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2008年5月

2008年5月30日 (金)

【ぶらり御殿場市2】国道246号

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「御殿場市」②

御殿場の歴史」人々が住み着き始めたのは、今から6~7千年前の縄文時代早期と呼ばれる頃であった。当時の人々が残した土器や住居の跡が箱根外輪山の中腹から多数発見されている。この頃は、富士山が盛んに火山活動をしており、噴火があると逃げ、おさまると住み着くということを何度も繰り返していたようだ。「中田遺跡」「大沢原古墳群」がある。8世紀以降には「永原追分遺跡」がある。

10世紀から11世紀ごろにかけて、この地方は「大沼鮎沢御厨」という伊勢神宮の荘園となり、今でもこの地方を「みくりや」と呼んでいる。鎌倉時代に入ると、建久4年(1193)5月、将軍源頼朝による富士の巻狩りが行われた。市内には、この巻狩りに因んだ多くの伝説や地名が残っている。

Photo御殿場発祥の地」むかしから御殿場・小山・裾野地方を御厨(みくりや)といったが、厨(くりや)とは台所のことで、伊勢神宮の台所をまかなうための神宮領に指定され、物産を貢納させる地域は御厨と呼ばれておりました。「御殿場」という地名のいわれは、御殿のある場所の意であり、江戸時代に鷹狩りの好きな徳川家康がこの地に御殿を作らせたことによります。(戦国時代、この地は駿河・甲斐・相模の境界地帯として幾多の戦いに巻き込まれた。深沢城跡は、永禄12年(1569)と天正8年(1580)にかけて武田氏と北条氏が争奪戦を繰り広げた城である。関ヶ原の合戦に勝利した徳川家康は征夷大将軍となり江戸幕府を開いた。元和2年(1616)、沼津代官はこの地方の土豪「芹澤将監」に対し、家康が使う御殿の造営及びその周辺に新町を建設することを命じた。家康が実際に休憩所を使用することはなかったようですが、御殿を中心に御殿新町が生まれ「御殿場」という地名はこの「御殿」に由来しているという)

Fujisannumber富士山ナンバー決定

御殿場市、富士市、富士宮市、富士市、裾野市、小山町、芝川町の3市2町と一緒に「富士山ナンバー創設促進協議会」を平成17年2月26日に設立して、地域のシンボルである「富士山」を自動車のナンバーにする活動に取り組んできました。 この度、平成20年11月4日(火)より、富士山ナンバーが交付されることが、国土交通省より正式に発表された。(山梨県の一部も含まれます)

Images御殿場アウトレット

「プレミアム・アウトレット」とは、アメリカで完成された本格的アウトレット専業ショッピングセンター。全店舗、世界各国の著名ブランドが直接出店するスタイルで、一日中ショッピングを楽しめるのが特徴です。 小さな傷があるものや売れ残り品などを正規価格よりも割安価格で手に入れられたり、アウトレットオリジナルの商品などが手に入ります。 御殿場アウトレットは、ショップ、飲食店等合わせて150店舗以上、駐車スペースも1,700台という巨大なアウトレット・モール。場所 御殿場市深沢1312
Fujisw_head富士スピードウエイ」昭和38年設立、現在はトヨタ自動車株が93%の株を持っているF1レースをはじめ各種レースが開催され自動車ファンにはたまらないスポットになっています。場所 静岡県駿東郡小山町中日向694

2008年5月29日 (木)

【ぶらり御殿場市1】国道246号

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Sisyou2御殿場市御殿場市は、霊峰富士の東麓に位置する緑豊かな高原都市です。人口は約8万7千人余を有し、静岡県では中規模な都市として発展を続けています。御殿場は東京から約100キロの距離にあり、東京・横浜などの経済圏、通勤圏内にもなっています。また、市内には東富士演習場をはじめとする自衛隊関連施設が多く存在し、市域の約3分の1を占めています。御殿場といえば、富士山。世界でも有数の名山で、日本一の高さと景観を誇る富Photo_2 土山は、御殿場を象徴する名所でもあります。四季折々の美しい景観、雄大な自然に囲まれたスポーツ環境、自然散策、歴史探訪など、御殿場はひと味ちがった楽しみを味わうことができます。むかしから御殿場・小山・裾野地方を御厨(みくりや)といったが、厨(くりや)とは台所のことで、伊勢神宮の台所をまかなうための神宮領に指定され、物産を貢納させる地域は御厨と呼ばれていました。

文化財

Photo印野溶岩隧道

国指定天然記念物。富士山の噴火によって生じた溶岩洞窟で、奇岩奇石から成る国指定の天然記念物です。富士周辺の植物が集められた御胎内清宏園の中にあります。長さ155mのU字形の隧道で、内部が人間の胎内に似ていることから御胎内とも呼ばれています。入口から小腸部、五臓部、母の室、臍帯部、子返しと続き、産道を通って外に出ます。 場所 御殿場市 印野1382-1 御胎内清宏園内

Photo_2駒門風穴

国指定天然記念物。富士山の大爆発とともにできたもので、我が国に現存している熔岩墜道のなかで旧型を保っている一番古い大き なものの一つに数えられる貴重な学術資料で、大正11年11月より天然記念物に指定されています。穴の奥には多数のコウモリや微生虫が生息しており、その種類も全国一といわれています。奥行291m、広い所で20畳分もある。入場料は大人200円、学生(中・高生)150円、小人100円です。場所 御殿場市駒門69

Photo_3深沢城址」県指定史跡。元亀元年(1570)から始まる武田氏と後北条氏の深沢城攻防戦の時が注目される。駿河の今川氏、甲斐の武田氏、相模の後北条氏は甲相駿三国同盟を結んでいたが、永禄11年(1568)武田信玄が駿河府中に侵入し、今川氏真を遠江掛川城に追い落とし三国同盟は解消され、深沢城は武田氏のものとなった。元亀元年(1570)4月、北条氏康・氏政父子の兵3万8千が深沢城を攻め落とし、後北条氏は黄八幡で有名な北条綱成を城代に任じた。 今度は、北条綱成・松田憲秀が守る城を武田方が攻めた。元亀元年(1570)11月武田信玄が城を包囲し、甲州金山の鉱夫「金堀衆」を投入し、いわゆる「もぐら戦術」によって城を掘り崩しにかかったことが、北条氏政の上杉謙信宛の書状によってわかる。翌元亀2年(1571)1月3日、信玄は綱成に向けて「深沢城矢文」で有名な矢文を射ち込み開城を迫った。綱成は開城勧告を蹴って抵抗したが、ついに30余日の籠城の末、小田原からの後詰めの軍勢が到着するのを待たずに開城し玉縄城へ退却した。その後、後北条氏も奪回を試みたがかなわず、以後、天正10年(1582)の武田氏滅亡まで武田氏の重臣駒井右京之進昌直が城主として居城した。武田氏の城となってから、三日月堀や馬出しを造成したり、かなり大掛かりな修築が行われたようである。武田氏滅亡後は徳川家康の領土となった。家康は後北条氏への押さえの城として三宅惣左衛門康貞を置いていたが、天正18年(1590)の小田原の役にて後北条氏が滅亡し、家康が関東へ移封すると深沢城も廃城となった。

Photo_3永塚の大スギ

県指定天然記念物。御殿場市永塚浅間神社境内にある「永塚の大杉」幾度か落雷を受けていると言うが、その様子には見えず、下枝が無く性良くまっすぐに伸びたまだ若々しい杉である。説明板によると、「この杉は、京都大学の上田弘一郎博士の鑑定によると、文杉(あやすぎ)という品種で、葉が短く密生し、材質も優れ生育旺盛で巨樹となる性質を具えているといわれています」とあった。

Photo_4川柳浅間神社のスギ

県指定天然記念物。永塚の大杉から北西に800 mほど走った御殿場市川柳に川柳浅間神社がある。小振りの社殿の真ん前に『川柳浅間神社の芙桑樹』の二本の大杉がふさぐように立っている。説明板によると、「玉穂地区の別荘に住まわれた海軍大将伯爵樺山資紀氏は、この樹をこよなく愛し、明治三十九年「扶桑樹」と命名されました。「扶桑」とは中国の故事に由来しており、現在も『川柳の芙桑樹』として親しまれています」

Photo_4宝永のスギ

県指定天然記念物。国道138号線を北西に向かい、市街 地を外れた仁杉(ひとすぎ)交差点を右に折れ700mほど走ると、前方右手に巨木が見えてくる。「宝永の杉」は子神社の境内、社殿の左に圧倒的な存在感であった。太さも木立ちの勢いも一級品であった。説明板には「宝永4年(1707年)富士山の宝永の噴火の砂礫が高い枝の部分に積もったまま残っていたのが発見され、以来俗称「宝永のスギ」と呼ばれていますが、当時はすでに相当な巨木であったと思われます」

Photo_5二枚橋のカシワ」県指定天然記念物。

御殿場市二枚橋の滝口氏宅にある。

東山のサイカチ」県指定天然記念物。

Photo_6御殿場市の東山YMCA入り口に ある。

「富士山東表口参道宮新橋浅間神社」古代より富士山の噴火は活発で、数次にわたって噴火があった。富士山麓に住む人々はどんなに富士山の鎮静を願ったことであろうか。富士山頂に、火を鎮める神さまといわれる木花咲耶姫命をお祀りした。後に富士宮の桜ヶ丘に浅間(あさま)神社を建立したが、この神社の御神体は富士山であって、拝殿から山頂を仰ぐことができるようになっている。浅間(せんげん)神社とも呼び富士宮浅間神社のことで、本宮となっている。山頂に建てられている神社を奥宮という。浅間神社は山梨県、静岡県に多く御殿場市内だけでも大きな神社が十五社もある。「新橋の浅間神社」・古沢の一幣司神社を初めとして、二枚橋・西田中・北久原・駒門・大坂・神山・板妻・保土沢・永塚・北畑・川柳・印野・六日市場などにある。

2008年5月26日 (月)

【ぶらり裾野市Ⅳ】国道246号編

にほんブログ村 地域生活ブログ 静岡情報へ【ぶらり裾野市4】

Photo偕楽園不動の滝

不動の滝」は溶岩流の断崖にかかっていて、高さ10m余りの滝がうっそうとした樹木の間を飛瀑し見ていて壮観です。滝の北側に不動尊を祀った堂があるので、その名がつけられたといわれています。「不動堂」このPhoto_2 堂は、不動明王を祭り建立以来数度改修され特に寛永年間には大改修され、大聖庵不動明王と呼ばれ信仰を集めました。本尊は弘仁季宇弘大氏御目刻霊像と伝えられています。「顕彰碑」この墓碑は今より300有余年前、駿州茶畑村と豆州伊豆佐野村と大沢山の領地について約20年間論争、時の小田原領主を動かし当時の寺社奉行稲葉丹後守の裁許によPhoto_3 り茶畑村の所有が確定依ってその功徳を後世に伝えようとこの碑を立って霊を供養する。「偕楽園の由来」昭和33年、共有地を地元民の協力により開放され、以後裾野市がこれを管理し遊園地を作り、これを記念して偕楽園と名付けた。

定輪寺じょうりんじ」曹洞宗。

弘法大師が開創したとされています。清和天皇の皇子貞純親王によりPhoto_4 Photo_5 「桃園山定輪寺」と改称され、後に曹洞宗に改宗されました。箱根湯本で客死した連歌師「宗祗(そうぎ)の墓」や「句碑」があり、「直筆の写経」も伝わっています。(宗祇)和歌の西行、俳句の芭蕉と並び称される流浪の詩人。墓は小さな五輪塔で墓所の隣には宗祇没後450年、500年祭Img_0027 建立の「なべて世の風をおさめよ神の春」と「世こそ秋ふじはみゆきの初嵐」の句碑があります。春には本堂前のしだれ桜が有名です。 市指定史跡。場所 裾野市 桃園154

須山浅間神社社叢」須山登山道の本宮。(須山口登山道が初めて開かSuyama01 れた年代は明らかではありませんが、大宮(富士宮)吉田両登山道と共に古くからあったと言われています)。樹齢400年を超えるという杉の巨木が22本ある。市指定天然記念物 場所 裾野市須山722

頼朝井戸の森」十里木の村落地内にある。ブナ、ミズナラ、イタヤカエデ等を主要な上層木として持つ、小面積ながらよくまとまった落葉広葉樹林である。中央はミズナラの巨木で、四方に張った枝がこの森の古さを示している。井戸の由来を尋ねると、5万騎の将兵を動員した壮大な富士のYoritomo 裾野の巻狩りの折り、源頼朝公は岩間から流れる湧水に喉をうるおし、その美味成ることに感嘆して、手にした朱塗りの椀を淵に投げ入れたとある。今は、そのような湧水はないが、付近にある岩は湿気を帯びている。この森は富士南麓に現存するほとんど唯一の古い天然林として貴重なものである。

