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2008年3月

2008年3月31日 (月)

【ぶらり近くの東海道】原編Ⅱ

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ぶらり近くの東海道】原編Ⅱ

Photo_15 60【神明塚古墳/神明宮】カメラの浜野JR片浜駅の手前右折、民家の生垣に「神明塚古墳入口」と書かれた小さな表示板。突き当たりに小さな社が墳丘の上に建っている。この古墳は伊勢の流れをくむ神明宮を古墳の上に祀ってあるので神明塚古墳と云われている。古墳は前方後円墳で周囲に堀をめぐらせ後円部の方が前方部より高くやや古い形をしている。Photo_16 前方部は崩れて周囲の堀はほとんど埋没している。長さは54mあり沼津市内では最大の古墳である。長塚古墳とともに市内に残る「三大古墳」の一つで五世紀後半のものといわれる。場所 沼津市松長364   

61【松長陣屋跡】街道沿い神明宮手前付近 街道沿いの神明宮の手前辺りに位置していたという。松永村は元禄11年(1698)荻野山中藩領となり、ここに陣屋を構えた。旧陣屋の裏門は蓮窓寺に移築されたが現在は新しいものに建て替えられています。

Photo_17 62【祥雲寺】片浜駅を過ぎ今沢に入り暫く行くと右側にあります。臨済宗妙心寺派 永禄元年(1558)正親町(おおぎまち)天皇の御代、久松和泉守が、鎌倉建長寺より秀江禅師を迎え、今沢の地に菩提寺として祥雲寺を建立された。久松和泉守は菅公(菅原道真公)ゆかりの大名で、境内には天神様を祀っている。千百余年の昔承和3年(836)、天台宗第2世慈覚 Photo_19 大師円仁(えんにん)法師が、巡錫(じゅんしゃく)の折、疫病に苦しむ人々の難儀を救おうと一心に薬師如来を信じて一刀三礼祈願を込めて彫られたのが、今沢薬師如来です。昭和55年に、本尊薬師如来、脇仏の修復もなり中川貫道(なかがわかんどう)老師(鎌倉建長寺前管長)を戒師に拝請し御開帳授戒会が厳修され、以来毎年9月12日薬師如来が御開帳されるようになり祭典は復興した。場所 沼津市今沢364

Photo_14 63【東木戸見附跡】神明神社横の通りを渡ったカーブミラーの下に説明版が有ります。ここから原宿に入り西木戸までの距離は660間(1.2k)周辺を含めると24町42間(2,6k)だった。「東海道分間延絵図」で見ると神明神社前辺りから原宿となっている。

2008年3月29日 (土)

【ぶらり近くの東海道】原編 Ⅰ

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ぶらり近くの東海道】 原編Ⅰ

Photo_5 53【正覚寺】臨済宗妙心寺派、中子諏訪バス停からすぐにあります。正覚寺は今から約三百年前元禄二年(1689)小諏訪の山田家より寄進された現在地に一院を落成することができました。、原の徳源寺第九世方室玄策禅師を開山に迎え、小諏訪の旧東海道沿いに徳源寺の末寺「自覚庵」として創建されました。沼津空襲で爆弾の直撃を受け堂宇は全焼し、Photo_6 古い記録はすべて失われましたが、徳源寺より譲り受けた方室和尚直筆の『自覚庵薬師如来縁起』が現在当地に残されています。昭和四十六年、本堂再建に伴い、「普門山 正覚寺」と寺号を改めました。場所 沼津市子諏訪518-1

Photo_7 54【清玄寺】高野山真言宗、東大諏訪バス停先左側。寛元2年(1244年)清玄法印に依り開山、山号を浮島山清玄寺と称し高野山真言宗に属し金剛峯寺の末寺浮島山と号するに依り往古は駿河の郷に於いては相当の寺格、勢力を以って居たのであったが当時勢の世は、戦国武士は擧げて顕教の禅宗に帰依し、平民又浄土の易行に従い、時の真言宗は貴族佛教として都、京都に英華をほしいままにしていた。安永年間ついに浄土宗に改宗やむなし、となり百年の間、千本乗運寺末寺となったが当寺12代住職観法印により相方の了解を得て明治25年再び真言宗と成り今日に至る。昭和38年、本堂及庫裏の新築を行い同年7月高野山中井竜瑞管長をお迎えし盛大な落慶供養をなし山容一変し現在の寺影と成る。場所 沼津市大諏訪160

Photo_8 55【大諏訪八幡宮】54から200m程行くと入口があります。創建は不明ですが安政7年以前とされます(天正3年武田氏家臣により建立されたという説も)本殿は江戸中期、社殿前左に湿地を開拓した時の記念碑があります。社殿左奥に春日大社・浜宮社、宝永6年銘の石塔があります。東海道近くに鎮座する諏訪神社。
    天正3年に武田氏家臣によりこの地に建立されたと言う
56【栄昌寺】日蓮宗、日蓮宗富士川町松野の永精寺19世となった珠光院日宝が慶長5年(1600)に開山。当初は草庵だったが享保2年(1717)第13Photo_9 世智眼院日光が客殿を建立した。明和3年(1766)四菩薩、四天王など12体の仏像が奉安され享和3年(1803)に庫裏、明治39年に本堂が建てられた。境内右には昭和17年に建てられた七面大明神、鬼子母尊神、清正公大神祇を祀る七面堂がある。その横奥には安永8年(1779)文政9年(1826)の日蓮大菩薩の文字碑や明治23年(1890)昭和56年の題目碑、境内左には日蓮像もある。他に樹齢300年以上と推定される蘇鉄がある。明治9年(1876)向かいの片浜小学校(大諏訪41)の前身である有斐館が置かれた。 場所 沼津市大諏訪222

Photo_10 57【吉祥院】本門法華宗、寛文5年正月(1665年)に沼津市岡宮の大本山光長寺の末寺として本山第25世日淳聖人が創建されました。
 元和(1615年)の頃、片浜大諏訪の海岸で漁業の網の中に天神様の御木像(約30㎝)が入り、そのお姿の神々しさに網元の浅沼家で大切に祭られておりましたが、寛文5年光長寺25世貫首日淳聖人が師範として仰Photo_11 ぐ日簉上人の隠居寺を創建するに当たり、天神堂を建立し吉祥院と称し、以後御神体を大事にお祭りしてきました。明治初年の廃仏毀釈の神仏分離令が出されましたが、その難を免れ神仏習合のまま現在に至っております。御神体には宝徳元年5月(1449年)の年号が記されております。御開帳は50年に1回とされ、平成14年に1千百年祭があり、記念事業として本殿を建立し御開帳いたしました。学問の神様として、又地域の守り神様として篤い信仰を集めております。場所 沼津市大諏訪212-1

Photo_12 58【松長一里塚跡】57から暫く行くと民家のブロック塀の間に石碑があります。「大概帳」に「左之塚大諏訪村 地内 木立 榎松 右之塚松永村地内 榎」とあります。この辺りは沼津と原のほぼ中間に位置しています。左右の塚は取り壊され今はありません。この石碑は平成16年建立で「松長一里塚跡碑」と書かれています。大諏訪と松長の境にあったので大諏訪一里塚ともいわれています。

59【蓮窓寺】日蓮宗、58から暫く進むと駐車場がある左折すると山門がPhoto_13 ある。寛文2年妙海寺20世修善院日根が開山。当寺の陣屋門は(山門)平成2年蓮窓寺本堂、書院、七面堂、庫裡、新築の際に取り壊され現在の山門が新築された。もともとはこの松長地区に萩野山中藩主・大久保氏の陣屋の裏門を移築したことからその名が付けられ沼津市の文化財と言われていた。現在、市教育委員会に寄贈され保管されている。

2008年3月28日 (金)

【ぶらり近くの東海道】沼津編Ⅹ

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ぶらり近くの東海道】 沼津編 Ⅹ

Photo 48【妙伝寺】法華宗、本山は岡宮光長寺 慶長9年(1604)日典上人によって創建され た。日典上人は、俗名を市川七郎左衛門家吉(いちかわしちろうざえもんいえよし)といい、慶長6年(1601)沼津2万石、三枚橋城主となった三河譜代(ふだい)の徳川氏の家臣、大久保忠佐(おおくぼただすけ)に仕えた武士。妙傳寺には【忠佐公の墓】があり、慶長9年12月Photo_4に忠佐公より寺領を寄進されています。又、大久保家は跡継ぎに先立たれて、慶長18年忠佐公が没すると一代限りで断絶してしまうのですが、その後、元和3年4月には、忠佐公の屋敷跡が長野九左衛門より妙傳寺に与えられています。場所 沼津市東間門3-4-4

