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2008年8月

2008年8月31日 (日)

【ぶらり富士市3】

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富士市の昔話

曽我物語】1192年征夷(せいい)大将軍となった源頼朝はその翌年、富士の裾野で大規模な巻狩りを行いました。その一行にまじり、父親のあだ討ちを行った兄弟がいました。それが曽我十郎祐成(すけなり)と曽我五郎時致(ときむね)の兄弟です。兄弟のあだ討ちは、兄弟の祖父、伊東祐親(すけちか)と工藤祐経(すけつね)の相続争いが原因でした。不満を抱いた祐経が、家臣に祐親と祐泰(すけやす)親子の暗殺を命じました。祐親暗殺は失敗しましたが、兄弟の父である祐泰は殺されてしまいました。父を殺された悲しみから、幼い兄弟二人は、どんな困難にも耐えていつか必ずあだ討ちをしようと心にかたく決めたのです。数年後、巻狩りという絶好の機会がとうとう訪れました。青年に成長していた兄弟は、巻狩りの騒ぎに紛れ、父のかたき工藤祐経を討ち取ったのです。しかし、長年の思いは果たせても、鎌倉時代にあだ討ちは禁止されていたので、兄弟はそれぞれ処刑されてしまったのでした。しかし、兄弟二人で長年の苦難を乗り越えてのあだ討ち事件は、人々の同情や共感を呼び、文芸演劇の世界にまで広がっていきました。さらに、美男子で大柄だったという十郎と、踊り子でとても美しかったという虎御前の悲しい恋愛もますます人情をあおることになりました。そして多くの人に脚色されながら、「曽我物語」として数々の遺跡とともに今に残っています。曽我八幡宮(厚原)幼い兄弟がいつか親のかたきをとろうと誓い合う像が立っています。曽我寺(久沢)兄弟の菩提寺(ぼだいじ)である曽我寺兄弟が仲よく並んで葬られています。虎御前の腰掛け石(伝法)十郎の恋人・虎御前が兄弟の悲報を聞き、崩れるように腰をおろした石が残っています。

中島の子育て地蔵】昔、富士の中島にカヤ積み揚がありました。昔の家はほとんどカヤぶき屋根だったので、人々は富士山のすそ野からカヤを刈り、一ヵ所に積んでおいたのです。あるとき富士川がはんらんし、カヤ積み楊に八十センチメートルくらいのお地蔵さんが流れ着きました。お地蔵さんは長い年月をかけて流れ着いたらしく、汚れていて、首も取れていました。そんなお地蔵さんを見つけた村人は大変かわいそうに思い、取れていた首の代わりに、丸い石を乗せ、社(やしろ)をつくってお地蔵さんを祭りました。そして、カヤ積み場の周辺をお地蔵さんの地所にして、そこからとれるお米をお地蔵さんへの年貢として、お祭りも行うことにしました。そんなある日、子供ができずに困っている村人がお地蔵さんに「子宝に恵まれますように」とお参りしました。すると、すぐに子供が授かりました。また、子供の体が弱くて困っていた村人が「子供が丈夫になりますように」とお願いすると、間もなく子供はすっかり元気になりました。それからいつの間にかこのお地蔵さんは「子育て地蔵」と呼ばれるようになったのでした。

馬車鉄道】鈴川駅を起点として吉原、伝法、入山瀬を経由して富士宮市大宮町に至る「馬車鉄道」が開通したのは、東海道線鈴川駅が開駅した翌年の明治二十三年でした。
 「馬車鉄道」は道路に敷いた線路の上を馬車で人や荷物を運ぶ、当時の最新式交通機関でした。人なら十人くらいが乗れる箱型の車を馬が引く乗り物で、その馬を手綱で操る人を「別当(べっとう)」と呼びました。そして、ところどころに「すれ合い」という馬車が相互に行き交うために四本の線路を敷いたところがあり、手を挙げて合図をすれば、途中でどこでもとめて乗り降りができる便利な乗り物でした。また、客車だけではなく、郵便物などを運ぶ郵便車もあり、物資の運搬にも利用されていました。その利益は、明治三十八年の半期だけで旅客、貨物を合わせて千七百七十五円という記録が残っています。一区間二銭ほどの当時としては、大変需要があったことがうかがえます。しかし、当時の人々の重要な交通機関であった馬車鉄道も、富士身延鉄道の開通など、文明の進歩とともに大正時代の末に廃止されました。