Asitakatutuzi2アシタカツツジ原生群落」この群落は、十里木高原別荘地奥西側の山林内にあり、ここへ行くためには別荘地の中を通り抜けなければならない。牧野富太郎博士の命名で愛鷹山や天子岳に自生する珍しいツツジである。花冠は3cm内外で紅紫色、純粋種は雄しべの数が10本であるが低地に下がるに従ってヤマツツジとの高配種が多くなり花色も紅色へと多彩になり、雄しImg_0080 べの数も7~9本と様様である。分布は800m~1500mの間に見られる。開花期は5月下旬から6月上旬。市の花、市指定天然記念物。

普明寺千福城址」葛山氏の一門であるみ御宿(みしゅく)氏が居住した地と伝えられる。
Img_0079 大森氏・葛山氏は同族であり、葛山氏より御宿氏・宮原氏・上田氏の各氏が分派し、在名をとって苗字とした。城史については不明だが、御宿勘兵衛正倫が居住したと伝えられている。御宿氏が退去した後に、後北条氏がこの地一帯を支配した時期に大改築したと考えられる。山麓にある普明寺の位置は、もとは城番の居館があったあたりと考えられ、南北80Img_0076 m、東西90mの規模である。

工事進む第2東名」千福付近の工事現場、橋げたがまるでビルの工事のようです。

2008年5月25日 (日)

【ぶらり裾野市3】国道246号編

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Img_0047中央公園」裾野市中央公園は、その昔佐野瀑園(さのばくえん)と呼ばれており、昭和天皇が行幸された名勝地です。日本庭園造りの園内には国指定重要文化財である「旧植松家住宅」があります。  茅葺き屋根の昔ながらのその姿は、今に歴史を伝えています。また、園内には県指定天然記念物である「五竜の滝」があります。約1万年前の新富士火山三島溶岩流の末端に形成された滝で、高さは約13mあります。黄瀬川本流の3本が雄滝で、雪解け(ゆきどけ)・富士見(ふじみ)・月見(つきみ)と名づけられています。東側の支流2本は雌滝で、銚子(ちょうし)・狭衣(さごろも)と名づけられています。長さ約63mの吊り橋からの滝の眺めは素晴らしく、見る人に感銘を与えてくれます。歌人・若山牧水も、度々この地を訪れて歌を詠んでおり、園内には歌碑も建てられています。

Img_0042旧植松家」国重要文化財植松家住宅は、裾野市石脇328番地にあった農家の一軒家でした。口伝による同家の由緒では、源頼朝が建久4年(1193年)5月富士の裾野で巻狩りを行った頃に、尾張国島津から当地に移住した草分け七家のうちで、代々名主を務めたと云われています。住宅の建築年代について詳細な資料がないため不明ですが、18世紀初Img_0043 め頃とされています。この民家は静岡県東部に残る中では保存状態も良好であることから、昭和48年(1973年)6月2日に重要文化財に指定されました。その後、裾野市に建物が寄付され、市内の景勝地でもある「中央公園」に移築保存されることになり、1年2ヶ月の工事期間を経て昭和49年(1974年)8月に完了しました。住宅の屋根は茅葺きで、正面と座敷Img_0048 回りには葺下しの庇(ひさし)が取り付けてあり、間口は9間(16.2m)奥行きは5間(9m)で、土間の裏側はさらに半間程張り出しています。平面は3間(5.4m)取り形式で建物の約半分を広い土間が占めており、土間の隅には「むかい」と呼ばれる部屋が設けられています。土間の裏側には大きな石造りの「くど(かまど)」が据え付けられています。

Photo_8五竜の滝」県指定天然記念物に指定されており、富士山噴火三島溶岩流の末端に形成された高さ13mの滝、本流側大きな三条の滝を雄滝、東側の支流側の小さな二条の滝を雌滝と呼び、そのうち5条には五竜の滝の語源になっている、雪解、富士見、月見、銚子、狭衣といった名がつけられていますつり橋の名前は五竜の架け橋というそうです。長さ63mPhoto_9 Photo_10 高さ9m。今日はあいにくの雨で富士山は見えませんでしたが水量は今日も豊富でした。裾野駅から1,5km。

若山牧水の歌碑」公園内にある牧水歌碑<富士が嶺やすそのに来り仰ぐときいよよ親しき山にぞありける>

2008年5月24日 (土)

【ぶらり裾野市2】国道246号編

にほんブログ村 地域生活ブログ 静岡情報へ【ぶらり裾野市Ⅱ】

Photo_7Img_0070_3景ヶ島渓谷と依京寺」名勝地

景ヶ島渓谷は黄瀬川の支流にあり集塊岩や溶岩 流が侵食された奇景に富む渓谷です。景ヶ島渓谷中央の依京寺は、空海の作と伝えられる由緒ある聖観音像が自然のままの岩に彫られており古くから信仰の対象になっています。境内には各種の石仏や石造物があります。

屏風岩」県指定天然記念物

Img_0073富士山裾野の縁を流れる佐野川が富士山の玄武岩溶岩流を600mにわたり侵食して出来たのが景ヶ島渓谷です。その末端の谷壁に見事な柱状節理が高さ10数m、幅50m滝壺から10mの範囲で露出しています。これは溶岩の中心部が冷却に伴って収縮し垂直に割れ目が入ったもので六角形の柱が何百本と谷壁を作っており侵食により谷壁状に露出し直接観察でき学問的にも価値の高いものです。

深良用水

Ysui_map  箱根山の外輪山をくりぬき芦ノ湖の水を箱根西麓の地域に流し込む深 良用水は、1670(寛文10)年の完成以来、現在に至るまで重要な農業・生活用水として、この地域に暮らす人々にとってかけがえのない産業・生活基盤の社会資本として利用されている。従来、深良用水開削以前の裾野市域は水に乏しかったと言われてきたが、深良用水を単に日損田への水Dsc006871 不足対策という一義的な見方をするのではなく、新田開発が数多く行われた当時の世相をも鑑みて語る必要がある。深良用水が開発されたころ、つまり江戸時代初期のようやく幕府の支配が固まってきた17世紀後半は、全国各地で投機的な新田開発がブームのように行われた時期で あった。江戸町人による開発は、駿河以外でも、武蔵・相模・下総・上野・Dsc006941 下野に確認できる。近隣でも、阿田野原(小山町)・東山新田(御殿場市)・小倉野新田(小山町)で町人請合による新田開発が行われている。こうした事例に見られる投機的側面をそのまま深良用水開削に当てはめるのはいささか無理があるかもしれないが、開発に至った時代背景として理解 しておく必要がある。深良用水開発の発起人は文献の上でも当時の深良Dsc007181 村の名主・大庭源之丞の名前になっており、彼が計画の構想をし、友野与右衛門ら元締衆に工事を託したと伝えられる。友野与右衛門は江戸浅草の町人で、本業は不明だが、深良用水開発前にも、現在の横浜伊勢佐木町周辺にあたる「吉田新田」の埋め立て新田開発にたずさわっていた人物で、深良用水の開発は彼を中心とした元締衆により進められた。
Yousui1 1663(寛文3)年、与右衛門らは箱根神社の別当快長を通じて箱根大権現・東照大権現(徳川家康を神格化したもの)へ立願状を提出する。芦ノ湖は箱根権現(箱根神社)の「御手洗池」と言われ、領有権自体は幕府が持っていたものの、箱根神社とは密接な関係にある芦ノ湖の水を使わせてもらうということから、まずは箱根神社への立願をもって許可取得の運動をはじめたのであろう。しかし、このとき開発願いは認可されず、それから3年後の1666年、ようやく開発請負手形を小田原藩と幕府に受理され開発許可を得る。

Dsc007151 1666(寛文6)年夏、工事は着工された。本来こういった工事の場合、目論見帳と呼ばれる工事計画書や出来高帳と呼ばれる工事完了報告書を作るものだが、深良用水の場合は工事費元締負担ということで作成されなかったらしい。そのため工事方法は今もって不明であるが、金堀とよばれた鉱夫の存在を確認できることから、鉱山技術が利用され掘削されたWebimg_2047_1_syusuimon_2 ものと考えられている。隧道の中程に高さ約1メートルの段差がある。これは両側から掘り進んだための誤差であろうと永年言われてきたが、水流の勢いを変えるための細工ではないかとの説もある。隧道は所々蛇行して掘られており、これは岩石の質によるものと考えられている。また本道とは別に、換気のために掘られたと思われる坑道が確認されている。この坑道は隧道から地上に2箇所堀抜かれていて、それぞれ本道の天井裏に掘られた副道につながり、本道天井にいくつか掘られた息抜き穴へと通じている。
1670(寛文10)年春、掘削工事は完了し湖尻峠の地下に長さ1.28キロメーDsc006941_2 トルのトンネルが完成した。また、翌年には小田原藩によって新川が作られ、用水を黄瀬川に通水させることにより、より多くの村々に水が行き渡るようになった。

1707(宝永4)年の「箱根水懸り村々高帳」という文献によると、深良用水の水を使う村々の総石高約11,344石のうち約4,324石が用水掛り、つまり深良用水を通る水によって収穫された分が、実に全体の38%にも及ぶ。仮にこれがすべて用水開発によって増えた分と考えると、1.6倍も収穫量が増えた計算になる(*深良用水の定義は隧道部分のみでなく、各堰を通じた末端の用水路までを含む)。
 深良用水の開発には堰の整備も含めて9,700両かかったと言われており、このうち6,000両は幕府からの借金である。大きな利潤を期待して開発にあたったであろう元締たちの負担はたいへん大きく、借金返済に追われ自己資金の回収もままならなかったものと思われる。その結果、用水の維持管理を十分に行うことができず、1689(元禄2)年、ついに用水権を幕府に取りあげられてしまう。友野与右衛門の名前はそれ以後文献には一切登場せず、どのような晩年を過ごしたのかは分かっていない。

※ 米1石=米約150kg※ 1両=米価換算で現在の約10万円(江戸時代初期)

『裾野市史』6・8・9巻

2008年5月23日 (金)

【ぶらり裾野市1】国道246号編

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200805100900344861_2裾野市」は静岡県の東部に位置し、麗峰富士の裾野に広がり、東に箱根の山々、西に愛鷹連山と自然豊かな工業のまちとして発展しています。面積は138.39平方キロメートル、人口は約53000人で、便利な交通網と気候温暖で水と緑に恵まれた、自然と産業の調和するまちです。また、平成7年には『健康文化都市』を宣言し、「すがすがしく、すこやかに、たすけあいに生きるまちづくり」を目指しています。そして、裾野市の一番の自慢は雄大な富士山の眺望です。稜線が最も美しく、優雅で、気品に満ちた四季折々の富士山をぜひご覧ください。(裾野市HP)

裾野市の歴史

1193年源頼朝、富士山麓で巻狩。1221年承久の乱。大森氏・葛山氏、幕府軍に参加。1495年北条早雲、大森氏から小田原城を奪う。1516年今川の甲斐侵攻に「葛山氏」も出兵。1526年甲斐の梨木平で武田・北条の合戦。1537年今川・武田の縁組み。北条氏駿河に侵攻(河東一乱のはじまり(~1545))。1554年駿甲相三国同盟成立。(駿河郡の葛山氏支配の安定期)。1560年桶狭間の戦い今川義元、織田信長に討たれる。1568年武田・徳川、密約を交わし東西から今川氏を攻める。「葛山氏元」、武田信玄に内通して今川に背くが、北条氏政、すぐさま今川氏に援軍を差し向け、葛山氏の領国を制圧。1570年信玄、深沢城(御殿場)を北条氏から攻め取る。葛山氏の旧領には葛山氏ではなく御宿監物を置く。1573年武田信玄から反逆の疑いをかけられた「葛山氏元」、信玄の追求を受け諏訪湖で投身。その2か月後に信玄病死。1582年武田氏、織田信長によって滅ぼされる。駿河は徳川家康領に。1590年豊臣秀吉の小田原攻め。3か月の籠城ののち開城、北条氏滅亡。秀吉の天下統一。1592~98年秀吉の朝鮮出兵。1600年関ヶ原の戦い(全国支配の実権は徳川家康の手に)。1603年江戸幕府成立。1666~70年深良用水開削工事。1707年富士山の一番新しい噴火。宝永火口はこのときの噴火火口。1853年アメリカ海軍東インド艦隊長官ペリー"黒船"にて来航。1854年~ペリー再来航。この年から異国船対策のための臨時徴税が、駿東の各村にも本格的に課されるようになる。1867年大政奉還。江戸幕府滅ぶ。1871年廃藩置県。静岡県の誕生。1887年東海道線佐野駅開設。1952年泉村と小泉村が合併、裾野町誕生。1956年深良村が裾野町に合併。1957年富岡村と須山村、裾野町に合併。1971年裾野町、市制施行し裾野市となる。

