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2008年4月20日 (日)

【ぶらり香貫(かぬき)・静浦7】

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11【静浦・江の浦の寺

Img_0267 臨済宗【釣月寺ちょうげつじ】文明8年(1478)石室禅師により、真言の道場として開かれ、伊豆韮山、国清寺の末となり、慶安2年(1649)準開山、雪嶺(せつれい)和尚により、中本山、興津清見寺末となり、京都妙心寺末の現在に至っています。延宝3年(1673)火災に遭い、3世高巖(こうげん)和尚は民家を離れた渓間の地に移り、正徳5年(1711)4世臠水Img_0271 (ばんすい)和尚が本堂を再建しました。明治3年には台風で倒壊、長く仮本堂で過ごし、昭和35年俊道和尚が本堂を再建しました。 江戸時代までは、末寺として志下に長泉寺、下香貫塩満に霊光院、地蔵堂、馬込に観音堂があったが、現在では、観音堂のみが残っております。いつも車で混雑している国道414号線から山側へ入り、曲がりくねった道を抜け、門Img_0269 の如く立っている2本の榎(えのき)の間を上がると、正面の高台に本堂があり、後ろには、山号となった鷲頭山へ続く峰が寺の三方を囲んでいます。昭和20年代初めまで、境内には大きな木々が茂り、石段を登ると小さな山門があり、山寺という風情でした。現在では保育園があり、昼間は小さな園児が、元気よく走り回っております。夜、山の端から月が出ると、庭の池に月が映り、月を釣るという寺名にふさわしい景色が見られます。

Photo_8 日蓮宗【本能寺】この地所有の町田家が、大本山本門寺(開山日興上人)の第4世日蔵上人を招き、応永21年(1414)に開創された。開山日蔵上人は、宝永27年103歳にて遷化された。爾来、北山本門寺の歴代貫主上人の隠居寺となる。寺領3石。永正9年、「京都将軍家御朱印申伝」がある。
 Photo_9 永禄年中に徳川家康が駿甲両国の戦いにつき、日出(にっしゅつ)上人(北山本門寺9世)に天下泰平の祈願を命ぜられたときに、争乱の北山本門寺より日蓮大聖人の生御影(しょうみかげ)尊像を当山に移し、祈願を執行したという由緒がある。祈願の地に小堂があり御堂屋敷と呼び、五輪の堂塔が残存しており、今日でも毎月末に供養会が行われている。北山本門寺歴代隠居寺であったため、歴代上人の手簡、家光公の章書等の古文書、そPhoto_10 の他什宝、数多く秘蔵してあったが、宝暦元年(1751)6月25日の大雨による山津波が押し寄せ、客殿、庫裡が三つに割れるという大災害を蒙り、宝物等の多くを流失してしまった。また、当時の境内はもと「獅子浜城址」であり、初めは今川、後に北条の領有するところになった。小田原の武将「大石越後守」は、当時七浦(7区)を領して当寺に拠ったが、天正18年小田原陣の時に退去した。城の規模は、本城、出城、見張所に分かれ本城が当山の境内に当たり、見張所は現在でも城山と呼んで、当寺有の山林である。


Img_0245 曹洞宗【楞厳院りょうごんいん】駿河湾の奥、静浦海岸を臨む地に立地しております。
 開創は鎌倉時代始めと云われており、本尊虚空蔵菩薩からもわかりますように、真言宗に属する寺院であったことがうかがえます。現在の曹洞宗に属することになったのは天正年間の事であり、開山より数えて現在Img_0248 は19代になります。当山入口のところに石柱「選佛場(せんぶつじょう)と書かれた碑が立てられております。これは当山が江戸時代末期には専門僧堂を持ち、学僧修行の道場として栄えた寺院であることを証明しております。また、当山山門脇に、白杉(びゃくしん)が植えられております。これは天正年間、伊 Img_0247 豆大瀬大明神(おせだいみょうじん)から流出し獅子浜の海岸に流れついた、3本の白杉のうちの1本といわれております。当山は江戸時代および明治初期の2度にわたって堂宇を焼失しておりますため、古文書はほとんど残っておらず、白杉の来歴も、申し伝えで伝えられているのみです。ただ大瀬大明神には白杉の流失についての記述が残っているとのことのようです。なお、当山付属の堂宇に地蔵堂があります。漁業が盛んであった当地では、網引き地蔵とよばれ、漁業関係者の厚い信仰をあつめたと伝えられいます。現在の本堂は、昭和5年に工事にかかり、6年に完成をみた、破風様式の本格的寺院建築であります。沼津市獅子浜47

