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2008年4月

2008年4月30日 (水)

【ぶらり香貫(かぬき)・静浦・伊豆の国15】

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伊豆の国市2

Dscn0191伝堀越御所跡

室町幕府関東支配の拠点。国指定史跡。守山山麓一帯は北条市の屋敷であったが、室町幕府によってその跡に堀越御所が構築された、8代将軍・足利義政は、関東を治めるため1457(長禄元)年、天竜寺にいた弟の政知を還俗させ、伊豆に下向させて堀越公方とした。

Dscn0881北条氏館跡

国指定史跡。北条氏は恒武平氏の流れを汲み、この地(北条)に移ってきたのは北条時政の祖父(時方)の頃と推定される。時政の父(時家)が初めて北条氏を名乗り、伊豆北条を本貫の地とした。時政は娘政子が源頼朝と結ばれたことを機に、一族の命運をかけて頼朝の旗挙げに加担し、鎌倉幕府の創立からその運営にいたるまで重要な役割を果たした。鎌倉幕府ナンバー2の地位である執権を世襲するようになって、拠点は鎌倉に移ったが、その間も本貫の地を忘れることはなく、北条館は維持されていたと思われる。

Dscn0203韮山城址

北条早雲ゆかりの城。後北条氏の祖・伊勢新九郎盛時(のちの北条早雲)が1493(明応2)年、堀越御所の足利茶々丸を討ち、伊豆国支配の拠点としたのが韮山城である。やがて後北条氏は小田原に拠点を移し、5代・約1世紀にわたり関東を支配するが、早雲自身は終生この城を離れることなく、1516(永正16)年、韮山城内で88歳の生涯を閉じた。(法名は早雲庵天獄宗瑞)

Dscn0212江川邸

国指定史跡「韮山役所」の中にあり、国指定重要文化財。主屋は単層入母屋造りの壮大な建物で、「小屋組づくり」と呼ばれる幾何学的な屋根裏の木組みは、今日でいう免震構造になっている。三和土の土間には立ちDscn0208木をそのまま柱にしたと伝えられる「生き柱」や、日蓮直筆の「比伏せの護符」を納めた棟札箱が見られる。これまで一度も火災にあって いないことから、文書類・書画・武具を始めとする様々な品が残っており、その一部は屋内に展示されている。江川家は41代・900年続く大和源氏の末裔で、江戸時代には旗本として11代273年間、天領伊豆の代官を務めた。Dscn0206歴代の代官はいずれも治安維持と民政に意を注ぎ、百姓一揆は一度も起きていない。特に36代江川太郎左衛門(坦庵)は名代官として知 られ、海防の必要性から沿岸測量、韮山反射炉やお台場の建設、わが国最初の様式帆船建造や種痘の実施、パン製造など多大な業績を残している。邸内には「パン祖の碑」が立てられている。

反射炉

Dscn0220国指定史跡。幕末になって欧米列強が開国を求めて来航する ようになると、沿岸防備充実の声が高まり、従来の青銅製大砲に代えて強力な鉄製大砲鋳造へ要求が強まっていった。反射炉は従来の青銅製大砲鋳造などに用いられていた坩堝に代わり、蘭学の知識やオランダの文献資料などをもとに金属溶解炉として作られたものである。そのしくみは、炎が煙道を通る際、湾曲している天井部に反射するため、さらに高い温度が得られる、大量の鉄を溶かすことができるようになっている。

本立寺

Photo_3 伊豆の代官「江川家の菩提寺」1261(弘長元)年、伊東に配流された日蓮と出会った江川家16代英親は、日蓮の宗義に感銘を受け、深く帰依して在家のまま弟子となった(優 婆塞日久)。

以来、江川家は真言宗から日蓮宗へと改宗し今日にいたっている。1506Photo_4(永正3)年、24代英盛は邸内にあった大乗庵を移築し本立寺を創建した。本堂の裏手は江川家累代 の墓所となっている。境内には36代英龍の片腕として活躍した柏木忠俊など家臣団の墓地、刀工胤長の墓、徳利の形をした伝九郎の墓、1332(元徳4)年銘の旧鎌倉東慶寺の梵鐘(県指定文化財)などがある。

Photo_5

Photo_7Photo_6   

2008年4月29日 (火)

【ぶらり香貫(かぬき)・静浦・伊豆の国14】

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20【伊豆の国市1】伊豆の国市は、伊豆半島の北部、田方平野のほぼ中央に位置します。東は箱根山系の連山に、西は城山、葛城山などの山々に囲まれ豊かな自然環境を保っています。平野部は南北に狩野川が流れ、豊かな田園地帯が広がっています。
 また、狩野川に沿うように国道136号、伊豆箱根鉄道が走り、周辺に市街地を形成しています。Ithizu

かの源頼朝と北条政子のロマンスが、この地に芽生えたのは平安末期。鎌倉時代の日本はここ伊豆の国からゆっくりと動き始めたのです。

北条政子産湯の地

Dscn0188源頼朝の妻・政子は北条時政の長女として1157(保元2)年、この地に誕生した。このあたり一帯はかつての北条館の跡であり、付近の字名を「御産所」といい、この井戸の水は安産に霊験ありとの伝承から近年まで妊婦に飲ませていたという。場所 伊豆の国市韮山町寺家

蛭ヶ島

Dscn0196源頼朝配流の地。平治の乱に敗れた源頼朝は、平清盛に継母・池禅尼の命乞いによって伊豆の蛭ケ小島に配流され、1160(永暦元)年2月の14歳の少年期から、1180(治承4)年8月に旗挙げする34歳までの20年間をこの地で過ごしたとされる。流人とはいえ、その監視は比較的ゆるやかであったと思われ、伊東祐親の娘・八重姫との恋、北条政子との結婚のほか、箱根・伊豆山・三島の三社詣、天城山での巻狩りなどの伝承も残されている。当時の蛭ケ島は洪水の度に田方平野を縦横に流れていたであろう狩野川の中州、あるいは湿田の中の微高地(田島)であ ったと考えらDscn0195れる。他にも蛭ケ小島と称する中州がある中で一番小さかったことから後年「蛭ケ小島」と呼ばれるようになったものであろう。江戸時代の末に伊豆の地誌「豆州志稿」を著わした秋山富南が、この場所を頼朝配流の地と考証したことを記念する」蛭島碑記」(町指定文化財)が立っている。周辺の公園整備が進む中で平成16年3月18日、富士に向かって頼朝と政子が寄り添って立つブロンズ像「蛭ケ島の夫婦(ふたり)」が除幕された。

西琳寺/あやめ御前

Photo_2あやめ御前」は今からおよそ800年前、長岡古奈に生まれました。後、源頼政と結婚し、幸せな家庭を築きますが、源平の戦いで頼政は亡くなり、「あやめ御前」は長岡の地に戻り、頼政の霊を弔いました。
源氏あやめ祭は、あやめ御前の霊を慰める為に開催されます。祭り期間 中は、供養祭をはじめ、あやめ御前パレードや芸者衆の踊り、演芸会等Photo_3開催され盛大に祭りが繰り広げられます。

場所 伊豆の国市長岡古奈

願成就院

Photo_4「運慶作仏像」の寺。国指定史跡。1189(文治5)年、源頼朝の奥州攻めの成功を祈って、北条時政が建立した寺であるが、北条氏の氏 寺的性格を強く持っていた。その後子どもの義時や孫の泰時によって堂塔が整備され、壮大な寺院となっていった。戦火にあって堂宇は失われたが、発掘調査で大御堂・南新御堂・南塔・池畔などの跡が明らかになっている。Photo_5寺には1186(文治2)年、運慶が30代の時に造った阿弥陀如来・毘沙門天・不動三尊と、その胎内銘札(いずれも国指定重要文化財)や北条政子の7回忌に造られた政子地蔵、本堂の阿弥陀如来像(ともに県指定文化財)など多くの寺宝が伝えられている。境内には北条時政の墓・足利茶々丸の墓・茶々丸首洗いの池などがある場所 伊豆の国市韮山町寺家83-1

香山寺

Dscn0214頼朝に打たれた「平兼隆」の寺。頼朝の旗挙げの際、真っ先に血祭りに挙げられた平兼隆(法名は香山寺殿興峰兼隆大禅定門)を祀る寺である。境内には兼隆供養塔や室町時代の六地蔵石憧という石塔などが残り、アーチ状の山門は明治のころ存在した伊豆国生産会社の門を移築したものである。場所 伊豆の国市韮山町山木868-1

山木判官平兼隆館跡

Yamaki 1180(治承4)年8月17日の夜、折しも三島明神の例祭で山木館の郎党が祭に出かけ手薄になるのを見越して頼朝は兵を挙げた。一行は真夜中に北条館を出発、牛鍬大路を通り先ず多田館の堤信遠を討ち取ってから、天満坂を越えて山木館へと向かった。山木館も激戦の末ついに陥落、平兼隆は加藤景廉によって討ち取られた。
 館にかけられた火は、北条館で今や遅しと戦勝を待ちわびる頼朝へ勝利を知らせるとともに、源氏再興の狼煙となった

真珠院

Dscn0885Dscn0889頼朝との悲恋の人、「八重姫」の寺。中世に始まる曹洞禅林としての真珠院は、歴代の住僧たちによって、近隣の寺を末寺として取り込み 壮大な寺院に発展した。
 山門を入ってすぐ右側には八重姫(静姫)の供養堂がある。伝承によれば、頼朝のあとを慕って伊東から山を越え北条館を訪れた八重姫は、頼朝の心変わりを知り、この寺の前にある真珠ケ渕に身を投じて果てたという。場所 伊豆の国市韮山町中条2

成願寺

Photo源氏再興の悲願を胸に、若き頼朝は三島明神への百日詣でに通う道すがら、折にふれ原木にある餅売りの媼の店に立ち寄った。媼は不遇な源氏の御曹司を励まし、時には蛭ケ小島を訪れ餅を献じることもあったという。1180(治承4)年8月、頼朝は兵を挙げ平家を倒して鎌倉幕府を開いた。頼朝は旧恩を忘れず、媼を訪ね「何なりと望みをかなえよ う」と言ったPhoto_2ところ、媼は「私は老い先短いので、阿弥陀仏を拝んで余生を送りたい」と願ったという。頼朝は早速阿弥陀仏を与え、一寺を建立して媼の望みをかなえてやった。成願寺は媼の「我が願い成る」と喜んだ言葉を寺号としたものである。本堂に向かって左側に餅売媼の墓がある。場所 伊豆の国市韮山町原木158

  「成福寺

Photo_7北条氏ゆかりの蓮の寺。鎌倉幕府8代執権・北条時宗の第3子正宗(幼名満市丸)が、鎌倉幕府滅亡の年、1333〔正慶2)年に北条一族の菩提を弔うために一宇を建立したという。正宗の長子・宗仁がこれを修造し成福寺となった。本堂北側には北条一族の供養塔がある。境内には世界中から集められた200種・300鉢の花蓮があり、毎年6月中旬から8月初旬の早朝Photo_6から午前中にかけて開花し見学者で賑わう。伊豆の国市韮山町四日町981

2008年4月28日 (月)

【ぶらり香貫(かぬき)・静浦13】

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19-2【江の浦横穴群

Photo 鷲頭山の南の斜面に古墳の一種である「横穴群」がある。
この「横穴群」は昭和22年以来何回か踏査されているが、残念ながら正式な発掘調査は行われていない。昭和50年、市教委により正式な分布測量調査が行われ、92基の横穴が確認されるとともに、上方に横穴式石室をもつ4基の円墳があることも判明した。
Photo_2 横穴とは、石室を岩に掘り込んだ古墳時代の墓の一種で、市内ではこの地域に特徴的なものだが、埋葬された当時の人々の集落は発見されていない。横穴の大きさは、開口部が50㎝~1m前後、奥行きが1~3m前後程のもので、凝灰岩をノミのような道具でほりこんで作られている。横穴の壁面をよく観察すると、ノミで削った痕跡を見ることが出来る。このPhoto_3 横穴群が造られた時代は、出土した須恵器から古墳時代の終わり頃と考えられ、直刀片(ちょくとうへん)や人骨が発見されたとも伝えられている。このような横穴は、尾根を隔てた多比にも24基の横穴群の存在が確認されているほか、市内香貫山(霊山寺横穴)・内浦(三津横穴)等にも見られる。また、函南町柏谷(かしや)や伊豆の国市の北江間にも大規模な横穴群が見られ、ともに「国指定の史跡」となっている。

沼津アルプス

Alupsmap1香貫山から、南へ横山、徳倉山、鷲頭山、大平山と続く山並みは、別名沼津アルプスと呼ばれ、人々に親しまれています。五山七峠を越える長いコースですが、富士山をはじめ伊豆、箱根の山並み、駿河湾の景観が楽しめる展望コースです。香貫山からの南進コース、志下峠から富士山を眺めながら の北進コースがあります。

香貫山(193m)沼津登山東海バス4番線「霊山寺」下車。久保町自治会館が登り口となり、約20分で香陵台に着きます。桜の名所でもあるこImg_0370_4 の場所には、沼津を愛した若山牧水の歌碑があり、香陵台から約30分で山頂へ。「芝住展望台」より富士山、愛鷹山、箱根連山、伊豆天城の山々、沼津市街、千本松原から海岸線が一望できます。