河東一乱(かとういちらん)】後北条家の祖、早雲が国持ち大名になる以前より早雲の後見をしていた今川家は、北条氏が相模に入った後も同盟関係を続け、北の武田に共同して対峙してきた。しかし、1536(天文5)年、今川家の時の当主氏輝が急死し、花蔵の乱と呼ばれる家督争いが生じる。翌1537年、この争いに勝った義元は、家督を継承するとすぐに、それまで敵対していた武田信虎の娘と縁組みする。これに対して北条家の当主氏綱は即座に今川と断絶、軍勢を駿河に侵攻させる。河東一乱と呼ばれる8年あまりにもおよぶ戦争の始まりである。それまでの今川・北条対武田という構図は、今川とそれを支援する武田と北条という構図に一気に塗り変わった。
河東とは富士川から箱根までの一帯を指す。緒戦での北条軍の勢いはすさまじく、今川・武田の婚儀が行われた2月10日からほぼ一月の間に河東地域を制圧してしまう。これ以降、富士川西岸周辺や駿河郡(現在の駿東郡域)北部の甲斐国境をはさんで、両軍の争いは断続的に続けられた。しかし、河東一乱の直中である1541(天文10)年6月、武田家においてクーデターが起こり、当主信虎は嫡男晴信(信玄)によって駿河に追放される。こののち、1545(天文14)年まで、河東地域における武田軍の動きには、目立つものが見られなくなった。なお、同1541年、北条氏綱が没し、嫡男の氏康が家督を継いでいる。
1545年、それまで内々に行われていた京都聖護院門跡道増によって行われていた和議が不調に終わると、今川氏元の反抗が開始された。8月11日に富士郡善得寺城で武田信玄と合流した氏元は、9月16日に吉原(富士市)を奪還、今川・武田両軍は東進し、9月19Photo 日には長久保城(長泉町)周辺で戦っている。北条方は小田原から北条氏康が出陣するも抗いきれず、和睦して長久保城を開城、領国の三島(三島市)に撤退した。
ここに河東一乱はようやく終息し、6年後の1551(天文20)年、駿甲相三国同盟締結に至り、この地域にはしばしの安定をもたらす。
Photo_2 なお、河東一乱以前、一貫して北条・今川方につき、北の武田に対峙してきた「葛山氏」は、時の当主氏広が北条家出身の者と思われ、河東一乱の間北条方に与していたものと思われる。その間、「葛山氏」は北条氏に従属し、支配の実権は北条氏が持ち、「葛山氏」は前面からは退いていた感がある。しかし、河東一乱後の氏元の時代、今川氏との良好な関Photo_3 係の中で、「葛山氏はこの地域での支配権を確立していく

「裾野市史」2・8・9巻

葛山城址」葛山は室町・戦国期をつうじて東駿一帯に勢威を振るった今Photo_4 川氏国人衆の一人葛山氏の本拠地です。平時に住居とした館址と戦時に備えた城址があります。城は愛鷹山を背景に、宮川を東に館址から230m北西に位置し、城域東西350m南北70m余りです。城の構造は主郭、二の曲輪、東曲輪、曲輪、大手曲輪とその他小郭群、堀切からなり、山頂部を階段式に削平して主郭を中央に設け、その左右に曲輪を配している並郭式の山城といえます。市指定史跡。

2008年5月20日 (火)

【ぶらり長泉町2】国道246号

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「長泉町2」

Photo_11城山神社・長久保城址」城址は国道246号沿い「城山神社」近くにある。「長久保城」については鎌倉時代初期に竹の下孫八左衛門が、この地に砦を築いたといわれているが定かではない。戦国期、今川氏により長久保城が構築され、東駿地方を治める拠点として、また北条氏に対する備えとして築かれた。
Photo_12 天文14年(1545)には北条氏の持ち城となっていたが、その年今川義 元の攻撃を受けた。義元は関東管領上杉憲政と挟撃する体制を取り、武田信玄は甲駿同盟により駿河へ出兵した。結果停戦となり義元、憲政と北条氏康との講和が成立し、長久保城には今川氏の城番が入った。天文23年には義元が三河に出兵している隙をつき、氏康は再度駿河に侵Photo_13 入。今川、武田軍と対峙するが戦況は進展せず、三者は婚姻により同盟を結んだ。その後、武田氏の手に長久保城が渡った。武田氏滅亡後は徳川氏、北条氏滅亡後は中村氏が入り、関ヶ原の戦いにより中村氏の転封後、廃城になったとされている。城山神社は長久保城の守護神を祭っていた神社。   場所   駿東郡長泉町下長窪

「鎧が淵のいわれ」黄瀬川の下流に鎧が淵という地名がある。合戦で敗れた北条の武者達が鎧に着いた血を洗ったなどの諸説がある.

長泉の寺・神社

Photo_2願掛八幡宮」長泉町下土狩にある氏神様です。

下土狩481番地

諏訪神社本宿に鎮座する諏訪神社はいつどこから誰のてによっPhoto_3て本宿に祭られたか不詳である。しかし、氏子代々の申し伝えによ れば、長野県の諏訪大社であるとされる。本宿に鎮座する諏訪神社はいつどこから誰のてによって本宿に祭られたか不詳である。しかし、氏子代々の申し伝えによれば、長野県の諏訪大社であるとされる。元和5年頃に三島代官所の管轄に入っているがその後、本宿村Photo_4の管轄は三島代官所から沼津代官所に配属が変わった。

越方神社」長泉町竹原にある氏神様です。

桃澤神社」716年(霊亀2)創建といわれる神社。「東照宮」明治維新後入植した徳川家臣団が建立した。

Photo_14蓮華寺」法華宗。場所 長泉町下長窪680

玉泉寺」海獣葡萄鏡長泉町南一色149

普向寺」文化財阿彌陀如来像、二十一羅漢像がある。明治8年に普向寺を教場に設けられた「映雪舎」小学校創設地。長泉町納米里91。

円蔵寺」明寺9年設けられた小学校「長窪舎」創設地。長泉町元長窪。

Photo_15西願禅寺」黄檗宗。禅宗三派(曹洞宗、臨済宗、黄檗宗)の一つ。中国・明代末の禅宗の高僧・隠元禅師(1592~ 1673)が、江戸時代初期(1654)に来日。徳川4代将軍・家綱公より山城国宇治(京都)に寺領を賜わり、“黄檗山萬福寺”を創建して開宗した。隠元禅師は明代末の中国における臨済系統の禅宗の重鎮であったが、日本では臨済宗を名のらPhoto_16ず、“黄檗宗”を名のった。教えの特徴として、人間が生まれながらにしてもっている仏心を、坐禅行を行なうことによって、自 らの力で見出し、仏陀と同様の境涯を体得させようとするもので、日常生活における一挙手一投足をし往生浄土や念仏などの浄土教教義をあわせて説いて、念禅一致をはかる一方で真言陀羅尼などの密教的要素も加味している。また、漢文ではなく、本場の唐韻による誦経はその独特の節まわしで、「黄檗の梵唄」として有名なものである。貞享3年(1686)12月鉄牛禅師の法嗣香州禅師がその志を継ぎ、愛鷹山麓の台地にあって長久保城跡とは百沢渓谷を距てて相対する形勝の地に当寺を創建された。

2008年5月17日 (土)

【ぶらり長泉町1】国道246号編

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ぶらり長泉町国道246号】編

今回からぶらり246号(昔の呼び名山線)編です。最近のこの地域の発展は目を見張るものがありますね。長泉~裾野~御殿場を巡ります。

Mk_map長泉町」長泉町は静岡県の東部、富士山の南東、伊豆半島の付け根の位置にある町である。駿河国の最東部に位置する市町村のひとつであり、伊豆国の区域である三島市に東方で接する。町域は南東から北西にかけて長細い形であり、愛鷹山を北西に抱く。狩野川の支流である黄瀬川は、町域を北から南に横切ったあと、町の西側の境界として沼津市大岡地区との間を流れる。1888年、村制の施行により、小泉荘(主要部はImg_0028 現在の裾野市)の一部と大岡荘(主要部はのちの大岡村から現在の沼津市大岡地区)の一部を一村として長泉村が発足した。長泉の名称は、大岡荘の長窪地区から長の字、小泉荘から泉の字をとって合成した合成地名である。かつての三島駅であった下土狩駅は、町役場の最寄り駅であるなど長泉町を代表する駅であるが、現在の三島駅と直線距離で1km程度しか離れていない。北西部は駿河平とよばれる高原であり、クレマチスの丘・静岡サッカーミュージアムなどの観光施設が立地するほか、静岡がんセンターを中心としてファルマバレーとよばれる医療および医用工業の先進施設が集中した地区が形成されている。また、宅地として高級住宅地が建設されている。この地域には片側3車線の「国道246号」裾野バイパスが通り、町内唯一の高速バスの停留所である南一色バス停が設置されているほか、現在建設中の第二東名高速道路東駿河湾環状道路、などが開通したときにはこれらとの結節点となる予定。

文化財Budoukyo_2「玉泉寺」海獣葡萄鏡 南一色149

Seiganji 「西願寺」八幡神像

「普向寺」二十一羅 漢像 納米里91 「法善寺」日蓮上人一代絵記 竹原238「雲龍時」雲龍寺石仏 本宿398「下土狩のイチョウ」下土狩605

クレマチスの丘」富士山を望む丘陵地帯に広がる花・芸術・食の複合施設。200品種2000株のクレマチスが園内を彩るなか、美術鑑賞をしたり、懐石料理やイタリア料理を味わうことができる。

Img_0026ヴァンジ彫刻庭園美術館」は、現代イタリアを代表する彫刻家、ジュリア-ノ・ヴァンジ(1931ー)に捧げられた世界唯一の個人美術館です。2002年4月にオープンした当館では、1960年代から現在までの彼の作品が展示され、ひとりの彫刻家の歩みを展望できるようになっています。
ビュフェ美術館」は、フランスの画家ベルナール・ビュフェ(1928-1999)Photo_10 作品のみを収蔵する美術館として、1973年11月25日に開館しました。建築家の菊竹清訓氏による設計で自然と共存する美術館が誕生したのです。ビュフェの黒い線を連想させる中央部分の三角形の建物の白壁には、ビュフェのサインが描かれ、現代の美術館ならではデザインとなってます。現在、ビュフェのモノクロームの色調の初期作品から、各年代の代表作まで約2000点(油彩・水彩・デッサンなど約500点、その他版画など1500点以上)を所蔵しています。
井上靖文学館」北海道出身の井上靖は、幼少年時代を伊豆半島の湯Photo_8ケ島で過し、沼津中学(現沼津東高校)で青春を謳歌しました。井上靖は彼自身の幼少年時代をモチーフにした名作「しろばんば」や、「あすなろ物語」などの作品において、天城湯ケ島の自然と人間の成長過程を描いています。湯ケ島は彼にとってまぎれもなく故郷であり、地元では郷土の作 家として親しまれています。
Photo_9富士竹類植物園」西に富士山と愛鷹山、東に箱根の山々を一望できる 雄大な位置にあり、緑あふれる広大な自然の中で、昭和26年から集められた世界各地の約500種の竹を見ることができる施設。総面積12,000坪の敷地の中には、研究資料館・竹細工売店・苗木売店などもある。特別展やイベントなども行われている。
Img_1562369_40479682_1鮎つぼの滝
黄瀬川の中流にある。鮎がここで止められるので鮎つぼと いわれるようになったという。溶岩の間から流れ落ちる風景は見事です。後方に見える富士山が絶景ですね。手前は県立がんセンター。県天然記念物。
Photo_17東駿河湾道路」工事が進む東駿河湾道路。旧246号(御殿場線な めり駅前)と交差する橋げたも間もなく繋がりそうですね。

2008年5月16日 (金)

【ぶらり沼津内浦・西浦・戸田・土肥5】県道17号編

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旧土肥町」は、静岡県の東部、伊豆半島の駿河湾に面する町であす。2004年4月1日に、周辺3町との合併により「伊豆市」の一部となりました。恋人岬、温泉、海水浴(高校のPhoto時に海浜教室に来た記憶が有ります)、小粒で甘い土肥びわは有名ですね。

安楽寺」曹洞宗

Photo_5安楽寺は、豆国八十八カ所巡りの八十六番礼所になっています。 境内には土肥温泉発祥の湯と言われる「まぶ湯」があります。構内最深部に、夫婦神社があり、子宝に恵まれる様祈願してまぶ湯に入浴すると子宝を 授かると言われます。拝観料:150円

Photo_2清雲寺

北条氏が伊豆を支配していた時代、土肥城主富永山城守はその配下の水軍精鋭部隊となり最も栄えました。清雲寺は、富永氏の菩提寺で、日蓮上人の一代記を描いた極彩色のタタミ一畳大の版画絵が90枚ほど展示されています。その堂宇は大工の神様と言われる酒井多次郎藤原政房の作品です。

Photo_3最福寺」曹洞宗

観世音を本尊とする曹洞宗の古希。 境内には私費で建てた資料館「夢の実現堂」があり、貴重な郷土資料が陳列されています。春には、境内のしだれ桜が大変美しい所です。

Photo_6妙蔵寺

日蓮宗。正式には超八山妙蔵寺と言い十界曼陀羅を本尊とする日蓮宗の古刹で、初めは真言宗の寺であったが富永氏の庇護のもとに僧日円が日蓮宗に改宗、土肥清雲寺の末寺となり、富永政家により重修されたと言われています。

栄源寺」小土肥地区にある栄源寺は土肥の清雲寺の末寺で、文明三年(1471年)後の池上本門寺八世となる常住院日調上人の創建による西伊豆最初の日蓮宗のお寺です。場所小土肥