大渕小僧】昔、大淵新田におばあさんと男の子が暮らしていました。男の子は小さいときに両親と死に別れ、おばあさんに育てられました。物心がつくとお母さんやお父さんが恋しく、ほかの家の子供たちをとてもうらやましく思っていました。そのうえ、近所の子供からは「親なしっ子」といじめられ、だんだん心がすさんでいきました。そして畑を荒し回ったり、子供に石を投げたりして、悪いことをするようになり、「大淵小僧」と呼ばれるようになりました。小僧は人々に嫌われれば嫌われるほど、物を盗んだり、人をだましたりと、さらに悪いことをするようになりました。困った村人はおばあさんに注意するように言いましたが、おばあさんも村人の言うことを聞こうとしません。村人は小僧を捕まえて遠くへ置き去りにしましたが、すぐに戻ってきてますます悪いことをするようになりました。とうとう村人の中に小僧を殺してしまえと言う者が出て、村中が殺気立ち、名主の反対を押し切って小僧を殺してしまいました。それから、小僧を殴った人が次々と急病で死に、村じゅうに原因不明の病気がはやりました。だれからともなく「これは小僧のたたりだ」と言うようになりました。村人は「ひどいことをした」と悔やみ、子供の霊を神として祭りました。すると、村人の病気はたちまち治ったということです。

今宮の火祭り】昔、昔のことです。今宮では毎年のように火事が起きていました。それに加えて相次ぐ干ばつで不作が続き、村人の生活は大変苦しい状態に追い込まれていました。そこで村人たちは、「この災いを払いのけるように何か祭りをしよう」と相談をしました。ところがそれから三日後、またも火事が発生しました。その日は風が強く火は瞬く間に広がり、大火事となってしまいました。村人たちは、すぐに祭りを行おうと話し合い、火を清めるための「火祭り」を行うことに決めました。季節は八月の初めを過ぎていたので、お盆に合わせて祭りをすることにしました。そして、名主が三晩連続の「火祭り」をするように、村じゅうにおふれを出しました。いよいよお盆です。村の中心に火床をつくり、そこから火をもらったたいまつにひもをつけてぐるぐる振り回しながら、村の一軒一軒を回っておはらいをしました。三日目の晩には、村じゅうの人が神社の鳥居の前に集まり、大きなかがり火をたき、名主や組頭が火のついたたいまつを村人の頭の上でぐるぐる回して祭りを終えました。するとその年から、前年まで続いた干ばつもなく豊作になり、不幸な火事もなくなって村は平和になったということです。その後、この「火祭り」は何百年も続いたそうです。

吉原の身代わり地蔵】昔、吉原一丁目付近は寺町と呼ばれていました。その寺町で目Photo の病気がはやったことがありました。町の人々は困り果て、このお地蔵さんに病気を治してほしいとお願いしました。すると、不思議なことに病気はたちまち治り、人々はお地蔵さんのおかげだと喜びました。それからというもの、体の弱い子、はしかにかかった子、おできができた子などがこのお地蔵さんのところへ訪れ、「どうか治してください」とお願いするようになりました。こうして町の中から目の病気がなくなったとき、このお地蔵さんを見るといっぱい目やにがついていました。そのため、このお地蔵さんのことを「身代り地蔵」というようになったということです。また、このお地蔵さんは、昔、駿東郡青野村(現在の沼津市)の光明庵というお寺に祭られていましたが、ある年の大洪水で、元吉原宿付近まで流されてきたのを宿場の人が救い上げ、陽徳寺の本尊にしたそうです。
(以上富士市広報より抜粋)

2008年8月30日 (土)