横山(183m)沼津登山東海バス4番線 「八重坂」下車。八重坂峠を越え、細い急な尾根を登り切ると横山の頂上に着きます。潅木の中なので展望は良くありません。

Photo_8 徳倉山(256m)沼津登山東海バス8番線「香貫台入り口」下車。徳倉山を東側から見ると象の形に見えることから、通称「象山」とよびます。
香貫台住宅の山寄りに登り口があり、香貫台を経て頂上(象の頭)に着くとここからの、富士山と沼津市街、大平、徳倉側の展望は良好です。
歩程は約2時間。

Photo_9 鷲頭山(392m)沼津登山東海バス6番線「大平山口道」、伊豆箱根バス7番線「多比」、沼津登山東海バス8番線 「多比」下車。大平の大井公民館の前から山道となり、志下坂峠からはしばらくは起伏の少ない尾根道 を歩きます。峠から南への尾根は海の展望が抜群。志下峠からは、中将宮へ寄りながら急登。小鷲頭山よりの眺望は素晴らしい。

大平山(356m)鷲頭山を下り、多比峠、多比口峠を越えると大平山のPhoto_7山頂に着きます。
大平山から先は山口峠、吉田峠を経て大平新城に下りれます。鷲頭山からの歩程は約50分。

2008年4月27日 (日)

【ぶらり香貫(かぬき)・静浦13‐0】

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19【旧414号沼津土肥線のトンネル

今から40年ほど前の大学生だった時の夏休み、母親の実家の牛乳やのアルバイトを毎年やっていた。静浦の学習院遊泳場に牛乳を配達し、獅子浜と三津の販売店に毎日トラックを運転して牛乳を数十ケ ース届けていた。当時は木の箱に牛乳瓶が50本くらい入って1ケースだった。出発前に氷を箱と牛乳瓶の間にびっしり詰め込みクーラーも無い車で真夏の静浦街道を運転していた。当時の道路は今に比べたら半分くらいの道幅渋滞渋滞で三津に着く頃は氷も殆ど解けていた。海水浴シーズンは半日掛りの行程だった。特に混んだのがトンネルの付近何せ片方が通ればもう一方は手前で止まっていなければならないし、トンネルが数多くあったので走らない時間が殆ど、汗びっしょり、強烈な記憶が残っていたので、今回昔のトンネルはどうしなったか気になり旧道探索してみた訳です。

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トンネルとして残っている沼津から最初にある「江の浦隧道」このトンネルの向こう側正面は静浦ドックでした。トンネルを抜けると急な左カーブだった記憶です。現在414号はトンネル左に有ります。見事に山を削ったものですね。

Photo_6 トンネルの名前は残念ながらわかりません。40年前このトンネルは対向車がチョット大きいと中では車すれ違いが出来ず~のトンネルでした。中を走ってみましたが狭い、路面は使っていないせいかボコボコでした。この道路は当時は「沼津土肥線」といっていたと思います。

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3番目のトンネル「旧多比隧道」は石造りのいかにも古い顔を残し、当時の雰囲気そのままの感じです。近くの方がトンネルを歩いておられましたが今も生活道路の一部になっているのでしょう。道路路面もトンネル内部も綺麗に維持されているようです。この先414号に出た次のトンネルが現在の多比隧道です。旧多比第2隧道は歩行者用になっていてトンネル東   出口で一緒になっています。

Photo_8 昭和35年の竣工と結構古い隧道である。口野トンネルの県道が一般国道414号へと昇格したのは、昭和56年のことである。このトンネルを出ると二又になっていて「三津」に行くには右方向に進みます。左に行くと江戸時 代の絵図にも描かれている「長塚の切り通し」を通り伊豆長岡・韮山に続いています。この切り通しは三島・田方の年貢米を大八車で口野(塩久津)Photo_9まで運び船で運んだ重要な街道だったようです。

414号ではありませんが三津まで向かう街道には古いトンネルがいくつか有りますので載せておきます。

Photo_10 Photo_11重寺隧道」大正初期の隧道といわれている。

「三津坂隧道」竣工は天城トンネルより8年早く明治29年という。近くのNPOの方々が保存活動に取り組んでおられるようですね。

2008年4月26日 (土)

【ぶらり香貫(かぬき)・静浦12】

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16【牛臥海岸Dscn0911 Dscn0914 Dscn0910

昔牛臥海岸一帯は立派な住宅や別荘が多く有りました、遠浅の砂浜は海水浴に最高の所でした。いつの頃からか塚田川の汚れや悪臭のほうが有名に成ってしまい海水浴も出来なくなっています。最近は徐々に整備が進み環境が整いつつあります。ウインドサーフィンのメッカにもなってきました。今日も若者達が風をいっぱいに受け水面を疾走している姿がありました。

Dscn0912 Img_0348 沼津【牛臥山公園】オープン 沼津市が整備を進めていた牛臥山公園が08年4月2日オープンしました。かつては大山巌陸軍大臣の別荘や東急バンガローなどがあった所で駿河湾や御用邸、大瀬崎まで一望でき、眺望は素晴らしい所です。御用邸から~牛臥山公園~日緬寺~芹沢文学館~我入道渡し~魚市場~とても良い海浜コースに成りましたね。今週の休Nc46 日などは大勢の家族ずれが訪れています。

Img_0464 Img_0322 17【島郷海岸

沼津市の駿河湾,御用邸記念公園に隣接している。古くから学習院の遊泳場として開け公園前から約1.5キロにわたって砂浜が広がり、遠浅のファミリー向けの海水浴場として人気があります。松原越しに富士を眺望する景観は素晴らしく、海岸線は「渚百選」に選ばれています。御用邸の西側は島郷の海です。左手遠くに淡島、静浦三津方面、反対側は牛伏、我入道方面に成ります。遊歩道や海岸も整備され散歩には最高です。将来魚市場や千本浜までずっと続く遊歩道があったら良いですね。途中芹沢光治良文学館、若山牧水記念館、井上靖、明石海人文学碑等がある文学の道渚ウォークなんて洒落てますよね!

18【御用邸記念公園

Img_0321 沼津御用邸は明治26(1893)年、大正天皇(当時は皇太子)のご静養のために造営されました。 御用邸は皇室が主として保養のために用いる別邸で、いわばリゾート施設です。当時、このあたり一帯は楊原村と呼ばれる小さな漁村でしたが、気候が温暖なうえ、前面には駿河湾、背後には富士山という風光明美な地であることから別荘地として注目されはじめImg_0323 て、すでに大山巌(陸軍大臣)、川村純義(海軍大臣)、大木喬任(文部大臣)、西郷従道(陸、海軍大臣)の別荘が建てられていました。彼らはいずれも明治政府の高官です。川村純義伯爵が後に皇孫殿下(昭和天皇と秩父宮殿下)の養育係になっていることを考えると、この4人の存在が御用邸設置に大きく影響したものと思われます。加えて明治22(1889)年Img_0394 に東海道線が開通して、東京からの交通の便がよくなったことも理由の一つにあげられます。 沼津御用邸は、明治、大正、昭和の三代、七十七年間にわたり、天皇皇后両陛下や皇族の方々のご利用の機会に恵まれてきた。特に、歴代の天皇皇后両陛下、皇太后陛下のご利用日数は、のべ五千日以上にも及び、同時期の他の御用邸にくらべても最もご利用のPhoto 頻度が高かった。  これは沼津の地が気候や風土、景観や交通など、様々な面で条件を備え、愛されてきたことの表れということができる。(HPより)

2008年4月25日 (金)

【ぶらり香貫(かぬき)・静浦11】

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15【我入道Photo

我入道の地名の由来は、日蓮上人がこの地を過ぎる際「我れ道に入る」といったことからと伝承されています。なんだか不思議な物語がありそうですね。Photo_2

芹沢光治良」はここ我入道で生まれた。網元の次男だったが、5歳の時父母が天理教伝道のために家を捨て、祖父母とともに叔父の家に寄寓、学費援助を他人に仰ぎながら、学業を続けたという。木立ちの中のしゃれた洋館だった。1970年の創立。鉄筋コンクリート2階建ての4隅の小展Img_1223 Photo 示室には、全著作、遺品などが展示されている。芹澤光治良は毎年ここを訪れ文芸講演会を開いたという。孤絶の碑  我入道海岸に芹澤光治良文学碑が二つ建っている。この碑には「ふるさとや 孤絶のわれを いだきあぐ 八十五翁 光治良」と刻まれている。風に鳴る碑正面  「幼かりし日 われ 父母にわかれ 貧しく この浜辺に立ちて 海の音 風の声をききて はるかなる とつくにを想えり 一九六三年 光治良」と彫られている。幼少時の貧窮、青壮年期の病苦を乗り越えて、光治良は96歳の天寿を全うした。

Kanogawa_mao Img_1526我入道の渡し」全国的に姿を消しつつある、渡し舟。庶民の足として身近な交通機関であった渡し舟は、かつて、市内を流れる狩野川でも利用されていました。河口付近で運行されていた我入道の渡し舟は、昭和46年まで続き、港大橋の完成でその役目を終え廃止となりましたが、平成9年4月に復活いたしました。千本浜から志下海岸までの、水辺を歩く文学探訪の道「潮の音プロムナード」。そこに彩りを添える我入道の渡し舟。情緒たっぷりのこの渡し舟に乗ってみませんか。「航 路」 蓼原町地先~我入道東町地先~あゆみ橋「料 金」小学生50円、中学生以上100 円

Photo_3八幡神社」由緒、創立は詳かでない。狩野川の河口に御鎮座しているため、海上安全・大漁満足の御利益を御祈願し、海の守り神として祀られている。我入道の総鎮守・氏神さまとして地域の安泰と発展の為また氏子住民の家内安全・生業繁盛の為に厚い崇敬を集めている。九月一日例祭日 場所 沼津市浜町

2008年4月24日 (木)

【ぶらり香貫(かぬき)・静浦10】

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14【安政時代の古民家】こんな近くに「立派な古民家」があったなんてチョットびっくりですImg_0383 ね。近所のお年寄りと話しているなかに「香貫にも古い家がまだあるんですよ」こんな話題になりました。どの辺りに在るんですか、尋ねてもはっきりわかりません。何か近くの目安を知りませんか、これまたわからずでした。仕方がないので他の地区の方にも聞いてみようと車を走らせました。そのお宅は「昔から大きな農家でしたよ」の言葉を信じ畑の広い地区を中Img_0387 心に探し始めました。下香貫で昔からの家並みがある所や、昔の細い道、あっちこっち~塩満の細い道で向こうから軽トラがやってきます~車すれ違い出来ない!と思ったらスッと手前の門に消えました。丁度いいのでその方に「この辺に大変古いお宅がありませんか?尋ねてみました。「Yちゃんちの事だら~」知っていたんです。道路に石ころで地図まで書いImg_0385 てくれました。1000mくらい離れている所のようです、早速行ってみる事にしました。

Yさんのお宅に伺いご主人にお話を伺った所、この建物は【安政の地震直後に建てたもの】だそうです。屋根は瓦のように見えますが実はトタンで Img_0393 瓦に似せて一つずつ作ってあります。本来茅葺きの屋根ですが葺き替え等大変なのでトタンで作った瓦もどきを被せてあるそうです。小石を屋根に投げカランという音まで聞かせてくれました。遠くから見れば本物の瓦にしか見えませんね。釘などは一切使っていないそうですし、家の中の柱の太いこと、光沢のある廊下や梁さすが「150年以上」たっても丈夫そうImg_0390な木材でしっかりしています~しばし見とれていました~

Yさんは他にも道祖神やお地蔵さんまで管理されているんです。この地蔵さんは風邪をひいたとき頭を撫でてやると熱が下がるとか、こちらは大昔四国巡礼した人たちが立てた碑だとか、教えていただきました。近くにバImg_0391イパスが通るので自分の家まで100mほど移動し祀ってあるそうです。Yさんのような方 がいるから、大昔からのお地蔵さん達も安心してこの地にいられるのですね。今日はいいお話と素晴らしいお家を見せていただき感激でした!