Photo_4土肥神社

土肥城主富永氏によって鎌倉鶴岡八幡の分霊を勤進したものと伝えられています。土肥の馬場(ばんば)地区にある。土肥にある数々の神社の中心とも言えるもので土肥では歴史の古い神社として土肥の住民から崇められています毎年10月中旬には大祭が行われ、流鏑馬に準じた神事の他、伊豆水軍出陣の太鼓が祖と言われる土肥太鼓奉納、屋台や浜降り(仮装)パレードが行われます。

Photo_7土肥金山

天正年間の発見いらい、土肥の金山は金山奉行大久保石見守長安等により幕府直轄の金鉱として慶長大判小判の地金を産出し発展したが、元禄3年以降金量の減少により衰退しましたが、神戸の実業家長谷川桂五郎により明治39年に再開発に成功し、昭和40年に閉山する迄年間金を40t、銀を40tを産出しました。入場料:大人840円 小人420円

Photo_6丸山城址」場所 土肥町八木沢

後北条氏の重臣で北条水軍として、西伊豆の警備にあたった富永氏の出城で、豊臣水軍の猛攻により落城しました。城跡は、出丸と本郭が道路を挟んで位置しています。遺構としては、出丸の方が保存状態がいいようです。本郭の方は、現在は畑ですが、ここから海を隔てた富士山を望むことができます土肥には他に「高谷城址」があります。

「若山牧水歌碑」牧水にちなんだ歌碑が町内に数箇所あります。

県道17号は土肥が終点です。次は国道246号沼津~御殿場に向かいます。

2008年5月15日 (木)

【ぶらり沼津内浦・西浦・戸田4】県道17号編

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宝泉寺露人の墓】臨済宗円覚寺派。

Photo県指定文化財(史跡) 「宝泉寺はプチャーチン提督の宿所」となった寺。記録によれば安政元年12月7日から同2年3月22日までの105日間滞在とあります。プチャーチン提督及び皇族アレキサンドル・スリゲート殿下や上官の宿舎にあてられ、本堂及び庫裡を全面的に使用した。プチャーチンは本堂の左側の奥の間を居室に、殿下は本堂 右側の奥の間に滞Photo_2在したという。プチャーチンはここで日露の交渉や造船の指揮を執り下田へも出張した。境内には「ロシア水兵の墓碑」がある。露人の墓は、過去帳から、造船のため滞在していた一行のうち、水兵一名が病死したので墓地に埋葬されたものとわかります。また宝泉寺は境内の「しだれ桜」も有名。見事な枝ぶりと美しさで、春Photo_3の風物詩のひとつ に数えられています。

大行寺日露交渉跡地)】浄土宗。

代船建造のため当地に滞在していたプチャーチンのもとへ幕府は勘定奉Photo_4行・「川路聖謨」を出向かせています。先に締結した和親条約改訂のためでした。川路は、大行寺を応接所に当て改訂交 渉を行いました。その後、大行寺は2度の大火で類焼、当時の記録は現存していません。現在の建物は旧水野領の名主、斉藤本家を移築したもので宝泉寺本堂につぐ村内最古の建造物と推定されます。建坪63坪余、書院造りの面影が窺える。境内の蘇鉄は根回り3,5m旧村指定文化財。

Photo_11本善寺

日蓮宗。安政大地震によるロシア使節一行の代船建造中当寺に滞在した。

Photo_5松城邸

松城家住宅は、戸田港近くに位置する江戸時代から回船業を営んだ邸宅です。敷地内の建物は、主屋・ミセ・文庫蔵・東土蔵・北土蔵で構成され、伊豆石の塀で囲まれています。また、主屋の建物の内外には、漆喰Photo_6鏝絵(しっくいこてえ)で有名な伊豆の名工・入江長八の手がけた装飾が随所に施されています。伝統的な建築技術に洋風のデザインを取 り入れた明治初期の擬洋風住宅として高い価値があり、当時の高度な左官技術を示すものとしても重要であることが評価され、7月に国の重要文化財に指定されました。

Photo_7稲城家の蘇鉄」根回り3,8m高さ5m樹齢500年位である。周囲の古 い石垣は、鎌倉時代の積み方を用いている。旧村指定文化財。

部田神社こぶ付き大楠」境内にある8本のクスのうち2本の幹に数個の大きいこぶが出来ている。樹齢400年といわれる。旧村指定文化財。

Photo_8

魚見の松」明治以前から、村人はこの松に登り海を見て、魚群が港に入ってくるのを見張り漁獲量の増大を図ったといわれている。当時は幹の中間に見張り小屋が作られていた。旧村指定文化財。

2008年5月14日 (水)

【ぶらり沼津内浦・西浦・戸田3】県道17号編

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Photo_11戸田の生い立ち】本国へ戻る船をなくしたプチャーチン提督らロシア使節一行は、戸田の船大工や伊豆近在の大工たち多数の協力を得て、一隻の西洋型帆船を建造します。
ことばの不自由さ、習慣や技術のギャップ、多くの困難を乗り越えて建造された約100トンのスクーナ船に、プチャーチン提督は、村人への感謝 Photo_4の意を込めて「ヘダ号」と命名したと伝えられています。日本で初めて建造された洋式帆船-ヘダ号。この船は、もともとプチャーチン提督以下、500名のロシア人が帰国するための船を、本国にとりに戻るためのもので、2本マスト、全長22m、幅7m、50人乗りの小さな帆船でしたが、造船国ニッポンへの階段をのぼるための大切な第一歩でありました

Img_0134_2造船郷土資料博物館】昭和44年7月1日、ロシア軍艦ディアナ号の造船資料を中心に明治100年記念事業として日本政府・ロシア等の寄付によって、御浜岬に設立されました。館内にはロシア軍艦ディアナ号艦長プチャーチンの遺品や代船建造の記録が保存展示されています。【造船記念碑】明治44年10月、戸田村では牛ヶ洞造船地跡に記念の木柱を建てま Photo_6したが、これは仮りのものであり、大正12年3月10日、ヘダ号建造跡の南西隅の地に石碑を建て、洋式帆船発祥の地という歴史的事跡を後世に伝えました。
御浜の入口に位置する碑の文面にあるディアナ号を”知耶那(デヤナ)”、プチャーチンを”布口査珍(プチャーチン)”と表記した全漢文が歴史の重Img_0141 みと時の流れを如実に物語っています。

プチャーチン関係遺品」ロシアの使節プチャーチン提督の関係遺品及びスクーネル船造船関係資料が県史跡指定になっている。(スクーネル船設計図3点、船建造関係書類10点、燭台等遺品、計45点)

洋式帆船建造地跡」下田に停泊中のディアナ号は安政の大地震津波で艦底を破損した。修繕場所に戸田港を選定しディアナ号を回航中強風のPhoto_9ため富士沖まで流され二度に渡り暴風が来襲沈没してしまった。既に上陸していた乗組員は陸路を通り戸田村にやってきた。艦を失ったプチャーチンは帰国の為の船の建造を幕府に申請し、スクーネル船一隻を約100日かかって戸田で新造し、安政2年(1855)戸田港を出航し帰国の途に ついた。幕府は戸田で建造されたスクーネル船の優秀性を認め同型船10隻の建造を命じ、うち6隻を戸田で建造した。大正12年記念碑が建立された。

2008年5月13日 (火)

【ぶらり沼津内浦・西浦・戸田2】県道17号編

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Photo長浜城址」三津浜を過ぎると間もなく長浜地区に入る。後北条氏の祖、伊勢新九郎盛時(後の早雲)は、興国寺城から堀越公方足利茶々丸の館を急襲し、韮山に城を構え戦国大名としての第一歩を踏み出した。その後小田原を手中におさめ、二代氏綱・三代氏康のころには領地を武蔵から下総まで広げ、里見氏と激しく対立した。北条氏は三崎や浦賀を根拠地とする三浦水軍を組織し、江戸湾から里見氏の勢力を駆逐する一方、義元亡き後の駿河に侵入してきた武田氏に対しても、「伊 豆の水軍」を組織しその脅威に備えた。その伊豆における北条水軍根拠地の一つPhoto_12が、この重須湊「長浜城」である。
このような情勢の中、天正7年(1579)には北条水軍の事実上の統括者である「梶原備前守」が長浜城におかれ、翌天正8年(1580)、武田・北条両氏水軍による「駿河湾海戦」が行われた。戦いの結果は必ずしも明らかではな いが、この戦いの後武田氏は次第に衰退していく。その後、天正Photo_1018年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めにより、長浜城は再び緊張状態におかれ た。しかし、北条方の小田原籠城策に呼応し、水軍の主力も小田原の川岸に集結したことから、長浜城は水軍基地としての機能を失い、韮山開城と共に廃城となったものと考えられている。画像上から長浜城址石碑・現在の西側から見た長浜城址・長浜地区の旧家。

Photo_13鈴木館」西浦江梨。駿河湾に突出する大瀬崎に近い江梨地区にあった。鈴木氏は紀伊熊野より、舟でこの地に上陸し、土着したという伝承をもつが、江梨には、明治になるまで陸路がなく、この伝承を裏付けている。また、大瀬崎先端には、伊豆上陸当初の居館跡という伝承地もある。
居館は、ほぼ「海蔵寺」の境内がこれにあたるとされているが、遺構は全Photo_14く残っ ていない。この寺の東方に小河川が北流しているが、この河口部が舟溜りとなったと考えられている。

鈴木氏は、後北条氏の西伊豆水軍の有力な部分を占めていたらしく、比較的水運のよい地に居館をもうけていたようである。

Photo_15大瀬神社」駿河湾漁民の信仰の象徴である大瀬神社は海の守護神として知 られています。古くから漁民の描いた絵馬や漁船模型が多数奉納されており、 県の指定有形民俗文化財に指定されている歴史的にも貴重なものです。また大瀬神社に奉納された絵馬は、駿河湾漁民の暮らしぶりを知る上で貴重な物です。毎年4月4日は、駿河湾の漁民の信仰を一身に集める大瀬神社の例大 Photo_16祭です。各地区から女装した青年達を乗せ、踊り船が大瀬神社へ参拝に出航 します。勇み踊りを踊り、おはやしもにぎやかに岸壁に到着すると船から海に向かって俵を投げ、それを泳いで拾った青年達が、神社に大漁と航海の安全を願って参詣します。

Photo_17大瀬崎「スキューバダイビング」内海と外海の海相の違いがはっきりしてお り、水がきれいでサンゴ等も海中に華麗な花を咲かせている大瀬崎の海は、スキューバダイビングのメッカで、一年を通じて多くのダイバーが ここを訪れています。ダイビングショップも揃っています。

Photo_12妙田寺」日蓮宗。井田にある妙田寺。

井田神社」延喜式神明帳、本社付近に丸山古墳住居跡、井田古墳等があり、かなり早い時期から開けていた地域である事が推察できる。永禄13年9月修造の棟札を現存し、慶弔12年「井田荘七箇村鎮守井田明神」とある。豆Photo_13 州志稿に「社傍に井立山妙田寺あり、住古當社の別當なるべし」と記されている。明治6年8月村社に列せられた。

2008年5月12日 (月)

【ぶらり沼津内浦・西浦・戸田1】県道17号編Ⅰ

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ぶらり沼津内浦・西浦・戸田】県道17号沼津土肥線

Map23 主要地方道沼津土肥線は、静岡県沼津市から国道414号を南下、口野を起点に内浦、西浦、戸田を経由し、伊豆市土肥に至る延長47.8kmの道路です。奥駿河湾越しに富士山を仰ぐことができる観光道路として、また、近年は産業・経済を始めとする地域活動の広域化が進展する中で、沼津市と伊豆市を連結する広域幹線道路として、さらに、地域内唯一の生活道路として、その機能がますます重要となっています。
17号付近の樹木・巨木

Photo_22久連神社社叢しゃそう」殆どの木が照葉樹で占められています。目通り1,7mのモッコクや1,1mのウバメガシの巨木、ヤマモモ、タイミンタチバナ、ネジキなど暖地性の植物がおよそ40数種認められています。樹林の保存状態は極めて良好で、植栽されたビャクシンやコウヤマキなどの数種を除くと殆ど人工の影は見られません。この社叢には特別珍しい植物はありませんが暖地における植物相を知る上で、又自然生態を良くとどめている樹林としても貴重なものです。(説明版記載)

O_sugi_3河内の大杉」河内の堂山にある大杉は、大同年間(806年)弘法大師が修善寺奥ノ院開基の際、この地に来て樹下に虚空蔵菩薩を安置したと伝わる。昭和16年(1941)、この付近一帯のスギが伐採されたとき、この木だけがすでに抜きん出た木で、風雪に耐えてきた姿には神聖な気配があり、斧を当てることがはばかられたという。そこで「老杉の記」という記念碑を建立し、その偉容を称えることになった。このため独立木となり、一時樹勢は衰えたが、その後周囲に植林されたヒノキ林の陰が木の根元を強いInari_2陽光から遮り、湿度をよく保つ状態となったため、昭和54年に沼津市指定の天然記念物となった時点と比べて、樹勢はきわめて良好なものとなっている。平成14年3月に「県指定天然記念物」に指定された。