Photo 49【六代松の碑】平清盛の孫、平維盛の遺子六代御前が、平家一門の滅亡に伴い北条時政に捕らえられ、鎌倉に連行される途中、千本松原で首を切られようとした際、文覚上人の命乞いによって助けられたという「平家物語」の故事に由来している。千本松原北よりの東間門の土地に、130年ほど前まで一株の大きな松があったといわれている。この松を土地の人は「六代松」と称し六代御前に関わりを持つ松として親しまれてきたが、松が枯死したので天保12年(1841)に沼津医員駒留正隆の選により枯れた松の傍らに記念碑が建てられた。

Photo_2 50【舟仙の墓】本職は江戸時代の彫刻師、秀月の弟子であるが、画・俳句など多芸の人であった。俳諧師種玉庵連山を訪ね、これが機縁となり沼津に居住する。酒を好み酒にまつわるエピソードも多い。沼津藩水野氏に召され馬の彫刻を命ぜられた。舟仙の作品は現在金剛寺などに残っている。

Photo_3 51【金剛寺】妙心寺派、金剛寺は、市内西部に位置し、前に千本松原、駿河湾、北に愛鷹山を望む住宅地にあります。開祖が文覚上人であり、本尊様が大日如来であることから、元は真言宗の寺院であったと伝えられています。文治年中(1185)に文覚上人が御本尊大日如来像を安置し、当寺を開創しました。天文年中(1532)に至って、今川義元の令弟雪Photo_4 斎(せっさい)長老が再建しました。天正9年(1581)から百年余中絶し、天和2年(1682)に、沼津市幸町妙心寺派永明寺より鐵舩玄迪和尚が入寺し、妙心寺派の寺院となり現在に至っております。境内にある稲荷堂には、当山の鎮守様とて正一位稲荷大明神が祀られており、諸願成就のお稲荷様として、昔から篤い信仰を集めております。沼津市西間門518

Img_1774 52【八幡神社/傍示杭】「従是東」の沼津藩の藩境を示す領界石がある。「これは安政6年(1777)、水野出羽守忠友が沼津に領地を賜ったときに建てられたもので、下石田に『従是西沼津領』と刻まれた石柱と対になるもの」という。【傍示杭】沼津藩西入口間門八幡神社道路際に有ります。この傍示杭は半分に折れているが〔従是東沼津藩〕の表示がしてあったと云う事です。

2008年3月27日 (木)

【ぶらり近くの東海道】沼津編Ⅸ

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ぶらり近くの東海道】 沼津編 Ⅸ

Photo 42【千本浜公園】公園入口の石柱は明治40年(1907)12月1日開園当時のもので、西園寺公望の書である。駿河湾に沿って松林が連なる自然公園【千本浜公園】は東海道随一の景勝地として、古くから知られています。美しい松林と秀麗な富士山、そして海の彼方に沈む太陽は文字通り風光明媚そのもの。千本松原は、戦国時代の「武田・北条」の戦いで切りImg_1756 払われたとき、千本山【乗運寺の開祖・増誉上人】が植えたものが今に至っていると伝えられています。またここは多くの文人とのかかわりも深く、千本浜公園には「若山牧水・井上靖・池谷観海・角田竹冷・明石海人」の歌碑や文学碑が建てられています。
 松林の中にある遊歩道は千本浜公園から原まで続いており、市民に親しまれるウォーキング・ジョギングコースとなっています。「潮の音プロムナード」は、沼津自慢の海辺の散策路です。多くの文人、著名人に親しまれた千本松原から志下海岸までの約6kmのプロムナードを、潮風といっしImg_1757 ょにそぞろ歩きしてみませんか。松林越しに富士山を見ながら多くの文学碑がある千本浜公園を散策し、若山牧水記念館を訪れ、さらに魚市場や我入道の渡しを利用して沼津御用邸記念公園まで続くウォーキングコースです(沼津市HP)

Photo_2 43【大聖寺】千本浜から浅間神社交差点に戻り左折し右にあります。文亀年間(1501-4)鎌倉建長寺より鏡山禅師を拝し沼津仲町開祖、7代後北条氏の乱に遭い全焼。その後法脈中絶、真言宗に属したが天正12年災害により寺運衰退、慶長12年沼津城主大久保右衛門忠佐より境内外地9石8斗寄贈、清見寺より説心和尚を招き、中興開山始祖として妙心寺に転宗。本尊は行基菩薩作の香木観音菩薩像あり、戦災にて焼失す。昭和51年本堂再建に際し、沢庵禅師記名の釈迦牟尼佛坐像(阿弥陀印指)入佛落慶す。

Photo_3 44【永明寺】臨済宗妙心寺派 足利3代将軍義満の代(およそ630年ほど前)に沼津の郷、春日岡(現在の下河原蛇松の地)に建立される。 開基無及禅師は、鎌倉建長寺開山蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)禅師の法を継ぎ、圓覚寺開山無学祖元(むがくそげん)禅師を宋の国から招聘(しょうへい)する特使となられた方である。開山無二禅師は、圓覚寺無学祖元禅Photo_4 師の仏光派に属し正宗禅師と勅謚(ちょくし)され明徳元年(1390)に示寂された。
その後、慶長16年(1611)狩野川の大洪水により諸堂を流失し、寺運衰退するが元和年中(1620頃)8代大清(だいしん)和尚(当山準開山)が、興津(清水市)清見寺説心和尚の法系を継ぎ永明寺の再興を図る。これより京都花園妙心寺派に属す。
その後、大いに人心の帰依を受け、慶安2年(1649)8月17日には、徳川3代将軍家光公より寺領15万石1斗余りの朱印地を賜り堂宇を再興されPhoto_5 る。萬治2年(1659)8月再び大洪水により諸堂を悉(ことごと)く流失する。再築を図るが志を遂げられず千本浜不動堂明星寺に仮寓し示寂す。
寛文中(1665頃)9代太傳(たいでん)和尚は、師の志を継ぎ水禍の地を避け、塩留城(沼津城)の南西(現在地)に寺域を定め再建した。
昭和20年7月17日に大東亜戦争の空襲で本堂及び諸堂を焼失する。時の23代宗眠(そうみん)和尚は、焼夷弾の中、本尊様を背負い池に沈め守り抜かれた。昭和39年24代大関(だいかん)和尚により本堂が再建され昭和56年には鐘楼堂も建立され境内も整備された。
Photo_6 火伏ひぶせの松(御幸の松)
 
永明寺には、高さ6尺余り東西6間半、南北4間半、枝数108枝の東海道一の名松「火伏の松」がありました。御用邸より昭憲皇太后様が6回行幸され「御幸(みゆき)の松」と呼ばれるようになりました。空襲により、焼失、現在2代目が育っています。(仏教會HP)


Photo_7 45【出口町見付跡浅間神社近くに出口町見付があったそうだ。沼津宿の西の出口にあたり、ここが沼津宿の中心の西はずれになる。少し行ったところに、出口町見付外の説明版がある。この場所の南側に出口町見付があったと書かれている。今でも地区の年配者はこの辺りを「出口」と呼んでいる。

Photo_8 46【蛇松緑道】かつて東海道本線沼津駅から沼津港へ貨物線が延びていました。正式名称は東海道本線沼津港貨物線ですが 終点の港と(蛇松貨物線の名前の由来は、狩野川河口付近に生えていた「蛇のように曲がりくねった松=蛇松」にちなんでいるそうです)と沼津駅を結んでいました。この線の歴史は非常に古く、静岡県 で最初の鉄道はこの蛇松線でした。Photo_9 (明治20年)当時工事が進められていた東海道本線(御殿場廻りの旧ル ート)の建設資材を運ぶために建設され、その後は沼津港で水揚げされる魚介類を運ぶために利用されまた。 廃止になったのは昭和49年です。この線路の跡は全線遊歩道として整備されて、地元の方々の努力もあり奇 麗に整備されています

47【慈光院】浄土宗慈光院は寛文13年(1673)に教誉臨相上人によって開設されます。境内にある延享3年(1747)に建てられた石塔の記録によれば当初は浄土宗捨世派の一心院の末寺であったようです。沼津の市街地をはずれて西の方、昔は東海道に面して小さなお寺がありました。これが慈光院なのですが、本堂の中に大きなお釈迦さまが安置されていたため、近所のみなさんは迦堂(しゃかどう)と呼んでいたようです。この釈迦堂Photo_10廬舎那仏(るしゃなぶつ)なのですが、高さが約2メートルもあるため、本堂中央の本尊さまの位置に安置されていました。この「廬舎那仏」は木造を彫って組み合わせた寄木造りで造られいて、内部に書かれいる胎内書(たいないしょ)によりますと、「作者は京都の仏師、天野朝重」「寛文12年の冬から制作をはじめ、13年の3月に完成」などのことがわかります。このように製作年代・製作場所・作者等が墨書銘で伝えられていることが貴重であるということから、昭和47年に沼津指定の文化財となりました。仏さまは4代将軍家綱公の時代に製作されたのですが、多くの江戸の方々の寄付によってできています。
本堂内に残る記録によりますと「釈迦如来造立の施主 武州江戸州」とあり、「本湊町1丁目 沼津屋孫兵衛」にはじまり、浅草・日本橋・本八丁堀などの町名、175名の方々の名前が残されています。どうして、沼津の地に江戸の人々が多額の財浄を寄進し、このような仏像を祀ったのかはわかりません。しかし、そんな謎もなかったごとく、お釈迦さまは今もおだやかなお顔をして静かに坐っていらっしゃいます。(HP)

