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2005年4月1日沼津市と合併した旧田方郡戸田村を11月に尋ねてみた。沼津市内から国道414号→県道17号→県道127号を通り戸田に向かいます。
09’10月戸田の世帯数は1,524世帯、人口3,658人、風光明媚な所です。
<見所紹介>
1「ロシア軍艦ディアナ号とプチャーチン提督」下田に停泊中のディアナ号は安政の大地震津波で艦底を破損した。イギリス・フランスに気を使い修繕場所に目立たぬ戸田港を選定した。ディアナ号を下田から回航中強風のため富士沖まで流され二度に渡り暴風が来襲沈没してしまった。既に上陸していた乗組員は陸路を通り戸田村にやってきた。艦を失ったプチャーチンは帰国の為の船の建造を幕府に申請し、スクーネル船一隻を約100日という短期間で新造し、安政2年(1855)戸田港を出航し帰国の途に ついた。本国へ戻る船をなくしたプチャーチン提督らロシア使節一行は、戸田の船大工や伊豆近在の大工たち多数の協力を得て、一隻の西洋型帆船を建造します。
ことばの不自由さ、習慣や技術のギャップ、多くの困難を乗り越えて建造された約100トンのスクーナ船に、プチャーチン提督は、村人への感謝 の意を込めて「ヘダ号」と命名したと伝えられています。日本で初めて建造された洋式帆船-ヘダ号。この船は、もともとプチャーチン提督以下、500名のロシア人が帰国するための船を、本国にとりに戻るためのもので、2本マスト、全長22m、幅7m、50人乗りの小さな帆船でしたが、造船国ニッポンへの階段をのぼるための大切な第一歩であったといえます。
【造船郷土資料博物館】ロシアの使節プチャーチン提督の関係遺品及びスクーネル船造船関係資料が県史跡指定になっている。(スクーネル船設計図3点、船建造関係書類10点、燭台等遺品、計45点)
「宝泉寺はプチャーチン提督の宿所」となった寺。記録によれば安政元年12月7日から安政2年3月22日まで105日間滞在)プチャーチン提督や皇族・上官の宿舎にあてられ、本堂や庫裡を使用した。プチャーチンはここで日ロ交渉や造船の指揮を執った。境内には「ロシア水兵の墓碑」がある。滞在していた水兵一名が病死墓地に埋葬された。宝泉寺は「枝垂桜」も有名。
「大行寺(日露交渉跡地)」浄土宗。代船建造のため当地に滞在していたプチャーチンのもとへ幕府は勘定奉行・「川路聖謨」を出向かせています。先に締結した和親条約改訂のためでした。川路は、大行寺を応接所に当て改訂交 渉を行いました。その後、大行寺は2度の大火で類焼、当時の記録は現存していません。現在の建物は旧水野領の名主、斉藤本家を移築したもので宝泉寺本堂につぐ村内最古の建造物と推定されます。建坪63坪余、書院造りの面影が窺える。境内の蘇鉄は根回り3,5m旧村指定文化財。
「戸田号造船地、日本洋式帆船発祥記念碑」戸田号を造船した所は「牛ヶ洞」と言う所で、県道の岬入口辺りに、この名前のバス停がある。造船資料博物館に向かう道路沿い(海側)に建っています。
戸田号を建造した戸田の職人のうちに「上田寅吉」や鈴木七介がいる。洋式船舶の造船技術を会得した彼らは長崎の海軍伝習所に招かれるなど技術を高く評価され日本の近代造船の発展に努めた。平民ではあるが給金を貰い、後に苗字帯刀を許されたという。
長崎伝習所一期生には「勝海舟」が居た、そして咸臨丸により、日本人だけで太平洋を横断している。 二期生には「榎本武楊」が居て、後の開陽丸の建造に携わる、間もなく明治維新となり、榎本と共に函館の五稜郭の戦いに敗れ捕虜になるが、明治三年釈放されて横須賀の海軍工廠の初代の工場長に成った。 又長崎の三菱造船所など日本の主な造船所を造製している。後のロシアのバルチック艦隊をやぶった日本の艦船のほとんどを設計したといわれている。
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