河内の稲荷スギ」小さな稲荷の祠の傍らに立つ、鎮守の森の一本である。樹勢は旺盛で、枝が茂って樹姿もよいが、南側の根本には縦に真ん中まで朽ちて洞になっている。目通り6.55m、枝振りは東西40m、南北14mである。
「大瀬崎」は沼津市街から駿河湾を隔てた向かい側につき出た岬であPhoto_21る。沼津市街から国道414号線を駿河湾沿いに進み、狩野川放水路の三叉路で沼津土肥線に分かれ、さらに駿河湾沿いに進むと大瀬崎に行き着く。                                                      

国指定天然記念物ビャクシン」(ひのき科)灯台に近い所に、現在の最Osezaki_2大木で御神木になっている『夫婦びゃくしん』がある。周囲7m、樹齢千五百年以上だという。確かに2本のビャクシンが一体化したようにも見える。この岬にはビャクシンの他に伊豆七不思議に数えらる『大瀬の神池』がある。突き出た岬に針の糸通しの穴のように池がある。海辺近くで波も越えて来ることもあるところなのに、常に淡水が湧き出て潮の気もなく、鮒や鯉が住んでいるのは不思議なことである。
部田神社」大瀬崎から海沿いに南下して戸田村に入る。部田神社は戸田大川を渡ってすぐ左折し、修善寺へ抜ける道路に入り、1kmほど行った右手にある。部田神社には「クスノキ」の巨木が本殿を囲むように8本生育しているが、最大のクスノキ「こぶ付き大クス」は本殿裏側左手のもので、地上3~4mの所に大きなこぶがある。さらにその下にももう一つこぶがある。

Photo_19御浜岬のイヌマキ」岬の先端部、約15000㎡の地域にイヌマキが群生している。岬の林の高木層は殆どイヌマキであって、その中にクスやケヤキを含んでいる。高木層についでクスが優先しており、低木層はタイミンタチバナ、ヒメユズリハ、イヌビワ、ヤブニッケイ、タブノキ、トベラ、センリョウなどである。草木層は陽光の射入が不充分であるので単純である。フウトPhoto_20 ウカズラ、テイカカズラ、サルマメ、ミズヒキ、スゲの一種、ホンダ等である。イヌマキの古木は数百年以上経つといわれ、根廻り3m以上のものが2本、2mぐらいのものが7本、1mぐらいのものが40本、1m以下のものが162本、合計211本が繁茂している。高木の下には、上記のような植物が自生し、自然の状態で繁殖しているので、そのままの状態で保護したいものである。

土肥町馬場 「安楽寺」県指定天然記念物「 クスノキ」(くすのき科)伊豆西海岸を海沿いに南下すると戸田村の次に道は土肥町に下っていく。土肥町の中央で左折し、国道136号線に入る。左手に役場を通り越してすぐに左に回り込んだ役場の裏手に安楽寺がある。「安楽寺のクス」は安楽寺山門外の水路のほとりにあった。

17号沿いの歌碑

Ose01与謝野鉄幹歌碑」大瀬崎。昭和7年にビャクシン樹林が国の天然記念物に指定されたが、その翌年この地を訪れた与謝野鉄幹が、景観に感動して歌ったものである。(船を捨て異国ののいそにのここちして大樹の栢の陰を踏むかな)

Photo_18若山牧水記念碑」土肥からの帰途、戸田から出港するとき真向かいに大きく聳え立つ富士山を目の当たりに見て詠んだものである。戸田で写真館を営む菅沼清一氏が一人でも多くの人たちに知ってもらおうと独力で歌碑を完成させた。(伊豆の国戸田の港ゆ船出すとはしなく見たれ富士の高嶺を)場所 戸田御浜岬

2008年5月11日 (日)

【ぶらり下田市2】

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Hofukuji宝福寺

浄土真宗。「お吉の眠る寺」。お吉記念館(8:00~17:00)には、お吉とハリスの遺品や写真などのほか、当時の下田の風俗をしのぶ資料を展示しています。嘉永七年(安政元年1854)三月に締結された日米和親条約によOkichi1_2り下田開港となり、ここ宝福寺は新たに設置された下田奉行都筑駿河守が宿舎とし仮奉行所となった。たまたま訪れていた勝海舟が土佐 藩山内容堂に坂本竜馬の脱藩の罪許しを請い認められた。安政の東海地震では津波が本堂の床上まで達したという。場所下田市1-18-26

Taiheiji2泰平寺」臨済宗。下田初代領主・戸田忠次の墓があります。今も残る城下町としての下田の姿は彼によってかたち造られました。三河国田原の豪族であった戸田忠次は天正18年秀吉の小田原攻めに際し徳川氏の下で功をたて、伊豆国が家康の支配下になると下田5千石を封じられた。慶長2年(1597)死去しここ泰平寺に葬られた。

Chorakuji1長楽寺」真言宗。日露和親条約の調印(1854年)翌年、日米和親条約の批准書交換が行われた寺。下田市指定史跡。場所 下田市3-13-19

下岡蓮杖の碑」下田生まれの画家・下岡蓮杖はペリー艦隊来航時の西洋の写真術を熱心に学び、日本の写真術の開祖となりました。寝姿山の山頂には、蓮杖写真記念館があります。また、豆州下田郷土資料館にも蓮杖に関連した資料や写真が残されています。

Perryペリー上陸記念碑」嘉永七年(安政元年-1854年)再来したペリーと幕府の間でもたれた日米和親条約の交渉過程で、開港地として下田港が提示されると、ペリーは調査船を派遣した。下田港が外洋と接近していて安全に容易に近づけること、船の出入りに便利なことなど要求している目的を完全に満たしている点にペリーは満足した。条約締結により即時開港とPerry1 なった下田に、ペリー艦隊が次々と入港した。そして、ペリー艦隊の乗組員が上陸したのが、下田公園下の鼻黒の地であった。ここを上陸記念の地として、ペリー上陸の碑が建てられた。
この記念碑のペリー像は、故村田徳次郎氏の作品であり、記念碑の前の錨は、アメリカ海軍から寄贈されたものである。

Photo了仙寺」国指定史跡。”日米和親条約(1854年)の調印式が行われた寺。了仙寺は寛永12年(1635年)、第2代下田奉行・今村伝四郎正長によって創建されました。大阪夏の陣の時、目に病を持たれた徳川家康公は、家臣の勧めにより、当時目の神様として崇められていた身延山久遠寺第十一世の行学院日朝上人に病気平癒の願をかけられました。その祈願がJasmine0105 成就したため、徳川政権安定の時に寺を建立することを約束されました。今村正長公によって創建された了仙寺には、当時の幕府の将軍・徳川家光より朱印状によって領地が与えられ、家康公の祈願成就に奉じました。従って、了仙寺の寺紋は徳川家の紋である三つ葉葵です。1854年、日米和親条約が締結され、ペリー艦隊が開港された下田に入港すると、了仙寺はペリー一行の応接所兼幕府との交渉場所となり、和親条約の細かい取り決めである下田条約がここで結ばれました。アメリカンジャスミンで有名です。これからジャスミンの花の季節です。   場所 下田市3-12-12

Gyokusenzi玉泉寺」米国総領事タウンゼント・ハリスの領事館当時愛用の品々や関連資料などを展示しています。その他、吉田松陰の遺品や、日本最古の銀板写真なども鑑賞することができます。場所 下田市柿崎31-6

Rekisitekikennzoubutuナマコ壁の家屋」市街地の各所に残るナマコ壁や伊豆石の家屋。路地から路地を歩けば下田ならではの景観に出会えます。外見をそのままに中を改装した店舗などもあります。

099_01上原近代美術館」モネ、ルノワール、マティスらの西洋近代絵画、梅原龍三郎、安井曽太郎、須田国太郎、川合玉堂、伊東深水らの日本の絵画、マリーニやマンズーらの彫刻の中から、季節ごとにテーマを変えて展示しています。 営業時間:午前9時~午後5時(入館は午後4時30分まで)入場料: 大人800円/小人400円(団体20名以上10%割引)   場所 下田市宇土金341

2008年5月10日 (土)

【ぶらり下田市1】

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Sakura_perry下田市】伊豆半島の南東部に位置する、下田温泉は、海に面した、南国情緒豊かな港町です。1854年、「ペリー提督」率いる「黒船」が下田に入港し、日本の長い鎖国政策が幕をとじたことから、「日本開国の地」として有名です。日本開国上の出来事を物語る名所、旧跡も数多く、毎年5月16日~5月18日には、国際色豊かな黒船祭が盛大に開催されます。街のたたずまいには、白黒のコントラストの美しいなまこ壁の建物がみられ、Pengashimoda01_600 黒船来航当時の面影が市内各所に残されています。また、海岸線は砂浜あり、磯ありと変化に富み、海水浴及びマリンスポーツのメッカとして賑わい、豊富な海の幸を満喫することができます。そして、真冬に咲く爪木崎の水仙、6月には下田公園のあじさいなど、四季折々の花々と豊富な温泉が精神的豊かさを与えてくれます。下田は歴史と自然にはぐくまれMachi08t た、やすらぎのある国際観光地として皆様に大変親しまれております。【下田の生い立ち】は、江戸時代の元禄13年(西暦1700年)に、八幡神社の裏山から掘り出された鰐口に”下田村若宮”という名が残されていることから、南北朝・室町初期の14世紀が下田村の成立した時期と考えられています。 およそ六百年前、新しい土地がまとまり、本郷から分かれて、Shimodamap 一つの村になりました。この村の名は、本郷よりも「下(しも)の田」であることから、「下田」と名付けられました。また、今からおよそ三百六十年前(江戸時代)になって、そこに住む人の身分によって名付けられた殿小路(身分の高い武士が住んだ)や、同心町(同心などの役人が住んだ)、住んでいた人達の仕事によって名付けた紺屋町(染め物)・町店町(商人)・大工町(大工)などの町名もできました。

Todenji1稲田寺(とうでんじ)」浄土宗は、通りから奥まった目立たないお寺ですが、「お吉」の恋人だっ た船大工”鶴松”の墓があり、下田名所としてかかせない由緒ある寺院です。稲田寺は下田市では数少ない浄土宗のお寺で、15世紀の中頃に開かれたと伝えられています。また、仏像の漂着伝説の多い南伊豆地域でもめずらしい、開山上人の漂着伝説を持つという。「鶴Todenji3松の一生」鶴松は今この墓地に静かに眠っている。納骨瓶には「純譽敬法信士俗名大工川 井又五郎明治九年六月六日歿」と誌されている。幕末開国の舞台に一輪の花と咲いた”唐人お吉”の陰に隠れて鶴松の一生は余りにも哀れであった。領事ハリスの侍妾として仕えたお吉と後年、旧情を温め仲むつまじく同棲したのも束の間の四年ほどであった。明治八年、故あって離婚すると翌年には一夜ポックリと(今でいう心臓麻痺)敢えなく急死した。生前の鶴松は性格温順で酒を飲まず煙草もすわず器用な船大工職であったという。山桃(やまもも)が好きだったので、お吉は鶴松Okichi1の死後泣きながらこの墓前に鶴松好物の山桃を供えて、その冥福を祈っていたという。鶴松 の死後、弟の熊吉が相続したが、戸籍上では妻子がなく甥の啓蔵が相続届を出したが啓蔵で鶴松の血統は絶えたことになっている。今は遠縁にあたる太田家(下田市原町)で供養しているが鶴松も又、お吉と共に幕末開国の為の果無い犠牲者の一人であった。

Kuro69s黒船祭】嘉永7年(1854年_今を遡ること約152年前_)、もとは風待ち港だった下田に、ペリー提督率いる米国海軍が日米和親条約により来航。これにより鎖国政策に終止符が打たれ、近代日本の幕開けとなりました。その功績を後世に伝え、また国際親善に貢献するため、昭和9年に始まったのがこの「黒船祭」。記念式典や墓前祭が厳かに行われる一方で、町内や海辺の会場では活気にあふれたイベントが目白押し。新緑の季節、なまこ壁や海兵隊の白と黒のコントラストが美しい、下田市最大のイベント。5月16日~18日開催されます。

2008年5月 9日 (金)

【ぶらり東伊豆町】

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東伊豆町】国道414から少し外れますが近くにある町として載せておきます。国道135号の通る東伊豆町は、温暖な気候に恵まれた伊豆半島東海岸の中央に位置し、豊かな温泉が湧出する大川・北川・熱川・片瀬・白田・稲取の6つの温泉郷を擁しています。みかんやわさびなどの農産物、金目鯛や伊勢えびなどの海産物、日々彩りを変える山々、一足早い季節の香りを運ぶ風、豊かな風を利用した風力発電など、自然の恵みにあふれています。