2008年4月22日 (火)

【ぶらり香貫(かぬき)・静浦9】

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13【沼津414号近くの神社】

玉造神社】沼津市の狩野川にかかる黒瀬橋(香貫側)のすぐ東にある【玉造神社】今かPhoto ら1000年前に建立され、香貫地区では楊原神社・大朝神社と共に由緒ある神社です。玉造郷は一千年以上の昔 平安朝初期に伊豆と駿河の国境として狩野川の辺り香貫山麓一帯を指し玉造部氏族が住んでいた集落跡と言われています。玉作部は朝廷に貢納する丸玉や服飾用の勾玉管玉等を造る職業的部民で古代において祭祀用には欠くことのできない重要な役割をもった氏族でありました。全国に数少ない玉造郷として諸文献に記載されているとの事です。場所 沼津市黒瀬町

楊原神社】創建時期は定かではない。当初は現在地より東南東に500メートルほど離れPhoto_2 た、現在の沼津市楊原の地にあった。牛臥山の麓の大朝神社(沼津市下香貫牛臥)と共同で例祭を行うなど密接な関係にあることから、大朝神社が奥宮、楊原神社が里宮という関係にあったものと見られる。すなわち、牛臥山の麓に住んでいた人々の一部が楊原の地を開拓して移り住み、その地に牛臥山の遙拝所を設け、参拝者が増えたことから社殿を設けて【楊原神社】となったということである。上香貫・下香貫・我入道の総鎮守とされ、古くは大Photo_3 宮大明神、または香貫大明神とも呼ばれていた。国史の初見は、『日本三代実録』貞観元年1月17日条の従五位上の神階を授けられたという記述である。延喜式神名帳で伊豆国田方郡唯一の大社(名神大社)に列せられている。『伊豆国神階帳』では「従一位やきわらの明神」と記されている。最盛期には五百石を寄進され、社家が30余りあったといわれる。戦国時代に兵禍に遭って社殿ほかを焼失し、天正18年(1590年)、現在地に再建・遷座された。明治8年2月に郷社に列した。例祭は真冬の1月、楊原神社・大朝神社共同で行われる。両社の神輿が大朝神社近くの我入道浜に渡御し、神輿をかついだまま海の中に入る「御輿洗い の儀」が行われる。場所 静岡県沼津市下香貫宮脇335

大朝神社】沼津牛臥山北東麓に鎮座する。寛保3年(1743)造営 江戸時代は[山宮][潮Photo_4  留明神」と称していた。古くから山宮と称せられていた。古代はじめてこの付近に上陸して土地を開拓した人たちが、牛臥山の美しい山に神の山としてこれを拝祀したのが当社の起原であつたと思われている。祭祀等が式内の楊原神社と全く共通であり、両社の結びつきが深い。本来は楊原神社の「奥宮」的なものであったのではないかといわれる。場所 静岡県沼津市下香貫字山宮前3056

Photo_5志下八幡宮】由緒及び創立の年月は詳かでないが、宝暦六年(1756)再建される。明寺八年(1875)村社となる。大正十四年(1925)に現在の社殿を造営した。地域の氏神様として地域の安泰と発展、氏子の家内安全と生業繁栄の為に祀られ厚い崇敬を受けている。場所 沼津市志下365-1

住吉神社】県の無形民俗文化財である伝統の儀式「水祝儀」江戸時代中期から伝わるという行事は、前年までに結婚した花婿と保証人に当たPhoto_6 る「添婿(そえむこ)」が、青年会や自治会役員と御神酒を酌み交わし、花婿が一人前と認められると、古来からの「祭礼歌舞(さいれいかぶ)」が境内で始まりますこの踊りは、長じゅばん姿にひょっとこのお面をつけた青年たちが、花婿を囲んで輪を作り、祝い歌に合わせて踊ります。
最後は、踊り終えた青年達が石段の上で水の入った樽やバケツを構 え、下に陣取る花婿と添婿を呼んで「いらっしゃい」「さあさあ早く」とけしかけ、花婿たちも階段を駆け上がっては引き下がり青年達を繰り返し挑発します。花婿と添婿全員が石段を登ったタイミングを見計らって、青年達が一斉に樽の水を浴びせ祝います。    場所 沼津市江の浦

2008年4月21日 (月)

【ぶらり香貫(かぬき)・静浦8】

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12【香貫414号近くの記念碑・墓碑

Photo_2若山牧水」大正9年8月、一家を挙げて沼津に移住し香貫山の麓の借家で過ごした時期がありまり香貫山中腹の香稜台には牧水の記念碑「香貫山いただきに来て吾子とあそび久しくいれば富士晴れにけり」があります。又車で10分程の距離にある本城山公園(戸倉城址)にも記念碑が立っています。

芹沢光治良」1896(明治29)年5月、楊原村我入道に生まれる。生誕地沼津市我入道に記念碑が有ります。1963(昭和38)年、沼津我入道海Img_1221 岸に文学碑が建立され、1970(昭和45)年我入道公園内に芹沢文学館が建設される(財団法人「芹沢・井上文学館」設立)。そして1980(昭和55)年、名誉市民。1993(平成5)年、3月23日永眠。墓地は上香貫の沼津市営墓地に祀られています。

Photo植田内膳」内膳の偉業を顕彰するため昭和3年(1928)11月、香貫山香稜台に頌徳碑が建立されている又狩野川近くに堀の取入口碑があり、414号下香貫南駿農協前にも記念碑があります。墓地は上香貫本郷町霊山寺にあります。

井上靖」母校沼津中学(現沼津東高校)跡地に建っている市民文化センター館内壁面に記念碑があります。

2008年4月20日 (日)

【ぶらり香貫(かぬき)・静浦7】

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11【静浦・江の浦の寺

Img_0267 臨済宗【釣月寺ちょうげつじ】文明8年(1478)石室禅師により、真言の道場として開かれ、伊豆韮山、国清寺の末となり、慶安2年(1649)準開山、雪嶺(せつれい)和尚により、中本山、興津清見寺末となり、京都妙心寺末の現在に至っています。延宝3年(1673)火災に遭い、3世高巖(こうげん)和尚は民家を離れた渓間の地に移り、正徳5年(1711)4世臠水Img_0271 (ばんすい)和尚が本堂を再建しました。明治3年には台風で倒壊、長く仮本堂で過ごし、昭和35年俊道和尚が本堂を再建しました。 江戸時代までは、末寺として志下に長泉寺、下香貫塩満に霊光院、地蔵堂、馬込に観音堂があったが、現在では、観音堂のみが残っております。いつも車で混雑している国道414号線から山側へ入り、曲がりくねった道を抜け、門Img_0269 の如く立っている2本の榎(えのき)の間を上がると、正面の高台に本堂があり、後ろには、山号となった鷲頭山へ続く峰が寺の三方を囲んでいます。昭和20年代初めまで、境内には大きな木々が茂り、石段を登ると小さな山門があり、山寺という風情でした。現在では保育園があり、昼間は小さな園児が、元気よく走り回っております。夜、山の端から月が出ると、庭の池に月が映り、月を釣るという寺名にふさわしい景色が見られます。

Photo_8 日蓮宗【本能寺】この地所有の町田家が、大本山本門寺(開山日興上人)の第4世日蔵上人を招き、応永21年(1414)に開創された。開山日蔵上人は、宝永27年103歳にて遷化された。爾来、北山本門寺の歴代貫主上人の隠居寺となる。寺領3石。永正9年、「京都将軍家御朱印申伝」がある。
 Photo_9 永禄年中に徳川家康が駿甲両国の戦いにつき、日出(にっしゅつ)上人(北山本門寺9世)に天下泰平の祈願を命ぜられたときに、争乱の北山本門寺より日蓮大聖人の生御影(しょうみかげ)尊像を当山に移し、祈願を執行したという由緒がある。祈願の地に小堂があり御堂屋敷と呼び、五輪の堂塔が残存しており、今日でも毎月末に供養会が行われている。北山本門寺歴代隠居寺であったため、歴代上人の手簡、家光公の章書等の古文書、そPhoto_10 の他什宝、数多く秘蔵してあったが、宝暦元年(1751)6月25日の大雨による山津波が押し寄せ、客殿、庫裡が三つに割れるという大災害を蒙り、宝物等の多くを流失してしまった。また、当時の境内はもと「獅子浜城址」であり、初めは今川、後に北条の領有するところになった。小田原の武将「大石越後守」は、当時七浦(7区)を領して当寺に拠ったが、天正18年小田原陣の時に退去した。城の規模は、本城、出城、見張所に分かれ本城が当山の境内に当たり、見張所は現在でも城山と呼んで、当寺有の山林である。


Img_0245 曹洞宗【楞厳院りょうごんいん】駿河湾の奥、静浦海岸を臨む地に立地しております。
 開創は鎌倉時代始めと云われており、本尊虚空蔵菩薩からもわかりますように、真言宗に属する寺院であったことがうかがえます。現在の曹洞宗に属することになったのは天正年間の事であり、開山より数えて現在Img_0248 は19代になります。当山入口のところに石柱「選佛場(せんぶつじょう)と書かれた碑が立てられております。これは当山が江戸時代末期には専門僧堂を持ち、学僧修行の道場として栄えた寺院であることを証明しております。また、当山山門脇に、白杉(びゃくしん)が植えられております。これは天正年間、伊 Img_0247 豆大瀬大明神(おせだいみょうじん)から流出し獅子浜の海岸に流れついた、3本の白杉のうちの1本といわれております。当山は江戸時代および明治初期の2度にわたって堂宇を焼失しておりますため、古文書はほとんど残っておらず、白杉の来歴も、申し伝えで伝えられているのみです。ただ大瀬大明神には白杉の流失についての記述が残っているとのことのようです。なお、当山付属の堂宇に地蔵堂があります。漁業が盛んであった当地では、網引き地蔵とよばれ、漁業関係者の厚い信仰をあつめたと伝えられいます。現在の本堂は、昭和5年に工事にかかり、6年に完成をみた、破風様式の本格的寺院建築であります。沼津市獅子浜47

Photo_11 臨済宗【照江寺しょうこうじ】照江寺は、金岡村中沢田岡田家25代善右衛門の弟相善が出家して涼室和尚となり、周天和尚を開山と仰ぎ、慶長2年閏5月12日現在地に寺院を創建したことに始まります。中沢田を支配する岡田家が江浦に寺院を建立したのは、岡田家と江浦七人衆がともに武田家の家臣であったため実現したと思われます。周天和尚は、慶長3Photo_12 年2月、伊豆修善寺より弘法大師一刀三礼の作と伝えられる大日如来像を迎え、寛文11年11月、涼室和尚によって境内に大日堂が建立されました。照江寺は、後ろに山を背負い、前に江の浦港を見下ろす誠に風光明媚な佳観の地であります。また、江の浦港は三面山をめぐらし、水深く波穏やかにして、西風北風を避ける避難港として古くから知られておりPhoto_13 ます。それ故、当山を愛する文人墨客も多く訪れています。嘉永7年には、11月4日下田港に停泊中のロシア船ディアナ号が地震で大破し、12月2日修理のため近隣の漁船200艘が船を引いてへだ港に向かう途中、大風にあって原一本松に漂着して助けられましたが、内一艘が江の浦港に避難し、乗船していたロシア人18人と役人など合わせて20名が当山に止宿しました。照江寺は、弘法大師がお作りになられたと伝えられる大日如来を奉安していることから、早くから近隣はもとより、江の浦港に出入りする県内外の道俗の信仰を集めてまいりました。大日如来は秘仏で、戦前は33年に1回御開帳を行っておりましたが、戦後は10年に1回行っております。沼津市江の浦70

Photo_14 臨済宗【江月寺】開創は、後白河天皇の御宇、保元の頃とされています。古儀真言の僧、違良が化行得道了後、伊豆権現石廊権現へ参篭し、後、当境に来地。後峰の峻山を望見し 「此山、印度霊鷺山の壱峰に髣髴たり」 として、このことから鷲頭山と名付けたそうです。峰項に十一面観音を安置し、前面の金桜山を眺望し、塵俗を離れたこの地を、仏縁行者閑棲の地となし、当境に庵室を結び江月庵と称しました。その後、花園法皇の御宇、文明年中、当国の太守今川範忠が禅法帰依したことに憑て、当山を改宗し、禅宗の臨済宗となし、鎌倉円覚寺派となりました。明応の末年、今川義元の伯父雪斉和尚、則宝珠護Photo_15 国禅師の会中桂叟仁を当山住持に迎え、清見寺の末寺となり、後に京都妙心寺派下となりました。旧堂宇は、豆州田方郡仁田村 (現函南町)の旧家を買い求め造築しましたが、老朽化により、昭和49年2月から着工し同年9月に本堂、及び書院、庫裡を完成しました。参道から階段を登ると、境内入口には平成11年9月に願主 (飛田嘉一氏) により、多比龍雲寺 (霊音軒老大師) の揮豪による寺標が建立され、禅寺の風光も一層した景観を保持しています。沼津市多比152

Photo_19 臨済宗【龍雲寺】往古は京都嵐山の天龍寺開祖夢窓普済国師(疎石・そせき)が南北朝時代初期に草庵を結んだ地で、天文(てんもん)年間(1532~1558)は龍雲庵または龍雲院と号し、宗玄(そうげん)和尚が住持(しゅうじ)した事が古文書で明かとなっております。開祖より宗玄の時までの約800年間の寺暦を伝える資料類は何もなく、龍雲庵および龍雲院の創立年月も定かではありません。寺記によれば、「今川家の一族」と伝えられる開基、龍光院殿大円登雲大居士から判物を与えられたと推測され、その判物により天文21年(1552)9月、葛山備中守氏元(くずやまPhoto_21 びちゅうのかみうじもと)より龍雲庵宗玄に、龍光院殿の香花所として棟別諸役の免許を与えられました。その後、永禄(えいろく)3年庚申(1560)、本山西堂和尚が来て一宇を造営し、大円山龍雲寺と改称されました。今川家並びに葛山氏没落後の永禄後期から天正期にかけては、相模北条氏の特別の庇護を受けていたものと推測されています。よって、夢窓普済国師を開山とし、龍光院殿大円登雲大居士を開基とし、本山西堂和尚を中興の祖としています。沼津市多比331