【ぶらり富士市2】国道139号

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【ぶらり富士市Ⅱ】

Sengenkofun浅間古墳」今から1,600年ほど前に造られた前方後方墳で、長軸の長さ100m前後、後方部の幅60m、高さ10mの県東部で最も大型の古墳です。東坂古墳とともに古代スルガのクニの首長墓と思われます。国指定文化財。場所 富士市増川

Zentokujiato善得寺址」善得寺は今川義元が幼少期を過ごし、その軍師太原雪斎が住持となった寺です。武田・北条・今川の甲相駿三国同盟締結の舞台ともいわれ、富士川以東第一の伽藍として繁栄しましたが、永禄12年(1569)、武田氏の駿河進攻で焼失しました。 雪斎などの墓2基が富士市指定文化財。場所 富士市今泉

Photo_2山部赤人歌碑」「田子の浦ゆうち出て見ればま白にぞ 富士の高嶺に雪は降りける」と詠んだ奈良時代の歌人・山部赤人の歌碑。田子の浦から富士山を望める場所に建立されています。 場所 富士市前田

ディアナ号の錨」田子の浦沖で沈んだとみられるロシア軍艦・ディアナ号 Dscn1343 Dscn1341の錨。
ディアナ号は江戸時代末期、日本に開国と通商を求めて来航しました。錨は昭和51年に海底から引き上げられたものです。場所 富士市五貫島 富士市指定文化財。

増田平四郎像」浮島沼の大開発を計画し、明治2年(1869)大排水路(スイホシ)を完成させた人物。その年の高波で全壊してしまったものの、今の昭和放水路と同じ所に建築した。

Fujisi1富知六所浅間神社」通称三日市浅間神社と呼称され、一般的には三日市の浅間さんと呼ばれて親しまれています。創建は人皇5代考昭天皇の御宇にして、崇神天皇が建沼河別命(タケヌマカワワケノミコト)を東国にご派遣の際、命は当神社を崇敬の余り奏聞して、勅幣を奉られ、爾後(ジゴ)このことが続けられ、平城天皇の大同元年(806)五社浅間を勧請するに当たり、五部の大磐若経を納め給いし時に当神社を首座とし、特に唐本を寄せられた。嵯峨天皇弘仁2年(811)正四位に叙せられ、中宮の御安産の御祈願を奉仕以来、勅願所と定められ事変のあるごとに仰せを蒙むり、寛保年度の調所に依れば、御朱印、Fujirokushosengen 其の他社領808石、外に別当領66石があり、富士山麓に於ける大社である旧伝法村、島田村、吉原町、今泉村、元吉原村、鷹岡町、大渕村の7ケ町村の大氏神として広く崇敬をあつめた」とあります。神社は商工業の発展、家庭守護・安産守護・交通安全守護・縁結びと長寿の信仰をあつめています。
境内には県の天記念物に指定されている目通り11.85メートル、樹齢1,200年を数える「大樟」があります。

2008年8月29日 (金)

【ぶらり富士市1】国道139号線

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【ぶらり富士市Ⅰ】 

富士市」人口は、浜松市、静岡市に続いて静岡県第3位。静岡県東部の中心都市の1つ。富士山が最も綺麗に見える地域の1つとしても有名で市内で撮影された写真がさまざまな素材に利用されている。また古くからの製紙の街として栄え、日本製紙(旧・大昭和製紙)、王子製紙グループの1つである王子特殊紙などの多数の製紙工場がある。竹取物語の舞台ともいわれる。富士川の合戦の舞台ともなった。