Koutsuu東伊豆町の歴史」東伊豆町の人々の起源を今に伝えるものとして、稲取ゴルフ場遺跡から発掘された十数個の細石器があります。これは、移動生活をしていた約12000~13000年前の先土器時代の人々が狩猟などに使用したものと推測されています。その後、人々が集落を形成し定住をはじめたのは、縄文時代早期(約9500~6500年前)の頃です。町内には、奈良本地区の峠遺跡と穴ノ沢遺跡、白田地区の宮後峠遺跡から発掘によって確認されています。特に峠遺跡から発見された石器製作跡P1010080_1 は、矢じりを製作したもので、剥片が数ブロックにわかれて出土しているので流れ作業によって石鏃製作が行なわれていたことが予想されます。ほかに竪穴状遺構や土坑が発見されており、その種類、量などからこの時代の貴重な遺跡といえます。 弥生時代には稲作農耕文化が伝えられました。稲取地区の細野遺跡や崎町遺跡から弥生式土器が出土されており、東伊豆町でもこの時期から稲作が行なわれていたことがわかります。 奈良時代から平安時代にかけて、伊豆は流刑の地となり、多くの貴族、僧侶、武士が流されました。源頼朝は、蛭ヶ小島(現韮山町)に流されたおり、伊東・川津といった伊豆の豪族と親交を結び、稲取の八幡神社にも参拝したと伝えられています。 頼朝が建久三年(1192)に鎌倉幕府を開くと、東伊豆と鎌倉の往来も盛んになり陸上交通が発展しました。同時に稲取港をはじめ伊豆の港も海上交通の発達とともに中継点として栄え、南北朝・室町時代には、紀州から来た鈴木一族によって管理されるようになりました。その後鈴木一族に変わり、伊豆の港は豊臣・徳川の浦奉行役の管理下に置かれました。 江戸時代には、海運の進歩により稲取港も大いに繁栄しました。江戸城築城の際には、築城石として「伊豆石」を切り出し船で運搬、東伊豆町でも大川などから切り出された石が稲取港から江戸へ向けて出航しました。そして、東伊豆町の支配は幕府から沼津藩主水野氏へと代わりました。当時の人々は漁業や延宝六年(1678)ころ白浜(現下田市)から転植された天草漁で生活をしていました。 明治時代に入り、東伊豆町は韮山県から足柄県に、明治9年には静岡県に属するようになり、このころから東伊豆町が近代化の道を歩み始めるわけですが町の発展に稲取村の村長を務めた田村又吉翁が大いに貢献しました。現在町の主要産物となっているみかん栽培を広めたり、天草の製品開発に尽力するなど、東伊豆町の発展に生涯をささげました。さらに、町の発展に尽くした人物として木村弥吉翁があげられます。木村翁は明治41年に旧城東村大川に移り「絹サヤエンドウ」の早生栽培に成功するとともに、熱川に旅館を建て全国有数の観光地にしました。その後昭和になって北川温泉、稲取温泉が発見されています。戦後、着実に発展した東伊豆町は、昭和34年に稲取町と城東村が合併して現在の東伊豆町が誕生しました。昭和36年には伊豆急行が開通し観光の町として注目を集めるようになりました。

Bonakiぼなき石」大川地区の旧下田街道脇に江戸城修築の際、運び残された『ぼなき石』と呼ばれる築城石があります。この石は250cm、東側小口幅121cm・高さ122cmの安山岩で城郭用の天端石といわれています。上部には「羽柴左衛門大夫口」と刻まれており、安芸広島城主福島正則がこの地域に採石丁場を設けその役を果たしていたことがうかがえます。昭和55年に町の文化財に指定されています。

Ryuenin龍淵院」片瀬地区にある龍淵院は弘安元年(1278)に創立された町内でも正定寺に次ぐ古い曹洞宗の寺院です。骨応長薫大和尚による開山で、山門は江戸時代の名工左甚五郎の作との言い伝えがあります。

Shiranutaシラヌタ大杉」シラヌタの池の近くにある大杉は、推定樹齢1000年以上といわれ、伊豆半島でも最も古い巨木のひとつといわれています。樹高45m、根回り12m、目通し90m、枝張りは東西約25m、南北約30mの大きさがあります。昭和56年に町の文化財に指定されました。

P1010003つるし端午の福まつり」つるし雛でおなじみの稲取、五月晴れの空に悠々と泳ぐ鯉のぼりのように健やかに、のびのびと育ってほしい。そんな願いを込めたつるし飾りで端午の節句の男の子をお祝いしたい。稲取温 泉 に伝わるつるし飾りの新しい形です。

Dontsukuどんつく祭」子供にはちょっと見せにくい稲取の名所が、稲取灯台にほど近い「どんつく神社」。ドンと突くことから名付けられた神社の御本尊は、男性自身をかたどった御 神体。そしてこの神社の大祭が、稲取名物「どんつく祭」。御神体を乗せた神輿が街を練り歩くと、港では大漁旗をはためかせた漁船が壮大に海をわたり、海と 街が渾然一体になって、稲取の熱い夜が繰り広げられるのです。

2008年5月 8日 (木)

【ぶらり河津町】

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Sakura174河津町】河津桜で有名、伊豆半島の南端に近い東海岸に位置し、東西13.7km、南北14.7kmで総面積100.79kmの町です。東は東伊豆町、北は天城山を境に伊豆市、南は下田市に接し伊豆半島西海岸に位置する松崎町・西伊豆町とは天城の山林を境に南北に接しています。標高800m以上の天城の山々が北東部から北西部に連なる河津町は、総面積の8 3%を山林・原野が占めています。また、町の中央部を北西から南東に流れる河津川のMap流域には平野部が広がり、海に向かって開けた地勢です。特に川の上流には、寄生火山から流出した溶岩が各所に流れ込み、大滝など数多い滝を作り出している他、温泉も豊富に湧き出しており観光資源として活用されています。また、海岸部も今井浜海水浴場や菖蒲沢といった海岸美を誇る自然も豊かで、海と山の織り成す素晴らしい自然景観が河津町の特徴と言えます。川端康成の「伊豆の踊子」の当時の光景をイメージさせてくれる自然や見どころが数多く残されています。現在、踊り子ハイキングコースとなっている天城から湯ヶ野に至る旧街道や、湯ヶ野温泉にある川端康成ゆかりの宿、踊り子たちの入った共同湯など、叙情が薫る街なのです。
河津三郎谷祐泰」日本の三大仇討ち物語の一つ「曽我(そが)物語」のルーツ「曽我兄弟 の父」谷津に館の内(たてのうち)という地名があり、バス停には館跡(やかたあと)と書かれている。この辺りが平安時代の末頃に河津氏の館があった場所といわれている。河津三郎の父伊東祐親が建てたもので、後に源頼朝の妻となった北条政子とその母、曽我物語で有名な河津三郎の子五郎時致と十郎祐成がこの館で生まれています。
曽我物語のルーツはその頃の伊東の領地争いからはじまります。工藤祐経から伊Soga東祐親暗殺の命をうけた大見の小藤太と八幡の三郎は奥野で頼朝一行と狩りを楽しんでいた祐親を赤沢山で待ち伏せします。一番手の大見は機をのがしてしまったが、二番手の八幡の三郎が放った矢は目的の祐親ではなく、側にいた河津三郎に当たってしまいました。三郎はちらりと見えた敵の名を告げ、「妻子をたのむ」と一言残した後その場で息をひきとりました。その後、妻の万却は子供を連れて相模に住む曽我の太郎と再婚。そして十八年後、曽我兄弟は元服し、富士で巻狩中の祐経を夜いんに乗じて襲い、見事に父の敵を討つのでした。

Ishi河津八幡神社河津三郎の力石」谷津の河津八幡神社の境内に、力持ち河津三郎が力だめしに使っていたといわれる手玉石(約60Kgから270Kg)がある。
手玉石とは、「かるく手玉にとる」からきている。河津町出身の彫刻家後藤白童氏の作「河津三郎力石」の像には、名横綱双葉山書の題字が刻Sumou まれている。神社には祭神として三郎と曽我兄弟がまつられ、これにあやかって大祭の日の11月14・15日には子供相撲大会が催される。「河津掛け」は相撲四十八手の一つで一年六場所あるうちに一回使われるかどうかの珍しい技。プロレスでジャイアント馬場の得意技「河津落とし」というのがあるが、これは河津掛けにあやかったものである。そもそも河津掛けは河津三郎が考案者といわれる。

峰大噴湯」峰温泉にある「大噴湯」が期間限定で公開。期間:平成19年9月16日から平成20年度整備工事着工までの日祝日※水・土曜日はメンImg49_map テナンス作業の為、祝日でも公開は行われません。噴湯時間:1日2回 午前9時半と午後3時※各時刻から10分間隔で3回噴湯/1日計6回(1回の噴湯時間は1分程度)
料金:無料。約20年ぶりの公開となります。

2008年5月 7日 (水)

【ぶらり伊豆市3】国道136・414沿線

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Town01_r1_c2天城湯ヶ島 文豪達が愛した自然そのままの美しい場所、ドラマチックな物語のはじまりです。

明徳寺室町時代の明徳年間(1390~1394)頃に利山忠益禅師によって創建された曹洞宗の寺院で、東司(とうす)の神様である烏彗沙摩(うすさま) 明王を祀っている事でも有名です。ちなみに東司とはCul_myotokuzi トイレのことで、500年前からこの明王様は、「不浄のものを清浄にする徳」を持っているので、トイレの中にお祭りして“下”の病気で困った人々を助けてきたと言われています。伊豆3大奇祭のひとつとして東司(便所)の守護神、鳥彗沙魔明王の祭典が毎年8月29日に行われます。

Cul_amagi_g天城神社」天城神社の狛犬は、二匹とも天城山の方へ首を曲げ、何かをにらんでいるようです。この狛犬が天城山の山犬を追い払ってくれたという言い伝えも残っています。

湯道ゆみち

Yumichi002 この道はその昔、村人が共同湯に通う為の道でした。当時の村人が使ってきた「湯道」という美しい呼び名をそのままに残し、その雰囲気をこわさぬように道を整備して散策道「湯道」ができましたまた、湯道周辺は文学の道でもあり、川端康成、与謝野晶子、井上靖、梶井基次郎、若山牧水など、多くの歌人、文人の歌碑を見ることができ、 訪れる人々を文学のロマンへと誘ってくれます。 また、湯道の周囲には安価で入れる共同浴場もいくつかあります。

井上靖・しろばんば

Shirobanba01 日本近代文学を代表する作家、井上靖は多感な子供時代をここ天城湯ケ島で過ごしました。その頃の思い出を描いた自伝的小説が名作「しろばんば」。ちなみにしろばんばとは、天城の子供たちがそう呼び慣らす、夕方に白い綿毛をつけて飛ぶ虫のこと。晩秋の空中に飛ぶこの白い蚊ほどの大きさの「しろばんば」は、”冬の訪れを感じさせる”そんな風物なのです。しろばんばの碑には小説の冒頭部分が刻まれて、湯ヶ島小学校の裏手に静かに建っています。

Shirobanba02 あらすじ・大正初期の伊豆湯ヶ島の山村。山々が暗緑の暮色に沈んでゆく冬の黄昏時には、綿くずのような白い小さな生きものが浮漂し始める。子供たちはそれを「しろばんば」と呼んだ。小学生の洪作は、この白い生きものを眺めながら、沼津に住む軍医の父と母から離れ母方の本家の当主の妾であった、ぬい婆っちゃと2人暮らしを始める。ぬいは最初は嫌々預かったのであったが今では洪作のことが可愛くて堪らない。或る日、本家の次女のさき子が女学校を終え新任教師として湯ヶ島に帰って来た。優しいさき子が帰って来たのも又嬉しい。さき子も洪作に何かと目をかけて可愛がる。ひいきと騒ぐ同級生もいるが、洪作は優等生街道をひた走る。そんな日々ではあったが、さき子は同僚の中川先生と恋におちてしまった…。

川端康成・伊豆の踊り子

Odoriko01_2 旧天城峠にある「伊豆の踊子」の冒頭シーンとなった天城峠の登り口に建立されている文学碑には、自筆の碑文と川端の横顔がレリーフになっています。浄蓮の滝の落ち口、駐車場脇に学生と踊子の像が建っており、二人並んでこれから進む天城の山々を指差しています。
伊豆の踊子の足跡をたどる踊子歩道は、この浄蓮の滝から河津七滝までの間歩程 16.2kmの遊歩道として現在もハイキングなどに利用されています。
あらすじ・主人公は、孤独になった事による自己嫌悪と自己憐憫を癒すため、伊豆へ旅に出る。旅芸人の踊子達と一高生という階級格差を超えた生身の人間同士の交流を通して、人の温かさを肌で感じ、作品のテーマである「孤独根性」から抜け出すまでのストーリー。

旧天城トンネル

Ton02 天城トンネル(正式名称=天城山隧道)は、静岡県伊豆市と、同県加茂郡河津町を結ぶトンネルです。現本線の新天城トンネルと区別するため「旧天城トンネル」と呼ばれています。明治38年に築造され、全長445.5m、アーチや側面などすべて切り石で建造しており、石造道路トンネルとしては、日本に現存する最長のものです。総石造りの馬蹄形をしたトンネルの入口や内部は、非常に重圧な構えとなっていて明治末期を代表する歴史的トンネルであるとし、平成10年9月25日に有形文化財に登録され、平成13年には道路トンネルとしては初めて国の重要文化財に指定されました。

Ton01 その旧天城トンネルに続く道は川端康成作「伊豆の踊り子」でも有名な旧天城峠です。ブナ・カエデ・ヒメシャラなどの樹木が自然のままに生い茂る風情は、今も「伊豆の踊子」の世界そのものです。道の途中には、伊豆の踊り子文学碑や氷室、あの名曲「天城越え」の歌詞に唄われている寒天橋や、風光明媚な二階滝(にかいだる)などもあり、気軽なハイキングコースとして人気があります。

国重要文化財に指定されているほかに「日本の道100選」「日本百名峠」にも選ばれています。 1970年、国道414号の有料道路として造られた新天城トンネルの完成によって、 現在は森の中に静かなたたずまいを見せています。

「狩野城祉」伊豆一の豪族であり、後に絵画の一大流派を築いたとされる狩野氏ゆかりの山城跡。狩野川を真下に望む眺望の良い高台にあり、ハイキングポイントとしてもピカイチ!