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Photo_16 臨済宗【桂林禅寺】開創は、天正17年3月、武田家頭穐山信桂殿、家来と共に隣村口野寶泉寺に預け置く先祖の御霊を、居住地である当地へ寺を建立して、安置し祠りたいとの請願を発し、慶長元年の春、 渓妙屋西堂和尚を開山に迎えて桂林寺を創建。尚、開山渓和尚は、その年10月15日示寂、世壽法臘等に就いては不詳。開創は、天正17年3月、武田Photo_17 家頭穐山信桂殿、家来と共に隣村口野寶泉寺に預け置く先祖の御霊を、居住地である当地へ寺を建立して、安置し祠りたいとの請願を発し、慶長元年の春、 渓妙屋西堂和尚を開山に迎えて桂林寺を創建。尚、開山渓和尚は、その年10月15日示寂、世壽法臘等に就いては不詳。当山草創期に関する詳しい経緯は、明治29年1月、穐山家秘蔵の古文書にPhoto_18 より明らかになったとの事です。そこで同年11月1日開山300年遠緯を営むに当り、開基法号桂峰明林居士へ月高院と追贈をし遺徳に報いる事としました。その後住職不在中、清水宗閑尼入寺し、老朽化した庫裡の再建を東海寺鈴木子順老師や今井大順師らの扶けを得て檀徒一致協力これを完成、昭和38年清玄和尚、200余年を経た本堂を再建その後 逐次境内整備を行いつつ現在に至っています。御本尊向って左に祭られている毘沙門天は当山に対面する山懐のお堂に祠られてあったが、そこが博打場となり、藩主水野氏によって取り壊しの命を受け、毘沙門天を当寺へ移して祠ることになったそうです。寺宝の一つ、「白隠禅師による隻履達磨図」は当地域を巡錫の折、揮毫されたものとして伝わっています。

「沼津仏教會HPより」

2008年4月19日 (土)

【ぶらり香貫(かぬき)・静浦6】

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10沼津【香貫(かぬき)の寺

Img_1240 本門法華宗【正見寺】延慶2年(1309)大本山長光寺開基、日法聖人の弟子、日授上人によって精舎(しょうじゃ)を黄瀬川、堂下の地に創建されました。永禄3年(1560)日造上人の時、黄瀬川から沼津大門町の高台に再興し、慶長年間(徳川家康の時代)沼津城主・大久保忠佐公が堂宇を建立、日造上人の金襴(きんらん)九条の袈裟(けさ)は忠佐公の陣羽織とImg_1242 能装束をもって作られたもので、これは忠佐公の子息、忠兼(ただかね)の早世によりその菩提を弔うために寄進されました。徳川将軍に宇治茶を献納する茶壺行列は大名に準じた格式をもち、その警護も極めて厳重でありました。沼津の宿では正見寺にこの茶壺が格護されたのであります。延宝2年(1674)代官、諸星庄兵衛、野村彦太夫、当山検地の折、宿Img_1243 泊費と4反5畝(せ)14歩が給されております。戦災都市復興計画のため境内地が縮小され本光寺は千本、正見寺も当時、市内で一番の繁華街の町寺を去ることになりました。江戸時代・明治・大正・昭和の36年迄約400年の寺歴を持つ大門町から同年10月4日、県の許可を受け現在地に約4000坪の境内地を求め、本堂・庫裡・僧堂・梵鐘・山門等の伽藍(がらん)を再興し今日にいたりました。沼津市下香貫八重46-1 

Photo 日蓮宗 【塩満寺】この地の一士族、後藤修理之介(ごとうしゅりのすけ)が信仰のために結んだ庵に、實行院日用上人を招いて開山し、後に沼津・妙海寺18世・好要院日窓上人(こうよういんにっそうしょうにん)(当山3世)が、堂宇(どうう)を修理再興したものと伝えられています。本堂前庭には榧(かや)の大木がありますが、昭和8年出版の『沼津市内における老樹名木調』の文献には、樹齢およそ500年と記載されていますので、樹勢盛んなれば当然、天然記念物と呼ばれるものと思われます。場所 沼津市下香貫林ノ下1989

Photo_2 日蓮宗【妙蓮寺】正長元年(1428)1月28日、室町時代に三島市玉沢の本山妙法華寺(みょうほっけじ)、第8世住職、覚真院日英上人によって開基されたもので、第2祖栄松院日妙(えんしょういんにちみょう)上人によって栄松山という山号が授けられました。当山は570年経ち、現住職は39代目に当たります。妙蓮寺墓地の入口に保管されている凝灰岩(伊豆石)の刳抜石棺(くりぬきせっかん)で、もと楊原(やなぎはら)神社近くで発掘され、楊原小学校(現第三小学校)に保管されていたものが、同校移転に伴い転々として、現在地に保管されたものという。付近にあった宮原古墳群(6世紀後半)のものといわれている。沼津市下香貫林の下1875

Photo_3 臨済宗【島上禅寺】文禄3年(1594)に、永明寺の伊渓和尚によってこの地に開かれました。当時多くの寺があったとされる狩野川の堤(昔、蛇松があった辺り)から狩野川を挟んで我入道の地先まで、地続きであったのかも知れません。先の大戦で全焼したため、当寺の沿革は詳らかではありません。しかし、この頃より島上寺は我入道地区唯一の寺として、薬師Photo_4 如来の祭典等地元の人々の信仰に支えられ、近くに取り残された釈迦院を兼務しつつ、現在に至ります。島上寺の墓地に乗運寺16世應譽(おうよ)上人の墓石が残されていることでも偲ばれます。沼津市我入道浜方310-3

Img_0336 立正宗【日緬寺】日蓮聖人が伊豆の伊東に流された時、この浜(我入道海岸)の現在日緬寺に移され岩に船を繋いだと伝えられ、昭和19年12月8日当山開創結城日恒上人がここに祖師堂を建て、身延山久遠寺83世(1865-1943)法主一乗院日謙上人が開山となって最も新しい形式で最も古い「法華経」の信仰宣布の道場として建立されたお寺です。
 境内には、日本では珍しい日本唯一の酒塚があり、宝暦8年(1758)岡山の人飛山長左衛門氏が建立したものです。昭和52年より県下最初の動物霊園を開設、火葬から供養埋葬まで多くのペット愛護者のお詣りが後を絶ちません。沼津市下香貫牛臥3056

  
Photo_5 曹洞宗【興福寺】400有余年前、天正2年(1574年)に寥外尊廊(りょうがいそんろう)大和尚が今の地を開拓し庵に住したのが、始まりであると伝えられます。その後、現在の興福寺として開山されたのは永平寺16世の法孫智外察大和尚の時であり、地元の侍大将原川伝右衛門の寄進により建立されたものであると伝えられています。
Photo_6  開基である原川氏は現在の袋井市にあった原川城の城主で、その武勇は遠州に原川兄弟有りとまで言われました。徳川家康の遠州攻略の際、多くの武将たちが主君今川氏真(いまがわうじざね)に見切りをつけ徳川に寝返るのをよそに掛川城に籠城、奮戦も虚しく落城、その後海路を辿り静浦の地に落ち延びて来たと伝えられます。昭和5年に改築された木造Photo_7 の本堂には彫刻や丸柱が残り、当時の建築様式が偲ばれます。
 また、古くからの漁村である土地柄もあり、漁祈祷や金物除けの御礼を求めに訪れる船主の人々も、後を絶ちません。
 尚、8月23日の地蔵盆には、地蔵尊の大祭が行われ、門前は人々で賑わいます。沼津市志下60

「以上沼津市仏教會HPより」

2008年4月18日 (金)

【ぶらり香貫(かぬき)・静浦5】

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9【香貫古戦場

414号の香貫一帯は武田と北条の「古戦場」があった地区と伝えられています。「北条五代記巻の七、駿河海にて船軍の事」の記述のようにこの地区の激戦を述べている。「見しは昔。北条氏直と武田勝頼戦ひの時節、駿州の内高国寺と三枚橋は勝頼の城也。泉頭、長久保、戸倉、志師浜、此四ヶ城はするかの国中たりといえ共、先年今川義元時代、氏綱切て取しより以来、氏直領国となる。義元、信玄時代、此するか領を取返さんと遺恨やんことなしといへ共、ついに叶わず。沼津の浦つつき、香貫、志下、真籠、志師浜、江浦、田飛、口野、此等浦里もするか領、氏直持也。・・・・・然に天正八年の春勝頼駿河に出陣す。氏直も伊豆の国へ出馬し、三島にはたを立たたかひ有。重須の兵船、駿河海へ働をなすへき由、氏直下知に付て、毎日駿河海へ乗出す。勝頼旗本は浮島が原、諸勢は沼津千本の松原より吉原迄寸地のすきまなく真砂の上、海きはまて陣取。然に十艘の舟かけをきたる大鉄砲をはなしかくる。敵こらへす皆ことことく退散し、へいへいたる砂地白砂に見えたり。・・・・・・この海戦のあと千本付近に激戦があり、多数の死傷者でて、その結果後世千本松原に首塚が出来た。戸倉城と三枚橋城は狩野川を挟んで僅かな距離のところにあったから小競り合いは常に絶えなかった。このような時代背景の中この香貫地区が戦場に成った事は十分ありえる。戸倉城の攻防前後の時代が充分考えられる。

北条方「大平城址、獅子浜Dscn0144 城址、戸倉城址PhotoImg_1371

今回数人のお年寄りの方からもお話が聞けました。楊原の庚申さん近くは発見された人骨を供養する地蔵がある。石原の公会堂の地下にも埋葬したらしい。Mさん宅を新築する際にも人骨が出た。以上のような話を推測すると三枚橋城の武田方と八重坂を挟んだ戸倉城北条勢の時代辺りでしょうか、楊原の庚申さん近く数百mの範囲でやはり合戦があったのかもしれませんね。

追加資料入手Dscn0907 天正8年9月香貫周辺で行われた「武田勝頼」対「北条氏政」の「合戦の布陣図」。武田方の三枚橋城と北条の徳倉城を出た兵は、今の八重坂を越えてこの香貫の地で戦った。

2008年4月17日 (木)

【ぶらり香貫(かぬき)・静浦4】

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8【藤井原遺跡/天神洞古墳

Img_0377 414号から横山トンネルに向かう途中、藤井原交番の北側200mに藤井原遺跡跡があります。藤井原遺跡は狩野川下流域最大級規模の遺跡で昭和49年から昭和52年迄発掘調査がおこなわれました。弥生時代中期の住居跡を初め、古墳時代前期の居住跡群や溝状遺構、更に奈良時代の住居跡群、倉庫跡、井戸跡などが発見された。これらの遺構からは多Img_0381量の土器類を初 め、漁労用の土錘や石錘等と共に、鎌や鏃など鉄製品「女」及び「塩つき」と書かれた墨書土器などが発見されています。藤井原公園の中に説明版があります。

香貫地区一帯には香貫九十塚と称される古墳群が存在していたといいまDscn0805 す。「天神洞古墳」もその一つで10余基の古墳の位置が確認されています。武器類や装身具、土器類が出土しています。沼津市中瀬町天神公園内に復元されています。

牛臥山~島郷】414号島郷手前を右折暫く走ると「牛臥山」は正面にあります。そのむかし、「牛臥山」は島であり、出現したのは香貫山(岩石が輝石安山岩で全く同じ物)とほぼ同News_01 じ頃のようです。山裾には海水が入りこんでいて、内側一帯は入り江であったと言われています。そして、島の入り江に面した土地ということで安永年間(一七七二年~一七八○年)までは「島江」と称されていました。その後、次第に土地が干拓され入江が無くなったので江を郷に代え「島郷」となりました。また江戸時代末期になると、桃の栽培が行われ出し、一時期、 島を桃に変えて桃郷としていました。牛臥山の麓には「日緬寺」や「大朝神社」少し歩くと「芹沢文学館・生誕の地」があります。又ひょこりひょうたん島のモデPhotoルだとか、牛臥山公園が出来たなど周辺は変わりつつあります。

←20年代の香貫地区 中央左が牛臥山

2008年4月16日 (水)

【ぶらり香貫(かぬき)・静浦3】

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7【旧海軍技術研究所音響研究部跡

Photo_2  私の卒業した「沼津第三中学」は「旧海軍技術研究所音響技術研究部」の建物を使い昭和22年4月に開校した。この海軍技研は昭和16年(1941)下香貫の地に新設された。27万平方メートル(82000坪)を越える敷地があり、技術を駆使した近代的な施設であった様だ。本部のほか、臨海実験所が江の浦、淡島、大瀬崎に、事務所が下土狩に置かれた。本部には研究室/実験用水槽/作業所/宿舎等があり武官や文官、工員や挺身隊ら2000人もの人が働いていた。任務は水中聴Photo_3音機や潜水探知機、音響魚雷、爆雷の研究開発を行っていた。ガダルカナル沖海戦での敗因の一つはレーダー装備の差であったという。関連誌によると、これを機に陸海軍もようやくレーダーの開発に本腰を入れる。海軍はガダルカナル島でのレーダーによる敗北がきっかけとなって1943年(昭和18年)1月26日に開かれた「戦備考査会議」ではレーダーが議題となる。海軍大臣がレーダーの新規設計と基礎研究を緊急に進めるよう2月17日に指示を出し,レーダーの開発のための組織的な整備が始まる。3月に月島,鶴見,千葉県の大東岬にレーダーの試験場が設置さPhoto_4 れ,6月にレーダーを生産するため「沼津海軍工廠」が設立され、7月に海軍技術研究所にレーダーを専門に開発する電波研究部を設ける。昭和20年2月15日、電波、電気、無線、有線、音響関係の兵器研究部門を統合して、第二海軍技術廠音響研究部が設置され、音響研究部は第二海軍技術廠音響研究部に改組され、水中聴音機、水Photo_5 中探信機研究等の音響兵器研究を任務とする事になった。本土空襲が激しくなると多比の石切り場を利用して地下工場を建設し実験室、機械などを疎開させた。戦争の残りを感じさせる石切り場やトンネル、岩穴などが今でも多比や内浦地区等でみうけられる。中学時代学校の裏山にはレンガの小屋があったり、沢に油が浮き出してPhoto_6 いるのを見た記憶もある。近所の人の話では地下トンネルがたくさん掘られていたという話も聞いた。今は平和な時代になってよかったものだ。「海軍技研跡碑」は戦争で犠牲になった若者達を偲び昭和28年(1973)に建立された。

