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2008年3月24日 (月)

【ぶらり近くの東海道】沼津編Ⅵ

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ぶらり近くの東海道】沼津編 Ⅵ

Photo_928【三枚橋】27から旧国1に出る、暫く西進すると三園橋交差点(国道414号と交差左狩野川を渡ると沼津市役所・沼津御用邸方面)に出るので歩道橋を旧国1南側に渡り右に降りるとすぐに「三枚橋」があります。小さな橋なので見逃してしまいそうです。鎌倉時代にはこのあたりに車返宿という宿場があったようです。沼津宿は戦国時代の 三枚橋城・江戸中期沼津藩が出来て沼津城の城下町となります。沼津宿が近世東海道の宿となったのは、他の多くの宿と同じように慶長六年(1601)といわれます。当時、沼津には三枚橋城があり、狩野川と接してPhoto_8いた為、東海道は三枚橋城を北側に迂回していたそうです。その頃の沼津宿は、三枚橋町と本町の二町に分かれていましたが慶長19年(1614)三枚橋城主大久保忠佐が死去すると、後継者不在のため同城は破却され、その後、狩野川沿を通る現在の川廓通りが出来て東海道になったようです。その頃の沼津宿は(城跡に新たに上土町が出来て)三枚橋町、上土町、本町の三町から成っていました。再び歩道橋を北に戻り50m程行くと(通りの向側Photo_7は市立図書館)「稲荷神社」があります。三枚橋というのは、現在の三園橋際に流れる貉川(むじながわ)に架かる(昭和28年築)橋で、元々は石が3枚架かっていたところからついた名前だという(神社前の説明版に記載されている)今もその「1枚がこの稲荷神社に残っています

Photo_10 29【城岡神社・沼津兵学校跡】28の隣レンタカー会社を右折し西に(駅前通り)向かうと右手にあります。城岡神社が鎮座している場所は、かつて沼津城の二の丸の地であった。昔から城の一丘に縁起不詳の小祠があったというが、文政 7年(1824)、沼津城主水野忠成が社殿を建立、11代将軍家斉によって伏見稲荷から宇迦之御魂椎神(うかのみたまのかみ=お稲荷さん)を勧請して城の守護として祀り、稲荷神Photo_11社と称された。以降、毎年大祭の際には庶民の参拝も許されたという。
 明治維新を迎えて廃藩、そして沼津城が廃城となると、城内区民の守護神として 祀られることになり、明治 7年(1874)、旧幕臣達の心の拠り所として東照宮(東照大権現=家康公)を相殿に勧請、以後、「権現様」の愛称をもって崇敬されるようになるが、同36年(1903)には、「稲荷様」とも「権現様」とも称されていたものを、「城岡神社」と改称した。現在の城岡神社付近にあった水野藩の殿舎(沼津城二の丸)を利用して【沼津 兵学校】が設けられた。最初は徳川家兵学校と称し、後に沼津学校とも呼ばれた。明治元年(1868)将軍家の駿府70万石への移封が決定されると、江戸幕府が残した厖大な書跡・器械や優れた人材の活用を図るため、旧幕府陸軍の幹部を中心に兵学校設立の準備が開始された。その計画は阿部邦之助が立て、江原素六の協力によって進められたという。同年12月に学校の組織・規則を定めた「徳川家兵学校掟書」「徳川家兵学校附属小学校掟書」が制定され、翌明治2年正月に開校した。初代頭取には当代第一の啓蒙学者といわれた西周が招聘され、欧米の近代的学問、文化を採り入れ、その水準は当時の最高を示すもので、全国から優秀な人材が沼津に留学した。特に語学と数学はすぐれ、各学科の質の高さは全国的な評価を受けた。生徒Photo_12は原則的に静岡藩士に限られたが、員外生として福井・徳島などの他藩からの留学生も受け入れた。また、同校の予備教育機関として設けられた附属小学校は、近代的小学校の先駆といわれている。これら先進的な学校制度や優れた教育内容は、全国的にも注目を集め、他藩にも影響を与えたが、廃藩置県後の明治4年(1871)9月、兵学校は兵部省の管轄となり、同年12月には陸軍沼津出張兵学寮と改称され、陸軍兵学寮の分校となった。そして、同5年(1872)5月には東京本校に合併・吸収され、ついに廃校となった。現在城岡神社境内に明治27年(1894)9月、徳川家旧臣によって建てられた沼津兵学校の碑と、昭和15年(1940)、沼津兵学校創立70周年を記念し、当時沼津郵便局横に建てられたこの碑が、その後移設され建てられている。(沼津市HP)

Photo_7 30【中央公園・沼津城本丸跡】29から駅前通り(燦燦通り)を左折、大手町交差点を渡り左に曲がると中央公園が右にあります。ここには【沼津城本丸跡】の石碑が立っています。沼津城には慶長以前の「三枚橋城」と、安永以後の新城「沼津城」がありました。三枚橋城は、天正5年(1577)武田勝頼が後北条氏の戸倉城に対抗しPhoto_8 て築城し、高坂源五郎昌信に守備させたという。武田氏の滅亡後の天正10年(1582)、徳川家康の命により松平周防守康親が城主となり、天正18年(1590)には豊臣秀吉の家臣中村一栄が城主となっています。その後、慶長6年(1601)大久保治右衛門忠佐が沼津藩の初代藩主となるが、同18年(1613)、忠佐の死後世継ぎがないため三枚橋城はわずか十二年で廃城となり、以後160余年間沼津に城はありませんでした。
安永六年(1777)、水野忠友に沼津藩二万石として城地を与えらPhoto_9 れ、城跡に、また、城が築づかれることになった。それが沼津城で、狩野川に隣接し、天守に相当する三層の櫓の本丸、その北西に二の丸三ノ丸が造られ、二の丸に御殿を置いた姿である。沼津は城下町として発展し、城の南北は現在の静岡銀行沼津支店から沼津駅の手前までで、大手門は静岡銀行の西むかい側に造られ、本丸は中Photo_10 央公園辺りにあった。水野家はその後加増を受け、水野家五万石の大名として、幕末まで八代続いた。歴代藩主は忠友・忠成(ただあきら)・忠義・忠武・忠良(ただなが)・忠寛・忠誠(ただのぶ)・忠敬(ただのり)と続くが、忠敬の時明治に至り、徳川氏の駿河移封に伴い、水野藩は菊間(市原市)に移り、城は沼津兵学校の校舎に使用された。

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