2008年3月26日 (水)

【ぶらり近くの東海道】沼津編Ⅷ

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ぶらり近くの東海道】沼津編 Ⅷ

Photo_11 34【浅間神社】33から交差点を右折し次の交差点手前右にあります。地元では浅間さんと親しまれ、七五三・初宮参りなどの祈祷や例祭・夏越大祓式・初詣・節分祭など、多くの参拝者で賑わいます。 「木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)」をお祀りすることから、境内には桜の木が目立ち、2月下旬に開花する早咲きの桜は参拝者を驚かせます。古くよりPhoto_12 縁結び・安産の神として篤く信仰され、結婚式を始 め人生儀礼のお参りが多いです。同じ社には延喜式内社「丸子神社」も祀られ、剣・鏡・鍬など、鉄工芸の守護神「金山彦尊(かなやまひこのみこと)」を祀っています。例祭(9月15日)・夏越大祓式(6月30日)・初詣・節分祭には多くの参拝者で賑わいます。

Img_0410 35【真楽寺】 34の西側前にあります。浄土真宗大谷派 親鸞聖人を開基とする国府津の勧堂が北条時代の戦火を避けて富士郡蓼原村(現:富士市蓼原)へ移り更に天正年間(1573-1592)に現在地に移転した。本尊は阿弥陀如来。昭和20年の戦火で全焼し昭和29年に再建。現在はビルになっている。場所 沼津市末広町  寺院左側に昭和8年創業の和菓子屋いせや本店(幸町2、9:00-19:00第三水曜休)がある。粒あんの中に和三盆糖が入っている平作最中(大137円小95円)やそばまんじゅう沼津五万石(116円)などがあり沼津御用邸記念公園の特製菓子も作っている。

Photo_9 36【乗運寺】35から交差点を越え南に行くとすぐ右にあります。浄土宗京都知恩院の末寺で「三枚橋城主松平康親」、「沼津城主水野忠友」の菩提所である。旅の「僧長円(増誉上人)」が土地の人々の潮風の害に苦しむ姿を見てお経を唱えながら松の苗を植え続けた、人々はその行いと徳をたたえ草庵を建てた(1537年)庵は初め成鳴寺といわれたが乗運寺とPhoto_10 変わり現在に至っている。天正8年(1580)武田勝頼が北条氏政と対峙するため、兵を率いて浮島原に本陣を置き、北条方の伏兵に備えて千本松原の松を伐り倒させたため、土地の人々が被害を受け難儀をしていたのを、巡錫中の長円が心を動かされて松苗を植えたという説もある。ただ、伝えられる増誉上人の没年(天正8年)から考えると、増誉上人の植樹と関係のある合戦は、天文6~23年(1537~54)にこの地域で繰り広げられた、「後北条氏と今川・武田氏」による「河東一乱」と考えられる。
寺にはこのほか、千本松原をこよなく愛した歌人・「若山牧水の墓」、寺内で「斯道会」という漢文の講座を開いていたという「池谷観海の碑」などもある。平成6年「静岡県都市景観賞優秀賞を受賞」 場所 沼津市千本

Photo_13 37【東方寺】36のまえにあります。臨済宗妙心寺派 明暦元年(1655年)天岫雲(てんしゅううん)和尚再興にて開山。以前は円覚寺派の鎌倉円覚寺の末寺だったが現在は妙心寺派の興津の清見寺の末寺となっている。江戸時代より昭和50年頃まで清明丹東方寺目薬という漢方薬を製造販売しており切疵、胃潰瘍など塗ってよし、飲んでよしの万能薬とされ一時期は薬の売り上げで寺が運営されていたという。大正5年より80年余、座禅会と講座が行われている。場所 沼津市浅間町260

Photo_14 38【妙海寺】37から駅前(燦燦)通りに戻り狩野川永代橋交差点を右折し暫く行くと左にあります。日蓮宗の寺で、開基は山本重安、開山は日蓮の弟子中老僧日実である。日蓮真筆の十界曼陀羅3幅を本尊としている。正嘉元年(1257)8月23日、相模湾を震 源とする大地震があり、当時の首都鎌倉では数千人に及ぶ死傷者がでました。この震災の渦中にあっPhoto_15 た日蓮聖人は、地震が起こったのは人々の仏教信仰のあり方に誤りがあったからだと考えました。その考えを確かめるために、富士市の富士川のほとりにある岩本実相寺の経蔵に向かったのです。
翌正嘉2年(1258)正月、日蓮聖人は沼津に到着しました。伝説では海から舟で来られたそうです。そのとき沼津は大変風が強く、民家の方まで高Photo_16 波に洗われていました。沼津の人々の困り果てた様子を見た日蓮聖人は、千本浜付近にあった釈迦堂(如来堂)にて8日間にわたり法華経1部8巻の祈祷をし、津波除けを祈願しました。
祈祷が終了する8日目の朝、如来堂の脇に立つ松ノ木の枝に神々しい光が差し、八大龍王が現れました。八大龍王は日蓮聖人の祈祷を受けたPhoto_17 喜びを告白し、聖人に沼津を津波や高波から守ることと、法華経を信じる人を守護する事を誓いました。そしてその日から高波は治まりました。
その様子の一部始終を見ていた山本弥三郎重安は妻と共に日蓮聖人に帰依し、優婆塞日安(うばそくにちあん)という法号を戴きました。後に、日安は如来堂を改築して寺院と成し、日蓮聖人から御本尊を頂戴し、聖人の直弟子但馬公日實聖人を初代住職に迎えて妙海寺を創立しました。
妙海寺は現住職で54代目となり、730年余りの法灯を護り続けています。妙海寺を引退した後にお寺を創建したり再建した住職も多く、松長の蓮Photo_18 窓寺や函南の妙法寺、香貫の塩満寺、大平の円教寺などのお寺に、歴代の住職が深く関わっています。室町時代末から江戸時代の初期には寺領も1万坪を越え最盛期を迎えていました。古くは北条早雲、戦国期には武田信玄や北条氏康などから寺領を安堵された書状などが多く残っています。
平安時代作の釈迦座像や江戸時代の日蓮聖人像と、開山の折りに戴いた聖人自筆の大曼陀羅御本尊は今も受け継がれ、毎年1月8日の午前6時半、約30分間御開帳が行われます。(沼津市仏教會HP)

場所 沼津市下河原町 466

Photo_7 39【妙覚寺】37の南すぐです。日蓮宗の寺で、開山は日安、文永年中に創建された。寺伝によると、「平維盛の子六代は、仏門に入り文覚の弟子となって妙覚といった。建久年間文覚の謀叛に連座して、相模国手越川原において誅せられたが、その臣斎藤六範房が、六代の首級を抱いて千本松原に至り、以前の擬刑の地に埋めて、ひそかに下河原に移り住Photo_8 み、朝夕香花をたむけて六代の冥福を祈った。範房は正治2年(1200)に伊豆にのがれ住んだが、再び沼津に来住した。その孫に当たる利安は、日蓮が来沼して法を説くのを聞き、これに帰依して名を日安と改め、自宅を精舎として、満松山妙覚寺と号した。

Photo_5 ちなみに「あすなろ物語」では渓林寺として登場。井上靖の記念碑は門を入ってすぐの場所にあります。井上靖の碑文を中心に、井上、藤井、岐部、金井、露木の沼中時代の短歌や詩も刻まれています