2008年5月 6日 (火)

【ぶらり伊豆市2】国道136・414沿線

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Character修善寺温泉の歴史

修善寺温泉の歴史は弘法大師が独鈷の湯を発見したという伝説から始まる。修善寺に幽閉された源頼家は入浴中に暗殺されており、少なくとも鎌倉初期には温泉が利用されていたことがわかる。それ以後の北条早雲や豊臣秀吉の古文書にも温泉入浴のことが出ているがどの程度の設Photo010 備があったかは不明である。しかし、徳川中期には独鈷の湯、石湯、箱湯、稚児の湯などの周囲の農家が湯治客を相手に部屋貸しを始め徐々に設備を充実していった。いわゆる木賃宿で、湯治客は自炊を主とし、内湯はなく共同浴場に通っていた。それから、共同浴場を貸し切る留湯という制度が始められ、農家は副業から次第に業の旅館に変わっていったが、この頃には既に湯治場としてそうとう知られていた。明治初年になって、湯治客専用の温泉を設備した内湯が誕生し、交通機関が整備されて、多くの文人墨客が訪れるようになった。そして、それらの作品には、湯治場から避暑地化した様子や温泉場と呼ばれる風物がされている。共同Sp501480a 浴場は独鈷の湯、稚児の湯、川原湯、箱湯、新湯、滝の湯、石湯、寺の湯、杉湯があったが、この9湯の内、現在残っているのは「独鈷の湯」だけである。(「箱湯」は2000年に新たに立て直され、他の温泉も復興予定です)その後、温泉場の住民用共同浴場として、町内会共同経営の神戸湯、南湯、源氏湯、真湯が作られ利用されている。温泉郷は、昭和21年Img_0538 までは自噴泉と小規模タービン揚げ湯とが共存していたが、22年以降乱掘、増掘競争が始まり、25年には自噴泉は総て枯渇してしまった。また、平均泉温は昭和22年までは65℃であったが、56年には56℃まで低下した。この対策として、温泉事業協同組合では、利用可能な源泉73井の内優良な26井を集中管理することとし、昭和54年11月に着工、56年5月にImg_0508 完成した。その結果、水位は集中管理前は平均で海抜15mであったが、59年10月には80mに、泉温も62℃に上昇した。泉質は、単純泉と含芒硝石弱食塩泉で、神経痛、リューマチ、胃腸病などに効果がある。

13士の墓

13 温泉場の南山にある。源頼家の家臣は、頼家が殺された6日後に再起を期して謀反を企てたが、挙兵前に発見され殺されたと伝えられ、その家臣を祭ってあるという。この付近を御庵洞と呼び、鎌倉初期に、北条時政が隠栖した庵室跡といわれ、また、源頼家庵室跡という話もある。伊豆市修善寺温泉場

源範頼の墓

En333 温泉場の西北側の山腹にある。範頼は鎌倉初期の武将。義朝の第六子で、蒲冠者と呼ばれた。治承4年(1180年)に兄頼朝と義仲が対立したとき、弟義経とともに義仲を倒し、次いで一ノ谷の合戦で平家を破り、功によって三河守に任じられた。その後頼朝と義経の仲が険悪化し、頼朝が範頼に義経を殺すよう命じたが、断ると、範頼も背くようになると疑われるようになった。建久4年(1193年)の曽我兄弟仇討ちのとき、鎌倉へは頼朝も殺されたと誤って伝えられ、悲しむ政子を慰さめて「範頼あるかぎりご安心下さい」といったことから、幕府横領の疑いを招いた。範頼は百方陳弁につとめたが、ついに修禅寺に幽閉され、さらに梶原景時に攻められて、日枝神社下にあった信功院で自刃したと伝えられている。伊豆市修善寺温泉場

加藤景廉 

源頼朝が源氏旗揚げの折、平家の目代山木判官平兼隆を討ち、第一の功を上げる。以後、鎌倉幕府創設に献身努力し、頼朝から牧之郷をはじめ各所に所領を与えられ、岐阜県遠山地方の要衡岩村に城を築いた。後に長子影朝に城を譲り、牧之郷に帰ると源平の合戦で亡くなった人たちの精霊供養のため読経三昧に明け暮れこの世を去った。伊豆市牧之郷

桂谷八十八ヶ所

P10596m 昭和5年に丘球学(修禅寺38世)は、四国八十八ヶ所の霊場の土を、修善寺の桂谷(今の大字修善寺)に移し、桂谷八十八ヶ所として弘法大師の像と札所本尊の梵字、名号を刻んだ石碑を建立した。四国八十八ヶ所ハは、弘法大師が唐へ渡った折、天竺の僧般若三蔵より伝来する釈尊の霊蹟八塔の土を四国に持ち帰り、これを八十八に分けて霊場を開いたものでImg_0533 ある。それは巡礼の人々が、自ら八十八始の見惑を踏断し、業障報障を除き、離苦得楽の妙境に至らせるための深意によるものとされている。それ以来千百年、時代の変遷はあっても、霊場巡礼の信者は年々増加し、冥化得益の者は数えきれないという。しかし、四国霊場は広域に散在しているため、巡拝は容易ではない。そこで、弘法大使が錫を留めた勝境桂谷Img_0513 ヘ、四国に擬して八十八ヶ所を建立することを発願した。それは、この地が住民や浴客、信者など、大師の恩沢に浴し身心の利益を得るものが多いので、この恩沢に報いるためとし、四国霊場巡拝にひとしい功徳を得るとしたものである。現在では11月7日より9日までの3日間に、各地から集まったお遍路さんが、約28㎞の山道を歩いて巡拝する。

Adati_2足立藤九郎の墓」早くから頼朝に仕え、鎌倉幕府創設後は上野奉行職、三河守護などを歴任し、頼家が将軍になると家臣の1人として幕政に加わった。墓は梅林道入り口右側にある。

2008年5月 4日 (日)

【ぶらり伊豆市1】国道136・414沿線

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Character_2伊豆市】は伊豆半島の中央部に位置し、直線距離で東京から約100Izumap_01 km、静岡市から約60kmとなっています。豊かな自然環境に恵まれ、南側は天城山系の山並みに囲まれ、西側では青く澄んだ駿河湾に面しています。中央部には天城山から発する狩野川が流れ、北部はその沖積層により形成された田方平野となって開けています。

修善寺温泉歴史の始まりは、平安初期に弘法大師が修禅寺を開基した頃からである。Image1104 当時は地名を桂谷と呼び、寺名を桂谷山寺といっていたが、鎌倉初期には、寺名を修禅寺というようになっており、地名も寺領だったところから修禅寺と呼んでいる。この時代には源範頼、頼家が幽閉され暗殺されるという源氏興亡の哀史の舞台となっている。室町後期に至り、現在呼ばれImg_0540 ているように、寺名を修禅寺、地名を修善寺と区別するようになった。徳川初期には、金山奉行の大久保長安が瓜生野金山を開発し、慶長小判などの金が採掘された。また、紙谷では修善寺紙が漉かれ、これを色よし紙といって上流社会で珍重された。徳川末期になって、下田開発と共に街道宿として、本立野宿が栄えている。温泉場としては、明治に至るまでImg_0497 には既にある程度開けていたが、この頃の宿は共同浴場を利用していた。明治になってから湯治客専用の内湯旅館が誕生し、交通機関などが整備されて、多くの文人墨客が訪れるようになった。大正末期には駿豆線が修善寺まで開通し、修善寺駅前周辺が整備されて急速に発展した。このとき、修善寺は他村に先がけ、郡下最初の町制が施行された。昭和30年代に至り、下狩野村、北狩野村と合併。その後、平成16年4月1日に修善寺町、中伊豆町、天城湯ヶ島町、土肥町の4町が合併し、伊豆市となった。

修禅寺」重要文化財

Img_0495 修善寺温泉発祥の寺で、温泉場の中心にある。平安初期の大同2年(807年)に弘法大師が開基したもので、当時は地名が桂谷と呼ばれていたところから桂谷山寺といわれ、伊豆国禅院一千束と正史に記されたほど格式の高い寺だった。
鎌倉初期になって建長年間(1250年頃)に蘭溪道隆(臨済宗鎌倉建長Img_0496 寺開山の宋禅僧)が住し、桂谷の風致が支那の廬山に似ているところか ら当時は肖廬山と号した。
南北朝時代の康安元年(1361年)になって畠山国清と足利基氏との戦禍を受け、応永9年(1402年)には火災を蒙り、永徳元年(1489年)に至り、韮山城主の北条早雲が外護者として再興し、叔父の隆溪繁紹(遠州Photo石雲院)が住して曹洞宗に改宗され山号も福地山と改められ今日に至っ ている。ここで源頼朝の弟・範頼[のりより]が自刃し、長子頼家が暗殺された。岡本綺堂[おかもときどう]の戯曲『修禅寺物語』はこの史実を題材にして書いたものとして知られる。

日枝神社」 修禅寺より少し北にある「日枝神社」、昔は修禅寺の鎮守さまであった。境内には夫婦杉の大木や県の文化財に指定されている一位樫がある。また、源範頼が幽閉され住んでいたという信功院跡(庚申塔のみ現存)がある。

Img_0539独鈷の湯

大同2年(807年)に、弘法大師がこの地を訪れたとき、桂川で病みつか れた父の体を洗う少年を見つけ、その孝心に心を打たれ「川の水では冷 たかろう」と、手にした独鈷杵(仏具)で川中の岩を打ち、霊泉を湧出させたという。
そして、大師が父子に温泉療法を教えたところ、不思議なことに、父の十数年の固疾はたImg_0506ちまち平癒したと伝えられ、その後この地方には温泉療 法が広まったという。いわゆる修善寺温泉発祥の温泉で、伊豆最古のものといわれている。

指月殿・源頼家の墓

指月殿境内にある。頼家は正治元年(1199年)に、父頼朝の死により家督を継いで、鎌倉二代将軍となった。幼少から才気活発で弓馬に長じ、Img_0505建久4年(1193年)の富士野の狩場で高名を挙げたこともある。
しかし家督を継いで間もなく、北条氏など元老の干渉も多く、さらに建仁3年(1203年)に罹病した時、相続のことが議せられて、北条時政と母政子 (時政の娘)が、子の一幡と弟実朝に分譲する案を出した。これに対し、一 幡の独裁を主張する一幡の母である若狭の局の父、比企能員と意見がImg_0501対立し、北条氏との間が次第に険悪化していった。
また、北条氏に対抗して頼家は、源氏の実権の回復に努め、能員と組んで北条氏を討とうとしたが、かえって能員と一幡は、殺され、頼家は修禅寺に幽閉されてしまった。そして翌年の元久元年(1204年)に時政の密計に より、修禅寺門前の虎溪橋際にある箱湯で暗殺された。このとき頼家は23歳という若さであった。現在、7月17日には地元の町内会により頼家忌が催されている(命日7月18日)。

Img_0531奥の院
温泉場より約5Km西の湯舟地区にあり、延暦10年(791年)に18歳の「弘法大師」が修行した所といわれている。ここには馳籠の窟という岩洞があり、その岩壁には阿吽の滝と呼ばれる滝が懸っている。滝の横には弘法大師降魔壇という修行石がある。これは大師が禅定を修する勝境を桂谷に求め、適地としてこの地を選んだが、天魔地妖が多く修行の妨げとなり、住民をも煩わすので、天空に向かって大般若の魔事品を書いたところ、金色に輝く六書八体の経文がはっきりと空中に現れたという。これにImg_0521 より魔衆はことごとく岩谷に閉じこめられてしまったといわれ、その後仏法 は広まり国土は治まったと伝えられている。現在、春季弘法忌には大師像を修禅寺より御興で運び1日安置するお上り、お下り、という行事が行われている。

2008年5月 3日 (土)