Photo_11 臨済宗【照江寺しょうこうじ】照江寺は、金岡村中沢田岡田家25代善右衛門の弟相善が出家して涼室和尚となり、周天和尚を開山と仰ぎ、慶長2年閏5月12日現在地に寺院を創建したことに始まります。中沢田を支配する岡田家が江浦に寺院を建立したのは、岡田家と江浦七人衆がともに武田家の家臣であったため実現したと思われます。周天和尚は、慶長3Photo_12 年2月、伊豆修善寺より弘法大師一刀三礼の作と伝えられる大日如来像を迎え、寛文11年11月、涼室和尚によって境内に大日堂が建立されました。照江寺は、後ろに山を背負い、前に江の浦港を見下ろす誠に風光明媚な佳観の地であります。また、江の浦港は三面山をめぐらし、水深く波穏やかにして、西風北風を避ける避難港として古くから知られておりPhoto_13 ます。それ故、当山を愛する文人墨客も多く訪れています。嘉永7年には、11月4日下田港に停泊中のロシア船ディアナ号が地震で大破し、12月2日修理のため近隣の漁船200艘が船を引いてへだ港に向かう途中、大風にあって原一本松に漂着して助けられましたが、内一艘が江の浦港に避難し、乗船していたロシア人18人と役人など合わせて20名が当山に止宿しました。照江寺は、弘法大師がお作りになられたと伝えられる大日如来を奉安していることから、早くから近隣はもとより、江の浦港に出入りする県内外の道俗の信仰を集めてまいりました。大日如来は秘仏で、戦前は33年に1回御開帳を行っておりましたが、戦後は10年に1回行っております。沼津市江の浦70

Photo_14 臨済宗【江月寺】開創は、後白河天皇の御宇、保元の頃とされています。古儀真言の僧、違良が化行得道了後、伊豆権現石廊権現へ参篭し、後、当境に来地。後峰の峻山を望見し 「此山、印度霊鷺山の壱峰に髣髴たり」 として、このことから鷲頭山と名付けたそうです。峰項に十一面観音を安置し、前面の金桜山を眺望し、塵俗を離れたこの地を、仏縁行者閑棲の地となし、当境に庵室を結び江月庵と称しました。その後、花園法皇の御宇、文明年中、当国の太守今川範忠が禅法帰依したことに憑て、当山を改宗し、禅宗の臨済宗となし、鎌倉円覚寺派となりました。明応の末年、今川義元の伯父雪斉和尚、則宝珠護Photo_15 国禅師の会中桂叟仁を当山住持に迎え、清見寺の末寺となり、後に京都妙心寺派下となりました。旧堂宇は、豆州田方郡仁田村 (現函南町)の旧家を買い求め造築しましたが、老朽化により、昭和49年2月から着工し同年9月に本堂、及び書院、庫裡を完成しました。参道から階段を登ると、境内入口には平成11年9月に願主 (飛田嘉一氏) により、多比龍雲寺 (霊音軒老大師) の揮豪による寺標が建立され、禅寺の風光も一層した景観を保持しています。沼津市多比152

Photo_19 臨済宗【龍雲寺】往古は京都嵐山の天龍寺開祖夢窓普済国師(疎石・そせき)が南北朝時代初期に草庵を結んだ地で、天文(てんもん)年間(1532~1558)は龍雲庵または龍雲院と号し、宗玄(そうげん)和尚が住持(しゅうじ)した事が古文書で明かとなっております。開祖より宗玄の時までの約800年間の寺暦を伝える資料類は何もなく、龍雲庵および龍雲院の創立年月も定かではありません。寺記によれば、「今川家の一族」と伝えられる開基、龍光院殿大円登雲大居士から判物を与えられたと推測され、その判物により天文21年(1552)9月、葛山備中守氏元(くずやまPhoto_21 びちゅうのかみうじもと)より龍雲庵宗玄に、龍光院殿の香花所として棟別諸役の免許を与えられました。その後、永禄(えいろく)3年庚申(1560)、本山西堂和尚が来て一宇を造営し、大円山龍雲寺と改称されました。今川家並びに葛山氏没落後の永禄後期から天正期にかけては、相模北条氏の特別の庇護を受けていたものと推測されています。よって、夢窓普済国師を開山とし、龍光院殿大円登雲大居士を開基とし、本山西堂和尚を中興の祖としています。沼津市多比331

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Photo_16 臨済宗【桂林禅寺】開創は、天正17年3月、武田家頭穐山信桂殿、家来と共に隣村口野寶泉寺に預け置く先祖の御霊を、居住地である当地へ寺を建立して、安置し祠りたいとの請願を発し、慶長元年の春、 渓妙屋西堂和尚を開山に迎えて桂林寺を創建。尚、開山渓和尚は、その年10月15日示寂、世壽法臘等に就いては不詳。開創は、天正17年3月、武田Photo_17 家頭穐山信桂殿、家来と共に隣村口野寶泉寺に預け置く先祖の御霊を、居住地である当地へ寺を建立して、安置し祠りたいとの請願を発し、慶長元年の春、 渓妙屋西堂和尚を開山に迎えて桂林寺を創建。尚、開山渓和尚は、その年10月15日示寂、世壽法臘等に就いては不詳。当山草創期に関する詳しい経緯は、明治29年1月、穐山家秘蔵の古文書にPhoto_18 より明らかになったとの事です。そこで同年11月1日開山300年遠緯を営むに当り、開基法号桂峰明林居士へ月高院と追贈をし遺徳に報いる事としました。その後住職不在中、清水宗閑尼入寺し、老朽化した庫裡の再建を東海寺鈴木子順老師や今井大順師らの扶けを得て檀徒一致協力これを完成、昭和38年清玄和尚、200余年を経た本堂を再建その後 逐次境内整備を行いつつ現在に至っています。御本尊向って左に祭られている毘沙門天は当山に対面する山懐のお堂に祠られてあったが、そこが博打場となり、藩主水野氏によって取り壊しの命を受け、毘沙門天を当寺へ移して祠ることになったそうです。寺宝の一つ、「白隠禅師による隻履達磨図」は当地域を巡錫の折、揮毫されたものとして伝わっています。

「沼津仏教會HPより」

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