思うどち 遊び惚けぬ そのかみの 香貫 我入道 港町夏は夏草 冬Photo_6 は冬濤]  井上靖

私は沼津中学時代、三学年に進級した大正一三年(一九二四年)四月から下河原町の妙覚寺に下宿させて貰った。正確な言い方をすれば、預かって貰ったのである。そして翌一四年四月に沼津中学校の寄宿舎に入るまで、一七歳の春から一八歳にかけて、妙覚寺を根拠地として、なんと自由に、少年らしい明暮を持たせて貰ったことか。妙覚寺には、たいへんお世話になった。と言って、お世話になったのは、私ひとりではない。私を取り巻いている友Photo_7人全部と言わなければならぬ。藤井寿雄、岐部豪治、露木豊、金井廣らの面々で、いずれも、少年詩人でもあり、少年歌人でもあった。詩を書いたり、詩を作ったり、香貫山を歩き廻ったり、千本浜で泳いだりした。この間の消息は「夏草冬濤」に詳しい。それから、いつか、茫々六十余年、藤井、岐部、露木の三君は故人になっているが、金井上はまだ健在で、顔を合わせる度に、遠い妙覚寺時代を偲び、自分たちはあのすばらしい青春の泉から出発したと、そうした思いを深くしている。平成二年六月  井上靖

場所 沼津市下河原町1147-1

Photo_19 40【長谷寺】今から千百余年前弘法大師が全国を游行なさってこの地に立ち寄られた折、当時の漁師が信仰していた観音様をお堂に安置しお祭りしたのが始り。平安時代朝廷直願により大和に初瀬(はせ)寺が立ちその後観音信仰が盛んとなり全国で百十余の長谷寺が生まれその一ヶ寺として現在に至っている。ご本尊は「十一面観世音菩薩」で頭に慈悲・慈愛・Photo_20 怒りの相を示す十一の顔を持ち私達人間の煩悩や苦悩を、お救いくださる。年1度4月に開帳の法要が営まれその際大曼荼羅が開帳されます。昔航海の安全を祈願して船主は無事帰還の礼に船の命綱と帆に霊像を写し奉納したのが始まりといわれる。大きさは200畳の綿布に精巧に描かれている。長谷寺は江戸時代より駿河一国三十一番札所に成っている。境内には杉田玄端の墓碑があります。所在地沼津市千本緑町(千本浜入り口に有ります)

Photo_3 41【本光寺・首塚】千本松原に隣接する本門法華宗【本光寺】日蓮大聖人が文永11年(1274年)車返しの里(現在の三枚橋付近)に霊場本光寺として開山したとの事。沼津城(江戸時代)築城の際、車返しの地より旧境内地八幡町に移転再興した。昭和25年千本の現在の地に移転した。本光寺の北角にある【首塚】 戦国時代沼津周辺では小田原北条氏と甲州Photo_4 武田氏の勢力争いが激しく特に天正8年(1580年)の千本浜の合戦は激戦であった。明治33年暴風雨で倒れた松の大木の下から多くの頭骸骨が発見され鑑定した結果この時代のものと確認された。地元市道町の人が今も霊を厚く弔っている。

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2008年3月25日 (火)

【ぶらり近くの東海道】沼津編Ⅶ

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ぶらり近くの東海道】沼津編  Ⅶ

Photo 31【川廓通り】30公園南の「あゆみ橋」横の階段を降りると【川廓通り】です。江戸時代の川郭町は、川曲輪とも書き、左方向の志多町と右方向の上土町との間にあり、東側は狩野川に接し、背後は沼津城の外郭に挟まれた狭い土地に由来して町名が付けられたとの説明がある。通りの左側には狩野川に接した船着き場があったという。伊豆Img_1377 からの荷が盛んに上げられ,江戸や江尻(今の清水)にも船が出ていたそうだ。港は永代橋のたもとまで広がっていたようで、今でも魚町や対岸の市場町の名が残っている。江戸時代からこのあたりは沼津の商業の中心地だったようだ。
近くに小さな水神社がある。かつては三枚橋城の中で、水神社は曲Photo_2 輪の守護神であり、狩野川洪水の守り神であったそうだ。今は通りも当時の石畳風に綺麗に整備されている。 

32【上土町・三枚橋城石垣】31川廓通りの西際、静岡銀行沼津支店を左折し駅前燦燦通りを南へ、この辺りは三枚橋城築城の際掘っPhoto_3 た土を積み上げた場所という事で「上土あげつち」となったらしい。江戸時代は商家が多く水運を利用した問屋街として発展した所でもある(説明版) 歩道には沼津出身の彫刻家石渡三夫のオブジェが並んでいる。又平成6年東急ホテル建設中に発掘された三枚橋城の外堀石垣が通りの数箇所で見ることができる。東急ホテルの狩野Photo_4 川護岸は憩いのスペースになっていて夏祭り花火大会やよさこい沼津、音楽ステージなどの催事もよく行われている。同じ場所にある「上土朝日稲荷神社」があります。三枚橋城築城の時、城地守護の為、稲荷・天神社を場内に祀ったのが起こりで廃城後沼津城主水野忠友が水野家守護の稲荷神社を新たに勧請したため上土裏通り旧城Photo_5 址古掘り跡に移された。明治4年には六軒町に、明治18年八幡神社境内に、後に現在地に移り上土のお稲荷さんと呼ばれている。

33【本町通り御成橋のところを右折すると通横町である。この右側に問屋場があったようだ。御成橋が明治になって架けられるまで、そこに は市場の渡しがあったという。東海道は通横町をすぐまた左折すると、かつての中心「本町通り」。今は道路も区画整理されているが、昔の東海道こImg_1470の屈曲する道路は城下町特有の形態である。本町、下本町、この辺りはかつての宿場町の中心で、元禄時代には通りの左右に本陣が2軒、脇本陣が4軒あったという。
清水助左衛門本陣 ・間宮喜右衛門本陣 ・彦左衛門脇本陣         ・市左衛門脇本陣 九左衛門脇本陣 ・重左衛門脇本陣 

元禄元年(1688)に描かれた沼津宿絵図によると通横町には問屋があった。本町通りの東側に清水助左衛門本陣(東本陣)が、Photo_6本町通りの西側に間宮喜右衛門本陣(西本陣)が建っていた。東本陣と言われた清水家は後北条氏に仕えた武将を先祖に持っており、近世初頭から幕末に至るまで沼津宿の本陣を営み、名主や年寄などを務めた家であった。文久三年(1863)将軍家茂上洛に際し差し出した文書によると、清水家本陣は間口18間半、奥行23間で、434坪あり、そのうち建坪は331坪であったそうだ。書院作りで、門、玄関を備えていた。


永代橋を左手に見ながら下本町の角を右折すると左右に神社、仏閣が並んでいる。
これも防衛線なのであろうか。すぐ右側に浅間神社、真楽寺、大聖寺、永明寺が、左側には、東方寺、乗運寺、西光寺、長谷寺、本光寺、妙海寺、妙覚寺が、少し離れた街道沿いには慈光院、妙伝寺が建っている。

2008年3月24日 (月)

【江戸・春想八人展】の紹介

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知り合いの画工,殿村さんをはじめ、江戸の下町に育った「もの作り」の八人の方々が

由緒ある沼津御用邸・東付属邸において展覧会を行います。

師匠から受け継いだ技・江戸の心意気を存分に披露する様です。是非足を運んで見て下さい。

 

江戸・春想八人展】出展者の紹介

 

Dscn0524 ①【てぬぐい 川上千尋 

 

染め絵手ぬぐい浅草「ふじ屋」2代目

 

asakusa.typepad.jp/2007/2007/02/post_52d9.html

 

 

 

Photo ②【木彫師  横谷光明

 

1952年(昭和27年)浅草の木彫職人の次男として生まれる。

 

www.yumeshigoto.gr.jp/mokucyou/hyoushi.htm

 

 

 

Photo_11 ③【人形師  藤村明光】 

 

昭和28年に東京本所で市松人形職人の家に生まれる2代目。

 

www.yumeshigoto.gr.jp/doll/doll-index.htm

 

 

 

 

 

Photo_12 ④【押絵羽子板西山和宏

 

 

 

 

 

 

 

1962年(昭和37年) 東京都 向島生まれ

hozonkai.com/kaiinshoukai/kaiin/

 

nisiyama/nisiyama.htm                     

 

 

 

 

 

         

 

 

 

Photo_13⑤【陶芸 木下栄司

 

木下窯

 

1963年生大分県西国東郡香々地街堅来3048-4

 

 

 

Photo_2⑥【江戸指物 渡辺彰】   

 

台東区竜泉3-25-4三代続いています。

 

http://www.yumeshigoto.gr.jp/

 

 

 

 

 

Photo_14

 

⑦【かんざし 三浦孝之】 

昭和42年墨田区生まれ四代目

 

 

 

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20060323

 

⑧【画工(えかき)殿村栄一】2代目

 

仏像の絵が中心です。

 

今回の代表です。

昭和36年東京生まれ地蔵画沼津志下で活動

 

www.hi-ho.ne.jp/hidariuma/

 

当日お茶席も設けるようです。御用邸の春を感じながら一服もよろしいですね。

展覧会   4月11日(金)~13日(日)

