へ1KM程走り
右側です。場所 清水町柿田148-1 TEL 055-981-3858
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エッ・・女の「座頭市」・・どんな映画に成っているのか興味あり見てきました。「座頭市」といえば「勝新太郎」北野武の座頭市、髪を金髪に染めた「市」も良かったが勝新のイメージが強いのは我々叔父様だけでしょうか~曽利文彦監督思い切ったものですね。人きりアクションの見せ場だけではない、涙の無い渇いた心の闇をより深く描くことで、今迄の座頭市と違ったストーリーになっている。音楽や悪
玉万鬼(中村獅堂)の衣装の色使いなど時代劇の国際化を感じるほど斬新に感じる。
幼いころから、盲目の女旅芸人たちに育てられた市。たまに尋ねてくる父親から居合いを教わりしているが、ある事で一座を追われてしまう。一人になった「市」は何処にいるかわからない父親を探し出す事。そんな旅を続ける市は、刀の抜けない侍・十馬(大沢たかお)と出会う。この出会いで市は、人を愛すること、愛されることを知り、暗闇の世界
に一筋の光が差し込むのだが、平和な宿場町を狙う悪党万鬼を打つ事は出来たが十馬も亡くなってしまう。
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伊豆・箱根の「紅葉の見所」
今日から11月です。そろそろ紅葉の話題が出る頃ですね~近郊の見所を今年も載せま~す。(場所のわかりにくい所だけ地図を添付)
【修善寺虹の里のもみじ林】色づいたもみじ林を散策しては如何ですか、天候に恵まれれ ば太陽の光に真っ赤に染まった紅葉が素敵です。赤いもみじの落葉を踏んで歩くと何故か気が安らいだ思い出があります。近年人手多く駐車場も有料又運が悪いと遠くに止めなければ成りません行くなら平日がいいですね。イロハカエデ、トウカエデ、オオモミジなど 11月中旬~12月上旬 伊豆市修善寺4279-3
【雄飛滝もみじ】場所を説明するのはとても難しい大仁方面から狩野川を
渡り左カーブ1つ目狩野川公園の信号を右折したら近辺の人(商店)に聞いてください。滝と紅葉(数は少ない)が絶対の穴場です。途中の「益山寺の大銀杏ともみじも」時間が有ればどうぞ。修善寺熊坂→沼津内浦に抜ける林道途中
【三島玉沢妙法華寺のもみじ】国1三島谷田交差点三島警察前142号を箱根方面に、境内の紅葉と寺の外壁のマッチがすばらしい京都の風情です。
【熱海梅園】12月上旬まで紅葉を楽しむことができることで有名な熱海梅園。園内を流れる初川沿いの散策コースを歩きながら鑑賞したい。人工の滝「梅見の滝」が渓谷の雰囲気を演出している。イロハモミジ、ムサシノ、イチジョウ 熱海市梅園
【旧天城トンネル】国の重要文化財でもある旧天城トンネル。周り一帯にカエデやブナの自然林があり、明治時代と同じ紅葉を眺めることができる。11月には、天城路もみじ祭りを開催。 ブナ、ケヤキ、カエデ 11月下旬~12月中旬 伊豆市湯ヶ島
【河津七滝周辺】『伊豆の踊子』の舞台となった天城路。踊り子の像がある初景滝は、紅葉スポットとしても人気だ。紅葉を楽しんだ後は、立ち寄りで入浴できる旅館や温泉施設でゆっくりするのもいい。カエデ 11月下旬~12月上旬 河津町梨本
【一碧湖】「伊豆の瞳」とも称される一碧湖。紅葉シーズンは、周囲の木々が赤や黄色に染まり、より美しい姿に。ボートに乗って、水上から見える岸辺の景色を満喫。イロハモミジ 11月上旬~12月中旬 伊東市吉
【箱根美術館】箱根で最も美しい紅葉が見られる場所だといわれている。
庭園内には苔庭を中心に、200本以上のモミジがあり、紅と緑の色彩美を描き出す。
12月の始めまで楽しめる。 イロハモミジ、ヤマモミジなど 11月中旬~12月上旬 箱根町強羅1300
【箱根蓬莱園】小湧園すぐのところにある。春のツツジも有名だが紅葉したモミジも格別です。
【田貫湖】朝霧高原の一角に位置する田貫湖。富士山全景と紅葉した木々が湖に美しく映りこむ。田貫湖キャンプ場の紅葉もあわせて鑑賞したい。カエデ、モミジ11月中旬~11月下旬 富士宮市佐折634-1
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