2008年4月15日 (火)

【ぶらり香貫(かぬき)・静浦2】

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6【八間道路】国道414号

024←昭和20年代の八間道路(中央の南へ真っ直ぐの道)

今も香貫の地を南北に「八間道路」が走っている。小学生だった時の記憶には舗装路の両側に広い土の路側帯があったように覚えている。八間の巾だった。御成橋、御幸町、の名が示すとおり「八間道路」は桃郷(今は島郷)にあった「御用邸」の為に建設された道路だったという。「三園橋」から槇島の山下タイヤあたりまでは所々に民家があり、その先はまっすぐに伊豆 に向かって伸びた田んぼの中の一本道だった。私が通った「第三小学校」はこの一本道の田んぼの中にあった。何せ道路は真っ直ぐいい道路だが周りは、きゅうりやトマト、夏場はお米の田んぼだけ、その中に学校がポツンとあった訳です。帰り道、きゅうりや、トマトを農家の人に貰い小川で洗い、Img_1111食べて喋りながら帰ったものだ。
家から沼津の街には東海バスに乗り馬場、山下タイヤ、槇島、二本松眼科前、吉田町、市場町などの停留所を通り出掛けた。東海バスは「八間道路」は通らず元の古い道路を走っていた。まだ車は殆ど走っていない時だったので、このバス路線も渋滞なく走っていた。街に出て大手町万来軒のラーメンを食べるだけで、うきうきだった。テレビが始まっImg_0347た頃であり大相撲が始まると近所の人が大勢、まるで映画館で鑑賞するくらい座敷のテレビの前に座り見ていた。確か千代の山、栃錦が横綱だった頃だと思う。近所の渡辺自転車屋で貸し自転車を借り近くを乗り回していたものだ。「八間道路」は直線でスピードも出るし、よく走っていた。毎年4月4日は大瀬祭り、我入道のたくさんの漁船が大漁旗をなびかせ化粧した漁師を乗せ大 瀬神社に向かうのを自転車に乗って見にPhoto行ったりもした。我入道はまだ漁村丸出しの威勢のいい人が多かったし、遠洋に出る大型船も多かった。景気のいい船主と意気のいい漁師、我入道はちょっと子供には怖かった。「八間道路」の両側、田んぼの中にはくねくねした細い道、蛇道がたくさんあった。香貫の田んぼ、我入道の田んぼ、そんなぼこぼこ道も良く走り 回った。牛伏海岸の近くには別荘がたくさん有り、海水浴もImg_1221出来た。島郷と同じ遠浅の海なのでよく泳いだものだ。今は悪名高い塚田川のせいか海水浴は出来ない、早く昔の海が蘇ればいいものだ。最近ここに牛臥山公園が開園した。御用邸~牛臥山公園~我入道海岸~魚市場~千本浜公園~素晴らしい海浜コースが出来た事は喜ばしい事だ。島郷近くの左 (東)側に象に似た

Img_0323象山がある。この山の麓にグライダーの滑空場があった。海から山への上昇気流が良かったのかグライダーが飛んでいた。近辺は一面の桃畑、チョット小粒で赤い実の「東郷の桃」冷たくして食べると美味かった。今は宅地化が進み桃畑は少ししか残っていない。「八間道路414号」は何年か後には象山にトンネルができ大平(おおひら)を通り、狩野川放水路近くに抜け、将来は伊豆縦貫道に繫がるらしい。何故か田んぼの中を一直線に走っていた「八間道路」 Img_0391昔を思い出すと懐かしい!

2008年4月13日 (日)

【ぶらり香貫(かぬき)・静浦1】

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ぶらり香貫(かぬき)・静浦街道】国道414号編Ⅰ

Getmap「ぶらり近くの東海道三島・沼津・原」を終わりました。東海道近辺には種々色々な歴史が有りました、そんな中、自分のお膝元の地区にはどんな歴史が潜んでいるのだろうか気に成り始めて来ています。今回は最も身近な「ぶらり地元香貫・静浦街道編」シリーズで行ってみます。ローカルな地域ですから事前の下調べにはかなり時間がかかりそうです。図書館、資料館、聞き込み、等しながら~ゆっくり~ぼちぼちやっていきます~ スタートは三園橋から~414号に沿って香貫~島郷~志下~獅子浜~江の浦~多比~長岡のコースです。

Photo 1【三園橋】昭和33年竣工の橋、狩野川河口から2,6KM、5番目の橋が三園橋です。 国道414号が通っています沼津インターから伊豆を結ぶ観光道路でも有りこの付近はよく混雑する所でもあります。橋の北側が三枚橋という地名でかつての沼津宿に近いところです。今回のスタートはこちらからです。

Photo_2 2【沼津市役所】三園橋を南下交差点右にあります。沼津市は、首都100km圏に位置する静岡県東部にあって恵まれた自然環境と優位な地理的条件のもとで、東駿河湾地域、伊豆方面への交通拠点あるいは広域的な商業・文化拠点として、古くからこの地域の政治、経済、文化の中心的役割を担ってきました。人口209,961人、世帯数85,643、市制施行1923(大正12)年、特例市移行2000年 (08年2月の沼津市データです)。市役所の414号をはさんだ東側には市民文化センターがあります。

G2_map沼津市の誕生」は大正12年(1923)7月1日、沼津町は楊原村と対等合併し沼津市が誕生した。全国で89番目の市であり、静岡県では静岡・浜松に次ぐ3番目、清水市の市制施行に先立つこと1年であった。人口34,482、世帯数5,596だった。初代市長は、県会議長をつとめた「和田伝太郎(鷹峰)の子、伝太郎」(同名)である。12年9月、第1回の市会議員選挙が行われ、一級議員15名、二級議員15名、合計30名が選ばれた。初代の議長は「森田泰次郎」だった。市役所庁舎は大手町にあった旧沼津町役場を改称して使用した。大正15年(1926)の大火でそれが焼失すると、八幡町の女子尋常高等小学校の構内に仮庁舎を建てて執務、昭和3年(1928)に至り御幸町に新庁舎を建築した。

Photo_3 3【八幡神社】沼津市市場町3-11。市役所を左に見ながら御成橋方向に向かうと右手にあります。狩野川対岸の川廓通り・中央公園からあゆみ橋を渡ってくれば神社に出ます。300年の昔からこの地に鎮座し市場町/御幸町の総鎮守です。社殿は流れ造りで1950年に作られたものです。祭典にはライブなども行われているそうです。

Photo_4 4【ロールケーキ冨久屋】沼津市役所西側の通りにあります。イタリアンロールケーキで有名ですね。生ものなので予約が必要、沼津のお土産に喜ばれる商品です。保冷箱付きで1430円ですよ。

Photo_5 5【霊山寺と内膳掘】市民文化センター南側道路を東に行った突き当りに「内膳掘り/霊山寺」が有ります。香貫一帯の用水は寛永年間(1630年)頃まで香貫山からの水しかなかった。「植田内膳」は農業者を救う為、近くの狩野川からの農業灌漑用水路を拓いた人物です。彼が作った灌漑用水路はその恩恵を受けた人々によって内膳掘りと呼ばれ今も残っています。内膳掘りの横、香貫山の山裾に古刹「霊山寺」があPhoto_8ります(植田内膳の墓があります)昔は真言宗の寺院でしたが、延享5年(1748)の火災で 寺記をことごとく焼失したため、創建の年代などは不詳。伝説によれば、昔この辺が伊豆国であった時、天平の詔によって創立されたものという。曹洞宗に改宗したのは弘治3年(1557)、伊豆国北条村の真珠院の住職機外永宜和尚によるとの事です。境内には県下で4番目に古い(有形文化財)梵鐘が有る。墓地には変形宝筺印塔が4基、五輪塔が3基あり、市指定史跡に 指定されている。宝筺印塔は本来「宝筺印陀羅尼経」を納めるものであるが、日本では供養塔また墓塔として作られている。4基あるうちの2基には嘉元2年(1304)、 正和3年(1314)の年号が刻まれ、紀年銘Photo_6を有する石塔としては、県下有数の古いものである。また、五輪塔は空、風、火、水、地の五大を、団、半月、三角、円、方の五輪にあて、順次積み重ねて 塔としたもので、もとは舎利(仏骨)奉安のためのものであったが、後に転じて墓標となっている。藤原末期から作られ、鎌倉時代に盛んになった。中央の大きな五輪塔の下からは、青銅製の蔵骨器が出土しその銘によって、元享3年Photo_7(1323)に亡くなった成真大徳という僧侶の墓であることが判明した。静岡県の場合、中世の蔵骨器は陶製のものが主であるので、青銅製のものは 珍しい。県指定有形文化財に指定されています。

霊園に隣接する香貫山は「沼津アルプス」の北のスタート地点です。中腹の香稜台には若山牧水碑、慰霊五重の塔、植田内膳の碑等があります。沼津アルプスは、横山⇔徳倉山(通称象山)⇔鷲頭山⇔多比峠⇔大平山、と414号と並行する絶景の登山コースです。

Photo

「沼津アルプス」

2008年4月12日 (土)

【ぶらり近くの東海道】三島編Ⅶ

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Photo_29 113【本覚寺】日蓮宗。国分寺から東に戻り線路を越したら左折し、すぐの二又の突き当たりにあります。桜が満開で美しいですよ、と教えられ行ってみました。枝下桜は有名です。場所 三島市泉町6-58

114【善教寺】浄土真宗本願寺派。旧東海道に戻ります。西へ暫く行くとPhoto_33 セブンイレブン加屋町店の前に看板がありその奥にあります。白道幼稚園が寺の境内にありボーイスカウト、ガールスカウトの地域本部にもなっています。

115【林光寺】浄土宗。旧東海道を進んでいくと現在の最新耐震性を織りImg_1920 込んだ、新築中の本堂の屋根がが見えてきます。当寺は信玄の子信景が故信上人となり天正2年(1574)に住んだ小さな庵が起こりで武田家衰退後の天正5年家臣と共に本堂を建てました。とうかい88ヶ所観音霊場。場所 三島市加屋町1-42

Photo_34 116【秋葉神社】少し西に行った境川橋手前の所にあります。貞享2年(1685)の大火事をはじめ慶安元年(1648)から宝暦2年(1752)まで8度の火災があり宿の有志により宝暦3年に創建された。狭い境内には樹齢250年のムクノキがあります。

116にて、「ぶらり近くの東海道」は終了です。

2008年4月11日 (金)

沼津御用邸【江戸・春想八人展】

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Img_0416 江戸の下町に育った「もの作り」の八人の方々が由緒ある沼津御用邸・東付属邸において展覧会を開催しています。師匠から受け継いだ技・江戸の心意気を存分に披露し詳しい説明もして貰えます。春の一日江戸情緒に浸ってみるのもいいものです。是非足を運んで見て下さい。お茶席もありました。

江戸・春想八人展

①【てぬぐい 川上千尋 】②【木彫師  横谷光明】③【人形師  藤村明光】 ④【押絵羽子板西山和宏】⑤【陶芸 木下栄司】⑥【江戸指物 渡辺彰⑦【かんざし 三浦孝之⑧【画工(えかき)殿村栄一 

開催日 4月11日(金)~13日(日) 

場所  沼津御用邸記念公園 東付属邸 (沼津市下香貫島郷2802-1)

時間  午前10:00~17:00 (最終日は16:00閉場)

Img_0394 Img_0398 Img_0417 Img_0401 Img_0406 Img_0404 Img_0407 Img_0410 Img_0413 Img_0411

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2008年4月10日 (木)

【ぶらり近くの東海道】三島編Ⅵ

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108【常林寺】曹洞宗。源平川のひとつ前を左折すると正面にあります。天正元年(1573)麒庵東麟大和尚により開山。本尊は聖観世音菩薩。本堂は昭和5年北伊豆地震の直後に再建されました。山門と共に貴重な建築物です。下田街道から修善寺を経由し沼津静浦から駿河国清水にいたる横道巡礼道の駿豆両国横道33観音霊場の第一番札所。

109【源平川橋少し行くと「源兵衛橋」で源兵衛川を渡る。川の源流は楽寿園小浜池で昭和30年代以降は地下水汲み上げの増加で湧き水が少なくなり川も一時はゴミの川と化していたが平成2年から国の政策で行なわれた源兵衛川水環境整備事業で水のない時は東レ三島工場の協力で工場冷却水が供給されるようになり平成4年までに下流の温水池まで1.5kmの親水公園(一部遊歩道付き)が整備された。