富士市の歴史・名所Take2

かぐや姫伝説」むかしむかし、その昔、京ができる前のお話です。駿河の国、富士郡に姫名郷(現在の富士市比奈?)と呼ばれる里がありました。この里は、富士山を真正面に仰ぐふもとにあって、村人たちは朝な夕なにきれいな富士の山を仰ぎ、南に広がる青い海や伊豆の山々を眺めて暮らしていました。この姫名の里に子どものいない老夫婦、翁と姥が住んでいました。翁は裏山の竹を取って暮らしていたので、「竹採の翁」とか「作竹の翁」、また近くに秋深くなって出てくる竹が生えていることから「寒竹の翁」とも呼ばれていました。そんな翁と姥は、子どもを授けてほしいと祈りながら暮らしていました。ある日のこと、翁が裏山へ竹を取りに行くと、1本の竹の根元が光っているではありませんか。「不思議なことがあるもんだ。」と思いながら竹を切ると、竹の中に1寸(約3センチメートル)ほどの女の子がいました。「子どもがいない私たちに、神さまが授けてくれた。」と、喜んだ翁は急いで家に帰り、姥とともに大切に育てました。女の子はかわいく、美しい娘に成長しました。村人たちは、光り輝くような美しい女の子を「かぐや姫」と呼びました。美しい娘が姫名の里にいるといううわさは、国司の耳にも届き、国司も使いを出して結婚を申し込みまし た。しかし、かぐや姫は国司の求めを断りました。あきらめきれない国司は、自らこの姫名の里にやってきて、熱心に求婚したのです。国司の真剣な愛を受けたかぐや姫は、国司と一緒に暮らすことにしました。楽しい数年を過ごしたある日、かぐや姫は突然国司に、「今まで暮らしてきましたが、私は富士山の仙女です。富士山に戻らなければなりません。心残りですが、おいとましなければなりません。」しかし、願いは許されませんでした。かぐや姫は深く悩み、ある日突然、1つの箱を残して去ってしまいました。姫は育ててくれた翁や姥、楽しく暮らした国司との別れがつらく、何度も何度も振り返りながら登っていったのです。(富士市HP)  

Chizu2竹採公園」平成3年3月にオープンした、かぐや姫をモチーフとした公園です。メインはやはり「竹採塚」。 うっすらとではありますが、「竹採姫」と彫られた石碑がまつられています。 また、臨済中興の祖である白隠禅師は、その著書の中で無量寺の竹やぶの中に「竹採塚」があることを記していますが、その白隠禅師の墓所もこの公園内に置かれています。 日本 最古の物語「竹取物語」の発祥の地といわれ、公園として遊歩道などが整備されています。(木曜休園)場所 富士市比奈

Youmeiji_mon永明寺」曹洞宗。豊富な富士山の湧水を利用した美しい庭園が見どころ。寺の裏山を利用し、上から段々と流れ落ちる滝また滝の湧水につつじやさ つきなどの庭木が映えて見る人の心をひきつけます。

Sogadera_2曽我寺」日本三大仇討ちの一つ曽我物語の主人公曽我兄弟の墓、位牌、木像がある。また、付近には曽我八幡宮、首洗い井戸など曽我兄弟にまつわる遺跡が点在している。なお、毎年5月下旬には曽我兄弟を偲び供養祭が行われている。富士市厚原229

Mokuzou実相寺」久安元年(約820年前)鳥羽法皇が智印法師に命じて建立せしめた聖堂で、日蓮上人が鎌倉時代の国難に際し、幾多の迫害を受けながら「立正安国論」を書きあげ、時の執権北条時頼公に献じた「安国道場」として知られている。「木造仁王像」実相寺の仁王門に一対で安置され、高さは左右とも241cm。江戸時代初期の制作と推定されています。富士市指定文化財。 毎年11月12、13日にお会式が行われる。富士市岩本1847

Zuirinji2瑞林寺」朱色の鐘楼が目印の瑞林寺には、国の重要文化財にも指定されている鎌倉時代を代表する慶派の仏師の作による木像地蔵菩薩坐像がある。平安時代末期の制で、仏師は興福寺南円堂の諸像を制作し、慶派の中心として活躍した奈良の康慶(運慶の父)。像内に、陀羅尼経などほぼ全面に及ぶ墨書が見られます。富士川に雁堤を築堤した古郡家ゆかりの黄蘗宗寺院で、黄檗宗の形式がよく残されています。延宝2年(1674)に開山され、現在の山門は江戸時代後期の建立とみられています。山門、鐘楼、本堂は富士市指定文化財。

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