場所    沼津御用邸記念公園 東付属邸 (沼津市下香貫島郷2802-1)

時間    午前10:00~17:00 (最終日は16:00閉場)

【ぶらり近くの東海道】沼津編Ⅵ

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ぶらり近くの東海道】沼津編 Ⅵ

Photo_928【三枚橋】27から旧国1に出る、暫く西進すると三園橋交差点(国道414号と交差左狩野川を渡ると沼津市役所・沼津御用邸方面)に出るので歩道橋を旧国1南側に渡り右に降りるとすぐに「三枚橋」があります。小さな橋なので見逃してしまいそうです。鎌倉時代にはこのあたりに車返宿という宿場があったようです。沼津宿は戦国時代の 三枚橋城・江戸中期沼津藩が出来て沼津城の城下町となります。沼津宿が近世東海道の宿となったのは、他の多くの宿と同じように慶長六年(1601)といわれます。当時、沼津には三枚橋城があり、狩野川と接してPhoto_8いた為、東海道は三枚橋城を北側に迂回していたそうです。その頃の沼津宿は、三枚橋町と本町の二町に分かれていましたが慶長19年(1614)三枚橋城主大久保忠佐が死去すると、後継者不在のため同城は破却され、その後、狩野川沿を通る現在の川廓通りが出来て東海道になったようです。その頃の沼津宿は(城跡に新たに上土町が出来て)三枚橋町、上土町、本町の三町から成っていました。再び歩道橋を北に戻り50m程行くと(通りの向側Photo_7は市立図書館)「稲荷神社」があります。三枚橋というのは、現在の三園橋際に流れる貉川(むじながわ)に架かる(昭和28年築)橋で、元々は石が3枚架かっていたところからついた名前だという(神社前の説明版に記載されている)今もその「1枚がこの稲荷神社に残っています

Photo_10 29【城岡神社・沼津兵学校跡】28の隣レンタカー会社を右折し西に(駅前通り)向かうと右手にあります。城岡神社が鎮座している場所は、かつて沼津城の二の丸の地であった。昔から城の一丘に縁起不詳の小祠があったというが、文政 7年(1824)、沼津城主水野忠成が社殿を建立、11代将軍家斉によって伏見稲荷から宇迦之御魂椎神(うかのみたまのかみ=お稲荷さん)を勧請して城の守護として祀り、稲荷神Photo_11社と称された。以降、毎年大祭の際には庶民の参拝も許されたという。
 明治維新を迎えて廃藩、そして沼津城が廃城となると、城内区民の守護神として 祀られることになり、明治 7年(1874)、旧幕臣達の心の拠り所として東照宮(東照大権現=家康公)を相殿に勧請、以後、「権現様」の愛称をもって崇敬されるようになるが、同36年(1903)には、「稲荷様」とも「権現様」とも称されていたものを、「城岡神社」と改称した。現在の城岡神社付近にあった水野藩の殿舎(沼津城二の丸)を利用して【沼津 兵学校】が設けられた。最初は徳川家兵学校と称し、後に沼津学校とも呼ばれた。明治元年(1868)将軍家の駿府70万石への移封が決定されると、江戸幕府が残した厖大な書跡・器械や優れた人材の活用を図るため、旧幕府陸軍の幹部を中心に兵学校設立の準備が開始された。その計画は阿部邦之助が立て、江原素六の協力によって進められたという。同年12月に学校の組織・規則を定めた「徳川家兵学校掟書」「徳川家兵学校附属小学校掟書」が制定され、翌明治2年正月に開校した。初代頭取には当代第一の啓蒙学者といわれた西周が招聘され、欧米の近代的学問、文化を採り入れ、その水準は当時の最高を示すもので、全国から優秀な人材が沼津に留学した。特に語学と数学はすぐれ、各学科の質の高さは全国的な評価を受けた。生徒Photo_12は原則的に静岡藩士に限られたが、員外生として福井・徳島などの他藩からの留学生も受け入れた。また、同校の予備教育機関として設けられた附属小学校は、近代的小学校の先駆といわれている。これら先進的な学校制度や優れた教育内容は、全国的にも注目を集め、他藩にも影響を与えたが、廃藩置県後の明治4年(1871)9月、兵学校は兵部省の管轄となり、同年12月には陸軍沼津出張兵学寮と改称され、陸軍兵学寮の分校となった。そして、同5年(1872)5月には東京本校に合併・吸収され、ついに廃校となった。現在城岡神社境内に明治27年(1894)9月、徳川家旧臣によって建てられた沼津兵学校の碑と、昭和15年(1940)、沼津兵学校創立70周年を記念し、当時沼津郵便局横に建てられたこの碑が、その後移設され建てられている。(沼津市HP)

Photo_7 30【中央公園・沼津城本丸跡】29から駅前通り(燦燦通り)を左折、大手町交差点を渡り左に曲がると中央公園が右にあります。ここには【沼津城本丸跡】の石碑が立っています。沼津城には慶長以前の「三枚橋城」と、安永以後の新城「沼津城」がありました。三枚橋城は、天正5年(1577)武田勝頼が後北条氏の戸倉城に対抗しPhoto_8 て築城し、高坂源五郎昌信に守備させたという。武田氏の滅亡後の天正10年(1582)、徳川家康の命により松平周防守康親が城主となり、天正18年(1590)には豊臣秀吉の家臣中村一栄が城主となっています。その後、慶長6年(1601)大久保治右衛門忠佐が沼津藩の初代藩主となるが、同18年(1613)、忠佐の死後世継ぎがないため三枚橋城はわずか十二年で廃城となり、以後160余年間沼津に城はありませんでした。
安永六年(1777)、水野忠友に沼津藩二万石として城地を与えらPhoto_9 れ、城跡に、また、城が築づかれることになった。それが沼津城で、狩野川に隣接し、天守に相当する三層の櫓の本丸、その北西に二の丸三ノ丸が造られ、二の丸に御殿を置いた姿である。沼津は城下町として発展し、城の南北は現在の静岡銀行沼津支店から沼津駅の手前までで、大手門は静岡銀行の西むかい側に造られ、本丸は中Photo_10 央公園辺りにあった。水野家はその後加増を受け、水野家五万石の大名として、幕末まで八代続いた。歴代藩主は忠友・忠成(ただあきら)・忠義・忠武・忠良(ただなが)・忠寛・忠誠(ただのぶ)・忠敬(ただのり)と続くが、忠敬の時明治に至り、徳川氏の駿河移封に伴い、水野藩は菊間(市原市)に移り、城は沼津兵学校の校舎に使用された。

2008年3月23日 (日)

【ぶらり近くの東海道】沼津編 Ⅴ

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ぶらり近くの東海道】沼津編 Ⅴ

Photo 22【沼津日枝1里塚】21からほどなく右手に小さな公園が整備されている。そこに江戸から数えて29番目、およそ30里の【日枝1里塚】がある。ここは日枝神社の旧参道入口だったという。江戸時代の初期(慶長年間)、幕府は交通政策の一環として主要街道の整備を行い、従来の6町1里を36町1里に改めた。そして、街道1里ごとに道路の両側に塚を築き、その上に榎を植えて旅人の標識とした。日枝神社の旧参道の小丘は、旧沼津宿の面影を残している唯一の一里塚跡で、もとは反対側の狩野川の方にもあったと思われるが、現在はない。江戸からこの一里塚までの距離は、30里9町ある。伏見一里塚からの距離が合わないが、沼津宿になるのでその手前につくられたものだろうという。
ここに植えられた榎は、つい近年まで残っていたが、枯死してしまい、新しい立木に植え替えられている。

Photo_2 23【玉砥石】22の1里塚と同じ公園にある。古墳時代(1000~1500年前)この地方に装身具の玉類を作るのを業としていた人たちが住んでいた玉造郷という村があったといわれ[承平年間(931~938)に編纂された和名類聚抄に、駿河国駿河郡に玉造郷の名があり、香貫地区(ここより南)一帯で、玉が生産されたという説がある]この石は、その人たちが玉を磨くのに使用したものと思われている。この大小二つの柱状石には数条の直線的な溝があり、これは古代に玉を磨いた痕跡であると伝えられているが、詳細は不明である。。 一里塚公園内にあるこの玉砥石は県指定有形文化財(考古資料)に指定されており、近くには式内社(延喜式記載の古社)の玉造神社がある。

Photo_3 24【玉造神社】23から少し歩き狩野川にかかる黒瀬橋を渡ると(香貫側)のすぐ左にある。今から1000年前に建立され、香貫地区では楊原神社・大朝神社と共に由緒ある神社です。玉造郷は一千年以上の昔 平安朝初期に伊豆と駿河の国境として狩野川の辺り香貫山麓一帯を指し玉造部氏族が住んでいた集落跡と言われています。玉作部は朝廷に貢納する丸玉や服飾用の勾玉管玉等を造る職業的部民で古代において祭祀用には欠くことのできない重要な役割をもった氏族でありました。全国に数少ない玉造郷として諸文献に記載されているとの事です。  場所 沼津市黒瀬町