110【三石神社源兵衛橋を渡ってすぐ左折したところにある。祭神は豊受姫大神。源兵衛川の川辺に三ッ石と称する巨石がありその上に稲荷社を祀ったのが起こり。天明年間(1781-1789)の火事をきっかけに火防稲荷となったが文久年間(1861-1864)に再び焼失、慶応元年(1865)京都伏見稲荷より分霊を受け再興され平成3年に少し南の現在地に移転した。神社前には明け六つ、暮れ六つの宿場の時報と火災信号用に作られた時の鐘がある。寛永年間(1624-1644)に最初に作られ宝暦11(1761)川原ヶ谷の鋳物師沼上忠左衛門祐重により大きな鐘になり神社境内に置かれ三島八景の一つにも数えられた。戦時に供出したが昭和25年に復元し鐘楼もコンクリート製になり鐘楼の足が半分源兵衛川に入った形になった。

111【蓮馨寺】(れんけいじ)浄土宗。桜家の斜め前に入口がある。正応2(1289)星誉上人の創建で寺の裏に大きな蓮沼池があり蓮の香りのする寺という意味で名付けられたが池は現存しない。本尊は阿弥陀如来。山門を入ってすぐ右に安永7(1778)の芭蕉老翁の墓(正確には供養碑)がある。芭蕉は東海道往還の際必ずここに泊まり住職も弟子だったことから建てられ側面に「いざともに ほむぎくらわん くさまくら」の句が刻まれている。芭蕉の墓の近くには水子地蔵尊や嘉永5(1852)馬頭観音もある。聖徳太子の作と伝えられる日限地蔵尊は秘仏。本堂右には木造聖徳太子像(十六歳孝養像)を祀る大正11(1922)建立の聖徳太子堂がある。伊豆四国88ヶ所霊場19番札所。伊豆中道観音3番札所、中伊豆観音2番札所。

112【伊豆国分寺】日蓮宗。伊豆箱根鉄道の踏切を渡り右折していくと正面。国分寺は奈良時代に国ごとに建てられた国立寺院、僧寺と尼寺の二寺制をとっており天平13年頃から徐々に作られたといわれる。伊豆の国分寺は和泉町、広小路北方の一帯に建てられたと推定されるが現在国分寺の本堂裏にある塔祉だけが残っており国史跡として指定されている。塔祉は高さ60cmの土壇の上にあるが南半分は失われている。8個の礎石が2列に置かれているが、西側の2個は移動したものという。残された礎石から塔は七重の塔で高さは60mに及ぶものであった事が推定される。昭和31年の調査で寺域は東80間、南北100間の長方形で建物配置も東大寺式伽藍配置であった事がわかっています。武田信玄の小田原侵攻で失われていた国分寺跡に慶長5(1600)三島代官の井出志摩守正次が蓮行寺を建立し昭和30年に改名した。

常林寺      源平橋     三石神社

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連繋寺      伊豆国分寺 Photo_18 Photo_17

2008年4月 9日 (水)

【ぶらり近くの東海道】三島編Ⅴ

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【ぶらり近くの東海道】三島編Ⅴ

105【楽寿園/郷土資料館

Photo_35 楽寿園は三島市が管理運営しています。湧水と周囲の自然林からなる庭園に対して昭和29年国の天然記念物及び名勝に指定された。園内には、約1万4千年前の富士山の噴火の際流れ出た溶岩(三島溶岩流)の上に実生した樹木のほか小松宮彰仁親王の別邸造営時に植えられた樹木と合わせ160種以上の樹木が生育しており、季節に応じた野鳥が30種類以上観察することができます。園内にある【郷土資料館】は市制30年記念行事として昭和46年市民の寄付金をもとに建設され開館。建物は奈良正倉院の校倉造を取り入れた鉄筋3階建てで展示室・収蔵室・会議室などがある。初音ヶ原遺跡や江戸時代以後の民俗資料(奈良時代頃から作られた三島暦、郷土の人形作家・野口三四郎の三四呂人形)など石器時代から江戸時代までの資料などが常設展示されているほか年数回企画展が開催されます。竪穴住居の模型、弥生時代復元住居、江戸時代の旅籠・農家・商家も一部復元Img_1324 され展示されています。今回「郷土資料館」訪問時、朝鮮通信使の展示を行っていました。江戸時代、朝鮮半島から【朝鮮通信使】 が十二回日本を訪れました。三島では世古本陣に宿泊した記録や、荷物を搬送するため馬小屋を造営した記録などが残り、「白隠禅師」、「秋山富南」が交流を持ったことが判明しています。この他、三島の高僧に「金襴の袈裟」(僧のPhoto_36 着る法衣)と「数珠」が贈られています。三島駅から南へ下る道沿いにある「長円寺」(芝本町)に残されているものです。「長円寺」(浄土宗)は16世紀初め、「増譽上人」の開山の古刹です。「増譽上人」は沼津の海岸に松の木を植え続け、現在の千本浜を作り上げた人物です。江戸時代初めの住職「正譽上人」もまた大きな業績を残し「中興号」を授けられています。昨年は日韓善隣友好の「象徴朝鮮通信使400周年」だそうです。「秀吉の朝鮮侵略」により関係が悪化していた日韓両国の関係を修復しようと家康の希望で交流が実現しその往来を通じた文化の交流は両国間の平和の礎になりました。朝鮮通信史の“通信”の言葉には“真心や信頼を通わせる”という願いが込められているそうです。東海道を住還したため静岡県にも通信使に関する文化資源が各宿場町に残っています。

Photo_37 106【樋口本陣跡

本町交差点を渡った先の茶舗・山田園の前に説明板がある。三島宿の本陣を務めた樋口伝左衛門家の跡で現在市内の別の場所に住んでいる樋口家は古文書や織部灯籠(キリシタン灯籠)を所蔵し市の文化財に指定されている。郷土資料館にも文書が寄贈され文化15(1818)の料理献立が再現され展示されている。本陣の門は明治10(1878)全焼し再建した圓明寺[日蓮宗](芝本町1-7)の山門として移設されている。明治天皇も使用した茶室「不二亭」は昭和22年取り壊しが決まったが昭和26年三嶋大社の境内に移築され平成元年に庭園も整備された        
Photo_38 107【世古本陣跡
樋口本陣跡の向かいでパン屋さんの前に碑がある。世古六太夫家の跡で慶長4(1599)にはこの家で当時58歳の家康が当時20歳のおきく(後の阿万の方)と出会った。寛永14(1637)には朝鮮通信使が、宝永7(1710)には琉球国使節も宿泊した。本陣の門は長円寺[浄土宗](芝本町7-7)の山門として移設され寺の境内には世古家の墓もある。宅内にあった神社は明治4(1871)芝町の氏神として祀ることとなり現在は楽寿園隣の浅間神社(芝本町6-3)の境内社・芝岡神社となっている。三島宿の脇本陣は明和9(1772)の記録では藤屋治郎左衛門とあるがのちに大中島の綿屋伊兵衛が交替し天明年間(1781-88)に小中島の銭屋伊三郎、大和屋善蔵が加わり幕末には3軒あった。    

2008年4月 8日 (火)

【ぶらり近くの東海道】三島編Ⅳ

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Misimataisya 101【三島大社創建の時は不明であるが、古くより三島の地に御鎮座し、奈良・平安時代の古書にも記録が残ります。三嶋神は東海随一の神格と考えられ、平安時代中期「延喜の制」では、名神大に列格されました。社名・神名の「三嶋」は、地名ともなりました。頼朝旗揚げ成功以来、武門武将の崇敬篤く、又、東海道に面し、伊豆地方の玄関口として下田Img_0760_2 街道の起点に位置し、伊豆国 一宮として三嶋大明神の称は広く天下に広まっていきました。頼朝の妻、北条政子の奉納と伝えられる 国宝「梅蒔絵手箱 及び 内容品 一具」は、当時の最高技術を結集させたものとして知られています。平成12年には、御本殿が重要文化財に指定され、当社の文化的価値の高さも再認識されています。

Photo_21 102【鎌倉古道三嶋大社西側の鳥居を出ると変則五差路があります。西に向かう左の狭い道路(桜小路)が鎌倉古道です。位置は旧東海道の1本北側の道路です。広小路間の北側にあり鎌倉時代以前の道で通称「鎌倉古道」といわれています。三嶋大社から歩いて数分で(画像正面が三嶋大社)御殿川に掛かる赤橋に着きます。右に曲がると御殿川沿に白滝公園方向、古道を直進すると飲食街を通り源平川(広瀬橋)~伊豆箱根鉄道を渡り伊豆国分寺方向です。

Photo_22 103【長園寺】鎌倉古道から41号を渡り右に進み暫く行くと道路左にあります。長円寺(浄土宗)は16世紀初め、増譽上人の開山の古刹です。増譽上人は沼津の海岸に松の木を植え続け、現在の千本浜を作り上げた人物です。江戸時代初めの住職正譽上人もまた大きな業績を残し「中興号」を授けられています。寺の伝承によると『かつて朝鮮国王が来日し、世古本陣に宿泊した夜、ある方角に高僧がいるとの夢のお告げを受けた。国王が世古氏に尋ねるとその方角には高僧の誉れ高い正譽上人がおり長円寺の住職であるとの返事。そこで朝鮮国王は帰国ののち、数珠と袈裟を長円寺に贈った』という内容です。この山門は、江戸時代に諸大名が三島宿に宿泊する際に、泊まるよう指定されていた宿である旧世古本陣の表門が「長園寺」に移築されてきたものと伝えられています。(樋口本陣の門は円明寺に移築されている)

Photo_23 104【二宮八幡神社】三島駅から南に300M。楽寿園の東隣に鎮座。もともとは「伊豆三の宮」であったというが、「二宮八幡(若宮八幡)」が三嶋境内に移されてから二の宮に昇格したともいわれている。三嶋大社に次ぐ名社として、かつては富士山登山をするものは必ず当社を詣でていたという。

2008年4月 7日 (月)

【ぶらり近くの東海道】三島編Ⅲ

【ぶらり近くの東海道】三島編Ⅲ

Img_1298 92【新町橋】大場川を渡ると「新町橋」江戸時代には長さ19間(35m)幅3間(5,5m)で欄干のある板橋がかけられていた。(1737~1778は土橋)橋を渡ったところには江戸見附がありここからが三島宿だった。小浜山刑場で斬られた罪人の首を晒した場所でもあり今でも橋を渡り左折したところに引取り手のない無縁仏を土地の人が弔ったと伝わる「無縁法界地蔵尊」がある。

93【三島宿】古代には伊豆の国府が置かれていた。鎌倉時代以降は三嶋大社が幕府や武家の手厚い保護を受け門前町として栄えた。江戸時代は箱根越えの前後で泊まる宿場となり、山祝いをし遊ぶ旅人でさらに賑わった。三島大社正面からは伊豆への下田街道、西側からは北上し中仙道に通ずる佐野街道があり交通の要所でもあった。東海道分間延絵図からも大場川を渡ると人家も多くなり三島宿の東入口である事がわかる。

Photo 94【守綱八幡神社】新町橋を渡り暫く行くと右側にあります。創建は不明ですが寛永年間頃とされます。祭神は守綱大神、境内には秋葉さん常夜燈などがある。

95【妙行寺】日蓮宗。守綱神社の向かいに大きな題目搭があり正面に寺Photo_2 があります。山門は楽寿園の表門を昭和24年(1949)に移築したもの。墓地には幕末に寺の近くの長屋で塾を開き多くのを送り出した漢学者福井雪水の墓があります。門前と本堂前にある獅子像は自民党第二代総裁で総理大臣を務めた石橋湛山の縁で中国から贈られた物だそうです。戦時に供出し鐘の無いままの鐘楼も境内左にあります。

Photo_4 96【光安寺】時宗。元は真言宗で川原ヶ谷にありましたが延慶元年(1308)高弟真教上人に帰依し改宗した。南朝の後村上天皇の皇子が立ち寄ったともいわれる。本尊の地蔵菩薩像と秩父青石は市指定文化財である。駿河一国百地蔵尊100番札所。場所三島市日の出町2-29

Photo_3 97【三島暦師の館】三島大社の東にあります。昔はこの辺りは大社の神領域で社家の村があった場所です。ここより100m東の川を神川と呼んでいました。現在は大場川となっていますが、地元の人は今でも神川と呼んでいます。三島暦を作っていた河合家の元の建物は安政(1854)の大地震で倒壊してしまいました。韮山の代官江川太郎左衛門の計らいで建て直しされました。玄関は武家風で立派な式台が付いています。また奥の座敷は一段高くなった上段の間になっていて格式の高さをしのばせています。楽寿園にある郷土資料館にも三島暦は展示されています。

Photo_5 98【薬師院】高野山真言宗。創建は不明、三嶋大社の別当寺であった愛染院の末寺で弘法大師も泊まったいわれがある。本堂左には大師坐像と腰掛石がある。本尊は薬師如来 場所三島市大社町11-15

99【成真寺】真宗大谷派。薬師院のむかえにあります。北条時政の家臣Photo_6 平成真が安貞元年(1227)に建てたのが起こりで当初は真言宗だったが成真が親鸞と出会い改宗したという。現在は阿弥陀如来立像が本尊。

100【本妙寺】日蓮宗。デニーズ手前を左折すると正面にあります。文安5年日秦が京都妙満寺の菩提の為に開いた寺という。

2008年4月 6日 (日)

【ぶらり近くの東海道】三島編Ⅱ

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【ぶらり近くの東海道】三島編Ⅱ

85【石仏/石塔】松並木を下り、先の交差点を上り車線側にわたりすぐ左が旧道の石畳歩道になり愛宕坂に入ります。少し先の右側に馬頭観音などの「石碑、石仏」が集められています。手前右の墓碑は備前国出身の雲助親方の重吉の物、大名の人足頭を怒らせて斬られたそうです。