【ぶらり函南町2】国道136号編

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北条宗時の墓

Bunkazaitizu11 治承4年(1180年)8月17日、頼朝は挙兵して伊豆目代・山木兼隆の邸を襲撃。宗時は父時政、弟義時とともにこれに加わり、襲撃隊の先導役を務めている(『源平盛衰記』)。23日、頼朝軍300騎は大庭景親率いる平氏方3000騎と相模国足柄郡石橋山(小田原市)で戦うが多勢に無勢で敗北して頼朝軍は潰走した(石橋山の戦い)。翌24日、景親らは追撃の手を緩めず、頼朝軍は山中に逃げ込んだ。土肥実の進言により分散して再挙を図ることになり、北条父子は頼朝と別れ、時政と義時は箱根湯坂を経て甲斐国へ向かった。宗時は山を降りて桑原に降る。時政と宗時が別行動をとったのは、当主と嫡男のどちらかが生き残ろうと図ったためだろう。

天地神社のクス

Tentikusuyoko かつては樟脳(しょうのう:防虫剤等)製造の原料として、造林も各地で行われていたが、開発や生活様式の変化により、現在では神社や寺に残るだけとなった。クスは寿命が長く大木も多いことから、天然記念物に指定されているものも少なくない。樹高39.0m、目通幹囲10.6m、根元周囲17.8m張り東西30.6m×南北37.1mで推定樹齢は950年である。

柏谷横穴群

Kasiyazentai 丘陵の斜面を横に掘って墓室とした古墳時代後期のお墓(横穴墓)で、古くから「(柏谷の)百穴」と呼ばれています。東西600×南北250mの範囲に総数300基はくだらないと推定される県内最大規模の横穴墓群で、北伊豆では最古の6世紀終わり頃に形成されはじめ、最終段階(8世紀末頃)には火葬骨を納めた例も認められています。史跡に指定された範囲は全体のうち保全状態が比較的良好な一部で、現在柏谷公園の最も奥(北)側に位置しています。 横穴墓は、遺骸を納める玄室(げんしつ)とその前面に慰霊祭を行った墓前域(ぼぜんいき)、両者をつなぐ通路である羨道(せんどう)に分かれています。当時、人が死後に行くと考えられていた黄泉(よみ)の国を現した玄室内には、生活に困らないよう食器(土器)、身を飾る装飾品、身を護る武具や旅の道具(馬具)などの副葬品が一緒に埋納されました。

中里横穴群

Nakazatoyokoanagun 現在までに3群51基が確認され、狩野川左岸の北江間横穴群を中心とした地域で、最大かつ中心的な横穴群として知られる。
中には幅3~4m、玄室2つをもち全長が7mを超える(入り口側は未確認)巨大なものもある。横穴群の形成は7世紀前半から始まっている。

Photo_8大場の久八の墓」大場の久八は文化11年(1814年)10月2日伊豆国函南村間宮に生まれる。姓は森、名は久治郎、久八と称す。天保10年(1839年)の頃には上州系三大親分の一人としてその勢力圏は伊豆、駿豆、駿河、甲斐、武蔵、相模にわたり、乾分の数3600人、有名貸元49人を擁する東海随一の大親分となっていた。安政の大地震の時には、大前田栄五郎と協力して義捐金数百金を募って窮民を救い、嘉永6年(1853年)江川代官が品川沖にお台場を築造する工事に苦難するや率先して配下の石工人夫数千人を集め難工事を見事完成せしめて、台場の親分と仰がれるなど遊侠社会に傑出した人物である。明治25年12月3日没す。享年79才。(函南町廣渡寺前説明より)

 

2008年5月 2日 (金)

【ぶらり函南町1】国道136号編

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136gou 国道414号は伊豆の国市から伊豆市まで国道136号と重複区間と成ります。136号線沿線の函南町からぶらりシリーズ続けます。

函南町】函南町は、静岡県の東部、伊豆半島の入口に位置し、箱根南麓の緑豊かな自然と、どこからでも秀麗富士を望むことのできる景観に恵まれた町です。
Photo興聖寺」臨済宗。伊豆霊場16番所。四国八十八ヶ所霊場を筆頭に西国、坂東、秩父など全国には、大小の霊場巡りが数多くある。弘法大師が弘仁六年(815)四国を巡幸後、遠くて四国まで行けない地方では、それになぞらえて、札所を作りお参りする事で、四国遍路に代えたのが始まりと思われる。その功徳は四国遍路となんら変わらないものとされる。"豆Photo_2 国八十八ヶ所巡礼" と呼ばれた"伊豆八十八ヶ所霊場"遍路もその一つ。(大鹿の話)140年くらい前のこと、塚本、間宮、肥田の各村では農作物を荒らす大シカに弱り切っていた。村人に頼まれた猟師の勘七がある晩、大シカを種子島で撃ったところ命中し、大勢で追跡したが血を流して逃げた大シカの姿は興聖寺の境内で消え失せてしまった。そこで村人達が本堂を開いてもらって見たものは弾痕も生々しく血の滴った板戸に描かれた大シカであった。それ以来大シカの悪さは起きなくなったという。
興聖寺のマリア観音像」町指定文化財。江戸時代に隠れ切支丹(きりしたん)と呼ばれF0077807_18272519 密かにキリスト教を信仰し続けた人々が、子育て観音と偽り命がけで守ってきた歴史的背景をもつ像。全国的にも現存する例はほとんど無く非常に稀有な存在として評価される。像高は32㎝でマリアに抱かれたキリストの額にはクルス(十字架)が付けられている。全国でも、ほとんど残っていない貴重なマリア観音像。本当は母親マリアが我子キリストを抱いている のに、子育て観音と偽ったもので今も残っている例は数少ない極めて貴重な像で、漆喰でFusumae作られています。

興聖寺の襖絵」町指定文化財。杉戸に着色雌雄一対の大鹿と朱も色鮮やかに残るもみじが描かれている。作者・制作年代は不詳だが、構図・色彩・筆勢などから中央の絵師(公家に属する流派)により描かれた鎌倉時代以降の作品と推定される。

Photo_3桑原薬師堂阿弥陀三尊像」( 重要文化財 ) JR函南駅の背後にある山を隔てた北側 山すその「長源寺」境内にあります。「木造阿弥陀如来及両脇侍像 」3躯 鎌倉時代初期(12世紀末から13世紀初頭)、運慶と快慶に代表される「慶派」の仏師・実慶により制作された阿弥陀三尊像(中央に阿弥陀如来、両脇に観音菩薩と勢至菩薩)です。慶派の作品は、写実を基本とした男性的な力強い表現で、当時の武士社会に大いに受け入れられました。特に、ほとんど制作当初の状態が残っている蓮華座(蓮の花の形に造られた仏の台座)は、背丈も高く、堂々とした全体の部分と、力強い細部の意匠により、現在日本に残されている仏像の中で、鎌倉時代初頭の蓮華座の特徴を最もよく表わす模範となる作品として高く評価されYakusidoumatisiteiています。「桑原薬師堂」には重要文化財の阿弥陀三尊像のほかに、「静岡県指定有形文化財の 仏像」が安置されています。これらは重要文化財の一般公開に併せて公開されています。(木造薬師如来坐像を除く)「木造薬師如来坐像」平安時代中期(藤原時代)、制作者は中央仏師の系統をひく者。堂々とした体躯、円満な顔貌、胸・腹部の厚さにより迫力ある作品となっている。 「木造毘沙門天立像」技法と動きの少ない温和な作風から、平安時代後期の中央仏師の制作と推定され、同時代の中央の作風がうかがえる秀作。 「木造十二神将立像」12躯。 全国的にも作例が非常に少ない平安時代の3躯を含む十二神将像で、他の像も江戸時代の1躯を除き、鎌倉時代から室町時代の初期の作品。東国で現存するものは室町・江戸時代の作品が圧倒的に多い中、極めて貴重である。像高も1メートル前後と十二神将像としては比較的大きく、同像としては静岡県内唯一の指定作品。「木造聖観音立像、木造地蔵菩薩立像」丸顔の穏やかな面相と浅い彫りの滑らかな起伏から、対で造られた平安時代末期の作品と推定される。両像を併置して祀る平安時代の貴重な例。「薬師堂内の仏像群 5躯」薬師如来坐像が納められた厨子をはさんで右側に不動明王立像(室町時代末期以降:写真上段左端)、弘法大師坐像(江戸時代以降:写真中央)、脇侍立像(写真下段左端、日光菩薩:近世以降かなり新しい)、厨子の左側に経巻上人坐像(江戸時代以降)、 脇侍立像(月光菩薩:近世以降かなり新しい)の5体である。

Magaibutu磨崖仏(まがいぶつ)」磨崖仏とは、丘陵の岸壁や巨岩に彫刻された仏像。国内では臼 杵(大分県うすき)や大谷(栃木県おおや)が著名で、周辺では箱根町や韮山町がよく知られている。所在地は畑毛温泉フジタウン内の三宝大荒神境内です。像高58㎝の地蔵菩薩像、径73㎝の日輪とその中に梵字でキリーク(阿弥陀如来を表す)が線刻されている。「永徳二年壬戌四月十一日」の紀年銘は町内最古の石造物を示す(西暦1382年)。像が彫られた大岩は二つに割れ片方に地蔵、他方に日輪(写真)がある。

Photo_4満宮神社」創建年月日不詳。古来満宮神社と称す。明治三年より八幡神社と改むも同1 8年10月復、満宮神社と称す。明治初年頃の神苑は老松が何本も生え、神社は茅葺でした。老松は落雷、松くい虫で枯れ昭和51年南西の一本が最後に枯れた。大正10年氏子の寄付に依り社殿が瓦葺に改築され昭和48年には屋根瓦の葺替工事を致し、是も氏子が瓦数枚ずつを寄付修復現在に至って居ます。又、宵祭は毎年当番町で
Photo_5 盛大に行われています。田方郡函南町塚本413
俗に森山と呼ばれ、塚本での背後に孤立する海抜36メートルの丘陵面積は8107平方メートル 古松森 森緑苔繁茂して千古奇絶の趣がある。古くは土器等を多数出土したという。

Photo_6肥田神社」創建は不詳。北屋敷に若宮神社、下屋敷に皇后神社が鎮座していたが明寺44年合祀し現在地に肥田神社と改めた。例祭日は10月15日 場所 函南町肥田字お屋敷831

2008年5月 1日 (木)

【ぶらり香貫(かぬき)・静浦・伊豆の国16】国道414号編

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伊豆の国市3

国清寺

Photo_10Photo_9Photo_8  1362(貞治元)年、室町幕府の有力者「畠山国清」が創建したとされ、1368(応安元)年関東管領の「上杉憲顕」が本格的な寺として修築した。
最盛期には子院78、末寺300を擁する壮 Photo_11大な伽藍となり、室町幕府3代将軍義満の時には「関東十刹」に加えられた。
仏殿には鎌倉時代の慶派の作になる「釈迦如来像」(町指定文化財)が安 置され、境内には開基・開山の墓や、旧楓林院の「子育地蔵」などが残されている。修行僧が食べている国清汁はこの寺が発祥地である。 また実在の人物・一兆和尚(黒岩院住職)にまつわる民話「天狗にさらわれた一兆さん」の舞台となった寺でもある。 場所 伊豆の国市奈古谷1240-1

七つ石Photo_12 Photo_13Photo_15

国清寺から毘沙門堂へ続く林道沿いに点在している。鎌倉時代~室町時代の修験道の遺跡で「毘沙門堂」への道すがら、両側には多くの梵字や仏像が刻まれた巨石Photo_14Photo_16が点在している。下から順に「両界曼陀羅種子、阿弥陀三尊種子、石地蔵(町指定文化財)、蛇石、夫婦石、こだま石、弘法石(町指定文化財)、硯石、冠石」などがあるが、「毘沙門堂」が元は真言密教Photo_19の道場であったことと 関係があると考えられている。

毘沙門堂

Photo_20Photo_22 国清寺の鎮守で毘沙門天(多聞天)を祀るお堂であり、平安時代の僧文覚上人配流地である。かつてこの地には安養浄土院(奈古谷寺)があったが、のちに荒廃していたものを頼朝が文覚に命じて授福寺Photo_21として再興した。この寺も今はない。当初、毘沙門堂は授福寺の鎮守であったという。山中には文覚が修業したという不動の滝、境内には文覚の護摩石(硯石・鏡石)と伝わる巨石があり、仁王門の金剛力士像は鎌倉初期の作で県の指定文化財である。 場所 伊豆の国市韮山町古谷字水上

奈古谷観音堂

Photo_23 室町時代この地は大変栄えていたという。この観音堂は地蔵堂、阿弥陀堂、庚申堂などとともに、奈古谷七堂の一つで他の諸堂は廃堂に成りましたが、唯一旧位置に建っています。堂内には、本尊聖観音立像のほか、十王堂や阿弥陀堂などにあった諸仏が安置されています。また、境内地には庚申塔、唯念碑、五輪塔、宝印塔などが諸堂から集められていPhoto_24 ます。付近の屋号を観音堂、堂の前、辻、横道といい、観音堂が道路の四つ角にあって、今よりも大きなものであったことがわかります。現在のお堂は昭和42年に再建されたもので、平成九年八月屋根の修理を実施しています。今でも毎月観音講がおこなわれっています。観音堂には十王堂から移された「十王様」他が安置されいます。平成九年町指定文化財Photo_25 に以下が指定された。「十王 九体、脱衣婆 一体、眷属 二体、業の秤(盤石)一点」計13点

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