Img_0961 25【霊山寺】24の横交差点を南に進むと大杏の木が見えてくる。そこが地元では【霊山寺(れいざんじ)】と呼んでいる曹洞宗永平寺派の寺。当寺は西暦1557年宗祖の道元禅師が当寺に招かれ中興開山になったといわれます。境内には県下で4番目に古い(指定24から黒瀬橋下交差点を香貫山方向の南へ暫く行くと大銀有形文化財)梵鐘が有るこの鐘は青銅製で表面に貞治三年(1364)の銘Img_0955 があり、引佐郡細江の長楽寺、静岡市興津清見寺、韮山の本立寺の梵鐘についで静岡県で四番目に古い物で県文化財に指定されています。銘文によると最初は遠州府中(磐田)の蓮光寺に奉納、後に三河岡崎の法蔵寺さらに(1505)浜松の普済寺に移されたという事です。いつ頃霊山寺に移されたかはわかっていません(梵鐘の説明版に記載)。墓地には変形宝筺印塔が4基、五輪塔が3基あり、市指定史跡に指定されている。宝筺印塔は本来「宝筺印陀羅尼経」を納めるものであるが、日本では供養塔また墓塔として作られている。4基あるうちの2基には嘉元2年(1304)、Img_0198 正和3年(1314)の年号が刻まれ、紀年銘を有する石塔としては、県下有数の古いものである。また、五輪塔は空、風、火、水、地の五大を、団、半月、三角、円、方の五輪にあて、順次積み重ねて塔としたもので、もとは舎利(仏骨)奉安のためのものであったが、後に転じて墓標となっている。藤原末期から作られ、鎌倉時代に盛んになった。中央の大きな五輪塔の下からは、青銅製の蔵骨器が出土しその銘によって、元享3年(1323)に亡くなった成真大徳という僧侶の墓であることが判明した。本県の場合、中世の蔵骨器は陶製のものが主であるので、青銅製のものはImg_0773 珍しい。県指定有形文化財に指定されています。墓地には、内膳堀を造った[植田内膳]の墓がある又裏の香貫山香稜台と近くの狩野川大橋たもとに内膳の記念碑がある。本堂は昭和40年に現在の鉄筋コンクリート造りになった又山門は市の有形文化財に指定されています。 

所在地  沼津市上香貫(香貫山上り口近く)

26【香貫山香貫山は市民に親しまれている沼津の山、沼津駅からImg_07762.5kmにあります。ここを基点に 横山~徳倉山(象山)~鷲頭山~大平山と続く沼津アルプスのスタート地点でもある。伊豆連山の北端に位置する山で、海抜193メートル。眼下には沼津市街と駿河湾に注ぐ狩野川が一望出来ます。富士山の眺めも素晴らしく三島市、長泉町、清水町も見渡せます。春には桜の名所として市民に親しまれ、夜景スポットしても訪れる人も多い所です。中腹の香陵台には、沼津市慰霊平和塔(五重塔は日清、日露、第一次、第二次世界大戦における沼津市出身の戦没者および戦死者を祀り、併せて世Img_0779界恒久平和を祈念して慰霊平和塔として建てられた。)若山牧水の記念碑(牧水は この香貫山の麓に住んでいた事がある)植田内膳碑が建っており、ハイキングコースにもなっています。

Photo_527【日枝神社】25から黒瀬橋を戻り沼津警察署の前の横断歩道を渡り斜め左沼津駅方向に少し行くと右側にあります。平安時代からの神社で山王社とも称され、人々には山王さんとして親しまれてきた。平安時代から鎌倉時代にかけて、沼津周辺は、大岡荘、金岡荘、阿野荘、三津荘など藤原氏の荘園になっていた。[大岡荘の荘官であった牧氏は武士となり、牧宗親は源平両氏に仕えた。宗親の娘、牧の方は北条時政の夫人となったが、鎌倉幕府の内部抗争に破れて滅亡した。阿野荘を治めていた阿野全成(義経の兄)も同様に北条に敗れている].関白藤原師通の領地Photo_4であった大岡荘は、嘉保2年(1095)、源義綱が比叡山延暦寺の僧を殺害するという事件があり、これに端を発し、師通は僧たちの呪詛により山王の祟りを受け、38歳で死亡した。師通の母は近江国の日吉神社の分祀を請い、これに大岡庄のうち八町八反を寄進して祀ったといわれる。これが現在の【日枝神社】で、明治に至るまで近郷近在22か村の総鎮守Photo_6の神としてあがめられた。神社には国の重要文化財に指定されている「紙本着色山王霊験 記」1巻があり古文書類が数多く残されている。又境内には「芭蕉の句碑」がある。 境内左に天満宮、左奥に高尾山穂見神社。昭和7年銅製灯籠や石灯籠、鳥居は文久2年と昭和9年、狛犬は昭和3年。境内右に元沼津兵学校教授で大正初期日枝神社神宮になった佐野照房の謝恩碑がある。   場所 沼津市平町7-24

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2008年3月22日 (土)

【ぶらり近くの東海道】沼津編 Ⅳ

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ぶらり近くの東海道】沼津編 Ⅳ

Photo 18【耕雲寺】17からほどなく旧国1旧道と新道が合流している。この合流点に東海道であることを示す道標が立って久保川が交差している、以前は黄瀬川が通っていた場所で大雨が降るとしばしば黄瀬川の本瀬になってしまったと言う。確かにこの辺りだけくぼんでいる。合流点の右奥に耕雲寺がある。【耕雲寺】は臨済宗妙心寺派に属する由緒ある寺だそPhoto_2 うで、白鳳時代にさかのぼる大永年間(1520頃)に太岳和尚が阿弥陀寺を増改築して開山し、本尊は阿弥陀如来。北条との戦いで、武田信玄がこの地まで進軍した時にこの寺で休憩をとり、太岳和尚に授けたと言う一夜切の笛と菅原道真縁の天神像を寺宝としているとの事。

Photo_6 19【大岡新田川】18から少し行ったところに新田川がある。とても小さな川で見逃してしまいそうだが、実はこれは用水路である。当時、大岡の荘には水がなく、平坦な畑であった。貧しい農民はなんとか米のとれる豊かな村にしたいと、慶長7年(1602)に小林村、上石田・中石田・下石田村、黄瀬川村、日吉村、沼津村が協 Dscn0512 力して黄瀬川の鮎壷上流に牧堰をつくり、そこから水路を掘削したと言う(牧堰用水)下石田村を流れる部分は新田川と呼ばれ、東海道往還を横断するところには石橋を架け、新田橋と名付けられた。その後、浪人川など用水路は網目状に広がり、大岡の荘だけでなく沼津村、東間門村まで潤すようになると灌漑用水が不足し、正保2Img_0215 年(1645)牧堰の改良工事と門池を拡張して溜池とし、そこから水路を設置している(左画像・大正14年作成の駿東郡大岡村絵図、門池から発した多数の用水が村を潤している様子が良くわかる)大岡の荘一帯では飛躍的に米の収穫が増え、流域の人々に大きな恵みをもたらせた重要な水路であったと言う。この看板あたりも両側松並木だったようだ。江戸時代の下石田村の様子はルネサンストーアスポーツクラブ陸橋下歩道に「歴史マップ沼津市大岡」に記載されている。看板横5mには「東海道駿府まで15里」の矢印の付いた道標がありました。

Photo_3 20【平作地蔵】道標から少し行き二又路を左に再び旧道に入ります。暫く狩野川の土手と平行に歩くと平作地蔵尊】が左手にあります。いつの頃創建されたか明らかではありませんが有名な浄瑠璃「伊賀越道中双六」に出てくる沼津の平作にゆかりの深い地蔵尊としてその名を知られています。この地蔵尊は延命子育地蔵として長い間土地の人々の信仰を集めています。例祭は7月15日地元民の手で行われています。 場所 沼津市平町 