Photo_2 86【愛宕坂】この旧街道は急な坂道で人も馬も滑って大変な所でした。幕府は1680年に竹を敷いてあったものから、石を敷き詰めて「石畳の道」に改修したものです。その石畳を1769年に修理した記録によると「愛宕坂では、長さ140m幅3,6mを修理したとあり当時の道幅がわかります。江戸時代の石の上に現在の石畳やアスファルトが敷かれています。左の土手頂上には愛宕山と書かれた安永7年(1778)の大きな石碑が有ります。

Photo_3 87【川原ヶ谷】石畳が終わると分岐があるがそのまま左に下がっていくと踏み切り手前右に箱根旧街道入口の看板があります。東海道線踏切を渡ると今井坂、元は石畳の道でしたが戦後その上にコンクリート舗装をしたようです。明治時代には坂下に郵便馬車の停車場があり東西から来た郵便物がここで積み替えられたそうです。

Photo_4 88【庚申堂】山田川にかかる愛宕橋を渡る、江戸時代には今井坂下橋という橋で下。暫く行くと左から来た県道22号と合流します。合流地点左手に江戸時代高札場があった所で小さなお堂が有ります。林光庵という寺の跡で近くの山から出土したといわれる木造の庚申像が祀られています。

89【荻野山中藩陣屋跡】新町橋手前の右にある。小田原藩の支藩である荻野山中藩がこのあたりの川原ヶ谷一帯を飛び地として知行していた頃の陣屋で徴税、検察、などの藩政を行っていました。川原ヶ谷はもとは幕府領で宝永5年(1708)から荻野山中藩の支配下に入ったが宝暦9年(1759)幕領に戻り安永年間から再び荻野山中藩に戻り幕末を迎えた。

Photo_5 90【鞍掛石】陣屋跡の斜めまえのちいさな道路入口に左右一対の石があります。「鞍掛石」と呼ばれている石で神社に参拝する人が鞍を置いた、とか乗馬の際に踏み台にしたと伝えられています。

91【宝鏡院】鞍掛石の南側に見える寺です。宝鏡院は足利2代将軍義詮の開基で鎌倉建長寺大覚禅師の弟子普覚禅師が開山。義詮と韮山の足利政知の分骨が葬られたと言われ本道裏手に墓所がある。境内には頼朝が参拝の折、笠を置いたといわれる「笠置き石」もあり三島七石の一つPhoto_6 でもある。

2008年4月 5日 (土)

【さるく長崎】

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Photo_8 Photo 今長崎からも戻ったところです。大学時代の寮仲間の会があり、一泊二日で行ってきました。前回は3年前に函館で行いその時に次回長崎と決めていました。幾つになっても会えばすべてが昔のままです~但し外見は大きく違いますがね~チョット寮の事に触れておきます。我々が入学から1年間過ごした寮は四畳半の畳部屋、そこに二人ずつが入ります(地方出Photo_2 身者ばかりでした)、布団を引けば足の踏み場など全く無い狭さ、木造2階建て真ん中が廊下で向き合うように部屋がありました。その1階の部屋が近い者同士なんです。今回は4人が集まったわけです函館のK君、千葉のO君、主催者長崎のA君に私の4人です。まだ大阪のS君広島のY君富山のM君等いたんですが欠席でした。生活費は月2~3万円ぐらいのDscn0680 仕送りでしたね。皆バイトをして生活したものです。一日バイトして800円~1000円だったよなあ、椿山荘と凸版印刷は1000円だったと長崎のA君が話してました。話題は次から次ぎえ終わりなき感じよく話しました~ホテルに着く前に案内して貰った平和記念像の前でしばしの感傷、終戦の年に生まれた我々、その年原爆投下で7万人の人々が亡くなったなんPhoto_3 て、その時聞こえてきた浦上天主堂の鐘の音は長崎に来てよかったといういっぱしの良識のあるおっさんになった皆の共通意識だったようです。

さるく」とは長崎便で「ぶらぶら」歩くという意味だそうです。

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長崎よか所まだ、まだたくさん有りますタイ

【ぶらり近くの東海道】三島編Ⅰ

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ぶらり近くの東海道】三島編Ⅰ

三島のスタートは何処からにしようか以前から考えてたんですが初音ヶ原からに決めました。箱根路は別の機会にとっておくことにします。沼津と原を「ぶらり近くの~」はじめてから半月、郷土の歴史に興味も一層深くなってきました。但し頭の中は大混乱なんです。比較的データが多い近くの東海道の事を選んではみたものの、文章を考える前に計画を練ったり、溜まっている写真の整理とかもしなければ~何処を選ぶかは本を読んだり、市の文化財の方に会ったり、ネットで捜したり、知人に聞いたり~このところ午前様で大変です(苦笑い)でもカメラ片手出かけると何故か多くの人が声を掛けてくれます。日常の話やお年よりの方は色々昔の話を聞かせてくれます。小さなデジカメでは声も掛かりませんがチョト大きい一眼レフだとカメラマンの雰囲気が出るのでしょうかね~照れ笑い~こんな楽しみや訪れたところの新発見は結構新鮮な刺激になります。最近はお地蔵さんを10cmくらい近くに寄って見るようになりました。石に刻まれた文字、これだけでも興味深いですね。さあ三島に出かけま~す。

82【初音ヶ原松並木

Photo_8 箱根の松並木も国道の拡張でこの辺りが三島で唯一の松並木ですね。今迄は車で通過するばかりでしたが、じっくり松を眺めて見るのは初めてです。箱根旧街道は徳川家康によって慶長九年(1604)に整備され道の両側に松や杉の並木が植えられたんですね。又街道一里ごとに塚が作られたのもこの時代です。この初音ヶ原付近では現在の国道1号線上り線に旧東海道はあったといいます。松並木の北側には初音ヶ原石畳遊歩道が整備されています。ここからは下りだし松並木と景色や桜を眺め旧東海道を味わえますね。ちなみに初音ヶ原とは頼朝がここを通過した時鶯の初音を聞いた伝説にちなんで名づけられた地名だそうです。国道の近くには遺跡もあったり静岡県街並み50選にも成っているようです。

83【錦田1里塚

Photo_9 松並木を少し下ると国道左右の囲いの中に【錦田1里塚】があります。明治22年に谷田村と川原ヶ谷村が合併し出来たのが錦田村とのことで、北の1里塚は初音ヶ原1里塚とも呼ばれる。左右とも榎が植えられています東海道に4つしかない国指定史跡の1里塚で貴重ですね。4つの1里塚の中で一番早く指定された(大正11年)参考までに他は愛知の太平1里塚、阿野1里塚、三重の野村1里塚、だそうです。ここからは北には雄大な富士山が眺められ、街道を進む方向には三島・沼津・駿河湾が一望できる絶景の場所です。

84【田福寺

Photo_10 時宗 松並木を暫く下ると左に寺の屋根が見えてきます。街道を左折すると左にあります。冠木門(かぶきもん)といわれる二本の柱の上部に冠木を貫き渡し、上に屋根をかけた門である。屋根のないものが多いとの事である。鎌倉時代に武家の館に用いられ、室町時代以降は将軍御所や諸大名の邸の外門に多くみられる。江戸時代の大名表門に良く使われ各宗の寺でも用いたが、今日では時宗総本山遊行寺の門が有名である。この門は時宗Photo で七ヶ寺目のもので昭和59年3月の建設である。

2008年4月 4日 (金)

【ぶらり近くの東海道】原編Ⅵ

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ぶらり近くの東海道】原編Ⅵ

Photo_13 76【甲州街道/要石神社】旧国1前の松林。原は浮島ヶ原の東、駿河湾砂丘の上に出来た宿で、「十六夜日記」等の中世の紀行文の中に「原中宿」と出てくる。古代の街道は根方の地を通っていたが、平安中期以降の東海道は海岸沿いの浦方路(甲州道)を通るようになる。原中宿は原新田山神社、元の一里塚があった附近から六軒町浅間神社附近にあったPhoto_14 だろうといわれる。その後の原の宿は原駅南側の「甲州道」(旧国一)沿いにあったといわれるが、慶長の大潮被害や幕府の新しい東海道の整備に伴い、現在の場所に移転し、形成されていった。千本松原沿いの旧国道一号線(旧甲州街道)その街道沿いの松林の中に「要石神社」がある。大きな安山岩が露出していてこの石よりは高潮は来ないとか安政のImg_0030 地震でも被害が少なかったといわれる(神社にあった置石に安政と彫られている物があった)新田開拓者おおは大橋五郎佐衛門が祀った。この大岩は大橋氏宅地井戸端まで広がった巌石で太古地中に大鯰がいて地震を起こす依って此の大岩石を鯰の上に載せて動く事が出来ないようにした。これを「要石」というそうである。又要石神社は耳の悪い者はここに祈Photo_15 願して穴明きの石を上げると必ず直るとも言われている。神社近くをかつての甲州街道(塩を運んだ)があるはずです。     
少し手前の松林に有ったと言われる旧1里塚それらしき盛り上がった箇所があったので撮ってきました。これかどうかはわかりません。

Photo_16 77【一本松一里塚跡】コイケフーズ先、デイリーマートタカダ前に有ります。原新田と一本松新田との境付近にあった1里塚の跡。道路向かいには古い道祖神があった。

78【大通寺】曹洞宗、その昔、海岸の松林の中を東西に細く通り、浮島沼の南端に甲州路が東海道として新たに設けられ、多くの旅人が京へ江戸へと行き交い、又、付近一帯の新田開発の為に遠近よりやってきた開拓の衆により集落が形成された江戸初期の頃、紹外舜隆和尚(寛文2年Photo_17 4月30日示寂)を開山に招聘し、寒村の一本松の地に大通寺を開きました。当時、浮島ヶ原と呼ばれていたこの一帯は、田畑が海と沼にはさまれ、しばしば冠水の被害にあうという地理的条件から、この寺は1石一斗の除地があるにすぎないという、小さなものでした。幕末の頃には、徳川の藩士が、寺小屋を開き、後に明治6年「初学舎」と名づけられ、校訓等Photo_18 もあるなかなか厳しい教育が行われていました。
この寺小屋は、現在の原小学校の基となり、原の学校教育の始まりでした。生徒の中には、スルガ銀行初代頭取、岡野喜太郎氏もおられました。境内には「岡野喜太郎少時、本寺に止宿して、初学舎に学ぶ」という碑も建てれております。場所 沼津市一本松62

Photo_19 79【浅間愛鷹神社/改称記念碑】木花咲耶姫命(富士山のこと),愛鷹大神(愛鷹山のこと),松尾大神が祭られていた.「改称記念碑」浮島ヶ原を最も早く開墾したのは遠州の浪人だった鈴木助兵衛である。同名の父が安部郡上土を開拓した後二代目助兵衛が浮島ヶ原へ来てこの地を拓き助兵衛新田と称した。明寺41年県知事に地名の改称を申し出、この辺りで桃を良く作っていたので桃里と改めた。碑は助兵衛の功績を讃えている。 場所 沼津市桃里508

Photo_20 80【植田三十郎墓所】植田新田(植田)遠州浪人、植田三十郎親忠が江戸初期、干拓を図るも泥の浮動の為失敗し、その後今井六左衛門昌先の手により開発が進められた。幕府領、村名は最初の開拓者の名をとる。幕末まで植田の薬師さんとして親しまれた神護寺があった。区内には八幡神社がある。

Photo_21 81【八幡神社】植田踏切から暫く行くと富士市の看板がありますがその手前左にあります。植田新田の鎮守。地名は植田三十郎が開拓をはじめその名が付いた。三十朗が土砂の不動に苦しみ、後に今井六佐衛門昌先が開拓に成功した。愛鷹山麓から流れ出る土砂、駿河湾から押し寄せる砂に阻まれて排水されない水が浮島沼など広く湿地帯になっていた。

NO81で沼津原編終了 次は三島編です。

2008年4月 3日 (木)

【ぶらり近くの東海道】原編Ⅴ

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ぶらり近くの東海道】原編Ⅴ

Photo 70【帯笑園植松家】すぐ先信号左折。沼津市原にある帯笑園は、旧東海道の宿場町、原宿の豪農であった植松家の庭園として造園され、街道きっての名園といわれた庭園であり、多くの大名や公家たちが立ち寄ったと言う。(庭園、盆栽(松等)、桜草、マツバ蘭、オモト等の鉢物が有名)その美しさは幕末の博物学者シーボルトも絶賛したと伝えられています。当Photo_9 時の庭の在り方を示す、貴重な歴史資料ともいえる。一方で、書画骨董の収集に努め、コレクションは江戸時代後期から近代初頭の日本を代表する作家たちにより構成されていた。