Photo_4 21【沼津平作地蔵と文楽】沼津市の千本松原。冬だというのに海岸沿いに果てしなく続く松林の緑は濃く、空を見上げると、とんびがのんきそうに輪を描いている。白砂青松とはまさにこのこと『伊賀越道中双六(いがごえどうちゅうすごろく)』より「沼津の段」は文字通り、沼津の街道筋が舞台。幼いころ生き別れになった老父・平作と息子・十兵衛。しかし二十数年ぶりに再会したとき、2人は敵同士の立場に立たされていた老父・平作と息子・十兵衛の悲しい情愛を描いた『伊賀越道中双六・沼津の段』は東海道五十三次のひとつ、沼津の宿あたりが舞台です。
Img_1374 〈『旦那(だんな)申し、お泊りまで参りましょうかい。…けさから一文も銭の顔を見ませぬ。どうぞお慈悲』〉沼津の街道筋を急ぐ十兵衛に声をかけてきたのがよぼよぼの老人足、平作。見ればつぎはぎだらけの衣服。かわいそうに思った十兵衛は荷物を持ってもらうことにするが、平作の足もとはおぼつかない。人のいい十兵衛は銭を払って自分が荷物を持つ-。人間国宝、竹本住大夫が語る平作の第一声は、その善良な人となりやその日暮らしの生活まで見事に映し出して笑いと涙を誘う。「一方の十兵衛も町人ではありますが、侍のように気骨のある男。すっきりした足取りに二枚目の雰囲気を出さねばなりません」。昨年12月の東京・国立劇場の文楽公演で十兵衛を遣った吉田玉女さんは言う。実は平作は十兵衛が幼いころ生き別れた父親。しかし再会したとき、2人は義理がからむ敵同士の立場。平作の娘お米の夫が仇と狙う沢井股五郎を逃してやったのが十兵衛だったのだ。娘のために十兵衛から何とかして股五郎の居場所を聞き出そうとする平作は、ついに十兵衛の脇差しで自分の腹を突き、冥途(めいど)の土産に聞かせてくれとすがる。Photo_5 〈『股五郎が落ちつく先は九州相良、九州相良。道中筋は参州の吉田で逢うたと人の噂』〉。実の親の命をかけた願いについに股五郎の居場所を教える十兵衛。文楽屈指の名せりふである。平作の自害を蔭で見ていた娘(数馬の妻)は、股五郎の行方を数馬に伝え、数馬は本懐を遂げる。

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2008年3月20日 (木)

【ぶらり近くの東海道】沼津編 Ⅲ

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ぶらり近くの東海道沼津編  Ⅲ

Photo 12海軍工作学校記念碑11を出て交差点を左折し南へ約400mタクシー会社手前左折10m道路を入った所にあります。昭和19年海軍の施設として建設された沼津海軍工作学校の跡を記念して平成10年に建てられました。場所 清水町長沢

Photo_213東海道長沢松並木12より戻り先程の交差点を左折すると左側に松並木が見えてきます。臼井国際産業玄関前の松の木の下に、【夢舞台東海道 【長沢松並木 】の道標があります。松並木は参勤交代の便を図る為植えられたようです。慶長九年二代将軍徳川秀忠の命により街道の大改修が行われ、この松並木もその際整備されました。街道を行き交う当時の旅人も風雨を防いでくれたり、道に迷わず歩けたり、松並木に助けられたでしょうね。今はおよそ100mくらいしか残っていません。

Img_1801_214智方(ちかた)神社】13松並木を過ぎるとすぐ右手にあります。武2年(1335)、足利尊氏により鎌倉に幽閉されていた後醍醐天皇の第三子である大塔宮護永親王(建武の中興に大きな役割を果たした人物大塔宮とも呼ばれている)は、北条氏の生き残りである北条時行が鎌倉を攻めたときに尊氏の弟である直義の命により部下の淵野辺義博に暗殺された。お側に仕えていた宮入南の方(藤原保藤の)は御首を柩に収め、ご他Img_1803界の状況を中央(南朝)に報告するため追っ手を避けて足柄街道を当地まで来たが、黄瀬川が増水しており渡るのが困難であったため、止むなく小祠の辺りに、宮の御首級を葬り楠を植えて墓印としたという。北条時行がこれを神社として現在にいたっているとの事。境内右には清水町内最大の樹木である「大きな楠」(高さ28m周囲7m根回18.8m)がある。社殿右に宇迦之御魂命を祀る穂見神社もある。鳥居左に天保3年(1832)右に明治43年(1910)の常夜燈があり社殿前の灯籠は宝暦8年(1758)のもの。狛犬は昭和15年(1940)境内には湧き水が流ている。

15黄瀬川橋】14からすぐに黄瀬川に出ます。橋の手前左の階段を下りると土手下に寛政元年(1789)文字だけの庚申塔を始め地蔵や馬頭観音、蛇塚など8基の石仏、石碑群がある。橋は慶安2年(1649)頃かけられたの最初で昭 和初期頃まで板橋だった。現在の橋は昭和38年築である。黄瀬川は全長31㎞で富士山東麓を水源とし狩野川に合流する。以前は木瀬川とも呼ばれ鎌倉時代は手前に木瀬川宿(黄瀬川宿)があって足柄路と箱根路の分岐点として賑わい江戸時代には立場になっていた。橋を渡ると清水町から沼津市大岡Photo_3に 入る。橋を渡ると左手土手付近何やら工事中です。しばらく行くと昭和8年清水町にて創業した和菓子屋で平成14年の第24回全国菓子大博覧会で生クリームどら焼の街道いち(126円)が金賞を受賞した光来堂がある。近隣の名所旧跡にちなんだ名前の菓子を作り対面石(126円)源氏双柿(126円)沼津宿(115円)柿田の湧水(157円)亀鶴姫まんじゅう(130円)などがある。

1Photo_46潮音寺・亀鶴姫の碑】旧道沿いに暫く行くと右側にあります。臨済宗妙心寺派 文和元年(1353)文紹禅師が建長寺末寺の普門院として創建し慶長年間(1596-1615)に妙心寺派の天心和尚が現地に移転し改称した。本尊は聖観世音で恵心僧都の作といわれる。本堂は昭和48年築。入って左側に元禄10年(1697)建立の「亀鶴姫の碑」がある。もとは弘仁年間(810- 824)弘法大師が観世音菩薩を刻み建立した一宇が起源の亀鶴山観音寺にあっPhoto_5たが明治12年に廃寺になり移された。 亀鶴姫は駿河の国大岡荘黄瀬川村の長者、小野善司左衛門の一人娘として生まれ、世に聞こえた美女であった。この亀鶴姫は曽我兄弟が工藤祐経の寝所に討ち入ったとき添い寝をしていたという。建久4年(1193)、富士の巻狩の折、その美麗を伝え聞いた源頼朝が強く召されたが応ぜず、18歳の春Img_1813黄瀬川の上流鮎壷の滝に身を沈めたという。姫は亀鶴観世音菩薩として潮音寺に奉られており、諸病全快の菩薩と言い伝えられている。
観音寺本尊だった亀鶴観世音菩薩石像も観音堂に移され境内左にある現在の堂は昭和20年焼失後平成3年に再建されたもの。境内左には安政4年(1857)六字名号碑などの石塔石仏もある。駿河一国33観音霊場33番札所、両国横道33観音霊場11番札所、東海88ヶ所観音霊場66番札所。場所 沼津市大岡434

Img_1951 17沼津領傍示杭】少し先のアパート前の駐車場横に「従是西沼津領」 と書かれた[傍示杭]が建っている。江戸時代、水野出羽守忠友が城主であった頃の沼津領の東端を示している。水野出羽守は安永6年(1777)に沼津藩主になっている。この時代、伊豆は天領で、韮山に代官屋敷跡である江川邸が残っている。この江川代官が治める天領と沼津領の境界だったそうだ(水野出羽守忠友は、10代将軍徳川家治の命により、代官江川太郎左衛門英征支配の天領の一部を引き継いでいる)。東海道五十三次之内 藤川・棒鼻ノ図にもあるように、この傍示石も初めは「木製の傍示杭」だったそうで、幕末になって作り変えられたという。傍示石は3面に同じ文字が刻まれており、沼津領に入ってくる人が見えるように建っていたそうだ。つまり、文字のない面を西側の領内に向けていたのだ。元文5年(1740)の「村明細帳」では、当院所在の久保には29軒の農家があったという。まさに沼津領の端だったのである。沼津市西間門にも、従是東(沼津領)と書かれた傍示杭がある。2つの傍示杭の間が当時の沼津領という。

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2008年3月19日 (水)

【ぶらり近くの東海道】沼津編 Ⅱ

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ぶらり近くの東海道沼津編 Ⅱ

Photo_47 【法泉寺】臨済宗 6から国1バイパスを戻り八幡交差点を左折し50m右折正面にあります。建長年間(1249-56)の開創と伝えられ明暦年間(1655-58)に再建。本尊は釈迦牟尼仏。境内左には子育観音や六地蔵があり天神、八幡宮などの石祠がありまた明治に廃寺になった宇都宮の英厳寺より移された十六羅漢像もあります。 場所 清水町八幡113-1

Photo_58 【秀源寺】曹洞宗 7より300mほど行くと寺の入口が有ります。創建は不明で慶長年間(1596-1615)の火災で記録も含め焼失し韮山の真珠院(伊豆の国市中條145-2)の住職により再建された。本尊は聖観世音菩薩。境内左に堂があり弁財天、白山妙理大権現、秋葉三尺坊大権現、豊川叱枳尼真天を祀っている。他にも境内左に六地蔵尊立像石仏、寛文9年(1669)三界万霊塔がある。 場所 清水町長沢22

Photo_69 【東光寺】8のすぐ先に入口がある。天文年間(1532-55)に鎌倉建長寺の末寺として創建され本尊は子育地蔵菩薩。他にも六地蔵をはじめとする地蔵、観音、三界万霊塔などの石塔、石仏がある。「地蔵横道21番札所」になっている。 場所 清水町長沢29

Photo_710 【八幡(やはた)神社】9東光寺のすぐ先に石鳥居がある。創建は不明で町内の熊野八幡社(現:小河泉水神社)から八幡を遷したとも頼朝が伊豆に八幡宮のないことを嘆きに京都石清水八幡を勧請したとも言われる。祭神は主神が応神天皇、副神に比売神と神功皇后。今川義元や北条家、徳川家からの朱印文書、家康が奉納した太刀、江戸時代初期に描かれた応神天皇肖像画など町指定文化財を多数所蔵する。社殿は総欅造の本殿を覆うように平成4年拝殿が作られ自動扉になっている。鉄棒、すべり台などの遊具もある。中鳥居は平成6年、その内側の灯籠はPhoto_8 平成7年、社殿前の灯籠は昭和17年、狛犬は平成2年のもの。場所 清水町八幡39

11【 八幡神社 対面石】 神社境内左奥にある二つの石。治承4年(1180)富士川の合戦で黄瀬川に陣取っていた頼朝(34歳)と奥州より駆けつけた義経(22歳)が初めて対面した際にこの石に腰掛けたと伝わる。横には何Photo_9 代目かのねじり柿が植えられている。対面の際に頼朝が食べようとした柿が渋柿でねじって捨てたら芽を出し幹も二本になりねじれて育った。頼朝はこの後も社殿を再建するなど境内の整備を行なった。境内左には頼朝を祀った白旗社がある。平成14年の頼朝公再建820年記念事業には社殿右奥に9つの境内社(水神社、水若社、広瀬社、神明社、若宮八幡、Img_1701 姫若社、高良社、桃沢社、熊野社)の祠や古くは源氏池と平家池と呼ばれる池があった中鳥居内側の場所に太鼓橋が再建された。

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2008年3月18日 (火)

【ぶらり近くの東海道】沼津編 Ⅰ

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ブログを始めて5ヶ月が過ぎました。実際にその場に行き、感じた事を文章や画像にして綴る楽しみが出来ました。どちらかというと美味しいものとか寺・神社・花等スポット記事を集めて載せていましたがこれからはストーリーがあるシリーズ物もいいな、など考え始めています。どれくらい先になるかわかりませんが纏めて本にでも出来れば尚一層励みにもなりますね。まずは【ぶらり近くの東海道】シリーズ箱根路ー三島宿ー沼津宿ー原宿あたりから始めてみます。東海道沿いの知らなかった史跡・文化財・再発見したいですね~

ぶらり近くの東海道】 沼津編 Ⅰ

Photo1 【千貫樋せんがんどい旧東海道三島加屋町を西へすぐに境川橋があります(境川は伊豆と駿河国の境にあたり文政11年(1828)の国郡全図にも箱根の関からここまでが伊豆国に入っている) 川を渡すようにコンクリート製の樋が横切っているのを旧道から少し見る事が出来ます。千貫樋は水田の水不足に困窮していた駿河の国の五カ村(現在の清水町玉川、伏見、八幡、長沢、柿田)の田地を灌漑するため国境を越えて伊豆の国小浜池の水を引き、この境川の低地にかけた樋です。樋の大きさは「増訂豆州志稿長」によれば、長さ二十五間(45.5m)幅一間(1.8m)深さPhoto_2 一尺五寸(45cm)高さ(4.2m)とあります。名称の由来は諸説がありますが、武田・今川・北条三家が同盟を結び、天文23年(1554)北条氏康の長女・蔵春院と今川義元の嫡子・氏真が結婚、今川と北条の和睦が成立した翌年に氏康から引き出物として楽寿園小浜池から水を引いて長堤を築きその水を駿河に疎通させたという説が広く知られています。江戸時代の街道図には、しばしば三嶋明神と共に千貫樋が描かれており、当時の旅人にとっても名所だったようです。当初は木樋でしたが震災(大正12年)で倒壊したため、後に再建され鉄筋コンクリート製に改修。 旧道からは少ししか見えません数軒先の路地から裏手に回り見ることが出来ました。

Photo_3 常夜燈境川橋を渡ると駿河国で現在の駿東郡清水町になります、1からしばらく行くと千貫樋バス停を少し過ぎた所の公園(新宿児童遊園地)前に弘化3年(1846)の常夜燈と説明板、夢舞台道標向かい宿がある。常夜燈には左右に駿河国に結びつきが強い秋葉大権現と富士浅間宮が刻まれており村人が防火の願いを込めて建てたとされる。当初は向かいの十字路の角にあり昭和初期には付近の神社の一画に置かれていたが平成13年の東海道400年を機に現地に移設された。常夜燈は街道筋に設置され一晩中灯火を点けておくもので駿河国では特に多く、すぐ先には八坂神社と天王様の出社祭事場所の立て札がります。

Img_1898 玉井寺(ぎょくせいじ)一里塚臨済宗妙心寺派 2から500~600m西にあります。永禄12年(1569)に伏見字金山に開創された寺で江戸時代に入り一里塚築造時に現在地に移転した。本尊は釈迦如来。境内に一里塚が片方あり江戸時代からの原型のまま保存されている。もう片方の一里塚は向かいの宝池寺にあり両方合わせ清水伏見一里塚と呼ばれます。他に境内入ってすぐにある明和4年(1767)三界万霊塔は「白隠禅師の書で他にも山号額、寺号額、達磨像掛軸、出山仏掛軸など禅師の遺墨を所蔵する。入口左や本堂左にも江戸時代の石塔、石仏があります。 場所 清水町伏見707

Img_1899宝池寺(ほうちじ)一里塚臨済宗妙心寺派 3の向かいにあります。元亀2年(1571)昌林宗久禅師により建長寺の末寺の普明山法智院として近くにに開創された寺で慶長7年(1602)一里塚築造にあたり現在地に移転、寛文年間(1661-73)に妙心寺派になり改称した。本尊は正観世音菩薩。境内に一里塚が片方あり昭和60年に原寸どおり復元整備されたものです。江戸時代には境内に茶屋もあり旅人の休憩所になっていた。本堂、庫裡、山門は昭和4年(1929)、薬師堂は昭和35年の築。本堂前の灯籠は平成6年のもの。

Img_0935柿田川公園・湧水群4の宝池寺沿いを南へ100m国道1号バイパス八幡東交差点を左折真っ直ぐ行くと右側にあります。柿田川公園「泉頭城址」は弘治年間(1555-58)北条氏康が武田氏防衛のために韮山城の外城として築城した城跡で秀吉の小田原攻めで北条氏が逃げる際に焼き払い廃城になった。元和元年(1615)家康がこの地を気に入り隠居御殿をImg_0072 造営しようとしたが着工より先に没したため中止になり江戸から大正にかけて近隣の者に開墾され続け現在は空堀や土塁がわずかに残るのみ。昭和61年に一時期汚れていた柿田川水系を守る一環として公園として整備され園内には遊歩道や水遊びが出来る湧水広場、貴船神社などがある。隣接する泉の館(伏見86)には備前様式の高野邸を中心に蔵造りの柿田川美術館、食事処、お土産屋があります。

6【 柿田川湧水群は富士山の雨雪が三島溶岩流の地下を通り長い年Img_0947 月を経て一日126万tの水量で湧き出る東洋一の湧水群で第1展望台と第2展望台から水が湧き出る部分(湧き間)を見ることができる。年間15度前後の一定した水温、ミネラルを含みそのまま飲める水質で環境庁の名水百選や朝日新聞社などが主催の21世紀に残したい日本の自然百選にも認定されている。約8500年前から湧き出ているとされここを水源とする柿Img_0092 田川は狩野川に合流する日本最短(1.2km)の一級河川。ミシマバイカモ、クレソンなど15科21種の水生植物と94科281種類の陸上生物が生息しトンボ15種などで環境庁のふるさといきものの里の認定を受けています。水の清らかさは心も清清しくしてくれます。

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