71【浅間神社】原交番先街道右にある。原「浅間神社」は慶弔14年Photo_2(1609)武田家臣の植松平次右衛門季重が創建、明寺2年の火災で社殿は再建大正2年境内を拡張し社殿を移築、昭和13年に本殿、拝殿を改築した。原交番東交差点の左右の道は、興国寺城通りと命名されている、興国寺城は伊勢新九郎長氏(後の北条早雲)の旗揚げの城として名高 い、根古屋と青野の境の篠山という愛鷹山の尾根を利用して築かれた山Photo_3城で、後北条氏の祖である北条早雲が最初に城を与えられ、旗揚げした城。 城の南部には、原宿のある東海道に通じていて交通の便はよいが、途中に広大な浮島ヶ原湿原があったため、難攻不落の城だったようである。 交差点を越えると西町になり神社の前には原宿と浮島マップと いう絵看板があり、それを見ると愛鷹山の山麓に多くの寺院が集まり、原Photo_4宿周辺には神社が多いことがわかる。太古から原宿の北西には富士の湧き水が溜まる浮島ヶ原湿原が広がり、これが地元民の生活に支障をきたしていたようである。墓地は安全な高台に、生活の場には安全祈願の浅間神社を祀ったということだろう。ここには、夢舞台東海道 原宿の道標があり、吉原宿まで二里三十二町(11.3km)と表示されていた。

Photo_5 72【昌原寺】浅間神社向かい。日蓮宗、大仙院日耀の開山。開基は、徳川家康の側室、お万の方(養珠院日心大姉)である。元和元年(1615)春、東海道原宿の渡辺本陣にお万の方が宿泊されたとき、南無妙法蓮華経のお題目が、聞こえてきた。ただちに本陣渡辺八郎左衛門ともない庵に入り、読経を聴聞されたのち、庵主、地主庄司七左衛門を呼び、こPhoto_6 の地に一山を構えるように要請した。お万の方は、法華経の信者として朝暮に日蓮大聖人の御真影を敬拝していた。この御真影は、日蓮聖人の自点眼尊影として、昌原寺落成のとき駿府城を通じて当山に寄進され寺宝となっている。また、徳川幕府より境内地5反30畝、大門40歩のほか、御真影供養料田地1反5畝を賜った。そして元和8年に念願が成就し、寺院を、建立して現在にいたっている。場所 沼津市原216

Photo_873【原宿問屋場西跡】原宿の問屋場は、本陣跡よりすぐのキタムラ手芸店付近にあったらしい。原宿の問屋場は西問屋場と東問屋場があり隔月交替で業務を行っていたが東問屋場が火災で焼失し以降は昌原寺入口と本陣との間にあった西問屋場だけで業務を行った(問屋場には長たる問屋、年寄り宿役人の下に帳付け、馬指などの下役人等が働いていた)

Photo_7 74【渡辺本陣跡】問屋場からすぐ左に有る。西問屋場西側には代々渡辺家が務めた原の本陣があり、本陣が賄いきれない時に利用された脇本陣は始めは東町の高田家が務めていたが火災に会ってからは幕末の一時期、香貫屋、若狭屋の旅籠が務めた。一般旅籠は天保前期には中小約25軒位あったが、その後度々の火災で軒数の移動があった。原浅Photo 間神社西側には幕府の禁令、定書等を記し掲げた高札場があり、西問屋場隣には人馬継立が宿内で賄いきれない時、付近の村々に人馬調達させる助郷制度の下で村々から選ばれた総代が務める助郷会所があった。他に幕府に治める年貢米、凶作の為の備蓄米等を保管する郷蔵が昌原寺南側にあり、松蔭寺附近に宿の治安警備の為の自身番所があった。先の門構えの家の前に、「東海道原宿本陣跡」の標石があった。本陣は、阿野全成(源頼朝の弟)の末裔という渡辺家が、代々平左衛門を名乗り、幕末まで務めた。

Photo_10 75【徳源寺】子安さん、内海ふとん店の先に看板と石柱。臨済宗妙心寺派、建久4年(1193)源頼朝公が行った富士の巻狩りの際、陣屋が置かれたことから始まりました。境内地は、現在「御殿場」という地名として残っております。その後「今津寺」という律宗の寺院を経て、鎌倉円覚寺開祖仏光国師(無学祖元禅師)の弟子帰化僧賢宗が、北条時宗の帰依を受けてPhoto_11 弘安元年(1278)に徳源寺として創建しました。賢宗は、円覚寺建立に尽くされ、その功績により後光厳天皇から圓満護国禅師の諡号(しごう)と紫衣(しえ)を賜っております。円覚寺派を経て戦国時代には、吉原宿今泉にあった今川家公寺善徳寺の末寺となり、その後承應3年(1654)妙心寺派中本山興津清見寺の松巖宗蜜(しょうげんそうみつ)老師を拝請し準開Photo_12 山とし清見寺末寺となり妙心寺派となりました。江戸時代には、徳川家光から修復料百両と寺領14石の朱印状を受けております。時の権力者の影響を常に受けていたお寺といえます。境内には「頼朝お手植えの松3代目」とされる数百年たった松があり、庭は東海道の名園といわれた原宿の有徳家植松本家の「帯笑園」の名残を残す富士山の溶岩の庭「対笑園」があります。
原宿は、江戸時代宿場町として栄え、公家、武士、朝鮮の陶工等多くの文人墨客が江戸時代後期に訪れ、これらの方々が残した墨蹟・画・書等を画帳にまとめた「搨(とう)錦帳」やオランダ商館長ヤン・コック・ブロンホフの書や岸派(がんぱ)・四条派の絵、白隠禅師の墨蹟等有しております。 場所 沼津市原297

2008年4月 2日 (水)

【ぶらり近くの東海道】原編Ⅳ

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ぶらり近くの東海道】原編Ⅳ

Photo_28 67【原宿】原宿は現在の花勝造花から竹の子寿司の間であったという。古代の街道は根方の地を通っていたが、平安中期以降の東海道は、海岸沿いの浦方路・(甲州道)を通るようになる。この当時の原宿は原新田山神社、元の一里塚があった付近から六軒町浅間神社付近だっただろうといわれる。その後の原の宿は、原駅南側の甲州街道Photo_29 沿いにあったが、慶長の大潮被害や幕府の新しい東海道の整備に伴い、現在の場所に移転し、新しい宿が形成されていった。全国制覇を成し遂げた家康は、戦国大名の分国中心の交通体系を、江戸城を中心としたものに改編した。五海(街)道を幹線とした交通体系で、伝馬制や宿場を設置した。慶長6年、原宿の設置が決まり、原Photo_30 宿二町(東町、西町)と原宿の東に古くからあった大塚で宿を形成した。原宿は沼津宿と吉原宿の間に設けられたが東海道の中では比較的小さな宿場であり本陣は西町に1軒、脇本陣は東町に1軒あった。(脇本陣は天保9年に焼失した)当時は幕領で韮山の江川代官の支配所があった。【明治以降】宿場町とし明治以後はさびれたが明Photo_31 治33年に国鉄「原」駅開設に伴い周辺開発が進み、戦後は付近に工場と住宅が増加した。明治22年の町村制施行で、原宿、大塚町などが一緒になり原町が誕生浮島地区は、明治22年に、根古屋・井出・平沼・石川・船津・西船津・境の七ヶ村が合併、浮島村となった。村名は浮島沼からとり、役場は平沼に設置された、昭和30年に原町と合併したが、31年に、旧浮島村西部の三部落(船津、西船津、境)が分離、吉原(現富士市)に編入。浮島地区には有名な「興国寺城跡、阿野全成等に係わる多くの歴史的伝承がある」昭和43年に「原町は沼津市と合併し現在に至っている」Photo_32 66

8【西念寺(天神さん)】時宗。沼津市原120 以前は山門・観音堂等があり、望海景勝(ぼうかいけいしょう)の寺であった。浮島原に常休庵・休心坊などの末寺もあったが、延宝年中火災により堂字等を消失し、明治26年鉄道火災によって、本堂等類焼する。現在の本堂は大正15年に建立Photo_33したものである。境内に入って左手に菅原道眞(すがわらみちざね)公 をお祀りする天満宮(昭和58年再建)があり、西念寺門前で生まれた「白隠禅師」も、幼少の頃よくご参詣したという。 毎月24日には二夜(にや)講が開かれ、7月には地域住民が多数参加し、天満宮祭典が開催される。  

Photo_3569【白隠誕生地の石碑】西念寺先駿河銀行前(道路南側)に石碑があります。石碑の奥には白隠の産湯井、通りに出て交差点を左折すると右に帯笑園(植松家)があります。

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2008年4月 1日 (火)

【ぶらり近くの東海道】原編Ⅲ

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ぶらり近くの東海道】原編Ⅲ

Photo_2064【清梵寺(お地蔵さん)】臨済宗妙心寺派 今からおよそ1200年前、安房の国に帰国途中の勤得萬長者がこの地で息を引き取り、大きな塚に葬られました。そして、この地を大塚と呼ぶようになったといわれています。この長者の死を知らされた妻は、梵貞尼という尼になり、夫の死んだ原宿を訪れお墓参りをしました。このとき休ませて戴いた網元の網に亡きPhoto_21 夫が朝夕拝んでいた一体の地蔵菩薩がかかりました。これを聞いた網元は心を打たれ、自ら清信禅居士と号し、梵貞尼と力を合わせて、お堂を建て地蔵菩薩の尊像を安置しました。そして、この地に山号を得萬山と号し、清信、梵貞の二文字を取り「清梵寺」というお寺を建立しました(清梵寺の縁起) 平成12年、お地蔵さんと呼ばれ信仰を集め地域の皆様に親しPhoto_22 まれている地蔵菩薩が約5百年ぶりに完全修復され、金色に輝く姿に復元されました。このお地蔵さんがいつ頃造られたか確かな文献はありませんが、修復時に後頭部内から出てきた文字から「文亀2年」を読み取ることができ、ちょうど5百年ほど前の室町時代末期、戦国時代にかかる1502年には存在していたことが確認されました。その後、1573年と記した文献には無色とあり、金色を取り戻したのは「彩色あり」と記された1502年以来、約5百年ぶりであります。また、残された文面に「万民快楽心身安泰二世願望成就」とあり、この時代に人々が楽しく暮らせ、子宝に恵まれることを願って造られた事がうかがわれます。場所 沼津市大塚278

Photo_23 65【長興寺(こんぴらさん)】臨済宗妙心寺派 ミニストップの先に看板と石柱があり左折し正面。約640年前、康安年間(室町時代)のこと、鎌倉・建長寺の開山、大覚禅師のお弟子の友獄和尚が行脚中に原の浜辺にさしかかりました。その時、海の響きに感応道交して身心脱落(しんしんだつらく)。歓喜雀躍して、念持仏の虚空蔵菩薩を奉安し一堂宇を建立しPhoto_24 ました。その場所が砂州の上にあり、満潮の時にはあたかも海の上にあるかのように見えたので、山号を海上山としました。江戸時代なかば、白隠禅師の道友(どうゆう)であった、大義(だいぎ)和尚(当山準開山)によって清見寺(せいけんじ)末となり、妙心寺派となりました。このような開創の因縁により、当山は海と御縁の深いお寺で、海の神様、金毘羅山大権現Photo_25 を鎮守神としておまつりしています。昔、駿河湾ではマグロやカツオなどの漁が盛んでした。お祭りには大漁や海上安全を祈願する漁師が、地元のみならず西浦方面からも舟でお参りし、にぎわったと伝えられております。近年、金毘羅堂も再建され、毎年5月の最終日曜日に開催される例大祭には、赤ちゃんのすこやかな成長を祈願する恒例の「奉納泣きずもう」がPhoto_26 行われます。江戸時代、お隣の松蔭寺には、日本臨済禅中興の祖として仰がれる白隠禅師の指導を求め、全国から修行僧が参集。その数、数百であったと記録されています。その折り、当山も宿坊として使用されました。修行者が松蔭寺へと参禅にかよった道が今も残っており「白隠道」と称されています。場所 沼津市大塚299

Img_1709 66【松陰寺(白隠さん)】長興寺から暫く行くと石柱がある左折正面にあります。一休や沢庵和尚と並んで庶民に親しまれた江戸中期の名僧 「白隠禅師」(1685~1768)ゆかりの寺です。 臨済宗の古寺で、歴史は約700年あり、名僧白隠が住職になってから特に有名である。現在は臨済宗白隠派大本山である。「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」とうたわれた【白隠禅師】は、駿河国原宿長沢家の3男として貞享2年(1685)に生まれ、幼名を岩次郎といった。10歳で出家14歳で慧鶴の名を得て19歳からは諸国修行を重ねた。1704年美濃大垣瑞運寺~Img_1728 宝永3年伊予松山正法寺~宝永5年越後高田英厳寺~信濃飯山正受老人~1712年遠江龍谷寺~1714年伊勢山田建国寺~若狭円照寺~河内法運寺~和泉蔭凉寺~信濃保福寺~1715年美濃巌滝山~1716年父の病で松陰寺に戻る。享保2年(1717)松蔭寺の住職となり、翌3年34歳の時京都妙心寺の第一座となった。その後、禅の大衆化を図り、ついに50Photo_27 0年に1人と言われるほどの高僧となり、臨済宗中興の祖と仰がれた。その他白隠は禅画を確立した事でも有名 好んで釈迦,観音,達磨等を描きその名も高い。「擂り鉢の松」特に親交の深かった備前岡山池田氏は白隠の求めに応じて備前焼の大擂り鉢を贈りました。白隠はある日、庭の松が台風で裂けたため、雨よけにと擂り鉢をその裂け目にかぶせました。松はこの擂り鉢をのせたまま育ち、今も「擂り鉢の松」として親しまれています。原宿の旧本陣(渡辺本陣)の門と松が、松蔭寺内に移築されています。山門手前に「白隠の里案内図」が設置(2008年3月)されました。

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